胸騒ぎがする。  
重蔵が帰らないのだ。日が沈んでから、もう大分経っている。  
彼がこんなに遅くまで凛の元に帰らなかったことは、かつて無かった。  
居ても立ってもいられず、凛は彼の所在を丁稚に尋ねてみた。  
鼻が猪のように天を向いて反り返った痘痕面のこの丁稚は、主人の正体を知らない。  
馬鹿正直にも、薬屋「黒屋」の主だと本気で信じている。  
ついでに言えば、彼は目の前の少女の正体も知らなかった。  
ただいつも重蔵と一緒にいる所を見ているので、主人の娘か養女なのであろうと推測していた。  
主人の情婦であるかもしれない、という可能性に辿り着くには、彼はまだ幼すぎた。  
凛に話しかけられた丁稚は、なぜかドギマギしながら  
「旦那様は、お月見に出かけられました。」と答えた。  
 
―お月見だって!  
丁稚の言葉に、凛の薄っぺらい胸は早鐘を打つように鳴り出した。  
確かに今夜は十五夜の満月である。月見をするにはもってこいの夜だ。  
しかし重蔵は月を愛でるなどという風雅の愉しみを、心の底から軽蔑するような男である。  
そんな男が月見などするはずが無い。  
―まさか…。  
思い当たる節が一つだけある。  
凛の頭の中で、いつかの重蔵の言葉が反芻された。  
―くの一が、俺の頸を狙っているらしい。  
確かに彼はそう言った。  
「どこで!?重蔵さんは何処に行ったの!?」  
無意識のうちに丁稚に詰め寄っていた。  
丁稚の鼻に、彼女の息がかかった。  
彼は顔を赤らめて、俯いたまま口をもごもごさせている。  
「何!?聞こえないよ!もっとはっきり言って!」  
「わ、私にはわかりません!旦那様はただお月見に行くと…。」  
凛に圧倒された丁稚がそれだけ言うと、彼女の姿は丁稚の前から掻き消えていた。  
 
夜の潮騒は骨身に堪える。  
今夜のような冷たい満月の晩はなおさらだ。  
砂浜には二つの影。  
それを群れからはぐれた一輪の野菊が、息を殺して見守っている。  
これから始まるのは死闘である。  
どちらかが死すまで、あるいは共に倒れるまで終わることのない修羅の宴だ。  
彩女はあの世や極楽といったような都合のいいものは信じない。  
死は全てを飲み込み、永遠に消し去ってしまう。そう信じている。  
だがそれが何とも小気味いい。  
大名も侍も地下人も乞食も男も女も、そして忍びも全て消え去る。  
それを思う時、彩女の胸は悦びに打ち震えるのだ。  
 
生死の間を漂う彩女には、生への執着も無かったし、死への恐怖も無かった。  
だから明日果ててもよいし、永遠に生き永らえていてもよいのである。  
彼女は生き人でも死に人でもない。  
此岸と彼岸に同時に存在する、人外の化生であった。  
 
重蔵が傘の柄に仕込んだ得物を引き抜いた。  
刀身は短く二尺ほど、反りも無いに等しい。  
忍びが使う独特の刀である。  
彩女は咄嗟に「架け橋」と「墓無し」を手に身構えるが、重蔵には構えなどない。  
ただ人を斬る―。それが彼の兵法であった。  
 
彩女が跳ねた。  
流れるような斬撃を休むことなく重蔵に浴びせていく。  
しかし重蔵は黒塗りの傘でそれをことごとく阻み、あるいははじき返していく。  
ただの傘ではない。どうやら鉄が仕込んであるようであった。  
だとするならば、それを軽々と振り回す彼の膂力は計り知れないものがある。  
彩女の隙を突いて、重蔵の仕込み刀が彼女を袈裟に一閃した。  
彩女は驚異的な反射神経で何とかそれをかわしたものの、凄まじい剣圧に正直彼女は圧倒された。  
重蔵の剣は彩女が着込んでいた帷子を切り裂き、彼女の左肩から胸にかけて赤い直線を描き出していた。  
彼女の左の乳房がまろび出て、月明かりに照らし出される。  
だが彼女はそんな事は気にもしない。むしろそれが重蔵の視線を逸らす手助けになってくれれば、怪我の功名である。  
しかし重蔵にその気配はない。彼は一個の羅刹である。羅刹が女の乳房などに感心を持つであろうか。  
彩女もすぐにそのことに気が付いた。相手が羅刹ならばこちらは修羅になるしかない。  
彼女は冷静に己の負った傷の度合いを計っていた。  
致命傷ではないが、胸に走る違和感により今後の戦いに支障が出るのは明らかである。  
出血も決して少なくはない。  
早めに決着をつけなければ、負ける。そう踏んでいた。  
 
再び彩女が飛んだ。  
四方八方から火のような斬激を叩き込むが、重蔵の仕込み刀に、あるいは鉄傘に阻まれ  
髪の毛一筋の傷すら付ける事は出来ない。  
しかも重蔵は畳半畳ほどの空間から殆ど動いていない。  
盛んに動き回り、飛び回っているのは彩女のみである。  
―まずい…!  
表情に表す事は無いが、彩女は重蔵の底知れぬ実力と、己の体力の低下に焦りを感じ始めていた。  
―この男は狩人だ…!  
幾度と無く刃を合わせるうちに、彩女はこの男の本質を正確に見抜いていた。  
真の狩人は狙った獲物を必ず仕留める。その確信が持てるまでは自分からは決して動かない。  
動いた時には既に獲物の命は彼の手の内にある。  
傍から見れば、手数に勝る彩女が優勢に戦っているように見えるであろう。  
だがそれは大変な間違いだ。  
追い詰められているのは寧ろ彩女のほうなのである。  
彩女が叩き込む斬激を、この男は冷静に観ている。そして分析している。  
何時如何なる時反撃に移れば、この獲物を確実に仕留める事が出来るか、  
本能のうちに計算しているのである。  
 
かつてこんなに分厚い「壁」を持った敵と対峙したことは無かった。  
いや、彩女にとってそれは「壁」などという生易しい物ではない。  
重厚な石垣であり、幾重にも掘られた水堀にも等しい。  
 
彩女の顔色が変わる。  
呼吸も乱れている。額には汗の玉が月明かりに照らされて輝いている。  
そんな獲物の変化に狩人が気付かない筈が無い。  
 
―うっ…!  
彩女が一歩踏み込もうとしたその時である。  
額の汗の雫が、左の眼球を掠めた。  
 
瞬間、彩女の全身を黒い殺意が突き抜けていった。  
 
 
 
 
              
           ―死んだ。  
 
 
 
 
重蔵の必殺の突きが彩女の喉笛を捉えた。  
…少なくとも重蔵にはそう見えた。  
しかし実際には彼の刃は彩女の喉の中心から僅かに三寸ばかり右に空を切り、  
彼女の肩越しに突き抜けていた。  
目のせいである。隻眼の重蔵は目の焦点を合わせることが得意ではない。  
完全無欠に見える彼の唯一の弱点であった。  
必殺の一撃を外したとわかったとき、彼の心の内に如何なる思いが去来したかは定かではない。  
刹那、殆ど条件反射といっていい彩女の一閃が、彼の喉笛を正確に寸断した。  
獲物であると同時に、彩女もまた狩人であった。捉えた獲物は、やはり確実に仕留める。  
 
重蔵の隻眼に映る光景は、忽ちの内に黒く塗り潰された。  
彼は吹き出る血に押し倒されるように仰向けに倒れた。  
左目をかっと見開いたまま、ぴくりとも動かない。吹き上がる血であたり一面血の海である。  
その赤い海の真ん中で、重蔵は大の字のままただ虚空を見据えていた。  
 
黒屋重蔵、黒塗りの重蔵は、虚無へと消えた。  
 
少女が重蔵にすがり付いて泣いている。  
身体に付着する血も、全く気にする様子はない。  
―重蔵さん!重蔵さん!  
重蔵の血で紅に染め上げられた少女は、ただ只管に重蔵の名を呼んだ。  
彼の身体はまだ温かい。このまま名を呼び続ければ、きっと目を覚ましてくれる。  
少女はそう信じていた。  
だが、重蔵は動かない。目を覚ますことも無い。  
潮風に晒されて、徐々に冷えていく彼の身体を温めるかのように少女は重蔵の身体を抱きしめた。  
抱きしめて、あとはもうただただ泣いた。いや、鳴いたと言った方がいいかも知れない。  
まさに慟哭であった。  
―何だこれは…。  
彩女は目の前に広がる奇怪な光景を、呆然と見つめていた。  
この少女の事は知っている。  
確か、凛とか言う名のはずだ。  
重蔵に里を焼かれたあげく、彼に飼育までされていると聞いている。  
彼女にとっては、重蔵など殺しても殺し足りないほどの憎き存在のはずである。  
その凛が、目の前に倒れてまま動かない重蔵を抱きしめて泣いている。  
―.一体何なんだ…。  
己の内に何度問いかけても、彩女には目の前の光景を理解する答えを持ち合わせていない。  
まさに「奇怪」としか言いようが無かった。  
 
彩女は獣の殺気を感じた。  
重蔵は既に死んでいる。だとすると、その殺気の主は凛しかいない。  
「よくも…殺したな…。」  
明らかな殺意と共に、言葉が放たれた。  
「よくも…よくも…重蔵さんを…よくも…。」  
怒りの余り、言葉が後から続かない。  
ただ、自分に向けられた激しい憤怒と殺意が、彩女にははっきりと感じられた。  
―何なんだこの娘は…まさか…あたしを殺すつもりなのか…?  
彩女は驚愕し、混乱した。憎き相手であるはずの重蔵を仕留めた自分が、なぜ殺されなければならない。  
全く理解不能の事態である。  
唯一理解できるのは、凛が自分に激しい殺意を抱き、今にも飛び掛ろうとしていることだけである。  
「この人は…わたしの亭主なんだ…よくも…よくも…。」  
「何だって!?」  
彩女の口から、思わず言葉が飛び出した。  
凛と重蔵が夫婦だなどとは聞いていない。それに、歳が離れすぎている。  
何かの戯れか、そう思った彩女に、凛は更なる言葉を吐き出していく。  
「この人の子供を産むって約束した…それなのに…よくも…。」  
直後、凛が吼えた。がばりと立ち上がり、彩女を睨みすえ、獣のごときうなり声を上げている。  
その手には血の海から引き上げた、重蔵の仕込刀が握り締められていた。  
「ちょっと待ちな!一体どういうことだい!?なんであたしとあんたがやりあわなくちゃ  
 ならないんだい!?」  
彩女の静止の言葉も、最早凛の耳には届かない。  
獣が跳躍した。  
 
夜の潮騒は骨身にこたえる。  
咽返る様な血生臭さに耐えかねたのか、十五夜の月も何処かに消えた。  
砂浜には人影一つと野菊一輪。  
微動だにせず、波の奏でる哀切な音色に身を委ねている。  
吹き寄せる潮風が充満する殺戮の匂いをさらい、引いては返す漣が流れた血を洗い流していく。  
 
 
ふと、戯れ歌を聞いたような気がした。  
何時か聞いた哀切な調べ。  
一体何処で聞いたものであったか。  
今はもう手繰る記憶の在り処すら見当たらない。  
胸に浮かぶ幽かな懐かしささえ、潮風がさらい、千切れて消えた。  
 
 
 
 
         ―――後はもう、潮騒のざわめきだけ。  
 
 

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