たった今死んだはずの双葉が、ゆっくりと半身を起こす。
「甘いね〜」
そう呟きながらゆっくりと弓を構える。
狙いの先には、里の出口に向かう凛の後姿があった。
引き金に力が入る。
しかし、矢が放たれる寸前、何かがその視線を塞いだ。
‥誰?
見上げると、そこにいたのは重蔵だった。
でも、なんで? 双葉は疑問の表情を投げかける。
「あれは生かしておけ」
「なんでだよ重蔵? あんたが皆殺しの命令を‥」
「双葉!!」
「‥‥‥わかったよ」
配下の者たちは既にここに集まっていた。
重蔵が次々と命令を下すと、一人また一人と里を出て行く。
あっというまに残るは重蔵だけとなり、あたりは仮の静けさを取り戻す。
誰もいなくなって、重蔵はかすかなため息を吐く。
あろうことか、その表情にはかすかな微笑さえある。
しかしそのありえない光景は瞬きする間に消えうせた。
何事も無かったかの様に、いつもの重蔵がそこに立っているだけだった。
夕日に染まる白い塗り壁の表面を、黒い何かが疾走している。
重力の法則にも従うことなく、
あっという間に六間ほどの塗り壁の端までたどりつき、
軽く跳躍すると地面に降り立った。
見れば、まだあどけなさの残る少年であった。
「すご〜い」
そばに立つ幼い少女がうれしそうに手をたたく。
少年は息を切らしながら少女の元に戻ってきた。
「ちゃんと‥ ハァハァ‥ できてたか? 凛?」
荒い吐息に上気した赤い顔を見せて、少年は少女に問いかける。
「うん、ちゃんとできてたよ、『壁駆け』
すごいよ重蔵お兄ちゃん。なんかオトナの人みたい!」
「そうか?」
「うん、かっこいい」
そういうが早いか、凛は少年の首っ玉にかじりつく。
さすがに年上の重蔵は、凛のそんな直接的な愛情表現に、
戸惑いを隠せない。
そんな思いを知ってか知らずか、凛はさらに大胆な行動をとる。
そのまま少年の唇に自らの唇を重ねたのだった。
口吸い。
大人の男女が、物陰で抱き合いながら、唇を接しているのを盗み見て、
好きな人にはそうするのが普通なのだと、凛は思い込んでいた。
思いもかけぬその行動に、少年はどう対処していいかわからぬまま、
凛の唇がもたらしたその甘美な味わいに、一瞬我を忘れてしまう。
数秒の陶酔の時間を経て、あわてて気を取り戻し、
力ずくで凛を引き離す少年。
「や、やめろ」
そんな重蔵の行動が理解できずに、凛はまじまじと重蔵を見つめている。
「え? お兄ちゃん‥ あたしのこと‥ きらい? なの?」
凛は今にも泣きそうな顔で問いかけた。
「オレは‥ オレは‥」
少年の気持ちの中に答えは見つからなかった。
物心つくかつかないかの頃から、二人は常に一緒にいた。
ごはんを共に食べ、野原を絡み合いながら駆け巡り、
草笛をならし、虫を追いかけていた。
凛を妹のように思い接してきた重蔵にとって、
女としての彼女の行動と言葉は、予想もしなかったものだった。
無言の時が過ぎる。
ヒグラシの鳴き声だけが、夕暮れの里に途切れなく響いていた。
その日から、重蔵は凛と口を利かなくなった。
凛は想い人に冷たくされたと思い、布団で涙を流して耐えていたが、
その幼さゆえ、重蔵の複雑な思いにまでは考えが至ることは無かった。
「『抱き捕り』‥‥ 覚えたいんだ‥」
凛のその言葉に重蔵は驚く。
重蔵と凛が話をしなくなってから、既に三年の月日が経っていた。
二人とも体が大きくなり、顔もかなり大人びて、
ともに野原を駆け回った頃の面影は、既に薄くなっていた。
突然重蔵の前に立ちふさがった凛が、
修行の手伝いをして欲しいと告げたのは、ついさっきのこと。
『抱き捕り』。
それは奥義に属する技であって、とても危険なしろものだった。
修得過程の若者にいくたびか怪我人が出ている。
中には半身不随となる者もいると聞いていた。
「どうしてもやるのか?」
「そうだ」
やるといったらどうしてもやる。凛は昔からそういう気性だった。
他の連中に、こんな奴の練習相手をさせて怪我させてもまずい。
オレがやるか。そう、そのほうがいい。
「わかった」
本当にそれだけなのか、我ながら自信のないまま凛の申し出を承諾すると、
重蔵は自然体で立ち、凛の接近を待った。
少女の華奢な体がフッと沈み込むように見えた次の瞬間、
影は重蔵の後ろに位置を変えていた。
「こいつ、いつのまにこんなに」
驚くべき上達であった。流石に三年の月日は長い。
そのとき、ふと何かの香りがした。
重蔵の鼻腔を刺激する、ここちよいもの。そう、これは凛の香り。
なつかしさが重蔵をとらえる。
そう考える間に重蔵の体は回転していた。
あざやかな技のキレに、あぶなくまともに地面に激突するところだった。
鍛え上げた重蔵の反射神経がぎりぎりの処でそれを避ける。
しかし咄嗟の間に完全に回避することは不可能だった。
頭を強く打って重蔵は気を失った。
彼我の能力差を前提に、凛は全力で技をかけていた。
里一番の能力を持つ若者に、返し技を食らうであろうことを想定して。
しかし予想に反して、目の前で重蔵は、凛の技をまともに受け無言で横たわっている。
まさか‥‥
あわてて駆け寄る凛。着ている服の胸元を開き、心音を聴く。
大丈夫だ。死んではいない。安堵の気持ちが凛の胸に広がる。
頬に重蔵のぬくもりが伝わる。
ここちよく凛の体を包む温かさは、昔と寸分たがわない。
凛は押し当てた頬を離す気にはならなかった。
意識が戻るとともに、重蔵は胸のあたりに違和感を覚えた。
視線を向けると短い髪が見える。凛だ。
何事かと思い両手で頭をつかみ、持ち上げようとする。
「いやっ!」
凛が激しく拒絶する。
なにかが胸を濡らしていた。次々と新たに供給されているかのように、絶え間なく。
凛が‥ 泣いている‥ のか?
先程まで引き離そうとしていた両手が、
こんどは凛の頭を抱きしめる。
すすり泣きが嗚咽へと変わる。
凛は小さな子供のように声をあげ、肩を震わせて泣いている、
重蔵の体を強く抱きしめながら。
重蔵は新たな事態にぶつかり、困惑していた。
鼻腔をくすぐる凛の香りと、服越しに感じる女体の柔らかさに、
彼の一物が力を得てしまったのだ。
すでに痛くなるほどに固くなったそれは、
ちょうど凛の下腹部を押し上げるように脈打っている。
その状態を凛に気づかれないことを重蔵は願っていた。
まだ情けを交わした経験が皆無だということもあるが、
凛に対して自らの欲望を気づかれる事が、恥に思えたからだった。
気づけば凛の顔が重蔵のすぐそばにあった。
にっこりと微笑んだかと思うと顔を寄せる。唇が重なる。
おずおずと凛の背中に重蔵の右手がまわり、片腕でその体を抱きしめる形になる。
その状態のまま、凛の右手がなにかを求めてさまよい始める。
重蔵の下半身へと伸びた手は、服の上から怒張をさぐりあてた。
強く握り締める。
「うっ!」
思わず重蔵は声を出す。
一度緩め、再び強く握りなおす。何度もそれはくりかえされた。
そのたびに、重蔵は味わったことの無い快感に襲われ、足をこわばらせる。
片手で器用に袴のひもが緩められる。
差し入れられた凛の手が、褌ごしに男の急所の形をなぞるように動く。
ふぐりを包み込むようにするかと思うと、一物の先端を輪を書くように刺激して。
たまらず重蔵の左手が凛の胸へと伸びる。
胸元をかきわけ乳房を求める。
まだ固い少女の胸。さぐりあてた乳首を指が優しく摘まむ。
「あっ」
凛は体をこわばらせる。
重蔵の手は反対側の乳房を探し、今度はゆっくりと全体をもみ上げる。
まだ小さく、女としての丸みも不完全なものではあっても、
官能を享受する機能は既に十分であった。
凛の口からは、連続して吐息が漏れている。
凛の体が少しずつ動き始めた。ゆっくりと下方に向かって。
自然と重蔵の手は凛の胸から離れる。
今、凛の顔は重蔵の下半身へとたどり着いていた。
褌を器用に横にずらし、飛び出た怒張に唇をつける。
「凛!」
重蔵の呼びかけに構わず、凛は一気に喉の奥深くへと一物を飲み込む。
そのまま、唇と舌が怒張のそこかしこに刺激を与えて始めた。
柔らかく包まれる初めての甘美な感触に、
重蔵はもう、抗うことさえ出来なくなっていた。
「凛! もう‥‥ 俺は‥‥」
はちきれるばかりとなったものを唇に咥えたまま、一瞬重蔵の顔を見上げる凛。
重蔵の切羽詰った顔が何を意味するか理解したのだろうか、
すぐに視線を元に戻し、強く咥えたままさらに大きく上下に動かし始める。
「うっ!」
重蔵がうめく。両足がこわばる。
凛の口の中の怒張が極限にまで膨らんだかと思うと、
先端から大量の精が吐き出され始める。
あまりの勢いに、凛はむせながら唇を離す。
しかし、怒張はなおも精を射出し続ける。
凛の顔、髪、胸。
所構わず白濁した液体がかけられていく。
凛は目を閉じたまま、重蔵のほとばしりを体で受け止める。
さも満足そうな表情を浮かべたまま。気持ちよさそうに。
ほどなく、重蔵が大きく息を吐き出す。
気づいて、凛の目に掛かった自らの精を、指でぬぐう。
ゆっくりと凛は目をあける。
「ひどい‥ 顔にしちまったな」
そんな重蔵の言葉に、凛はただ微笑むだけだった。
凛は布団に寝転び天井を見上げながら、つい一刻前の事を思い出していた。
激しく精が放たれたすぐあと、遠くから重蔵を呼ぶ声がした。
あわてて二人は離れ、服の乱れを直す。
凛は川で顔と胸を洗い、あくまでさりげない風を装う。
とはいえ、見る人が見れば、
その二人の間に何事かが有った事は、簡単に推察出来たであろうが。
ひそひそ声で話す二人の様子が気になり、凛は振り返った。
重蔵と同じ年齢の里人は、険しい顔をして川面を見つめていた。
そして一方の重蔵の表情もまた、かって見たことも無いほど暗いものだった。
いったい何事なのか‥
そんな凛の視線に気づいたのだろう。
重蔵は、心配するなとでも言うように笑顔で軽く手を上げ、
里人と連れ立って歩み去っていく。
残された凛は、ただその後姿を見送るしかなかった。
重蔵の怒張の感触は今も唇に残されている。精を放つ瞬間の脈動の力強さも、固さも。
その時、ふと股間のあたりに違和感を覚え、凛は自らの女の部分に手を伸ばした。
指を差し入れた狭間は、
驚くべきことに、たっぷりとした粘液に満たされていた。
おそらく、女の部分からから沁み出した愛液‥ なのだろう。聞いたことがあった。
重蔵の怒張を口腔で受け入れ、愛撫しているうちに、
自らも快感を得ていた。そうに違いなかった。
おそるおそるぬかるみに指を入れた。
無意識にそこは反応し、侵入したものを締め付ける。
すぐにぬるぬるとした粘膜は、指を咥えこむかのように動き始める。
背筋を駆け上る快感が連続して凛を襲う。
興奮と恥ずかしさで、その白い肌が一気に桜色に染まった。
重蔵のあれがここに入ったなら‥
それを思っただけで、はざまはさらに潤んでしまう。
渇望する粘膜が、重蔵を求めうごめく。
「重蔵‥‥‥」
激しく指を出し入れしながら、凛はいとしい人の名を呼ぶ。
満たされぬがゆえ、さらに激しく。
そしてすぐに、そのときが来た。
「重蔵!」
雄たけびにも似た呼び声とともに、凛の体は硬直する。
そして短い周期で全身が痙攣をくりかえす。
病のもたらしたものではない証拠に、
彼女の顔には恍惚の表情があった。
凛はこのときに生まれて初めて、絶頂を知ったのだった。
しかし興奮から覚めたとき、自らの淫らさが恨めしく思った。
せめて重蔵のものに貫かれてのことなら‥‥
そんな満たされぬ思いのまま、凛はいつしか眠りにつく。
なにか‥ 誰かが私を呼んでる‥ あれは‥
先ほどの指戯のあと、疲れ果てた凛はそのまま眠り込んでいた。
あれは‥ 梟? そういえば‥
凛はからくり人形のように、布団の上に一気に起き上がる。
聞こえていたのは、子供の頃重蔵と決めた合図、梟の鳴きまねだった。
あのひとが来ている!!
急いで外に出る。家の陰になった場所に男が立っていた。
「重蔵?」
凛の問いかけにも影は応えない。
不審な思いのまま、用心だけは忘れずに凛は近づく。
やはりその影は重蔵だった。しかし、なにか様子がおかしい。
気配だけで間合いがわかるのだろう。
凛のほうに向き直ることなく、重蔵は言った。
「別れを‥ 言いに来た‥」
「え?」
「今夜、里を出る。もうおまえと会うことも‥ たぶん‥」
やっと‥ やっと重蔵の気持ちを確かめることが出来たというのに、
なんでそんな‥‥
低い声で重蔵は語リ始めた。事件は今日、起きていた。
随分と前から、重蔵の父と母はとても大きな任務についていた。
恐ろしく準備期間の長い、多くの人手を要する面倒な仕事だった。
しかし今日、里に戻ってきた物見がもたらした情報は、
その二人が捕えられたというものだった。
問題なのは、一緒に町人となり潜んでいた里人たちが全員惨殺されたという事実。
裏切り‥
確かな情報はないにしても、疑惑を持つには充分な状況だった。
里の長からその話を聞いた重蔵はしばらく考え込んでいた。
そしてゆっくりと立ち上がると、里の長に向かい一礼し、その場をあとにする。
「惜しいな。あやつを手放さなければならないとは。
あれだけの頭と、度胸と、そして技と‥‥」
里の長はしばらく、歩み去る重蔵の背中を見つめていた。
凛は話を聞いても、なぜ重蔵がこの里を出なければならないのか、
それがどうしてもわからない。
「あるいは、あの場で背中から太刀を受ける可能性もあった。
しかしそうはならなかった。ならば俺は里から消えるしかない。
そういうことだ」
重蔵は既に大人の世界に身を置いていた。年下の凛には理解できようもなかった。
その距離を感じた少女は、あえて無駄な問いかけを発しようとはしない。
なぜなら、凛のとるべき道は既に決まっていたのだから‥‥
「わかった」
あまりに聞き分けのいい凛の言葉に、重蔵は驚きを隠せない。
「でも、ひとつだけ‥」
急に途切れた言葉を訝って、重蔵は初めて振り返る。
背の低い凛が、見上げるように重蔵を見つめていた。
頬に涙が流れている。
その瞳の中には、深い悲しみと、覚悟を決めた女の強さが同居していた。
今、ゆっくりと凛は目を閉じ、両腕を差し伸べた。
その姿を見て、重蔵は凛の思いの全てを理解した。
細い腰を抱き、唇を重ねる。
そのまま唇を吸いあう音が暫く続いた後、重蔵は無言で凛の服をはぎとり始めた。
裸で横たわる凛の上に、同じく裸となった重蔵が乗る形になる。
「いいのか?」
「馬鹿!」
そういって抱きつく凛を、重蔵はいとおしいと思った。
凛の両腿の間に足を入れ押し開き、腰を入れ両足を跳ね上げる。
脈打つ怒張が凛の叢をかきまわす。
はざまを押し分けて重蔵の一物が奥へと進む。
生娘とはいえ、充分に潤ったその場所は、
重蔵の怒張を、たいした抵抗もなく受け入れる。
今、そのすべてが凛の体内に収められた。
包みこむものの温かさに、重蔵は我を忘れそうになる。
「うれしい‥」
「?」
「だって、喜んでくれてるから‥」
女がそういう考え方をすることを、重蔵は初めて知った。
自らの欲望を遂げること自体が、凛の幸せになるのだということを。
ゆっくりと動き始める。己の思いに忠実に。
凛の口から、声が漏れる。咄嗟におしあてた手は何の意味ももたない。
重蔵の動きが速くなるにつれて、凛の喘ぎ声は高まっていく。
更に激しい動きが幾度か繰り返され、押し込む度ごとに同時にうめき声を上げる。
そして大きな一撃が凛を貫き、二人の動きが止まる。
怒張の先端から、凛の体内の奥へと精が注がれているのだろう。
「凛‥」
重蔵が小さく呟いた。凛は重蔵の体を強く抱きしめる。
少しの間をおいて、重蔵がゆっくりと腰を引く。
怒張が引き抜かれると、凛の女の場所には鮮紅色の血が流れた。
痛みを気にする様子もなく、
仰向けになった重蔵にしがみつくような位置に、凛は体勢を変える。
「‥やっぱりさ」
「?」
「あたし、重蔵と一緒に行く! いいでしょ?」
重蔵は起き上がる。
「それは駄目だ!」
「どうして?」
「どうしてもだ!」
「いいよ、勝手についていくから。あたしの好きにする!」
そう言って凛は重蔵の腕にしがみつく。
まるで、この先ずっとその腕を離す気が無いことを宣言するように。
じっと黙り込んでいた重蔵は、突然凛の腹部に強烈な拳を突き入れた。
たまらず気絶する凛。
服を凛の上にかけ、素早く自らの装束をまとう。
重蔵は凛の頬に手を当てて、独り言のように呟いた。
「お前のことは、好きだった。初めて会った日からな」
重蔵はその日を境に里から姿を消した。
それから一月も経たぬ内に、
凛は重蔵が死んだことを里の長から聞いた。
家族を殺された者が数人で重蔵を追い、その命を奪ったのだと。
双葉を抱き起こす華奢な女を見た瞬間に、
重蔵はそれが凛だと気付いていた。
自分の生まれ育った里を皆殺しにする仕事を受けて、
凛がそこに居る可能性には、最初に思い当たっていた。
その他にも、懐かしい知り合いを殺すことになるかもしれない。
だからといって、重蔵の胸に特別な感慨などなかった。恨みも、懐かしさも。
しかし、凛の姿を見た瞬間、忘れていた思いが記憶の底から蘇えり、
切ない思いとなって胸を塞ぎ、反射的に双葉の攻撃を遮ってしまった。
様々な修羅場を潜り抜けてきたはずの自分が、
人の生き死にさえ感動を覚えない世界でずっと過ごしてきた日々が、
その女の前では何の意味も持たなかった。
といって、それでどうなるわけでもない。
今更、あの日の二人に戻れるはずも無かった。
忘れる為の偶然の出会い。それでいい。
重蔵はそう答えを出していた。
二対一での死闘は小半刻を経て、漸く決着を迎えようとしている。
今まさに、一葉が凛にとどめを刺そうとしていた。
さすがにまだ非力な凛に、手練れの忍び、乱造との戦いは荷が重すぎた。
重蔵はすぐそばで、それを他人事のように見ている。
一つの記憶が終焉を告げる瞬間が来た。そう感じながら。
振り上げられた獲物が凛の胸に届く刹那、
残像すら見えぬ速さで、影がその隙間へ割り込んでいた。
咄嗟に出た行動であった。重蔵に考えがあってのことではなかった。
一葉の刃が重蔵の胸を貫くと同時に、一葉の腹部にも刀が深くめりこむ‥
ほどなく意識を取り戻した凛が見たのは、
刺し違えて倒れている黒屋重蔵と一葉の二人。
どうしてこの二人が‥
黒屋重蔵の顔をしげしげと見る。
そのうち、なにかが、凛の記憶の淵から大事なものが蘇ろうとしているのに気づく。
もどかしい時間が過ぎる。
そしてわかる。
この人は、重蔵だ。自分が初めて抱かれた重蔵に‥ 間違いない。
今まで、同じ名前であることは単なる偶然だと思っていた。
重蔵は死んだはず。里の長がそう言ってたし‥ 里人も皆同じように‥‥
重蔵が身動きする。ゆっくりと目を開ける。
「おまえか」
言葉も、その目も、まぎれもなく凛が昔から知っていた重蔵その人だった。
「生きて‥ いたの‥?」
「あぁ」
「でも‥ どうして? それに里の長は」
「あれは里の長が考えたものだった。俺が追われないようにするために」
「ま、結局のところ、それも無駄になったわけだがな」
「もう話さないで! 体にさわるから」
泣きながら凛は重蔵の体を抱きしめる。
「いまさら‥ もう‥ 遅いさ」
それは凛もわかっていた。わかっていてもなお‥
凛は苦しそうな息を繰り返す重蔵を抱きしめたまま涙をこぼす。
「凛‥ 俺が壁駈けを修得した日のこと‥ 覚えてるか?」
「うん」
「あの時のおまえの笑顔、とても‥‥‥」
しばらく言葉が途切れたままなのを訝って、凛は重蔵の顔を覗き込む。
その目は開かれたまま、既に重蔵は事切れていた。
凛は指でそっとその目を閉じる。
腕枕をして体を寄り添わせ、自らも目を閉じ唇を重ねる。
凛の瞳の奥では、まぶしいぐらいの夕陽のきらめきの中、
頬を上気させた少年が、いつまでも凛に微笑みかけていた。
いつまでも‥‥
- 完 -