凛が重蔵の手に堕ちて、二月が経った。
捕らえたのは他でもない単葉である。
拘束した凛を重蔵の元へ連行しても、彼は格別に驚きも喜びもしなかった。
たった一言、「ご苦労」と労いの言葉をかけただけに過ぎない。
何故あれほどまでに、重蔵があの小娘を所望したのかは、単葉の思いつく限りではない。
重蔵の嗜好等興味がなかった。彼にとってみれば、ただ普段通り自分に与えられた仕事をこなしただけである。
あの日以来、凛は毎日のように重蔵に責め苛まれているようである。
だが、彼があの小娘を憐れんだ事は一度も無い。
今まで殺戮してきた人間たちと全く同様に、である
重蔵に飼われている刺客たちは、常に黒屋に詰めているわけではない。
大抵は近くの村や町に点在して暮らしている。
無論彼らの正体を近隣の住人が知ることは無い。
単葉や双葉を始め、黒屋の幹部達には専用の居室が設けられているが、
彼らは余り黒屋に寄り付こうとはしない。
黒屋は表向きには薬屋という事になっている。
日常的に大量の薬を取り扱い、販売している。
そのため常に店の中に薬品臭が充満し、染み付いて取れない。
その薬品特有の臭いが彼らを遠ざける最大の理由であった。
忍び上がりの刺客は人一倍鼻が利く。
本来人を癒すはずの薬品の臭気で、息が詰って死んでしまっては本末転倒である。
重蔵が隠れ蓑として薬屋を選んだのは、彼が葉隠れの出であるという理由からであった。
忍びは様々な芸を使いこなすが、彼の故郷葉隠れの里では、特に薬芸が発達していた。
薬に関する専門知識や技術も、当時としてはおそらく日の本一であったと思われる。
彼の店は繁盛した。何しろ薬の質が他所とはまるで違う。連日多くの病人が訪れてくる。
売り上げも相当なものになっている筈である。
だが重蔵がこのまま堅気の薬屋に転身しようと思った事は唯の一度も無い。
彼は心底忍び芸を、そして殺人を愛しているのである。
双葉と単葉の姉弟は、黒屋から一里ほど離れた喉かな田園風景の中で暮らしていた。
空き家となった百姓の家が、格安で貸し出されていたのを借入したのである。
百姓の家と入っても、元は土豪の仮屋敷であり、中々立派な造りである。
本来ならもう少し黒屋に近い場所に住みたかったのだが、双葉が我侭を言った。
街にある長屋が狭くて嫌だというのである。
仕方なく単葉があちこち駆けずり回り、ようやく姉の満足いく住処を見つけたのは、今から三月程前の事だ。
当初、二人で暮らすには十分すぎる広さを持つこの屋敷にご満悦であった双葉も、次第に飽きてきた。
今度は街から遠いと言い出したのである。酒場からも、白粉屋からも、反物屋からも遠いと言うのだ。
これには流石の弟も呆れ果てた。
「では街の長屋に越すか?」と強い口調で問うても、「それも嫌だ。」と頸を振るのだから始末に終えない。
暫く禅問答を繰り返した挙句、
「勝手にしろ。」
単葉は餓鬼よりも手に負えない姉の相手をするのが馬鹿らしくなり、むっつりと黙り込んで無視を決め込んだ。
料理も洗濯もしてやらなかった。彼女の好きな酒も買って来てやらなかった。
三日後、この篭城戦に音を上げたのは言うまでも無く姉のほうである。
彼女は口をへの字に曲げながら、あたかも弟が悪いと言わんばかりに、
「仕方が無いからここに住んでやる。」と宣言した。
それでも単葉が背中を向けてると、急に猫なで声を出して擦り寄ってきた。
弟を背中から抱きすくめ、胸を押し付け、耳を齧り、着物の裾から手を差込んで一物を探り当てると
指先で優しくなぞった。
「ねえ、あんたまだ怒ってるのかい?そんなに怖い顔しないでおくれよ。ねえ、許しておくれ。ねえったら。」
「五月蝿い!」
一喝すると、今度は泣き真似を始めるという嫌らしさである。
単葉は溜息をついた。
この篭城戦に勝利したのはどうやら姉のほうであったようだ。
「…俺が悪かった。」
頭を掻きながら詫びた。
何が悪いのか、自分でもよくわからない。
とにかくこの姉の前に完全敗北した事だけは、よくわかった。
ただこの日を最後に、双葉が住居の事で文句を言う事はなかった。
凛は部屋の隅で、ただぼんやりと物思いに耽っている。
重蔵の陵辱が始まってから、既に二ヶ月が経っていた。
慣れ、とは恐ろしいもので、当初は何度も舌を噛み切ってやろうかと思っていた凛であったが
今はそんな気など毛頭無い。
時々その理由を自問するが、いつも答えは出ない。
いや、本当は答えが出ているのだ。ただそれを認めることがまだ出来ないでいる。
部屋の片隅には重蔵が凛のために特別に拵えた鏡台がある。
凛はこの歳に至るまで、ろくに鏡など見た事が無い。鏡台の上にはこれまた見事な細工を施された
櫛や簪が無造作に置かれている。七重にも漆が重ねられた最高級品である。
だが、それに凛が手を付けた様子は見受けられない。表面にうっすらと埃を被っている事からもそれが判る。
鏡台の引き出しの中には、白粉や口紅が納められているが、これもまったく手が付けられていない。
大体凛はそのようなものに興味が無いのだ。
凛ぐらいの年頃の少女であるならば、自分を着飾る事に全ての情熱を傾けるものであるが
彼女は今まで一度もそのような情熱を持ったためしが無い。
これまでにも重蔵から艶やかな小袖を送られたりしたが、彼女がそれに袖を通した事は一度も無い。
彼女は黒屋に連れてこられた時と同様の格好で、何時も過ごした。
それは重蔵に対する抵抗というよりも、着慣れた衣服を身に着けていることが好きだからという理由のためである。
その内重蔵も、凛がそれらの物に全く興味を示さない事を知ると、それ以上無駄な進物をしなくなった。
そんな凛であったが、たった一つ重蔵の進物を受け入れたものがある。
それは黒糖であった。
何時だったか、重蔵は琉球渡りの黒糖を凛に手渡した事があった。
生まれて初めて見るこげ茶色の奇妙な塊に、凛は初めて興味を示した。
だがその時は決してそれを口にはしなかった。
これを口にしたら、重蔵に敗北すると思っていた。
そんな彼女が、その琉球渡りの珍物を口にしたのは、重蔵が数日間留守にしていた時の事である。
最初はその珍妙な物体が、一体如何なる物であるかを確認するための行為であったが、
生まれて初めて味わう妙なる甘味は忽ち彼女を魅了した。
この世にこんな旨い物があったのか、彼女は正直驚愕した。
それからというもの、重蔵のいない隙を狙っては、この妙味の菓子を度々口にした。
どうやら重蔵もその事に気が付いていたようである。
黒糖が無くなる頃を見計らって、また新たに新しい黒糖を凛に与えていたからだ。
無論、凛の「盗み食い」に気付かぬフリをして…。
凛は徐に傍らに置いてある葛籠の中に手を入れた。
この葛籠には凛の持ち物が入っている。
横一尺、縦二尺、高さ一尺ほどしかない小さな葛籠に、彼女財産の全てが納められていた。
暫くごそごそ探っていた彼女であったが、やがてお目当てのものを探り当てると、そっと手に取った。
懐紙に包まれた拳大の塊である。
包みを開くと、細かく砕かれた黒糖が香ばしい香りを漂わせていた。
その欠片を一つまみ、口の中に放り込む。
忽ちの内に、えもいわれぬ甘みが彼女の口一杯に広がった。
そこには十六歳の少女の溢れんばかりの微笑みがあった。
物音がした。
凛は慌てて懐紙を丸めると、葛籠の奥にそれを押し込んだ。
口の中で柔らかに溶け始めていた黒糖も、一気に噛み砕き胃袋に流し込む。
音も無く襖が開いて、重蔵が入ってきた。
彼は何も言わず、着流しの帯を解いた。
それが合図であるかのように、凛は立ち上がり壁際に掛かっていた着流しをその手に抱える。
重蔵は既に着流しを脱ぎ捨て、褌一丁の姿になっていた。彼の歳は四十を超えているが
その肉体は鋼のように鍛えぬかれ、余分なものは一切削ぎ落とされている。
手錬の忍びの肉体であった。
凛は仁王立ちの重蔵の背後に回ると、代えの着流しをその背に当てた。
彼ほどの男が、無防備にも他人に背中を見せている。
この瞬間ならこの男を倒せるかもしれない。凛ですらそう思えるほどの開けっ放しの背中であった。
だが凛は、これまで一度もその背に牙を剥こうと思った事は無い。
別に腕に自信が無いわけでは無い。また死ぬのが怖いわけでもない。
その理由を、彼女は胸のうちの奥深くにそっと閉じ込めている。
凛の差し出した着流しに、重蔵は無言で袖を通した。
凛は甲斐甲斐しくも、その腹に帯を巻き、少しきつめに結んでやる。
少しきつめに巻くのが重蔵の好みなのだ。
何時からこんな事をする様になったのか、凛は思い出せない。
何時の間にか、重蔵が帯を落とすと条件反射のように彼の着替えを手伝うようになっていた。
すっかり着替え終わった重蔵が、その場にドカリと腰を下ろした。
その後に来る言葉はわかっている。
「酒をくれ。」
まだ言い終わらぬうちに、凛は葛籠の横に置かれていた酒瓶と杯を手に取っていた。
重蔵に杯を渡すと、彼の横にぴたりと着き酒をついでやる。
忍びが人前で酒を飲む事は、死ぬ事に等しいと凛は教えられていた。
だがこの男はそんな事はお構いなしとばかり杯を一気に煽る。
正直な所、重蔵はあまり酒に強いほうではない。
彼は時々部下と供に酒を飲むが、その時も酒を水で薄め、酔わない工夫をしている。
しかし凛の注ぐ酒にはそんな工夫はされていない。
その為思わず飲みすぎて、酔った挙句に眠りこけてしまう事も一度や二度ではない。
殺してくれ、と言わんばかりの無防備さに、凛ですら呆れ返ってしまう。
重蔵は里一番の使い手と言われた男なのである。
それが凛の前ではこうもだらしが無い。
「くの一が俺の頸を狙っているらしい。」
ぼそりと重蔵が呟く。
杯に湛えられた水面に映る彼の表情が、僅かに震えたように見えた。
「くの一」と聞いたとき、それが一瞬自分の事を指しているのではないかと凛は恐れた。
だがどうやら違うようだ。
重蔵は笑いとも怒りとも付かぬ奇妙な表情を浮かべ、静かに杯を見つめている。
頸を狙っているのは何者なのか、と凛は聞かない。
聞いても返答しないであろうということはわかっている。
重蔵がぐい、と杯を傾けた。
後に残ったのは、空っぽの杯。
それをしばし見つめた後、彼は言った。
「人の生など一杯の酒のようなものだ。飲み干せばそれで終わり。
後に残るのは空になった杯だけ。」
それが彼の人生観のようなものであったのだろう。
同じ言葉を凛は何度も聴いた。
今夜のように凛と二人きり、酒を臓腑に流し込む夜に、彼は必ず同じことを言う。
それも一言半句も違えずに、己の生死の在りようをを独り言のように呟くのだ。
里を消滅させたのも、自分をさらって飼育しているのも、その人生観によるものなのかは知らない。
だがこの言葉を聴く度に、心のうちの最も脆弱な部分が締め付けられるような思いがして、
凛は何ともやり切れなくなる。
大体四十路の大の男が十六の小娘を捕まえて、吐き出す言葉ではないではないか。
この重蔵という男は口数が多い男ではないが、時々奇妙な言葉を口にする。
それでいて、凛には意味が良くわからない。いや彼の部下たちにも理解できないかもしれない。
その癖、言いたいことだけを言って満足すると、後は石のように押し黙る。
こちらが何を話しかけても、石が答えることはない。
―この人は、もしかしたらうんと子供なのではないか。
子供の凛がそう思うほどに、気まぐれで自分勝手な男だった。
「もう寝る。」
重蔵が告げ、二人は揃って閨に遊ぶ。