彩女にはもう忍び働きをする気はない。  
これまでも彼女に忍び依頼が複数舞い込んで来たが、そのいずれも丁重に断っている。  
理由は至極明快で、凛が嫌がるから―それだけである。愛する者が死地に赴くのを喜んで見送るものはいない。  
まだ幼さの残る凛ならなおさらだ。彼女は泣いて彩女にすがるのである。  
こうなっては惚れた者の弱みで、彩女も凛を放っておくわけにはいかない。  
これ以上凛の悲しむ顔を見たくなかった。  
それに藩主の御為や、その他わけのわからない政の為に捨てる命を、最早彩女は持ち合わせていない。  
自分の命は凛の為に在るのである。凛の為に捨てる命だ。  
扶持が入ってこないので、暮らし向きは著しく悪化したが、彼女は裏山に生えている竹を使って道具を作り  
それを売ることで何とか糊口を凌いでいた。竹細工は彩女の得意とするところである。まさに芸は身を助けるという  
諺の意味を身をもって知った。  
生活が貧しくなっても、凛がそのことに不満を洩らす事はない。  
彩女が、自分の為に貧しい生活に甘んじているということが分からないほど凛は莫迦ではない。  
実際、凛は今の生活に不満を感じていない。  
どんなに貧しくても、糠を喰らっても、彩女が傍にいてくれればそれでよかった。  
彩女が傍にいてくれるだけで、自分の全てが満ち足りていた。不満の洩らしようなどない。  
また彩女も凛と同じ気持ちであった。例え飢えてこの身が果てても、凛と一緒ならそれも本望であった。  
 
―風が、痛い。  
縁側に腰掛けた彩女は、自らの裸身に吹き付ける風に奇妙な痛みを感じた。  
夏も終わりかけた、九月のことである。  
まだまだ暑さの残るこの季節、庭先では凛が大きな盥に入って水浴びをしている。  
彼女のしなやかな肉体が水に濡れ、より一層瑞々しい輝きを放っていた。  
今しがた、互いの肉体を心ゆくまで堪能していた。その名残を洗い流すための水浴びである。  
彩女は先程まで凛と共に盥の水に浸かっていたのだが、今は裸のまま縁側に座り、無邪気に水と戯れる  
凛を眺めていた。  
晩夏の風を受け、彼女を濡らしていた水は半分乾きかけている。  
その風が、肌にぴりぴりとした細かい痛みを残していく。こんな事は今までなかったことだ。  
―胸騒ぎがする。  
そう思った瞬間、彩女はすわと立ち上がっていた。  
「お凛、水から上がるんだ!もう水遊びは終わりだよ!」  
彩女の鋭い声に、凛が一体何事かという顔でこちらを見る。  
「え〜、もう?わたしもっと遊んでいたい…。」  
彼女は口を尖らせて不満を洩らした。  
名残惜しそうに、水を掌に掬い取っては、再び桶の中に零していく。  
なかなか水から上がろうとしない凛を、彩女は半ば乱暴に腕を掴み立ち上がらせた。  
 
―痛いよ、何するの?そう抗議しようとした凛は、彩女の今までにない鬼気迫る様子を感じ取り、  
慌てて口を噤んだ。  
「さあ、はやくこれを着るんだ。」  
凛の濡れた身体を手早く手ぬぐいでふき取りながら、彩女は言った。  
彼女の指図通り、凛は着物を素早く羽織り帯を巻きつけながら、  
自らも着衣に取り掛かっている彩女に向かって恐る恐る口を開いた。  
「どうしたの、彩女さん。そんなに怖い顔をして…何かあったの?」  
「うん…ちょっとね…何か嫌な予感がするんだ。」  
少し何かを考える素振りをした後、彩女は答えた。凛を心配させたくなかったが、今はそれ以上に  
得体の知れない圧迫感に胸を押しつぶされそうになっている。  
それに凛は勘の鋭い娘だ。いずれこの怪しい気配に気付いてしまうであろう。  
「もしかして…風が痛いこと?」  
上目遣いに、凛は聞いた。  
―やはりこの娘も気付いていたか。  
少女とはいっても、凛はかつては忍びとしての鍛錬を受けていたこともある。  
自分のように常人とは違う感覚を身に着けていたとしても不思議ではない。  
「わたし、日に焼けたせいだと思ってた。」  
彩女も最初はそう思っていた。だが、それとは明らかに違う。  
肌が痛い、と言ったが本当は五感が痛いといったほうがいいかも知れない。  
五感の全てが、只ならぬ気配にざわざわと騒いでいるのである。  
しかもただの気配ではない。獲物を狙う、狩人の殺気である。  
それも粘りつくような、それでいて空虚な不気味な殺気である。  
そうでなければ、五感がこんなに痛みを感じたりはしない。  
 
―遂に来た。  
彩女はそれらの気配が一体何者のものであるかを瞬時に感じ取っていた。  
復讐に燃えるその殺気―それがいつかの屯で葬った四人の男の報復の殺気であることは、容易に知れた。  
敵の数は十や二十ではあるまい。五十、もしかしたら百はいるかもしれない。  
流石の彩女もそれだけの数の忍びを相手にすることなど出来ない。  
「ねえ、彩女さん。あいつ等が来たの?ねえ、そうなんでしょ!?」  
半ベソを掻きながら自らの腕にすがる凛に、彩女は黙って頷いた。  
「どうしよう…!ねえ、どうしよう…!」  
どうするもこうするもない。侍ならともかく、相手は手錬の忍びである。  
逃げ道など当の昔に全て塞がれているに違いなかった。  
―あたしも、凛も死ぬ。  
ただそう思った。そこには何の感傷も懊悩も無い。  
忍びである彩女は、ひたすら客観的に、そして正鵠に己と凛に訪れる結末を予感した。  
彩女は納戸に入り、奥に封印してあった二振りの小太刀を手に取った。共に一尺三寸の厚重ね、一分の狂いもない。  
「架け橋」と「墓無し」と名づけられたこの二振りは、今まで幾多の修羅場を彼女と共に潜り抜けてきた、彼女の戦友である。  
「架け橋」はこの世からあの世、此岸から彼岸へと死者を導く橋のことを、「墓無し」は「儚し」に掛けて付けられた名だ。  
それぞれ生と死の狭間で生きてきた彼女の愛刀に相応しい名である。  
もう二度と抜く事はないであろうと思っていたその小太刀を腰に指した時、彼女の瞳にかつての  
獣の本能が蘇ってきた。  
納戸から出ると、己の得物を手にした凛が、悲愴な表情で立ち尽くしていた。  
得物の名は「振分け髪」。二尺三寸五分、備前長船長義作の名刀である。  
年端もいかない少女の得物としては、過ぎた代物だ。  
彼女は十三のときに、この太刀を里長から与えられた。一人前の忍びになった証だった。  
しかし彼女は、この太刀の本当の送り主が許婚の重蔵である事を知らない。  
 
凛は彩女の決死の覚悟を感じ取っていた。  
「彩女さんだけでもいいから逃げて!」  
彼女は彩女の腕にすがり付き、哀願する様な目で彩女にそう訴えた。  
彩女の返事がないことに苛立って、彼女の腕を乱暴に揺すった。  
「彩女さんだけなら逃げ切れるよ!わたし囮になる!だから…ねえ!彩女さんったら!」  
しかし彩女は何も言わない。口を真一文字に結んだまま、ただ一点、真正面だけを見据えている。  
堪らなくなった凛が再び何かを言おうとしたときに、ようやく彩女の口が開いた。  
「莫迦言うんじゃないよ。どうしてあたしが可愛いあんたを置いて、逃げることが出来るって言うんだい?」  
彩女の口調は毅然としたものであるが、そこに厳しさはない。それどころか、口元には薄く笑みさえ浮かべている。  
忍びとして育てられた彩女は現実主義者であり、物事を合理的、客観的に見ることに長けている。  
恐らく敵は二人を生かして返さないつもりなのであろう。その為には如何なる手段でもとるのが、忍びというものであることを  
彼女は良く知っていた。  
本気になった忍びから逃れる術などない事も、当然よくわかっている。  
凛もそのことを理解しているはずであった。  
凛の言葉は、文字通り万に一つの可能性に賭けた言葉なのである。  
 
彩女は凛を抱きしめた。太陽と土の匂いがする。華奢で、すべらかで、いとおしいその肢体の感触。  
それらを存分に味わってから、彩女は言った。  
「いいんだよ、お凛。あんたと一緒に死んでやるよ。忍びのあたしが惚れた相手と死ねるなんて  
 これほど嬉しい事は無いんだ。だから、いいんだよ。お凛、いいんだよ。」  
彼女の口調は穏やかではあるが、同時に反論を許さない強さも併せ持っていた。  
凛はそれでも彩女に逃げるように訴えた。しかしその言葉は最早彩女には届くことはない。  
彩女の揺るぐことのない覚悟を悟った凛は、口を閉ざさざるを得なかった。  
そして彼女もまた、彩女と共に死ぬ事を決意した。  
「でも…わたし達が死んだら…風(ふう)はどうなるんだろう…?それから鶏達も…。」  
 
蚊の鳴くような声で、凛が聞いた。風も鶏達もみんな彼女の親友だった。  
「心配は要らないよ…。風も鶏達もみんな一人で生きて行ける…。  
 一人で生きていけないのは人間ぐらいなもんさ…。」  
「わたし…彩女さん無しじゃ生きていけない…。」  
「あたしもあんた無しじゃ生きていけないよ…お凛…。」  
彩女の腕が、より強く凛の華奢な身体に回される。凛もそれに負けじと、強く強く、息もできないほどに彩女を抱きしめた。  
「…一緒に死んで…生まれ変わったら、またあたしと一緒に暮らそう。そして二人で一日中いいことして遊ぼう。  
 あんたとあたしの大好きな事をしてさ…。」  
彩女の脳裏に、凛との愛と悦楽の日々が鮮やかに蘇ってきた。二人と共に過ごした数ヶ月の日々が、彼女の全てであった。  
彼女の人生はその為にあった。凛に出会うために生まれ、凛と愛し合うために生きてきた。  
そして、再び凛とめぐり合う為に死んでいく。  
彩女の心は満ち足りていた。死への恐怖すら、そこにはなかった。  
「うん…約束だよ彩女さん…生まれ変わったら、きっと一緒に暮らそうね…  
 わたしももっともっと彩女さんと遊びたい…。うんといいことして遊びたい…だから…きっとだよ…約束だよ…。」  
「ああ、約束するよ。」  
彩女はそっと凛にくちづけした。塩の味がした。涙の味である。  
凛は泣いていた。黒目がちな瞳から、大粒の涙が溢れていた。  
彩女も思わず泣きたくなった。だが、彼女はそれを必死で堪えた。  
忍びとしての意地のためではない。これから死に逝くものとして、凛を不安にしたくなかったからである。  
 
二人の前に、突如として血飛沫に染まった小面の面をつけた男が姿を現した。  
考えられないことである。これでは自ら襲来を知らせてしまうようなものだ。  
だから、これは自信の表れなのである。あるいは絶対の決意ともいえよう。  
すでに庵を囲むようにして、必殺の陣が成ったということを知らせにきたのだ。  
二人の生殺与奪を完全に掌握したことを、自ら姿を現すことで悟らせたいのである。  
その証拠に、男は襲ってはこない。ただじっとこちらを見つめているだけである。  
「怖いかい?」  
能面の男を横目で見ながら、彩女は聞いた。  
「怖くないよ。彩女さんと一緒なら。」  
凛の声には暗さも戸惑いもない。涙も既に乾いている。  
「そうかい。あたしもだよ。あんたと一緒なら何も怖いことなんて何もないさ。」  
そう言って、再び凛にくちづけた。  
「さあ、そろそろ行こうか。お迎えも来たみたいだしね…。」  
「うん…。」  
 
 
彼岸花が咲いている。あたり一面を覆い尽くすように、彼岸花が咲き乱れている。  
彼岸花は彼岸の岸辺に咲く花だという。  
だとするならば、二人は既にその岸辺に立っていることになる。  
「お凛、行くよ。」  
「彩女さん、行こう。」  
彩女と凛は互いに手を取り合って、一歩を踏み出した。  
濃厚に立ち上る黒い殺意の向こう側、紅に染まる、彼岸の岸辺のその先へ…。  
 
                                    〜完〜  
 

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