華姫が影虎の元に嫁いで一年程経ったある日、影勝の屋敷に不意に華姫が訪れた。  
 
「お久しぶりにございます、兄上。」  
夕暮れの部屋に影勝と華姫が二人きりになる。  
華姫は懐かしそうに兄を見るが、影勝は怒った様に背を向けて庭に出てしまった。  
 
「何をしに参ったのじゃ。妻となった者が気軽に帰ってきてはならぬ。」  
「…まあ、その様に難しい顔をなさらなくても…。今日は兄上に西洋の菓子を届けに参ったのです。」  
「菓子…?」  
華姫は自分の横にあった包みを開き、中から可愛いらしい缶の箱を取り出す。  
影勝は縁側まで戻って来ると、物珍しそうにその箱を眺めた。  
「何でも…マドレーヌという名の菓子だそうで。」  
箱を開けると、今まで嗅いだ事がない様な魅惑的で美味しそうな香りが広がる。  
「中にお酒も混ぜてあるそうですよ。  
兄上が酒が好きだと影虎様にお話したら、持って行ってあげなさい、と。」  
「影虎が、のう…」  
影勝はその貝の様な形の菓子をつまんで口の中へ運ぶ。  
「……旨いな。」  
「気に入っていただけて良かった!」  
華姫は屈託のない笑みを見せると、自分もその菓子を口へ運んだ。  
 
二人で縁側に腰掛け菓子を食べながら話していると  
華姫は久しぶりに自分が子供の頃に戻った様な安堵感を覚える。  
「兄上はその後、如何ですか?お船殿とは。」  
いきなり出て来た名前に影勝は激しく咳込んだ。  
「いや…」  
「何も進展していないのですか?」  
「……。」  
「ご自分のお気持ちを伝えたりなどは…?」  
「……。」  
黙ってしまった影勝に、華姫はため息をつく。  
「そのご様子だと、いつまで経っても距離は縮まりませぬな。」  
「……。」  
 
「わかりました!わたくしが女心を教えて差し上げましょう。」  
しばらく沈黙があった後、華姫は思い付いたように大きな声を出した。  
「女心?そなたが…?」  
景勝は疑わしそうに、少しバカにした様子で妹を見る。だが当の華姫は真剣そのものだ。  
「わたくしは景虎様に添い遂げる事が出来て本当に幸せでございます。  
兄上にもそのような幸せを味わって欲しいのです!」  
「何だ、惚気か…。」  
相手にしない景勝の両肩をつかみ、華姫は兄を自分の方へ向かせる。  
「わたくしをお船殿だと思って、気持ちを伝える練習をするのです。」  
「何をたわけた事を…。そなたとお船殿では月とスッポンほど違う…」  
「さあ!何か言葉をかけるのです!」  
景勝の言葉を遮り、的外れな事を言う華姫の顔が  
暗くなっていく景色と共にぼんやりとしてくる。  
そういえば、初めてお船に会った夜もこの様に暗い灯りの中だったな…と思い出した。  
 
「お…、お船殿……。あの…その…」  
目の前にあるのが妹の顔ではなく、あの美しいお船の顔だと想像するだけで頭に血が昇る。  
「だ、だめじゃ…!」  
景勝は身をよじり、華姫から体を離す。  
「お船殿の事を考えるだけで、何も言えなくなるのじゃ…。」  
弱気になった兄の姿を見て、華姫は再びため息をつく。  
「情けない…。」  
「ただでさえ、わしは語る事が苦手なのじゃ。」  
「仕方ありませんね。」  
完全に意気消沈した景勝に、華姫は声をかける。  
「言葉が苦手なら行動で示せば良いのです。」  
 
「行動?」  
不思議そうな顔をする景勝の肩に、華姫がもたれかかる。  
「抱いて下さい。」  
「……へっ!?」  
突然の言葉に頭がフリーズし、思わず景勝は裏返った声を出した。  
「肩です、肩を抱くのです。そうすると、おなごは安心するのですよ。」  
「…ああ、そうじゃな。肩じゃ、肩を抱けば良いのじゃな。」  
焦った自分が恥ずかしくなり、景勝は早口にそう言うと乱暴に華姫の肩を抱いた。  
その力に華姫はキャッと声を上げると景勝を睨んだ。  
「痛いではありませぬか!変な声を出したり、強い力で肩を掴んだり。  
兄上はおなごの扱いをまるでわかっておらぬ。  
良いですか?わたくしをお船殿だと思って接するのです。」  
何故こんな事になってしまったのか…。  
景勝はため息をつくと、もう一度ゆっくりと、優しく華姫の肩を抱いた。  
自分の肩にかかる体の重みと頬を擽る髪の柔らかさに、景勝は不思議と心が安らぐのを感じた。  
妹とはいえ、初めて触れる女の体の柔らかさと温かさに、不謹慎にも胸の奥がドキドキする。  
これ以上妹の言う「練習」とやらを続行するのは辞めた方が良さそうだ。  
 
「華姫、」  
景勝は呼びかけるが返事がない。  
不思議に思って顔を覗き込むと長旅の疲れからか、すかっり目を閉じて規則的な寝息をたてている。  
「寝ておるのか…」  
全く、と文句を言いつつ起こそうとしたが、月明かりに照らされた華姫の美しさに一瞬ハッとなる。  
妹が成長してから、こんなに間近で顔を見たのは初めてだ。  
子供だと思っていたのに、目の前にいるのは大人の女そのものだ。  
 
気が付くと、景勝は華姫の桜の花びらの様な唇に自分の唇を重ねていた。  
鼻の奥を、西洋菓子の甘い香りが突き抜ける。  
おかしくなったのはきっと、この訳のわからぬ西洋菓子のせいじゃ  
と心の中で自分に言い聞かせると、そっと柔らかな唇に舌を伸ばす。  
 
「姫様−−?」  
不意に奥から華姫の待女の声が聞こえてきた。  
景勝は慌てて華姫を揺り起こす。  
「兄上…?」  
華姫は眠たげに目をこすると焦って景勝に謝罪した。  
「申し訳ありません!眠ってしまうなんて…。兄上にあんなに偉そうな事を言っておきながら−−」  
あからさまにうなだれる華姫を見て、景勝は吹き出した。  
「わたくしも、まだまだ子供ですね。」  
「いや、そんなことはない…」  
「景虎様の妻になったのに、これではダメですね。」  
そう華姫が言うと、景勝は何故だかほんの少しだけ胸が痛くなった。  
頭を下げて去って行く華姫を見送った後、  
「今宵の事は、月とわしだけの秘密じゃな」  
と呟いた。  
 
 
 
−終わり  
 

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