「……
もっと…言って遣れれば良かった」
意識さへ彼方に飛んで行きさうな闇の静けさに男は呟ひた。
ドく、ドク、どクと、溢れて止まらぬ鉄錆び臭き液体に、尚更男は息を震わせ、一つ大きく溜息を。
「……
もっと…抱き締めれば良かった」
男は何処かを見詰めながら語尾の弱弱しひ言乃葉を発した。
思へば長く短ひ生涯だった。
物心付ひた時には既に血にまみれ、手を朱色に染めた。
善悪の区別つかぬに人の命を奪い去り、よくも生き長らへたものだ。
…死ぬ事は怖くなひ。
只、君を残して逝くのが余りに心残りだ。
互ひを刺し合って死にたひのでは無ひ。
残った君が此から如何やって生きて逝くのかが心配で堪らなひ。
せめて、早く、自分を忘れて、君成りに道を歩んで欲しひ。
だけれども、
今、自分には、
最期に君を力一杯抱き締める為の腕が無い。
息が苦しく成るほど抱き締めて、温もりを感じられなひ。
自分の最期の願ひは聞き取られなひだらう。
ずク、ズク、ズくと何処かが痛んだ。
壊れた涙腺から止めどなく温い水が溢れ、頬を伝う。
…嗚呼…。
彼女は縁側で、待ち人の帰りを待って居た。
今日はしっかり戸を開けるだらうか、其れとも裏から回って来るのだらうか。
案外、屋根から仏頂面で降り立つやも知れぬ。
久方振りに手料理の一つでも作って遣らう。
彼奴の好きな芋の煮物と糠漬けでも出して二人で飯でも喰おう。
…早く、帰って来い。
彼女は両の腕で自分を抱き締め、冷たひ地面を見詰めた。
ぽつ、ぽつぽつ、と、雨粒が空より降り落ちて来た。
其れは次々と数を増し、地面を濡らして行く。
ざぁああぁ…
雨足が強く成り、彼女の足を、彼女の腕を、水滴が伝う。
彼女は泣ひて居た。
居なければ成らなひ、居て当たり前の人間が居なひ。
其れだけで彼女の心は叫んだ。
喩へ戻って来なひと分かって居ても認めたくなひ者が此処に居る。
泣いても泣いても戻っては来なひ。
泣いても泣いても時は戻らなひ。
彼女はふと、水溜まりに映る自身を視た。
塗れ鼠に成った装束は重く、身体にぴたりと張り付き、首元を隠す彼の様な布は幾分か水を吸ひ込み、ぽた、ぽたぽた、と水滴を落として居る。
重さの所為か、首元が露わに成って居た。
熱の冷めた首元に微かに視ゆ、赤ひ紅ひ何時かの痕跡…
『泣くな、生きろ』
雨はもう晴れ、雨粒の一つも降って居なひ、だからとて水の中に入ってる訳でもなひ。
頬を伝うのは一体何なのだらう?
視る物全てがぼやけるのは何でだらう?
アンタが、アタイの側に居る様に感じるのは何でだらう?
「こんなモン、
遺すんじゃあ無いよ…
直ぐに消えて終うじゃあ無いか」
彼女は己の身体をきうと抱き締め、又、一粒、空をも知らぬ雨を流した。
【了】