重蔵は殺人を愛している。  
多くの世人とは違い、彼は己の仕事に大いなる誇りと悦びを感じる事の出来る幸福な人種である。  
彼は生まれながらの殺人鬼であった。  
殺人鬼としての教育を受け、殺人鬼としての鍛錬をし、  
そしてより完全な殺人鬼として生まれ変わり、この地上に君臨した。  
 
殺人鬼といえば、単葉も重蔵同様の殺人鬼であった。  
殺人鬼としての教育を受け、鍛錬をこなしてきた違う事無き一個の殺人鬼である。  
だが、彼が生まれながらの殺人鬼で在るのか、というと疑問が残る。  
彼にとって仕事とは、多くの世人同様生活の為にこなす、煩わしい行為に過ぎない。  
仕事に誇りや悦びを感じたことなど無いし、  
出来る事なら一生働かずにぼんやり庭を眺めながら暮らしていたいと思う。  
 
それに双葉の事である。  
彼は彼女にこの仕事をさせたくない。  
殺人鬼であるのは自分ひとりで沢山だ。  
酒を飲んでカラカラ笑ったり、弟に無理難題を押し付ける彼女のほうがよっぽどいい。  
幾ら無駄使いしてもいい。男を引っ張り込んでもいい。外をほっつき歩いてきてもいい。  
だがこの仕事だけはして欲しくない。  
 
双葉と言えば重蔵である。  
彼女は重蔵に惚れている。  
それは弟である自分もよく知っている。  
子供よりも色恋沙汰に疎い彼のことであるから、  
姉が重蔵の何処を気に入ったのか、などと言うことは判らないし興味も無い。  
―重蔵はなぜ姉の求愛を受けないのだ。  
それが彼の目下の疑問であった。  
阿婆擦れとは言え、未だかつて男が双葉の求愛を受け入れなかった事はない。  
―減るものではなし、一度ぐらい抱いてやればいいのに。  
この「減るものではなし。」と言うのは双葉の受け売りである。  
男を引っ張り込んでくる時の彼女の論理でもある。  
―重蔵はそこまで凛に惚れているのか。  
一体あの小娘のどこがいいのか、単葉にはさっぱり判らない。  
 
―重蔵は、一度あの阿婆擦れを抱いてやってくれないかなぁ。  
 そうすれば双葉も悦ぶだろう。俺は双葉の悦ぶ顔が見たい。  
 俺から重蔵に頼んでみようか。  
 いや、駄目だ。そんな事が知れたら双葉が怒る。  
 
 
姉弟そろって、酔狂の極みである。  
 
 
一仕事終えた女郎よりもだらしない格好で、  
双葉が部屋の壁に寄りかかっている。  
寄りかかったまま、庭で揺れる野菊をぼんやりと愛でている。  
弟は彼女の視線の邪魔にならない場所で胡坐をかき、やはりぼんやりと風景を見ていた。  
 
「口を吸っておくれ。」  
全く視線を変えぬまま、彼女は言う。  
「ああ。」  
がばりと弟が立ち上がった。  
双葉はふと寂しくなると、いつもこう言う。  
こう言って、この世でたった一人、自分の思い通りになる弟と二人、密かに睦む。  
 
だらしない格好をしていても、やはりこの姉は美しい。  
小袖をまったくの無防備に身に纏い、やはり無防備に手足を投げ出した姿がこれまた何とも艶かしい。  
弟の視線の先には、双葉の唇があった。  
紅もさしていないというのに、艶めいてふっくらと柔らかく膨らんでいる。  
あらゆる男を瞬時に蕩かすことの出来る魔法の唇だ。  
「上手に吸ってくれたら、あたしのお乳で遊ばせてやるよ。」  
奇怪で淫蕩な交換条件を持って、弟を誘う。  
 
互いの視界から互いの表情が消えた。  
二人は唇を寄せ合い、絡ませ合い、睦ませ合い、濡らし合った。  
 
「次は口を吸って遊ぼう。」  
木登りに疲れ、椎の大木の元、幼い姉弟はそっと寄り添う。  
「大人はみんなそうやって遊ぶのさ。」  
何処で仕入れた知識なのか、双葉が自慢げに言う。  
「嘘だ。」  
弟は信じない。そんな話しは見た事も聞いた事も無い。  
この姉はいつも大人しく純朴な弟を謀って遊ぶ。  
「本当さ。」  
自信たっぷりの姉を、単葉は疑いの眼差しで睨んでいる。  
大体「口を吸う」とかいう遊びはどんな遊びなのだ。  
幼い彼には想像も付かない。  
またぞろ双葉が自分をからかって遊ぶ為に、下らない戯言を思いたのだと思っている。  
「やってみよう。」  
双葉の表情は、これまた何とも真剣だ。  
これから「遊び」を行おうとしている少女のものではない。  
それが弟にはさらに気味が悪く映る。  
「どうやるの?」  
仕方なく聞いた。同時に、その「口を吸う」とかいう遊びがどんなものか、密かな興味も在る。  
「あんた、あたしの真ん前にお座り。」  
弟がその通りに身体を移動させると、  
「遠すぎるよ。もっと近くにおいで。」  
やはり言われた通り、姉ににじり寄る。  
 
「もっとだよ。」  
―もっと?  
弟の顔が曇る。  
これ以上近づいたら頭がぶつかってしまう。  
「もっと近くに寄るの?」  
「ああ、もっとさ。」  
姉の目は何時に無く真剣だ。  
弟が躊躇っていると、二言目には、  
「大人は皆やってる。」と言う。  
単葉は互いの鼻息が掛かるぐらいの所まで顔を寄せた。  
「舌をお出し。」  
やはり言われた通り、あかんべえをする時のように舌を出した。  
姉も弟同様べろりと舌を出している。  
真っ黒に日に焼けた、悪戯娘の顔がそこに在る。  
姉弟は互いに舌をだらしなく垂らした仏頂面で、見つめあっている。  
―何だコレは?  
新手のにらめっこだろうか。  
それにしては面白くもなんとも無い。  
弟は呆れた。  
コレが「口を吸う」とかいう遊びなのだろうか。  
こんな馬鹿な事をして大人が遊ぶわけは無いではないか。  
やはりこの姉の戯言であったか。  
嫌気が差して舌を引っ込めようとした瞬間、目の前の姉が怖いくらい真剣な眼差しで  
その舌を舐め上げた。  
 
―うひゃっ!  
余りの奇怪な行為に単葉は一間も後ろに跳び退っていた。  
―一体この女は何て事をするのだ!  
山姥だ。やはりこの姉は山姥なのだ。  
彼の脳裏に、いつかの姉が通り過ぎていく。  
まるで化け物でも見るかのような目で、目の前の姉を警戒する。  
弟に拒絶されても、彼女が怒っている様子はない。  
それよりも何かを思いつめたような、あの真剣な表情が何とも言えず不気味だ。  
「逃げちゃ駄目だよ。ほら、もう一度。」  
「もう嫌だ。」  
こんな奇怪な遊びは真っ平だ。  
第一、面白くない。  
これならまだ噛み付き岩に見立てた「筒状の物」を持って、追いかけてきてくれたほうが断然いい。  
「大人は皆こうして遊ぶんだ。」  
痛々しいほど真剣に、姉が言う。  
―またそれか。そんなの嘘だ。もしそれが本当であったら大人は皆馬鹿だ。大馬鹿だ。  
  それに自分達は大人ではない。子供だ。子供の遊びをしたほうが良いに決まっている。  
  そのほうが自然だ。第一大人の遊びはつまらない。子供の遊びのほうが遥かに面白いではないか。  
弟は、これまたいつかの姉のように、早口でまくし立てる。  
 
ふと気付く。姉が沈んでいる。真剣な眼差しのまま、目を伏せている。  
流石に気の毒になり、弟もまた仏頂面をして黙りこくる。  
何ともいえない気まずい沈黙に、単葉はもういても立ってもいられない。  
―これなら少しぐらい大人の遊びに付き合ってやってもよかったのでは。  
この姉に対しては、彼は気の毒なくらい善良だ。  
沈んだ姉のほうが先に口を開いた。  
「じゃあ、後一回。一回だけやって終わりにしよう。」  
「…うん。」  
まったくこの弟はどこまでも善良である。  
双葉を一度でも拒絶した事が、彼の良心をしくしくと締め上げていた。  
「今度は逃げちゃ駄目だよ。」  
「…うん。大丈夫。」  
姉弟は先程と同じように、舌を出したまま向かい合った。  
「あんたは目を瞑っててもいいよ。」  
双葉が弟を気遣った。  
その通りに目を硬く閉じる。  
そして姉の鼻息が彼の鼻をくすぐった瞬間、  
―べたり  
舌に生暖かいものが付着した。  
二人の舌は不恰好なほど密着し、そのまま動かない。  
―思ったほどではない。  
単葉は生暖かい姉の感触を、その舌で感じながらそう思った。  
―思ったほど気味が悪くない。蒟蒻か何かだと思えば、平気だ。  
 
姉弟の秘密の遊戯の一部始終を、見ている者がいた。  
それに気が付いたのは、弟とは全く対照的に目を大きく見開いていた双葉である。  
「り、凛!」  
今度は彼女が弟から跳び退る番だ。  
岩陰に隠れて、洟を垂らした幼女がこちらを見ている。  
この洟垂れは、幼い姉弟よりもさらに二周りは幼い。  
「あっちへお行き!!」  
まるで野良犬を追い払うかのように、双葉が喚いた。  
洟垂れはやはり野良犬のように、その場から一目散に逃げていった。  
 
幼い二人の「大人の遊び」は終わった。  
「あんまり愉しくなかったね。」  
「…うん。」  
それが、この遊びに対する姉弟の感想であった。  
家に帰り着く道すがら、姉に手を引かれながら単葉は思った。  
―思ったほどではない。これなら十日に一度ぐらいなら、遊んでやってもいい。  
 
双葉はもう殆ど無意識のうちに、その手を弟の褌の中に差し込んでいる。  
その手で弟の感触を確かめながら、舌で睦みあう。  
この弟の舌は、これまで閨を共にしたどんな男のそれよりも甘く、柔らかく蕩ける。  
互いに舌を出し入れしながら、時に甘く結び、時に甘く齧り、時に甘く吸い付く。  
「あんた、口を吸うの、上手になったね。」  
―当然だ。  
姉のお褒めの言葉にも、弟は驚かない。  
何しろ他の男とは年季が違うのだ。  
初めて舌を重ねたのは、まだ十を一つか二つ過ぎた頃であったか。  
それ以来、こと在るごとにこうして舌を睦ませあってきたではないか。  
姉をもっと悦ばせてやろうと、彼は今まで己の培ってきた知識と技術の全てを持って事に当たる。  
双葉は鼻を鳴らし、弟に答える。そして彼よりもさらに豊富な知識と技術を持って、挑んでいく。  
―ああ、愉快。  
仏頂面に似合わず、単葉はこの愉快な遊びが何よりも好きだ。  
姉を蕩かし、そして蕩かされるこの愉快な遊びが他の何よりも好きだ。  
―ああ、愉快なり。ただ、ただ愉快なり。  
 
双葉は一旦弟から口を離すと、口中の神経を総動員して唾液をかき集めた。  
同様に、弟もそうしている。  
よく訓練された銃兵のように、口先に弾を込めていく。  
準備は整った。  
姉弟はそれぞれの舌の上に蕩ける様な蜜を乗せ、それを絡ませ、溶かし、混ぜあった。  
―ああ、愉し。  
双葉の端正な面(おもて)は、もうこれ以上無いくらいに甘く蕩けきっている。  
どんな男に抱かれていても、彼女がこのような表情を見せる事は無い。  
弟との秘密の遊戯の最中にのみ見せる、彼女の素顔である。  
―ああ、愉し。ただ、ただ愉し。  
 
「そろそろあたしのお乳で遊ぶかい?」  
「いや、それは後でいい。風呂に入った時でいい。今はもう少し…。」  
「そうかい、あたしもさ。あたしももう少し…。」  
 
―大人の遊びはただただ愉悦。  
 
 
姉弟の秘密の遊戯の一部始終を、見ている者がいた。  
庭の野菊が、風に揺られてこちらを見ている。  
しかし二人がそれに気付く様子は、無い。  
 
 
双葉は舌鼓を打ちながら、夕餉を摂っていた。  
食事は意外と豪勢である。  
山鳥の焼き物や、根菜の煮物、汁物に香の物、それに白飯が  
膳の上に乗っている。  
白飯に割り物は入っていない。双葉が嫌うからだ。  
彼女は麦も粟も割り込まれていない、白い米の飯が好きなのだ。  
高く付くが、二人にはそれを上回る収入があった。  
食事は全て単葉の拵えたものである。  
双葉は何も出来ない女であり、単葉は何でもそつなくこなす男だ。  
料理の腕前は良いが、弟には美的な感覚が無い為、盛り付けは下手糞だ。  
ただ盛ってあるだけの、所詮田舎膳に過ぎない。  
だが、それがいいと双葉は思う。  
余所行きの着物のように着飾った膳など食う気がしない。  
好きなように箸を伸ばし、突っつきまわす事の出来る弟の膳が一番である。  
おまけにああいう類のものは味が薄くて不味いのだ。  
その点、弟の造る物は全て双葉好みに味が濃い。これがまた旨いのだ。  
 
単葉は姉の左横で、無言のまま箸を進めている。  
彼にとって、食事は生命維持のための餌に過ぎない。  
自分の拵えたものが、果たして旨いのか不味いのかも判らないし、興味も無い。  
ただ姉の好む味に仕立て上げただけで、彼女が喜べばそれでよかった。  
姉の横に侍っているのは、彼女に晩酌をするのが都合がいいからという理由からである。  
よく躾けられた小姓のように、この我侭な姫君に毎晩酌をしてやるのだ。  
 
食事を終え、風呂に入る事にした。  
この時代の風呂とは、蒸し風呂のことを指す。  
湯を張った風呂は湯風呂と呼ばれ、特別なもとして区別されていた。  
土豪の仮屋敷である姉弟の住処には、その湯風呂がある。  
もとはただの風呂であったが、双葉が村の大工に頼んで改装させた。  
彼女は風呂を好まない。蒸し蛸のようにすぐ上せてしまうのだ。  
二人は着物を脱ぎ捨てると、供に風呂場に足を踏み入れる。  
風呂場は一間半四方の広さがあり、二人で入るならば十分すぎる大きさだ。  
改装して間が無いので、檜の白木の香りが何とも心地よい。  
風呂桶も檜造り。畳一条ほどの広さに、並々と湯が張られている。  
 
この姉弟は風呂に入るのも一緒だ。  
幼い頃からそうしてきたのであり、それを疑問に思った事は無い。  
―双葉は美しい。  
湯に濡れた彼女の裸身を見ると、いつもそう思う。  
美に対する感覚が極端に欠けている弟ですら唸るほど、双葉は美しかった。  
単葉にとってみれば、「美しい」と言う言葉と感覚は、  
この姉を表現するためだけに存在していたと言っていい。  
重たく揺れる双葉の乳房に、無意識のうちに手を伸ばしていた。  
それがさも当然のことのように、彼女は嫌な顔一つしない。  
単葉の掌の下で、確かな重量感をもった豊かな双丘が柔らかく潰れ、彼の思うとおりの姿に変形した。  
弟が己の乳房遊びの途中で湯冷めしないように、双葉は左手で湯風呂の湯を掬い、その背中にちろちろとかけ続けている。  
彼が飽きるまで、何時までもかけ続けてやるつもりだ。  
その一方で、空いた右手を弟の最も脆弱な部分に滑り込ませ、指先と掌をつかってころころと柔らかく転がした。  
「あたしのお乳は愉しいかい?」  
ああ、と弟は腰を浮かせながら答えた。  
双葉が微笑む。  
「そうかい。それはよかったねぇ。お乳が愉しくてよかったねぇ。」  
夢中で乳房と遊ぶ仏頂面の弟の、何と可愛らしい事か。  
思ったときには言葉に出ていた。  
「あんた、可愛いや。やっぱりあんたが一番可愛いや。」  
―もっとお遊び。好きなようにお遊び。  
 あたしのお乳がそんなに好きなら、あんたの気の済むまでお遊び。  
 
「後で貝合わせをしよう。」  
そっと双葉が囁いた。  
乳房に夢中の弟は、頷いただけで承諾をした。  
貝合わせとは、ハマグリを幾つか用意し、二枚一組の貝殻のつがいを外してバラバラに混ぜた後、  
元のつがいに戻す、と言う遊びである。  
現代で言う所の神経衰弱のようなものである。  
ハマグリの殻は元のつがい以外にぴったりと合わさるものが無い。  
それ故、夫婦和合や貞節の象徴とされ、都の殿上人の雅な遊具として、あるいは貴顕淑女の嫁入り道具として重宝されていた。  
その貝合わせを、双葉は好んだ。  
貞節の欠片も持ち合わせていない彼女が、貞節の象徴である貝合わせを好むとは何とも皮肉である。  
そして単葉もまた、この皮肉めいた遊びが嫌いではない。  
 
 
気持ちのいい秋の空。  
何処かへ遠出するのにはもってこいのいい陽気である。  
それにもかかわらず、単葉は一人濡れ縁で、ぼんやりと目に映る風景を眺めている。  
彼は滅多にこの家から出ようとしない。  
黒屋の仕事か、あるいは姉からの命を受け、  
街まで買出しに行く時以外はいつもこの縁側でぼんやりしている。  
 
「あんた、他にやることは無いのかい。」  
そんな弟を見て、双葉は呆れたように言う。  
しかし、彼にはやることなど無いのだ。  
弟には趣味も無いし、世人のようにせかせかと独楽鼠のように動き続けるという事も無い。  
さながら世捨て人か仙人のようなぼんやりとした生活を、相変わらず送り続けている。  
彼にとって、世界の中心は姉と二人きりで暮すこの家であり、  
それ以上に素晴らしい世界など存在しなかった。  
だから、ここでこうしてぼんやりしている事が、彼にとっては最大の幸福なのである。  
しかしこの姉にはそれが心配なのだ。  
 
「あんたたまには街に行って女遊びでもしておいでよ。」  
弟の返事は間延びした欠伸であった。  
双葉がいらついたように腕を組む。  
弟と違い、彼女は実に奔放である。  
何処に行くのか、朝早く家を出て、深夜に帰宅する事など日常茶飯事であったし、  
二、三日家を空け、ふらりと帰ってくるといったこともしょっちゅうだ。  
大体自分の知る限り、この弟が睦み相手を家に引っ張り込んでくる所など見たことが無い。  
女と一緒に歩いている所も見たことが無いし、それどころか自分以外の女と会話をしている所さえ見たことが無い。  
―若しかしたら、自分の見ていないところで女と睦みあっているのではないか?  
と勘ぐってみても、この男は大抵家にいるし、  
街に用事があってもそれをこなすと速やかに帰宅する。  
女と睦みあう暇など無いはずなのだ。  
―女を恐れているのではないか。女を嫌っているのではないか。  
と心配してみても、姉との睦みあいは平気でこなすのだからわけがわからない。  
 
「街に行って、お女郎の一人でも抱いておいで。おこずかいやるから。」  
単葉は自分の金銭を持たない。  
姉弟の家計こそ預かっているものの、その家計そのものは全て姉のものだ。  
彼女が好きな時に、好きな事に、好きな様に使った残りの金を、彼は上手くやりくりする。  
耳垢をほじる事で彼は返事をした。  
双葉はもういい加減呆れて、溜息をついている。  
それでもまだ親切心で、  
「街に行くのが嫌なら、あたしがここにお女郎を呼んでやろうか?  
 一番の美人を呼んでやるからさ。」  
と食い下がった。  
 
―ブオッ。  
 
それに対する返事がこの盛大な放屁である。  
―この仏頂面め。  
仏の顔も三度まで。  
双葉はもうこの弟の相手をするのが嫌になった。  
「皮被りだからって、お女郎は笑ったりしないよ!」  
憎まれ口を一つ吐いて、奥に引っ込んでしまった。  
それから床にべたりと腰を下ろし、この間買ってきたばかりの新しい簪を並べて、  
一番自分に相応しいものはどれか値踏みを始めた。  
彼女は自分で買ってきたものでも、それが気に入らなければ、売るか捨てるかしてしまう。その吟味をしているのである。  
 
そんな姉の楽しくも真剣な様子を、さも愉快そうに弟は見ていた。  
仏頂面がこれ以上無いくらい楽しげに微笑んでいる。  
 
二君に見えず。彼は大忠臣であった。  
 
 
双葉は凛が憎い。  
自分に関心を向けない重蔵がではない。  
彼の興味を一身に集める凛が憎いのだ。  
重蔵が何故あのような小娘に執着するのか、彼女には理解が出来ない。  
それが彼の好みなのだ、と単葉は言うが、そんな言葉で納得のいくものではない。  
大体今まで自分の色香と魅力に抗した男など皆無である。  
彼女は百戦百勝、生涯不敗の筈であった。  
選択権は常に彼女にあり、男にそんなものは無かった。  
―それなのに何故。  
彼女の自尊心は鋼である。あんな小娘に敗北した事を認めることが出来るほど、柔ではない。  
今夜も重蔵は側に凛を侍らせ、戯れるであろう。  
そして凛の全てを味わい、凛もまた彼の全てを味わうのだ。  
あるいは嗜虐的な性癖を持つ重蔵の事だ。  
凛をたっぷり嬲るかもしれない。凛は泣き叫び、許しを請う。  
泣きじゃくる凛を重蔵は優しく抱きしめるかもしれない。  
それが許せない。  
 
彼女は以前、黒屋に在る重蔵の居室を訪れた事がある。  
お気に入りの白粉をはたき、怪しく艶めいた紅のべにをつけて。  
流行の香も焚き染めた。  
その時彼はなんと言ったか。  
「ここは女郎屋ではない。臭いが移る。早く出て行け。」  
彼の側には凛がぴたりと寄り添い、甲斐甲斐しく酌などをしている。  
少し前までは殺したいほどに重蔵を憎んでいた、あの凛がである。  
凛と目が合った。  
小娘が、一瞬勝ち誇ったような笑みを浮かべた事を、双葉は決して忘れない。  
 
黒屋の人間に聞くと、凛はもうすっかり重蔵に従順となり、彼の側から離れようとはしないと言う。  
二人は歳の離れた夫婦同然であり、重蔵自身も彼女をそのように扱っていると。  
それを聞くと、もう体がどうしようもないほど熱く滾る。  
重蔵への愛情など、もはや殆ど持ち合わせていない。  
いや、若しかしたらそんなものは端からなかったのかもしれない。  
彼女に在るのは唯一つ、凛に対する憎しみだけだ。  
 
重蔵と面々が、久しぶりに酒宴をはった。  
当然のことながら、双葉と単葉の姉弟も列席している。  
だが双葉の表情は沈んでいる。  
重蔵の隣には、殆ど半裸の凛が寄り添っていた。  
この嗜虐的な性癖を持つ隻眼の男は、度々こうして凛を皆の前で披露した。  
当初、今にも泣き出しそうに震えていた凛も、今となっては中々どうにいっている。  
目を覆うばかりの格好をさせられても、頬を少し赤く染めるだけで決して嫌がっていない。  
「何だか臭い。」  
その凛が重蔵の袖を引いた。  
「確かに臭う。」  
重蔵も同意する。  
今日も双葉は香を焚き染めていた。  
「ここは薬屋だ。女郎屋ではない。」  
誰にとも無く、吐き捨てるように呟いた。  
凛が笑っている。  
 
皆それぞれ酒を酌み交わし、騒いでいると言うのに、  
ただ一人、双葉だけが唇を噛み締めたまま、微動だにしない。  
ただ目の前の一点だけを見据えている。  
―まずいな。  
単葉はそう直感した。  
このような表情を見せたときの姉は何をしでかすかわからない。  
それが例え己の身を滅ぼす結果に終わることが分かっていたとしても、  
双葉なら実行しかねない。  
危険を察知した単葉が隣の姉の耳元で囁いた。  
「後で死ぬほど悦ばせてやるから、今は堪えろ。」  
本来ならこれで機嫌を持ち直すはずの双葉であったが、今日はいつもと様子が違う。  
単葉の胸に嫌な予感がよぎる。  
「何でもお前の好きなようにしてやる。何でもお前の望む事をしてやる。  
 だから、堪えろ。」  
双葉からの返答はない。  
やはり今日の双葉はどこかおかしい。  
最早ここが引き時である事を悟った単葉が、一芝居打った。  
「元締め。せっかくの余興のところすまないが、双葉の気分が優れないようだ。  
 少し部屋で休ませたい。」  
そう言うと重蔵からの返答を待たずして、石と固まった姉を強引に引き摺り起こした。  
双葉の目を覚まそうとかなり乱暴に起こしたはずだが、彼女は今だ固まったままである。  
そのまま双葉を肩に担ぎ上げるようにして、部屋を出た。  
退出の間際、重蔵が何かを口走った。  
「客は他所で取れ。」  
確かに彼はそう言った。だが単葉は敢えて何も聞こえなかった振りをする。  
 
二人の居室に入ると、手早く布団を敷き、そこに双葉の身体を横たえさせた。  
先程のような乱暴さは微塵も感じられない。愛しいものに対する所作である。  
そのまま彼女の着物の裾を腹まで捲り上げると、股間にむしゃぶりついた。  
その瞬間、単葉の顔面に熱いものが走った。  
双葉が無言のまま、彼の顔面にいきなり小便を引っ掛けたのだ。それが迸る怒りの為なのか、あるいは弟の勝手に対する  
抗議の為なのかは定かではない。  
彼女の小便は弟の顔を濡らし、布団を濡らしてもまだ止まらなかった。  
だが、単葉はそれでもお構い無しとばかり、姉の股間から顔を離さない。  
ただ一心に、彼女を悦ばせその怒りを解くことに集中していた。  
―小便で気が済むのなら、幾らでも俺に引っ掛けてくれ。  
 俺はまだ、お前を失いたくはない。  
彼の気持ちが通じたのか、双葉が嬌声を洩らし、快楽に身をよじるまでそれほど時間は掛からなかった。  
 
双葉が凛と事を起したのは、それから数日の後である。  
黒屋内に在る彼女の居室に向う廊下で、凛と出くわした。  
彼女が黒屋を訪れていたのは、  
単に居室に置き忘れたお気に入りの香を持ち帰るためという理由からであった。  
重蔵が店を空けていたことも、彼女にとっては都合が良かった。  
今や重蔵は凛と並んで、彼女が顔を合わせたくない人物の一人である。  
彼が店を空けた理由は、箱掛で仕事をするためだ。  
凛は常に重蔵の側にいるが、彼の仕事の時は別である。  
重蔵がそれを許さないのだ。  
彼は誰に邪魔される事無く、たったの一人きりで仕事をこなす。  
それは隻眼の殺人鬼の愉悦の一時でもある。  
凛を愛するのと同様に、彼は殺人を愛した。  
 
凛は双葉を待ち伏せしていた。  
重蔵から言付かっていた言葉を伝えるためである。  
双葉はこの生意気な小娘を一つ睨むと、彼女の横をさっさと通り抜けようとした。  
「重蔵さんが。」  
その言葉が、双葉の足を止めた。  
「香を焚くの止めろって。」  
「ああそうかい。」  
顔も合わせずに、全く取り合わない。  
そう言えば最後にこの小娘と会話をしたのは、何時の事であったか。  
双葉にはもう思い出すことも出来ない。  
「店に女郎が出入りしているのがわかると、評判が悪くなるから困るんだって。」  
―女郎。  
それが双葉に対する重蔵の評価であった。  
燃え上がる怒りと凛に対する憎しみで、彼女の魂はじりじりと音を立てて焦げ付いていく。  
「重蔵さん、女郎が嫌いなんだ。だから本当は双葉がここに出入りするのも嫌がってる。  
 あたしだって嫌い。だってさ、女郎って凄く臭いんだもん。」  
乾いた音が黒屋に響く。  
双葉の平手が凛の頬を張っていた。  
彼女は左頬を押さえて、口許に笑みを零した。  
「重蔵さんに、言いつけてやる。」  
 
「ああ!お言いよ!」  
双葉は凛の腕を掴んで乱暴に揺さぶった。  
「お言いったら!この性悪の餓鬼め!」  
「痛いな!放してよ!!」  
少女ではあるが、凛の膂力は双葉よりも上だ。  
簡単に腕を外された。  
「盛りのついた雌犬に性悪呼ばわりされたくないね!!」  
店中に轟かんばかりに喚いた。凛の声はよく通る。  
「何だって!?雌犬はあんただろ!  
 重蔵にいいようにされてる癖に生意気言うんじゃないよ!!」  
同様に双葉の声もよく通る。  
店の従業員達はもちろん客までもが、一体何事が始まったのかと店の奥を凝視した。  
「ははははは!双葉は知らないんだ!あんたが世間でなんて呼ばれてるか!  
 あたしが教えてやるよ!!あんたはね!誰とでも寝る厠女だって呼ばれてるんだ!」  
一体何があったと言うのだ。双葉の知っている凛は最早そこにはいない。  
彼女の知っている凛はこんなことを言う少女ではなかった。  
これも重蔵の躾によるものなのだろうか。  
久しぶりに会話をする同郷の少女のあまりの変貌振りに、怒りと同時に悲しみがこみ上げてくる。  
 
「おまけにあの蛭吉とも寝たんだって!?よくあんな小汚い乞食とやれるね!!それにカタワじゃないか!!  
 もう男なら何でもいいんだろ!!この雌犬!厠女!淫売!色乞食!」  
「五月蝿い!!佐吉さんの事悪く言うんじゃないよ!!!」  
何故か双葉はあの足萎えの乞食の悪口を嫌う。彼女自身、何故なのかわからない。  
ともかく彼の悪口を聞くと、あの戎様のようなひょっとこのような笑顔が頭に浮かび、切なくなるのだ。  
「ふん!どうせあの気持ち悪い猿とも盛ってるんだろ!!」  
「誰の事だい!!」  
「決まってるだろ!!あんたの弟さ!!どうせ毎晩姉弟で盛ってるんだろ!!」  
双葉の全身から血の気が引いた。近親相姦を指摘されたことに衝撃を受けたのではない。  
弟を「気持ちの悪い猿」呼ばわりされた事に対し、体中に稲妻が走った。  
「…もう一度言ってごらん…もう一度言ってごらん!!!」  
双葉はもう殆ど狂気のごとく肉体が灼熱している。  
秀麗眉目の彼女は、秀麗眉目の般若と化した。  
この性悪が次に何か言ったら、自身がもう粉々に破裂するのではないかとさえ思う。  
「ああ!何度でも言ってやる!!実の弟と毎晩盛りまくってる色キチガイめ!!  
 あんたみたいな雌犬の厠女には、あの気持ちの悪い猿がお似合いさ!!!  
 あんた頭悪そうだから教えてやる!!姉弟で盛ると蛭みたいな子が産まれるんだよ!!  
 犬と猿で盛るとどんな子が産まれるのか、今から愉しみだ!!!」  
 
 
双葉の記憶が消えた。   
 

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