墨で黒く塗り潰された片割れの貝殻が届けられたのは、  
やはり何処までも澄み切った秋の日の午後である。  
どうやって侵入したのかは不明であるが、二人の寝室の床の上に、ぽつりと置かれていた。  
差出人は不明。意味も不明。  
しかしこの二人には十分過ぎるほどに、事の次第が理解できた。  
 
―いよいよ重蔵が来た。  
 
双葉はもうすっかり怯えきってしまい、弟の側を離れようとしない。  
単葉が顔を洗う時にも、厠に行く時にさえ付いてくる。  
弟もまた、彼女の側から離れようとしなかった。  
暇さえあれば姉の震える肩を撫でてやり、青ざめた掌を握ってやる。  
何処へ遁げても無駄なのは判りきっている。  
そうやって互いに寄り添いながら、「その日」が訪れるのを待つしか術がない。  
 
だが、この弟はそれでも策を練る。  
今まで培ってきたありとあらゆる知識と経験を総動員し、策謀する。  
―命を使うしかないか…。  
忍びは生き延びる事を前提に策を立てない。  
そこが侍と、彼ら人外の化生との違いでも在る。  
 
この愚かな姉は、今になってようやく己の愚行を悔いている。  
後悔などとは無縁であったはずの彼女が、生まれて初めて、懊悩の淵に居る。  
―確かにこの阿婆擦れは、馬鹿な女かもしれん。  
肩を抱きながら、弟は思う。  
しかしその馬鹿に、これまた馬鹿のように忠誠を誓う自身もまた馬鹿である。  
いや、彼女より遥かに馬鹿であると言ったほうが、より真実に近い。  
―それでいい。姉弟そろって馬鹿だ。それでいい。  
単葉の口許に笑みが浮かぶ。  
 
―俺が死んだら、この阿婆擦れはどうするのか。  
双葉は何も出来ない女である。歌を歌ったり、舞を舞ったり、  
あるいは男と睦み戯れる事以外能の無い女である。  
 
「あんたが死んだら、あたしも死ぬ。」  
彼女は確かに、そう言った。  
だがそれは嘘であろう。  
自害できるような度胸の在る女ではない。  
その事は、弟である単葉自身が一番よく知っている。  
 
しかし幸運な事に、この姉は類まれなる美貌の持ち主であった。  
その肉体も匂うほどに甘く蕩けているし、房中術も匠の域に在る。  
―男が、放っておかないだろう。  
何処かの金持ちの旦那が、妾にでも拾ってくれればそれでよかった。  
 
「行かないでおくれ!」  
双葉はもう、憐れなぐらい憔悴している。  
美貌は青ざめ、体中が細かく震えて止まらない。  
―だが、行かねばならぬ。  
あの黒塗りの殺人鬼を屠らぬ事には、この姉の命もまた、無い。  
「お前は例の場所にいろ。」  
例の場所というのは、非常時における隠れ部屋である。いや、穴といったほうがいいかもしれない。  
寝室の間の床板を外すと、一間ほどの深さの穴が穿たれている。  
この屋敷に引っ越してきた当日に、単葉が掘ったものだ。  
二、三日は潜んでいられるように、少量では在るが食料と水も保管されている。  
無論、幾ばくかの金銭も同様である。  
また、この竪穴からは屋敷の外へと続く横穴が掘られており、  
いざという時の脱出口としても使用できるようになっている。  
そこに隠れていろ、というのである。  
 
「嫌だよ!!行かないどくれ!!あたしを一人にしないでおくれ!!ねえ!行かないどくれったら!!」  
どこまでも食い下がる姉の口を、柔らかく吸ってやった。  
それが、この姉弟の永遠の別れの挨拶であった。  
「明日までに戻らなかったら、俺のことは忘れろ。」  
残酷な言葉を一つ残して、弟は背を向ける。  
 
―たった一つ、策が在る。  
彼の身体には、一見そうとは判らぬように、爆薬が巻き付けられていた。  
左の二の腕に装着されたカラクリ籠手と連動して、爆発する仕組みになっている。  
標的に密着、若しくは極力接近して作動させれば、  
いかにあの物の怪じみた殺人鬼であっても一たまりも在るまい。  
彼の鉄傘を持ってしても、防ぎきることなど出来ぬであろう。  
―あの阿婆擦れの亭主になって、存分に抱いてみたかった。  
憂鬱持ちの単葉の心は、大抵靄がかかったようにすっきりしない事が多い。  
だが、今はどうだ。  
何処までも透明に澄み渡り、この秋の空のように晴れ渡っているではないか。  
こんなことはかつて一度も無かった事だ。  
しかも彼はこれから死にに行く所なのである。  
 
―俺のことはもう忘れろ。  
 端から居なかったものだと思って、忘れてくれ。  
 馬鹿な弟のことなど、酒でも飲んで忘れてしまえ。  
死に行く仏頂面には、笑みさえこぼれている。   
 
―どこかの旦那に拾われて、うんと可愛がって貰え。  
 旦那の事も、うんと悦ばせてやれ。  
 酒もたんと飲ませて貰え。べべも買って貰え。   
 簪も櫛も買って貰え。  
 そして年がら年中歌を歌い、舞を舞って暮らすんだ。  
   
 
 
野菊が一輪、風に揺れている。  
 
 
 
殺気が舞い降りた。  
それ全く突然の事であった。  
街に続く一本道。周囲には長閑な田園風景が広がっている。  
夕暮れが迫っているため、辺りに農夫の姿は無い。  
すわ、重蔵か!  
単葉は無意識のうちに身構えている。  
だが殺気の主は重蔵ではなかった。  
女である。  
二振りの小太刀を手にし、濃紫の衣を纏った小柄な女だ。  
「黒屋の単葉だね。」  
「誰だ。」  
女は答えない。  
 
代わりに「三刀流はとったよ。」と返した。  
「三刀流」が鎬の事を指しているということは容易にわかった。  
単葉は驚きもしない。  
あれ位なら俺でもやれる。  
荒唐無稽、奇抜な芸を持つものほど、実はたいした人間で無いことを、彼はよく知っている。  
「ラッパか?」  
重蔵の手の者であろうか。  
しかしこんな女は見た事が無い。  
そのいでたちや得物からそう判断した。  
「いや。」  
女が口許を歪めた。  
「死神さ。」  
「ほざけ。」  
ついていない。単葉は己の運の悪さを呪わずにはいられなかった。  
この大事な血戦を前にして、こんな訳のわからぬ女に命を狙われるとは。  
「重蔵の手の者か?」  
「知らないね!」  
言葉が終わらないうちに死神が跳ねた。  
 
―ついていない…。  
単葉は血の海の中に居る。  
腹が真一文字に抉られている。内臓がはみ出ているのを、己の目で確認できる。  
彼の身体には、相当量の爆薬が巻きつけられている。  
それが、いけなかった。  
彼は、たった一人、重蔵のみを見ていた。重蔵は自らは動かない。  
先に動いた獲物を、それよりも迅く正確に仕留めるのが、あの殺人鬼の兵法である。  
だからこちらから先に動き、それに反応した重蔵諸共爆死する手筈だったのだ。  
だがこの俊敏な死神は、そうではない。  
彼女は縦横無尽、自由自在に跳びまわり、爆薬に巻きつかれて動きの鈍い単葉を翻弄した。  
彼の秘策は、重蔵を標的としたものであって、このわけの判らぬ死神に対してではないのだ。  
この女と心中するわけには行かない。  
単葉は只管不利な戦いを強いられ、その結果が、この有様である。  
―…双葉…  
薄れ行く意識の中、脳裏に美しい姉の笑顔が浮かんだ。  
―どうやら俺もお前との約束を果たせそうも無い…。  
姉の姿が幼女に変わっていく。  
まだ里に居た頃の、お転婆の姿がそこにはあった。  
幼女の姉は盛んに弟を呼んでいる。  
幼いあの日の幻影。二度と戻ることのない、あの日の蜃気楼。  
―すまん…俺にはもうそこに行く事は出来ないようだ…。  
単葉が静かに目を閉じた。  
 
 
―…姉ちゃん…  
 
 
そして、静寂。  
 
 
―どうやら死神は仕事をしくじったようだ。  
 
単葉の視界に色彩が戻る。  
―俺は生きている。あの女はしくじった。  
重傷を負い、意識を失っていたにも拘らず  
彼は驚くほどの冷静さで、己の在り様を察知した。  
 
単葉は一間半四方の小さな部屋に寝かされていた。  
目の玉を横に反らすと、老婆が座って裁縫をしているのが見える。  
老婆が単葉の異変に気付いたようだ。  
「おやぁまあ、目を覚ましたよ。」  
老婆が驚いて、素っ頓狂な声を上げた。  
「あんたもう何日も寝ていたんだよぉ。」  
彼女は裁縫を一休みし、単葉の枕元までにじり寄って来た。  
「あんた死ぬとこだったよ…あんなに大怪我して…  
 先生に診てもらわなきゃ本当に死んでたよ。本当によかった…あたしゃ心配で心配で。」  
聞きもしないのに、老婆は事の成り行きを捲くし立てた。  
意識を取り戻したばかりの単葉には少々耳障りである。  
―ついている。  
運良く命を拾った。死神もしくじる事があるのだ。  
「俺は生きている。」  
無意識のうちにそう呟いた。  
老婆に返事をしたわけではない。  
自分自身に宣言をしたのだ。  
「そうだよ。生きてるよ。よかったねぇ、本当によかった。」  
だがこの老婆に彼の言葉の意味が判るわけが無い。  
この怪我人の思わぬ言葉に、涙を流さんばかりに喜んでいる。  
 
だが単葉には、この老婆の事等眼中に無い。  
ただただ双葉と、そして重蔵の事が頭にあった。  
身体を起してみた。途端に腹部に強い衝撃が走る。  
「駄目だよ!」  
老婆が狼狽した。  
「先生は暫く寝てなきゃ駄目って言ってたよ。」  
「どのくらいだ。」  
これが、初めて行う老婆との会話であった。  
「一月は掛かるって言ってたよ。」  
―何と言うことだ。やはり俺はついてない。  
この老婆の言う事は嘘では無いだろう。  
今の身体では歩く事はおろか、身体を起こす事さえままなら無い。  
いや、仮にそれが出来たとしても、重蔵と一戦交える事など到底不可能である。  
「ここでゆっくりしておいき。どうせ婆の気楽な一人暮らしなんだしね。」  
この老婆は何処までも善良である。  
 
「蛭吉があんたを見つけたんだよ。」  
老婆が思わぬ告白をする。  
「何だって?蛭吉が?」  
蛭吉といえば、かつて姉が家まで連れてきたあの足萎えの乞食である。  
双葉と一時の睦みあいに興じた事を、単葉はよく覚えている。  
「蛭吉があんたを背負って先生の所に駆け込んだんだ。」  
単葉が一瞬絶句した。  
―一体どうゆうことだ!  
 生来足萎えの蛭吉は、歩く事はおろか立つことすらままならないのではなかったか。  
 それを決して軽くない俺を背負って医者の元に駆け込んだだと?  
「蛭吉は…。」  
単葉が言い終わらないうちに、老婆がその疑問に答える。  
「そうなんだよ。あの乞食、足萎えの筈なんだけどね。確かにあんたを背負って走ったんだ。  
 それも結構な疾さだったって言うよ。村の市松が見たんだけどさ、風のような疾さだったって。」  
さも自分が目撃したかのように老婆がまくし立てる。  
―どういうことだ…足萎えというのは偽りだったのか。  
「それにね、蛭吉は乞食の癖に結構な銭を溜め込んでいたらしくてね、    
 あんたの治療代も全部置いていった。」  
―何と、銭まで。  
単葉の脳裏に、戎様のようなひょっとこのような蛭吉の笑顔が浮かぶ。  
「蛭吉は今何処に?」  
あの足萎えの乞食に命を拾われた。一言礼を述べたかった。  
「それがねえ…。」  
老婆の顔が曇る。  
「あれ以来何処かに消えちまったんだ。みんなで探したんだけどね。何処にもいないんだ。海にも、森にも、池にも  
 川にも山にも何処にもいないんだよ。いつもにたにた笑ってて、気味の悪い乞食だったけどね。  
 いなくなるとそれはそれで寂しいもんだ。」  
 
 
蛭吉が、消えた―。  
 
―あの乞食は物の怪の類だったのではないか…。  
今では魑魅の類など頭から否定している単葉さえ、そう思わざるを得ない不可思議な話しだ。  
―いや、神だ。あの土地の守り神だったのだ。  
 双葉との睦みあいの礼に、弟である俺の命を救ったのだ。  
 
あの蛭吉に命を救われた。  
―お前の大事な双葉を救え。  
今や彼の言葉は不明瞭で理解不能なものなどではなかった。  
それは刃のような鋭さで、彼の心に明確に響きわたった。  
単葉の心が、蘇る。  
 

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