彩女の庵は郷田ノ庄のはずれ、天路山の麓にある。
麓の村から一里ほど山間に入った所にあり、まさに山居の邸といった感じだ。
もともと廃屋を改装したものであるだけに、お世辞にも立派とはいえない。
土壁はところどころ剥げ落ち、茅葺の屋根は苔むしている。
彩女の好みで、庭も敢えて手入れをせず自然のままに任せてある。
その茫漠たる雰囲気に、茶の大家なら「これぞ侘び寂びの極地である」と手を叩くであろうが
彼女はそんな事は知りもしない。ただ、この自然に溶け込んだような感じが好きなだけなのである。
庵の南側には小さい畑が設けられており、ここで僅かばかりの作物を育てている。
そこから南西に一町ほど足を運ぶと、山間を縫って流れる澄んだ清流を見ることが出来る。
この川からは季節ごとに様々な川魚を採ることが出来たが、彩女の楽しみは何といっても川海老である。
体長二寸ほどの川海老を菜種油でさっと揚げて、軽く塩を振って丸ごと食べる。
これが何よりも旨い。これを食べるために、人里はなれたこの不便な山庵に住んでいるといっても過言ではない。
この庵に彩女はたった一人で暮らしていた。
彼女の他には数羽の鶏と、一匹の猫が同居人だ。
鶏はてんで勝手に放し飼いにしてある。そのほうがいい卵を産んでくれる事を彩女は知っている。
猫も同様である。この時代においては猫はとても珍重されていたために、大抵絆を付けて飼われるのが普通であった。
しかしこの「風(ふう)」と名づけられた猫にはそんな物は付けられていない。
絆を付ける事は、猫の性に反するものであると思っていた。そんな訳であるから、この同居人は三日も家を空けて、腹が空くと
ふらりと帰って来るということもざらである。その名の通り、風のように気まぐれな猫であった。
凛の救出の依頼を受けたのは、一月ほど前である。
いつも通り、庵の入り口にある小さな門構えに、矢文が刺さっていた。
差出人は不明。ただ、郷田の家紋が付いていた為に、郷田家を通しての以来である事は分かった。
しかし文には、凛の救出後のことは何も記されていない。ただ、凛を救出して欲しい旨だけが
切々と綴られていた。
庵の裏手にある、今は使われていない空井戸の中に、依頼料の半額の前金が放り込まれていた。
かなりの額である。今思えば、これは凛のその後の世話をも考慮した金額なのではないかとも思える。
しかし彩女にとって額の多少などどうでもいいことである。ただ目の前の凛が余りにも哀れで堪らなかった。
彼女にとって見れば、凛を引き取る決意をするには、十分すぎる理由であった。
庵に戻った二人は、早速麓の村に住む産医、生田正賢(いくたしょうけん)のもとを尋ねた。
彼は生気を失った凛の姿を見て最初驚いたが、すぐに何があったのかを察し、黙って
彼女を診てくれた。
彩女が心配した通り、やはり凛は子を身篭っていた。
しかし孕んでから三月と経っていないために、子流れの妙薬を飲めば事が済むということであり、
一先ず胸を撫で下ろすことが出来た。
しかし子流れの妙薬といっても、一種の毒薬である。
今の凛に、その毒に耐えうるだけの力が残っているかどうか。
彩女はその事を何度も正賢に尋ねてみた。
正賢の答えは至極明快である。
「わたしが命を賭してでも、この娘を救ってみせる。」
彼の懸命の努力のかいあって、凛は命を落とすことなく、
男達に産みつけられた穢れを洗い流すことが出来た。
凛は暫く正賢の館で静養した後、彩女の庵に引き取られたが、彼女の様子はまさに生き人形と呼ぶに相応しいものであった。
食事や排泄などの生理的行動をするときを除いては、ただ一日中縁側に腰を掛け
中空を見つめてるか、仰向けになり天井を眺めているだけなのである。
また闇を極端に恐れ、夜が近づくととたんに落ち着き無く部屋の中を右往左往することもあった。
当初は、夜、凛を一人きりで寝室に寝かせていたのであるが、そうすると時々夜中に突如泣き喚き出したり、
暴れまわったりすることが多々あったので、その度に彩女が共に一つの布団に入り、彼女を抱きしめて
眠ることになった。
彩女に抱かれていると落ち着くのか、凛の奇異な行動は即座に治まりを見せ、彩女の胸に顔を埋めながら
すやすやと安らかな寝息を立てるのであった。
そのため今では、就寝の際、常に凛と共に一つの布団に入り、彼女を胸に抱きながら眠ることが習慣化している。
そのかいもあってか、凛の表情に少しずつではあるが生気が蘇ってきたような気がした。
彩女は凛に一つの役目を与えることにした。
それは彼女の飼っている、動物達の世話をすることであった。
現在ではアニマルセラピーといって、精神的外傷を負った患者や自閉症患者に対し
動物を使った治療方法があるが、まさに彩女はそれを実践しようとした。
勿論戦国人である彼女にそのような知識があったわけではない。
人間のように邪心を抱くことも無く、ただ素直に生きている彼らと交流することで
少しでも凛の慰めになってくれれば、と思ってのことであった。
凛は彩女から与えられた役目を忠実にこなした。
彼女の回復は思ったよりも早く、十日程もすると彼女の表情に変化が現れ始めた。
当初は眉ひとつ動かすことの無い、生き人形のようであった彼女の目尻が少しずつ下がり始めた。
やがてそれは顔全体に行き渡り、一月もする頃には歯を見せて笑うようになっていた。
彩女の目論見は、見事功を奏したのである。
こうなると元々元気のいい少女であった凛のことである。その回復振りは彩女も目を見張るほどであった。
彩女が話しかけても返事すらしなかった彼女が、短く、小さい声であるが少しずつ返事を返すようになり、
やがて日を追うごとに語呂も、声量も増えていった。
三月も経つ頃には、まだ若干の陰鬱さが見られるものの、傍目にはすっかり回復したように見えた。
この頃になると、凛は動物の世話だけでなく、庵の掃除や、畑仕事も手伝うようになっていた。
〜続く〜