―もう生きてはいないだろう。  
あれから一月は経っている。  
だからこれは殉死のつもりなのである。  
蛭吉に拾われた命であるが、当の双葉が死んでしまっているのでは意味が無い。  
双葉が居なければ意味の無い命である。意味の無い人生であり、意味の無い人間である。  
身体の傷はすっかり癒えた。  
だが心の傷が癒えることは無い。  
単葉の脚はひとりでに黒屋に向かっていた。  
―あの阿婆擦れに殉じる馬鹿が一人ぐらいいてもいいじゃないか。  
 
「何処に行くんだい?」  
単葉の目の前を、黒い影が遮った。  
乱造であった。口元に、邪悪な笑みを浮かべている。  
「行かないほうがいいと思うなぁ。」  
思わせぶりにそう言って、顎鬚を撫でた。  
乱造を無視して、単葉はその横を通り過ぎようとした。  
しかし乱造が彼の行く手を塞ぐように立ちはだかる。  
「行かないほうがいい。ひっひっひっ…お前さん、きっと後悔するぜぇ。」  
「お前がやったのか?それとも重蔵のほうか?」  
単葉が初めて口を開いた。  
やったのか?と言う問いは言うまでもなく姉の双葉のことである。  
単葉の問いに、乱造はニヤリと笑っただけで答えた。  
「お前か?それとも重蔵か?」  
単葉は再び同じ質問を繰り返した。月が出ているとはいえ、木立に囲まれた  
お堂の広場ではお互いの表情を窺い知る事は出来ない。  
「殺しちゃあいねえ。」  
「何?」  
単葉の表情が変わった。  
「生きているのか。」  
乱造は返事をせずに、口許を醜く歪ませた。  
「生きているのか。」  
乱造が長い舌を出しておどけた。  
「生きているのか。」  
単葉は執拗に同様の質問を繰り返した。  
 
「ああ、生きてるっていやあ生きてるがな。」  
肩を竦めて、乱造が答えた。  
「お前さんの姉さんは犬になった。」  
「犬だと?」  
「女郎屋にいる。」  
「何処だ。」  
「さあてね。」  
「何処だ。」  
単葉の声に力が籠もる。  
―双葉は生きている。  
この言葉が、彼の内の暗黒に一灯の灯火を燈した。  
女郎にさせられたのは、重蔵の命によるものなのであろう。  
だが彼に衝撃は無い。もともと女郎のような女であった。  
むしろ重蔵の仕置きがその程度で済んだことのほうが、彼には意外である。  
「言え!何処の女郎屋だ!」  
「万楽屋さ。」呆気ないほど簡単に白状した。  
乱造にはこの異常なまでの姉狂いの男を殺すだけの自身がある。  
死人に対して白状した所で、何の問題も無いはずであった。  
「あの女郎屋か。」  
万楽屋は知っている。  
色町の外れにある、小さな女郎屋だ。  
変態的な客が集まる事で知られており、評判は良くない。  
 
単葉の肩は小刻みに震えている。  
それを自分に対する怯えであると見た乱造は、まるで道化のような口調で話し始めた。  
「お頭の指図でよぉ…仕方なかったんだよ…ひっひっひ…悪い事は言わねぇ、あの女の事は諦めな。  
 あの女はもう人間じゃねえ。犬だ!犬になっちまったんだよ!ひゃははははは!」  
彼は明らかに単葉を侮っていた。大体において、単葉という男はよくわからないとところがある。  
極端に無口で、姉の双葉以外とは殆ど口を利くことはない。余程己に自信が無いのであろうと、  
常々思っていた。  
乱造はこの手の男が死ぬほど嫌いである。深淵のように暗く、底を見通す事の出来ない単葉を殺したいほどに憎んでいる。  
だが同時に、単葉もまたこの滑稽で軽薄な道化師に殺意を抱いている事を乱造は知らない。  
「俺も辛かったんだぜぇ、あんたの姉さん、いい女だからよぉ…ついつい殺したくなっちまうのを  
 必死に堪えてたんだ。まあ俺の苦労も察してくれや。」  
そう言うとひひひひひ、と不気味に笑った。爬虫類の威嚇を思い起こさせる笑いである。  
「そうか。」と、一言、単葉が呟いた。  
その瞬間、彼の左腕に装着してあるカラクリ篭手が火を吹いた。  
乱造が物言わぬ肉塊に変わるまで、それほど時間は掛からなかった。  
 
単葉が「万楽屋」に辿り着いたのは、それからやく一刻(二時間)の後である。  
万楽屋は箱掛の宿の大通りから少し外れた遊郭街の一番外れにひっそりと建っている店だ。  
女郎屋であるのに、意外とこじんまりとした、一見商家と見分けが付かない造りになっている。  
地味な店構えであるのに、この店は数寄物達の間ではかなり評判の高い店であった。  
その理由を、単葉はすぐ後に知ることになる。  
門前で屯している野伏せり崩れの門番を一蹴すると、店の中に踊りこんだ。  
店の中は仄かに行灯が灯っているだけで薄暗かったが、夜目の利く単葉にはそれで十分である。  
この店は外見からも判るとおり、それ程広いものではない。  
双葉を捜すのに、それ程時間は必要ないであろう。  
門番が狼藉者に屠られた事を知った用心棒の侍が、店の奥からどかどかとやってきて単葉を囲んだが  
今の彼に挑むのはあまりにも無謀すぎた。たちまち返り討ちにあい、乱造同様の醜い姿となって  
息絶えた。  
番頭も、女郎も、客も、出会う者は悉く殺した。殺して殺して、ただ只管双葉を捜した。  
 
やがて姉を見つけた。  
店の一番外れにある離れ部屋。  
そこに双葉はいた。  
単葉の巻き起こした殺戮も、この部屋に集まった客はまだ知らないでいた。  
突如乱入した曲者に、客達は激しく動揺した。  
だが、そんなことは単葉の目には映らない。  
彼の視線はただ一点、双子の姉の双葉に注がれていた。  
 
変わり果てた姿であった。  
数々の修羅場を潜り抜けて来た単葉さえ、余りの惨い仕打ちに思わず言葉を失った。  
双葉は一糸纏わぬ裸身であった。  
四肢を間接部分で切断され、桃色の切断面には乱暴な縫合の後が見える。  
おまけに首に絆を付けられていた。  
ここでは彼女は人間ではなかった。獣同様の扱いを受け、毎晩のように猟奇的な客たちに弄ばれていたのである。  
単葉の脳裏に、乱造の爬虫類の笑いが残酷なほど鮮やかに蘇って来た。  
―お前さんの姉さんは犬になった。  
その言葉は正しくその言葉通りの意味であった。  
―甘かった。  
姉の無事を楽観視していた彼は、己の甘さを心底悔いた。  
重蔵は彼が思っていたより遥かに悪辣で、無慈悲であった。  
単葉が吼えた。獣の咆哮である。  
それから先は、彼自身も知らない。  
気が付くと、姉とたったの二人きり、言葉も無く向かい合っている。  
彼らの周りには、肉塊が転がるばかりであった。  
 
双葉の白い肌には、無数の傷跡があった。  
嗜虐的な外道供に散々嬲り者にされたのであろう。  
単葉は堰として声も出無い。  
姉の恐怖と絶望を思うと、胸が張り裂ける思いがした。  
店の何処かから紅の小袖を調達して来ると、震える手でそっと姉を包み込んだ。  
艶やかな紅は双葉の好きな色であった。しかしそれを纏っても姉は何も言わない。  
それから彼女を繋ぎとめている絆も力任せに引き千切った。  
双葉は解放された。しかしその肉体が解放されても、彼女の魂まで解放されたわけではない。  
その魂は弟の手の届かぬ深い闇の中に囚われたまま、永久に彷徨い続けている。  
彼女の頬を一撫でしてみる。まるで死人だ。目が虚空を彷徨っている。  
双葉の心は黒く塗り潰されてしまった。同時に単葉の心も暗闇に閉ざされた。  
それが重蔵の報復であった。  
―犬になった。  
あの惨い言葉が頭の中で何度も反芻される。  
単葉は絶望し、生き地獄から姉を救い出すべくその喉に手をかけた。  
反射的に、双葉と視線が合った。  
彼女の黒目がちの瞳には、打ちひしがれた弟の姿が映っていた。  
「犬」になっても、相変わらず彼女は美しいままであった。  
―出来ない…。  
単葉の喉が「くぅ」と鳴った。  
―俺には出来ない…。  
首に掛かっていた手が、いつしか彼女の背中に回されていた。  
ただ強く強く抱きしめた。  
それ以外に、この憐れな姉を救う術が彼には無かったのである。  
 
単葉は、物言わぬ生き人形の姉をその背に負った。  
驚くほど軽い。それは欠損した手足のせいだけではない。  
彼女の魂が、すっぽりと抜け落ちていた。それは双葉の抜け殻であった。  
その虚ろな軽さに、思わず涙が零れそうになる。  
姉を背負い、彼は只管歩き続けた。女郎屋を出、町を抜け、野山に分け入った。  
二人に行く所などなかった。古里を、自らの手で消去してしまっていた。  
彷徨う、という言葉はまさに彼らのためにあった。  
―この世に、二人きりになってしまった。  
単葉の心が、如何ともし難い孤絶に戦慄いた。  
彼らは孤立したのではない。まさに孤絶したのである。  
二人はたった今より、人間から、世間から、そして運命から絶離し、永遠の闇を彷徨う孤児となった。  
突如、戯れ歌を聞いた。  
すわ、幻聴か。それとも我ら姉弟を狙う刺客の奏でる歌か。単葉は足を止め、身構えた。  
しかしそうではなかった。  
調べは、背中の姉の口から紡がれていた。  
いつかの日に、蛭吉に歌って聞かせたあの歌である。  
この歌を、双葉は葉隠れの里にいた頃からよく口にした。  
一体何処で覚えた歌なのか。あるいは自身で創作したものなのか、単葉は知らない。  
虐められて泣きじゃくる弟を抱いて、彼女は透き通るような声でこの調べを紡いだ。  
この戯れ歌を知らぬ人間は葉隠れにはいない。  
里全体に染み渡る程に、彼女はこの哀しい歌を愛した。  
 
 
 
 
群れからはぐれた蟻の子や  
お前は何処に辿り着く  
 
―ああ、俺達は一体何処に辿り着く。  
 
単葉もまた、歌を口ずさむ。  
 
 
群れからはぐれた蟻の子や  
あたしも一緒に連れとくれ  
 
―許してくれ。俺にはもうお前を何処にも連れて行ってやることが出来ない。  
 
 
 
あの頃の姉は男勝りのお転婆であった。  
気が弱く、引っ込み思案の弟を、文字通り引きずりまわすようにして遊び暮れた。  
その癖、遊び疲れるとすぐに眠ってしまうのである。  
草原でも、森の中でも、河原でも、どこでもお構いなかった。  
安らかな寝息を立てている姉を起こさぬようそっとその背に負い、家路に着くのが  
単葉の役目であった。  
あの日の温もりを、今その背に感じている。  
―大丈夫だ。  
単葉が呟いた。  
―お前がどんな姿になっても、心を無くしても、俺はお前と共にある。  
二人で一人。口には出さないが、互いにいつもそう思っていた。  
―だから何の心配も要らない。大丈夫だ。俺達はこれからも上手くやっていける。  
 双葉…俺の大事な可愛い姉ちゃん…だから安心してくれ。大丈夫…大丈夫だ…。  
単葉の頬はいつの間にか濡れていた。何と彼は泣いている。  
涙に架けられた封印を、姉の紡ぐ戯れ歌が解き放っていた。  
―所帯を持とう。  
消え入りそうな声で、そう呟いた  
―俺はお前の亭主になる。夫婦になって、死ぬまで静かに暮らそう。  
甘く密やかな双葉との約束。彼は忘れてはいない。  
―戻れるさ…俺たちなら。きっと戻れる…。だから大丈夫だ…。  
姉を背負って、弟は歩く。何処までも、何処までも。  
野を越え山を越え、あの丘の遥か彼方に浮かぶ、しろがねの月をさらに越えて。  
二度とは戻れぬ、あの夢のような日々に辿り着くその時まで。  
 

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