歩いて、歩いて、歩き続けた。
彼は夢遊病者のように、あてども無く歩き続けた。
姉弟には、最早彷徨う場所すらなかった。
行けども行けども草と森の海である。
行けども行けども果てしなく空が続いている。
単葉の背中は、姉の垂れ流す尿と糞で濡れている。
それは酷い悪臭を放っているが、彼にはそれすら感知できるだけの力が残っていない。
道端に、崩れるように倒れこんだ。
彼の両脚は蓄積された疲労により完膚なきまでに破壊されている。
力を込めても、歩く事はおろか立ち上がることすら出来ない。
―ここまでか…。
ここが姉弟の終着地点で在ることを悟った。
後はここで飢えて果てるだけである。
夜が彷徨い人を包み隠していく。
姉弟は暫し夢にまどろむ。
ふと目を覚ました。
空が白ぢんでいる。
単葉は隣で寝ている姉の頬を一つ撫でた。
再び脚に力を込めてみるが、やはりそれは破壊されたままそこに在る。
萎えに萎えきった彼の両の脚は、やがて腐敗し、泥のように熔けていくだろう。
ふわりとした気配を感じた。
見ると大きな岩が鎮座している。
―はて。
単葉は頸を捻った。あんな所に岩などあったか。
だがすぐに
「あったのだろう。」
疲労と絶望で気が付かなかっただけなのだ。
遥か彼方に見える山の稜線から、金色の光が放たれた。
夜は終わりを告げようとしている。
世界は再び鮮やかな色彩を取り戻す。
何とその岩が笑っている。
差し込んだ光の悪戯等ではない。
岩は確かに笑っている。
よく見ると、この岩は人間が胡坐をかいて鎮座しているようにも見える。
座ったまま、戎様とひょっとこのような笑顔で岩が笑っている。
―蛭吉。
単葉の脳裏にいつかの足萎えの乞食の姿がありありと蘇った。
その瞬間、彼は弾かれたように立ち上がっていた。
まったく不思議としか言いようが無い。
今しがたどんなに力を込めても、うんともすんとも返事をしなかったこの脚に確かな力が蘇ってくる。
何かに憑り付かれたかのように、再び姉を背負って歩き出す。
脚が、驚くほど軽い。疲労など、微塵も無い。
蛭吉岩の横を通り越え、彼は歩く。
暫く歩いて後ろを振り返ってみる。
―何と言うことだ。
岩がこちらを見て笑っている。
まるでこの姉弟を見送るかのように、くるりとこちらを向いて、戎様とひょっとこのような笑顔で笑っている。
―お前達なら、きっと辿り着ける。
痛いほどに澄み切った声を、彼は確かに聞いた。
ここに来て、ようやくあの足萎えの乞食が何者であるか、悟った。
彼は神の世界の住人であった。
あの意味不明な言語は、神の国の言葉であった。
双葉が彼の言葉を理解できた理由もそれ故である。
姉は歩き巫女として育てられた。
本分は忍びであっても、彼女は本物以上に本物であった。
巫女である以上、神と対話出来ても何ら不思議ではない。
巫女はまた、神の花嫁でもある。
神に抱かれ、神の祝福を受ける。
巨大な岩が目の前に立ちふさがった。
石灰岩の大岩だ。
この辺りには吐いて捨てるほどの石灰岩が転がっているが、
これは岩と言うよりも山である。
―これは…。
単葉には見覚えがあった。
それは違う事なき、かつて彼が畏怖した「噛み付き岩」であった。
しかし余りに巨大すぎる。故郷の「噛み付き岩」は精々田舎の神社の社ぐらいの大きさでしかない。
目の前に、風雨に浸食された筒状の穴が口を開けている。
いや、最早それは穴ではない。洞穴そのものである。一寸先も見渡せぬほどの暗闇が、そこに口を開けて待っている。
彼は戸惑った。
この奥には噛み付き岩の物の怪がいて、この姉弟を取って食おう待ち構えているのではないか。
思わず振り返る。
登ってきた筈の山道が綺麗さっぱり消えていた。蛭吉の姿も見えない。
白い靄のような霧が充満し、道を侵食し、溶かしている。
彼は一つ勇気を振り絞る。
―行こう。俺は、行ける。恐ろしくは無い。双葉となら、俺は何処までも行ける。
暗闇が、二人を飲み込んだ。
―「噛み付き岩」の物の怪など嘘であった。
懐かしい匂いが、彼の鼻腔をくすぐった。
いや、違う。単葉は魂でその臭いを嗅ぎ取った。
何時の間にか、彼らは噛み付き岩を抜けていた。
そこは、一面の草と森の海の中。
優しく降り注ぐ木漏れ日の中、姉弟は歩みを進める。
「この先を行くと、大きな椎の木が在る。」
彼は無意識のうちにそう呟いていた。
歩を進めると、確かにその木は在った。
あの頃、姉と二人でよく木登りをした、あの椎の大木が。
「ここから右に行くと池が在る。」
彼はもうそこがまるで自分の庭であるかのように、寸分の迷いも無く池に辿り着く。
ここで姉弟はよく水浴びをした。二人とも素っ裸になって奇声を上げながら池に飛び込んだ。
単葉の頬に望郷の涙が伝った。
「この池をぐるりと回っていけば竹やぶに着く。」
言葉通りに池をぐるりと回り、竹やぶに脚を踏み入れた。
ここで二人竹の子を取った。枯れ竹で竹とんぼを作って空まで飛ばした。
「そして…この竹やぶを抜ければ…。」
―俺達の家が在る。
在った。それは当たり前のようにそこに存在していた。
一歩、また一歩と歩を進めるうちに、それは確実に距離を縮め、主を迎え入れるべく大きく懐を開く。
単葉はもう馬鹿のように涙を垂れ流し、嗚咽で満足に呼吸すら出来ない。
「ほら、お家までもう少しだよ。頑張りな。」
姉の声を聞いた。
弟が歩を止める。呆然とその場で立ち尽くす。
「ほら、もう少し。もう少しでお家に着くよ。」
幻聴などではない。
抜け殻となった筈の背中の姉が、言葉を発している。
「降ろしておくれ。」
背中の姉はそう言って、弟の両腕から地面へふわりと着地した。
単葉が振り向くと、彼女は切断された筈の両足で大地にしっかと立っている。
それでもやはり元の身体より二周りは小さい。
「また、虐められたのかい?」
―いや、違う。これは…。
そこにいたのは、幼きあの日の双葉であった。
顔中日に焼けて、真っ黒だ。
「こんなに泣いて。可哀想に。あいつらの仕業だろ?
馬鹿だね。あの森に行ったら駄目だって、言ったじゃないか。本当に馬鹿だね。」
敵の領域に足を踏み入れた弟の愚行を、姉は優しく嗜める。
この大きな弟は、彷徨いに彷徨った挙句、体中生傷だらけの泥だらけ、
それこそボロ雑巾のような姿をしていた。
―――これは夢か幻か…。
「おいで。お馬鹿さん。」
幼い姉は両手を広げ、大きな弟を迎え入れた。
単葉は二、三歩歩を進め、がくりと膝を突いた。
彼の両の脚は、そこで死んだ。
不思議な力も失われていた。
だが、それでよかった。彼の二つの脚は見事にその目的を達し、役目を終えた。
目の前に、双葉の薄っぺらい胸が在る。
彼女は弟の泣き顔を優しく胸に抱いた。
「こんなにひどく虐められて…。可哀想に。姉ちゃんに言ってごらん。
あんなやつらやっつけてやるから。あいつらなんか怖くないんだ。
ね、だから泣くのはおよし。ね。泣くのはおよし。
そんなに泣く子は噛み付き岩に取って食われるよ。ね。だから泣くのはおよし。」
弟の頬を双葉が優しく拭ってやる。
それでも弟は泣き続けた。後から後から涙が零れ出して、もう止まらない。
幼い姉の胸で大きな弟は泣いて、鳴いて、哭いて………
「姉ちゃんと二人で遊ぼ。姉ちゃんは何時だってあんたの味方だよ。
だから姉ちゃんと遊ぼ。いつものところで木登りしようか。
それともあの池で水遊びする?
竹やぶに竹の子を取りに行くっていうのはどうだい?」
―――それは夢でも幻でも無く。
「そうだ。姉ちゃんとお相撲とろうか。姉ちゃん負けないよ。
お外で遊ぶのが嫌なら、お家で貝合わせして遊ぼ。
ね、そうしよう。姉ちゃんと一緒にお家で貝合わせして遊ぼ。
ね、ね、だからもう泣くのはおよしよ。ね、いい子だから泣くのはおよし。
可愛い可愛い単葉ちゃん。あたしの可愛い単葉ちゃん。
姉ちゃんがお歌を歌ってあげる。
姉ちゃんと一緒にお家に帰ろ。お手々繋いでお家に帰ろ。お歌を歌ってお家に帰ろ。」
群れからはぐれた蟻の子や
お前は何処に辿り着く
踏みつけられて潰されて
お足が二つも欠けている
群れからはぐれた蟻の子や
あたしと一緒に遊ぼじゃないか
あたしもお前と似たもの通し
夢に睦んで遊ぼじゃないか
群れからはぐれた蟻の子や
あたしも一緒に連れとくれ
遠いあの日の夢の国
いつかの契りのあの場所へ
―――そして、姉弟(ふたり)は在るべき場所へと辿り着く。
―完―