―夫婦花、一輪。  
 
 
 
良く晴れた、秋の日の事である。  
 
北の果ての打ち棄てられた廃屋。  
ムシロを褥とした女が一人、横たわっていた。  
 
「…手間をかけて御免よ。」  
「…いや、良いのだ。」  
男が女の股座から這い出て来た。  
 
あの力丸であった。  
彼は別段、男女の営みを交わしていたわけではない。  
その手には、藁束が握られている。中には女の糞便が納められていた。  
 
言うまでも無い。  
女は男の連れ、彩女である。  
しかし一見して、彩女だとは気付かないであろう。  
 
彼女の顔面は醜く崩れ、破損した表皮組織の下からは筋肉が露出していた。  
一見して、腐敗した屍のようにも見える。  
おまけに碌な治療も施されていない為、  
傷口から細菌が入り込み、崩壊は更に深刻な状態となっていた。  
栄養状態の悪化も、それに拍車をかけている。  
 
しかもこの現象は顔面だけに見られるものではない。  
無残な肉の崩壊は全身の至る場所で進行していた。  
 
梅毒であった。  
     
糞便の処理から戻った力丸が、彩女の枕元に腰を下ろした。  
 
「…悪いね。」  
再度、彩女が礼を言う。  
「…いや。気にする事は無い。」  
 
暫しの沈黙の後、彩女が口を開く。  
この期に及んで二人が交わす会話の内容と言えば、  
互いの馴れ初めの事しかない。  
 
「…あたいさ。嬉しかったんだよ。あんたがあたいと遊んでくれて。   
 そうじゃなけりゃ、独りぼっちになっていた所だった。」  
天涯孤独の身の上、彼女は常に茫漠の淵に佇んでいた。  
「…ああ。」  
力丸は小さく頷いた。  
彩女と違い、彼には両親も兄弟も居る。  
正し、険悪の仲だ。  
両親は力丸を愛さず、元服を迎えた彼が忍びの道に入って以降、  
碌に顔も合わせていない。  
兄弟も同様だ。彼等の消息を力丸は知らない。  
 
彩女が先天的な孤独者だとしたら、力丸は後天的な孤独者であった。  
しかし、その二人が絶対的な孤独者で無かったのは、  
やはり常に互いが側らに存在していたからであろう。  
       
―すまぬ。  
 
力丸の口からは何度もその言葉が出掛かった。  
しかし、それは出来ない。  
それを言えば、彩女の肉体ばかりではなく、  
その魂までも崩壊させてしまう事になる。  
これ以上彼女を傷付ける事など、彼には出来なかったのだ。  
 
また、彩女の方もその言葉を望んでいない。  
彼女には、力丸に対する憎しみなど一遍も無かったのだ。  
我が身一つで力丸を養わんとした末にこのような無残に陥ったとしても、  
少しも彼を恨んではいなかった。  
謝罪の言葉を述べ、或いはそれを受け入れる必要が無い程に  
二人の過ごした時間は余りにも過ぎたのだ。  
 
その証拠に、この期に及んで彩女の思う事と言えば、  
 
―これから先、この人はあたい無しで  
 生きて行く事が出来るだろうか。  
 
力丸の身の上の懸念ばかりである。  
         
その彩女が一つ、本音を吐いた。  
「…あたい、こうなる前に一度所帯というものを持って見たかったよ。  
 いつかあんたにお願いしようかと思ってたけど、怖くて出来無かった。」  
その瞬間、力丸の魂は砕け散った。  
衝撃であった。  
いつかの壁際の懊悩が、彼の脳裏に浮かんでは消えた。  
力丸は彼女の言葉には返答せず、いや、返答を返す事が出来ず  
「…水を汲んで来る。」  
遁げる様に廃屋を後にした。  
 
表に出ると、一面の曼珠沙華で大地が赤く染められていた。  
秋も色濃さを増している。  
何処までも澄み渡った透明の空は、  
彩女の肉体の変化を知っているのであろうか。  
 
この廃屋の側には、一衣帯水が存在した。  
これが二人の命を繋ぎ止める唯一の流れである。  
その水辺までふらふらと脚を進めた力丸は、そこでがくりと跪いた。  
 
 
       
―俺達は脆弱に過ぎた。  
 
力丸だけではなかった。  
彩女もまた、水際を飛び交う蜉蝣のように儚く脆い存在であった。  
 
―…あの時…少々の胆力を振り絞っていたとしたら。  
  今の俺達は無かったかもしれない。  
  彩女もあのような病を患う事など無かったかもしれない。  
  そうだ、そうであったのならば、今頃はきっと俺達二人は何処かで…。  
 
しかし、それも今は昔の話に過ぎない。  
失われた時は還っては来ない。失われた魂は戻っては来ない。  
 
―俺達は、余りにも失い過ぎた…。  
 
せせらぎに竹水筒を浸しながら、力丸は密かに嗚咽を漏らした。  
最早、何もかも遅過ぎた。失ったものが、余りにも大き過ぎた。  
 
―だが。  
 
清流に満たされた水筒の栓を締めた力丸は、  
今度はせせらぎの中にざぶりと我が顔面を突き入れた。  
流れる落ちる涙を洗い流したのである。  
と同時に、決意の意味も込められていた。  
 
―それでも、喪失の残骸を拾い集める事は出来よう。  
 例え、元の形には戻らずとも。  
    
廃屋に戻った力丸は、彩女の枕元に静かに腰を下ろした。  
「俺と、所帯を持とう。」  
いつかの日。伝える事の出来なかった秘想である。  
 
「え?」と彩女の眼球が力丸の姿を捉えた。  
彼女の顔面は、最早我が意思で自由に動かす事が出来ない。  
その為、両の眼(まなこ)のみが彼女の驚愕を伝達する役目を果たしていた。  
「俺の女房になってくれ。」  
「…な、何を言ってるんだい…?」  
彩女が驚くのも無理は無かろう。最早彼女は満足に動く事すら叶わない。  
顔面は勿論その全身が爛れ、腐敗の始まった屍の様相を呈している。  
 
「…馬鹿だね。」  
その為、当初は力丸が自身をからかっているのだと思った。  
しかし、それならそれで良い。  
これが力丸の悪意から出た言葉では無いと、彼女には良くわかっていた。  
 
「いや、俺は本気だ。俺と所帯を持ってくれ。」  
「…はは。馬鹿だね。」  
「契りの酒もある。」  
そう言って彼が掲げたのは、先程清流を積めた竹水筒であった。  
「中身は水だがな。水杯というものも悪くはあるまい。」  
 
―この男は、本気か?  
 
長い付き合いの為であろうか。  
力丸が決して戯言を言っているのでは無いという事に、  
彩女は薄々感づき始めている。  
 
「…あたいをご覧。誰かの女房になれる様な女じゃないよ。」  
確かに、好き好んで屍のような女を我が伴侶とする男は居ないであろう。  
それに彼女は、近い内の自身の命運の行く末を予感していた。  
「…ああ。世人の女房にはな。だが、俺の女房にならなれる。」  
「…本気かい?」  
「…ああ。本気だ。」  
 
喪失の残骸は目の前にあった。  
元の形に戻らずとも一つ一つ丁寧に拾い集め、  
幾ばくかでも良い、過日の姿の一端にでも近づければ。  
 
「…俺は本気だ。お前を嬲っているわけでは無い。」  
「…あたいにお情けを掛けてくれるのかい?」  
「…違う。情けではい。」  
 
そう言って幽かに微笑んだ力丸は、彼女の頬の無事な部分を優しく撫でた。  
「俺も前から一度、所帯と言うものを持って見たかったのだ。」  
「…本気にして良いのかい?」  
「…俺は本気だ。」  
 
彩女は暫し沈黙した後、  
「…そうかい。何だか嬉しいや。」  
含羞の眼差しを力丸に向けた。  
「俺の女房になってくれるか。」  
「…ああ。わかった。あんたの女房になる。」  
そうは言っても、彩女は力丸の言葉を心底から信じているわけではない。  
この幼馴染の男は優しい人間であった。  
今わの際に、自身に対し情けを掛けてくれているのだと内心思っていた。  
 
―しかし、それならそれで良いではないか。  
 
力丸の優しさに答えるには、例え一時の戯れであっても  
彼の申し出を受諾する事が自身の役目だと悟っていた。  
 
「では、夫婦(めおと)の杯を交わそう。」  
力丸は水筒の栓を開け、まず自らが口を付け一口飲んだ。  
そして、「今度はお前だ。」  
水筒の飲み口を、彩女の口許に近づけた。  
彼女の口唇は既に失われ、歯肉が露出している。  
その爛れた口腔内に、静かに水杯を流し入れてやった。  
 
「…有難う。」  
彩女が微笑んだように見えた。いや、微笑んだのだろう。  
崩壊した顔面からは僅かな表情の変化すら読み取る事が出来無いが、  
彼女は確かに微笑んだのだ。  
 
その瞬間力丸は救われた。  
自責と呪詛から解放され、悔恨の日々は過去のものとなった。  
救われたのは力丸だけではない。彩女も同様である。  
彼女は今わの際にして我が伴侶と巡り合い、生来の孤独から解き放たれた。  
 
そう、二人はたった一口の水杯を交わしただけで、  
神を介さずに祝福され、仏を語らずに救済されたのである。  
 
 
 
「何か、欲しい物は無いか。」  
そう言って力丸がはにかんだ。  
「契りの祝いだ。」  
しかし彼は一文の銭も所持していない。  
唯一の金物であった二尺二寸も、既に彩女の治療費に替えられている。  
しかし残念ながら、彼女が犯されている病の特効薬の開発には、  
遠く三百年以上待たなければならない。  
 
「何でも言ってくれ。遠慮はするな。」  
勿論、彩女は連れの男の甲斐性無しを知っている。  
「…そうだね。」  
小さく呟いた彼女は、  
「…子捨て花が欲しい。」  
ささやかな所望であった。  
子捨て花と言うのは、曼珠沙華の別称である。  
彼女は昔からこの花の事をこう呼んでいた。  
 
「…ああ。わかった。今、取って来てやる。」  
曼珠沙華ならば、掃いて棄てるほど咲き乱れていた。  
力丸は早速表に出、乱立する花々の中から一番上等なものを手に採った。  
そして廃屋に立ち戻り、彩女の胸元に置いてやると、  
「今からこれは子捨て花で無く、夫婦花だ。」  
下手な戯言を一つ述べ、照れ臭そうに微笑んだ。  
「…ああ、そう呼ぶ事にするよ。」  
彩女も同意した。  
 
そしてこの花が、今より二人の契りの証となった。  
 
 
「…あたいが死んだらさ、  
 あんたはもっとちゃんとした女房を見つけるんだよ。」  
 
―この戯事も、もうじき終わる。  
 
死者は生者の永遠の他人である。両者が交わる事は決して無い。  
彩女の言葉は、その日の為のものであった。  
 
しかし一方の力丸はどうであろうか。  
「…ははは、馬鹿な事を言うな。俺の女房ならもうここに居るだろう。」  
「…その後の事だよ。あんたはもっと…、」  
「俺の女房ならここに居る。」  
「…ああ、嬉しいよ。でもね…、」  
「俺の女房ならここに居る。」  
「…でも…、」  
「俺の女房ならここに居る。」  
 
力丸は、彩女以外の女を知らない。  
これから先も、知る事は無い。  
生涯最初で最後、唯一無二の女が彩女であり、それ以外に女は無かった。  
 
―俺の女房ならここに居る。  
 そうとも。お前の他に一体誰が俺の女房だと言うのだ。  
 
「…あんた…。」  
彩女が嗚咽を漏らした。  
肉が露出した眼孔から、果て無く涙が流れ落ちていた。  
「…有難う…。」  
「礼には及ばぬ。夫婦であろう。」  
「…ああ。あたい達は夫婦だ…。」  
「そうだ。俺達は所帯を持ったのだ。」  
 
このささやかな契りの日。空は何処までも澄み続けていた。  
 
 
 
それから十日間、二人は夫婦で在り続けた。  
そして契りの夫婦花が色を失った頃、亭主はたった一人、残された。  
しかしその亭主である力丸が、そのまま男寡婦(おとこやもめ)となったわけではない。  
彼は廃屋の片隅に立て掛けられていた火串を手に取った。  
中々重厚な造りである。  
鉄棒全体に錆が浮き出ているものの、先端は棒手裏剣のように鋭利であった。  
 
―今一度、夫婦花を咲かせよう。  
 
枯れ果てた契りの花を、その火串に巻き付けた。  
 
力丸は彩女の他人等ではなかった。  
彼は彼女の亭主であり、それ故何処までも夫婦で在り続けようとした。  
 
―俺の女房は、生涯ただ一人(いちにん)、彩女だけである。  
 
夫婦花が一輪、鮮やかに咲いた。  
これを持って、二人の契りは永遠のものとなった。  
 
 
 
 
良く晴れた、秋の日の事である。  
 
 
                    〜終わり〜  
    
 
 

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