野菊が咲いている。
この何処までも透明な秋の日の午後。
憔悴した姉が、ふら付く足取りで帰ってきた。
双葉は凛を殺そうとしたのだ。
弟である単葉は一目でそれを見抜いた。
この間の酒宴の席での出来事以来、彼女の様子が少しおかしい。
心配していた所に、この憔悴振りである。
―双葉は凛を殺そうとした。
そしてそれが失敗に終わったことも容易く見て取れる。
凛は小娘であるが、忍びので芸は双葉より遥かに勝る。
激情に駆られた双葉ごときが殺せる相手ではなかった。
彼女の沈痛は、凛を殺し損ねた為ではないであろう。
これにより完全に重蔵を怒らせてしまった。
彼は生まれながらの殺人鬼である。
その殺人鬼を敵に回してしまった、恐怖と絶望によるためのものである。
だが単葉は、その事について姉を問い詰めるような真似はしない。
双葉もまた、弟に事の次第を話そうとしないし、悟らせようともしない。
二人は互いに平静を装い、沈黙したまま絶望の淵にいた。
唯一の救いは重蔵が黒屋にいないという事だ。
彼は己の仕事を遂行するために、ここ数日箱掛に出張ったきり、帰っていない。
だが凛の口から彼女の凶行が重蔵の耳に入る事は、時間の問題である。
今の凛はかつて双葉を慕っていた頃の凛では無い。
いまや完全に重蔵の手に堕ちた、一匹の犬である。
―重蔵が相手か…。
自分でも驚くほど明快に、単葉は重蔵との血戦を覚悟していた。
驚くべき事に、彼の内には姉の愚行に対する憤りも失望も無い。
彼女を咎め立てる気持ちすら沸き起こってこない。
―勝てるか…黒塗りの重蔵に…。
既に彼の思考は重蔵との一戦に絞り込まれている。
だがいくら策謀を巡らせても、全く勝ち目が見えてこない。
頭を振って、思考するのを止めた。それは全く無駄な事であった。
いくら策を練っても無駄―
これが彼の得た唯一にして確かな答えであった。
「酒を飲むか。」
長い沈黙の後、単葉が言った。
今は酒を飲んで気を紛らわせるぐらいしか、姉を慰める術が思いつかない。
「ああ。おくれ。」
姉も小さく頷く。表情に生気が無いのが気になる。
二人の寝室には、まことに奇怪な光景が広がっていた。
単葉が姉の乳首を口に含み、まるで赤子のように吸い付いている。
双葉はそんな弟の頭を飽きずに撫でている。
その表情はいつもの勝気なそれではない。疲れ切ったような、
それで居て何処と無く優しげにも見える複雑なものである。
かつて彼女がこのような表情を見せた事は無い。
しかし無心に乳首を吸いたてる弟に、それを窺い知ることは出来ない。
双葉はどうにも切なくなると、いつも弟に自身の乳を吸わせた。
無論妊婦でもない彼女に母乳など出るはずも無い。
ただ、赤子のように乳房を吸われると、彼女の寂莫たる虚栄に満ちた心が幾ばくか満たされるのである。
「どうだい?旨いだろ。」
この女がこれ程優しげに語りかけてくるのは、この時だけである。
乳首を口に含んだまま、頷く事で弟が返事をした。
「あんたの好きな塩鮭とどっちが旨い?」
不思議とこの時ばかりは単葉も「塩鮭」と答える気になれない。
「お前の乳のほうが旨い。」
「だろ?」
「ああ。」
「じゃあどのくらい旨い?」
こういうときの答えは決まっている。
変な話だが二人の間で様式化されているのである。
「天下一だ。」
予想通りの答えに、姉は嬉しそうに微笑んだ。
彼女が女の悦びの笑顔を浮かべるのも、やはりこの時だけである。
「あたしにはあんただけだよ…。もう男はウンザリだ…。」
ここで言う「男」というのは言うまでも無く重蔵のことだ。
彼女は必死に己の犯した大事を隠し通そうとしている。
痛々しいほどの下手な芝居だ。
「本当さ…あたしにはあんただけ…あんただけが最期まであたしに構ってくれるのさ…。」
芝居では在るが、彼女の言葉は真の本心でもあった。
どんなに男を替えても、自堕落に生きようとも、いつも側には単葉がいた。
彼の胸で泣き、そして彼を胸に抱いた。
「いつもの事だろう。」
これもまた、哀しいくらいに下手な台詞だ。
だが姉は気付かぬ振りして笑ってくれた。
「毎度毎度の事だもんね…でも今度ばかりは本当さ。もう男はこりごり…。」
そこまで言って、深い溜息を一つ吐く。
腹の底から、言葉を搾り出した。
「悪いね…。たった一人の姉さんが女郎みたいな女でさ。」
―突然何を言い出すのだ。
単葉は途端に哀しくなる。弟に詫びる彼女を初めて見た。
「女郎でも何でもいい。お前はお前だ。」
思わず声が引きつった。こんなに気弱な姉の姿など見たくは無い。
「女郎でも犬でも何でもいいんだ。お前で在るあらば。」
双葉の頬を両の手で包んでやった。
彼女の瞳が幽かに潤む。
「…あたし臭いだろう。香の臭いが染み付いちまった。」
「臭くない。とてもいい匂いがする。」
双葉の言うとおり、着物はもとよりその肉体までもに香の香りが染み付いていた。
だが弟は、それでも消す事の出来ない姉の匂いを嗅ぎ分けることが出来る。
それを鼻腔ではなく、彼は魂で嗅ぎ分けた。彼以外の人間には出来ない芸当である。
魂で嗅ぎ分ける匂いは、やはり彼女の魂の匂いであった。姉弟揃って同じ匂いがする。
如何ともしがたい孤独と、哀しみの匂いがする。
それだけは、どんな香をもってしても決して消す事は出来ない。
「あたしは本当に汚れちまった…。」
「汚れてはいない。…汚れてはいない!!」
単葉は叫んだ。
「昔に返りたい…まだ汚れてなかった頃の昔に…。」
「お前は汚れてはいない!!お前は昔からいつでも美しい!!これからもだ!!汚れてはいない!!」
双葉の言葉を打ち消すように、弟は殆ど絶叫している。
―そうとも。汚れているものか。
村人から迫害されていた蛭吉に、たった一人情けをかけてやったことを、彼は忘れていない。
単葉にとって、姉は常に正しい存在である。常に潔白である。弟は楠正成も遠く及ばない大忠臣であった。
「…御免ね…。…ありがとね…。…やっぱりあんたは優しい子だよ…。」
「…双葉…。」
単葉はもうやりきれなくなって、顔を伏せた。
涙は流さないでくれ、と心の内で懇願した。
彼女の涙を見れば、自分も涙を零してしまう。
故郷を消去した日に、涙は封印したはずであった。
「あたしさ…黒屋を抜けようと思うんだ。」
溜息とともに、悲壮な決意が姉の口から漏れた。
「本気か?」
「…ああ。」
二人はそれきり沈黙した。
あの重蔵から逃れる術など存在するのであろうか。
その答えが導き出されるまで、言葉が見つからない。
沈黙を破ったのは、姉のほうであった。
「ねえ、何処かに遁げようか。」
「遁げる?」
双葉の見つけた答えは、至極単純にして、非常に困難な、それでいて唯一のものであった。
「ああ、そうさ。何処かに遁げて…そこで二人きりで暮らさないかい。」
「遁げるって…何処へ?俺たちに行く所なんて無いだろう。」
「そうだったねぇ…。」
そう言って、双葉が哀しげに頭を垂れた。
弟の言うとおりである。二人には行く所など無かった。
彼らの故郷さえ、自らの手で消してしまっていた。
だからこの姉弟には、黒屋しかなかったのである。
黒屋こそ彼らの故郷であった筈なのだ。
だが、今の二人にはそれすらも過去のものとなりつつある。
「別に俺は構わんよ。」
単葉は幽かに笑みを零した。
自分の人生は常にこの姉に振り回されてきたと言っていい。
だが、それがまた嫌ではないから不思議だ。
命を賭けて忠誠を尽くすべき相手が重蔵で無いことは、彼自身が一番よく知っている。
どれだけ振り回されようと、
自分が忠誠を尽くすべき相手はただ一人。実の姉の双葉ただ一人である。
「あの頃が懐かしいねぇ…。」
懐古に耽る姉の姿も、単葉は初めて目にした。
己の死を、身近に感じ始めているからであろうか。
「あの頃はよかった…。」
「ああ…そうだな。あの頃はよかった。」
追憶に彩られた日々ほど、美しいものは無い。
単葉の脳裏にも、おそらく姉と同様の光景が浮かんでいる事であろう。
二人はいつも一緒であった。姉弟は正に一心同体であった。
「あの頃に戻って、もう一度あんたとやり直したいよ…。」
「今からでも遅くは無いだろう。やり直せるさ。」
この仏頂面の弟は限りなく優しい。双葉の胸が哀しく締め付けられるほどに。
「あたしが間違ってたのさ…あんたを巻き込んで…。」
「違う。」
単葉が即答した。
弟を重蔵の元に誘ったのは、言うまでも無くこの双葉である。
「あんたを誘わなければこんな事に…。」
「違う。俺の意思だ。お前は関係ない。」
―あんたは優しすぎるよ。
双葉はもう泣きたくなる。
こんな愚かな阿婆擦れ女に、一体何処まで情けをかければ気がすむのか。
「あたし、凛を殺そうとした…。」
「わかっている。」
それは一目見た時から知っている。
―そうとも。俺にはお前の事が全部わかっている。
彼は姉の頬を優しく撫でた。凍えるほどに冷たい。
「重蔵に殺されるよ。」
「俺が何とかする。」
「重蔵に勝てるかい?」
「やってみなければわからん。駄目だったら二人で死ねばいい。」
「あたし死ぬのが怖いよ…。」
「俺もだ。」
忍びともあろう者が、こんな弱音を吐くなんて。
可笑くなって、二人はどちらからとも苦い哂いを漏らしていた。
「あの頃に戻りたい…。」
「戻れるさ。」
「あたしを恨んで無いかい。」
「お前を恨むわけが無い。」
双葉が幽かに微笑んだ。
何か言おうとしたものの、言葉が出てこない。
「大丈夫だ…。」
そんな根拠など何処にも無い。自信など毛程も無い。
だが単葉は言った。
「大丈夫だ…何とかなる。大丈夫だ。」
双葉も言った。
「ああ、そうさ…大丈夫。大丈夫さ…。」
「そうだ…大丈夫だ。」
そう口にしていると、何故だか本当に何とかなるような気がしてくる。
互いに慰めあうかのように、確かめあうかのよう囁きあった。
少し安心したのか、双葉が微笑んだ。
「口を吸っておくれ。」
「ああ。」
乞われるままに、姉の唇を吸ってやった。
暫く互いの舌を絡ませて密やかに睦んだ。
睦みあいに飽きると双葉は弟の手を取り、自分の乳房に触れさせた。
弟の掌の下で、姉の豊かな乳房は柔らかく潰れた。
暖かい…。
掌を通じて、彼の優しさが胸のうちに流れ込んでくるように感じた。
「あんたさ…あたしの亭主になっておくれよ。」
この言葉には流石の単葉も呆れを通り越して、思わず笑ってしまった。
「おい…正気か?俺は実の弟だぞ。」
「そんな事わかってるよ…。でもいいじゃないか。弟だからって、それが何だって言うんだい…?」
この奔放な姉に世間並みの常識や倫理を求めても仕方ないのはわかっている。
しかし実の弟に亭主になれとは、あまりにも酔狂な頼み事だ。
「…遁げよう。」
双葉の手が弟の着物の裾を通り、褌の中に入ってきた。
一瞬単葉が腰を浮かせた。弟の素直な反応に、双葉は嬉しくなる。
「何処かに遁げて…夫婦(めおと)になってさ…所帯を持とう…そこで二人で死ぬまで静かに暮らすんだ…。」
双葉の脳裏に、遁世した姉弟夫婦の睦みあいが鮮やかに浮かんでは消える。
「本気…なのか?」
「ああ、本気さ。あんた、あたしの亭主になるのは嫌かい?」
「…別に嫌ではない。」
これは本当だ。単葉は姉には嘘をつかない。
「だったらいいじゃないか。」
「…ああ、悪くは無いな。」
単葉は苦笑した。
彼は姉には嘘をつかない。
「じゃあ決まりだね。」
「ああ、決まりだな。」
双葉が一夜を供にした男達は、実は全てこの弟の身代わりであったのかもしれない。
夢の中の出来事のように、姉弟は密やかな契りを結ぶ。
単葉は双葉がそうしているように、彼女の小袖の裾から手を差し込んだ。
迷いも無くその中心部に辿り着き、その柔らかな部分に割って入る。
互いに秘所を愛でながら、姉と弟は耳元で囁きあった。
「所帯を持つ前にお前に教えておきたいことがある。」
「おや?何だい?」
「実は俺は女を知らない。」
双葉の目が丸くなった。それから少し笑った。
まさかこのような時にこのような告白をしてくるとは。
姉に劣らず、弟もまた酔狂であった。
しかし流石にそれは嘘だろう。単葉は二十歳をとうに超えている。
自分を悦ばせる為に嘘をついたものと、双葉は勘ぐっていた。
「嘘じゃない。本当だ。」
単葉は姉に嘘をつかない。
事実彼は今まで女に興味を持ったことが無い。
それはやはりこの姉の影響であろうか。
幼い頃から睦みあい、時には許されざる悪戯をしあってきた仲である。
彼にとって女とは、この世でただ一人、双葉しかいなかった。
それ以外の存在はただの風景である。
「本当なんだ。信じてくれ。」
懇願するように念を押した。
双葉が微笑んだ。
「わかった。信じるよ。」
「本当か?」
「ああ、本当さ。」
―まったく可愛い奴だ。
双葉の胸が悦びに打ち震えた。
―このあたしの弟の癖に憎たらしいほど可愛いじゃないか。
「じゃああたしがあんたの初めての女になるのかい。嬉しいねぇ。
ふふふ…こんなに嬉しいことは無いよ。」
「ああ、そういうことになるな。お前が初めての女で俺も嬉しい。」
「あんたのこと、うんと可愛がってやる。毎日嫌というほど可愛がってやるから楽しみにしておいで。」
「そうか。そいつは楽しみだ。それじゃあうんと可愛がってくれ。」
「あんたの子供も産んでやるからね。男の子と女の子どっちがいい?」
「どっちでもいい。お前の子なら。」
「じゃあ両方産むよ。」
「ああ、両方産んでくれ。」
「あたしたちはきっと良い夫婦になるよ。」
「ああ、勿論だ。きっとそうなる。」
「いつまでもあたしと仲良くしてくれるかい?」
「ああ、仲良くする。きっとだ。約束する。」
この透明な秋の日に、二人は透き通るような誓いを立てる。
「あんたが死んでも、あたしは死なないよ。」
いけしゃあしゃあと双葉は言う。
だが単葉はそうではないようだ。
「お前が死ねば、俺は死ぬ。」
「馬鹿だね。」
嬉しくなって思わず微笑んだ。
「あんたは馬鹿だよ。」
嬉しくて嬉しくて、白い歯を見せて笑った。
「一体何処まで馬鹿何だい。」
もう堪らなくなって、カカ、と笑った。
いつも仏頂面をしている弟がこんなにも愉しげに笑うところを、双葉は久しぶりに見る。
「おいで。お馬鹿さん。」
切なくなって、弟の笑顔を胸に抱いた。
「あんたが死んだら、あたしも死ぬよ。」
「馬鹿だな。」
「ああ、馬鹿さ。」
「そうか。姉弟揃って馬鹿か。」
「二人揃って大馬鹿さ。」
双葉も単葉も、声を上げて笑った。
心が溶けて、混ざり合った。
哀しいほど真っ直ぐに、野菊が咲いている