―壁際の地獄―  
 
 
 
 
 
 
 
木賃宿の、粗末な部屋である。  
既に日も高い。  
辰の下刻(午前九時頃)を過ぎた頃であろうか。  
黴臭い寝床から、一人の男が這い出て来た。  
名を力丸という。  
髪にはフケが浮き、無精髭を生やしていた。  
着たきりの夜着を着崩ずしながら胡坐をかいた姿は、  
お世辞にも立派な男子の様とは言えない。  
どちらかと言うと、与太者か乞食の体(てい)だ。  
 
当時の起床時間は、現代のそれよりも遥かに早い。  
日が昇ると同時に目覚め、  
朝食を摂る前に労働に向うのが普通である。  
この刻限まで床に着いているのは、怪我人か病人ぐらいのものだ。  
 
しかし、彼の肉体には些かの損傷も病巣も見当たらない。  
何日も体を洗っていない事を除けば、至って健康そのものである。  
つまり彼は惰眠を貪っているという事になる。  
当時に生きた人間であれば、そう言って男を非難するであろう。  
 
その彼が起床して来た理由は、もうじき連れが帰参する刻限である為だ。  
連れが帰れば、この褥をその者へと明け渡さなければならない。  
 
 
「今帰ったよ。」  
暫しの後に、連れが帰って来た。  
男ではない。彩女という名の小柄な女だ。  
濃紫色の地味な旅小袖を身に纏っている。  
勝気そうな美貌面には、若干の疲労の色が伺えた。  
 
「今日はこれだけ稼げたよ。」  
開口一番、彩女は袂から巾着袋を出した。  
この袋の中には、昨夜の彼女の稼ぎが納められている。  
 
口紐を解いてその中身を床板の上に開けると、  
数十枚の一文銭がジャラジャラと言う乾いた音を立てて散らばった。  
 
この男女は、夫婦ではない。恋人同士でもない。  
兄弟でもないし、友人と言うわけでもなかった。  
元は、乱破稼業をしていた男女である。幼馴染であり、同僚であったそうだ。  
詳細は明らかではないが、故郷を放逐、或いは逐電したとかで、  
今はこのように二人して、乞食さながら諸国を浪々としている。  
 
「いや、参ったよ。昨夜の客は三人なんだけどさ。  
 二人目の男は銭払いが良かったけど、一人目と三人目が吝嗇(けち)でね、  
 女だと思って甘く見て、しつこく値切ろうとして来やがってさ、  
 はは、頭に来たからちょっとばかり脅かしてやったら、余計に銭を置いて遁げてった。」  
 
彩女はケラケラと笑った。  
この女の腕前は、並の男のそれよりも上である。  
その彼女に睨まれたのでは、客の男も不運であった。  
       
しかし力丸は彼女の話しに耳を傾ける事無く、  
「…ああ、ご苦労だったな。」  
たったの一言労いの言葉を掛けたきりで、  
後は床に散らばった一文銭を掻き集め、その枚数を数え始めている。  
 
「幾らある?」  
「…まだ数えている途中だ。」  
「じゃあ数え終わったらさ、  
 その銭は何時も通りあんたが持っていておくれ。」  
「…ああ。」  
 
銭の枚数を勘定する力丸の表情は、幽霊そのものであった。  
いや、人間の抜け殻であると言った方が良いかも知れない。  
「昨日より多いかい?」  
「…いや、少ない。」  
一文銭の枚数は、九十八枚であった。  
昨夜は百十枚。四人の男を相手にした。  
 
「おや、そうかい。悪いね。  
 今日はもっと頑張って稼いで来るから堪忍しておくれ。」  
 
その言葉に、力丸は眩暈を覚えた。  
この場に短刀が在ったのなら、  
即座に白刃を我が腹に突き立てていたかもしれない。  
 
しかし、それが出来ない。  
金物は護身用の打刀一振りを残して全て路銀に替えられていた。  
最後に残されたその二尺二寸も、  
碌に手入れすらしない為、すっかり錆が浮き醜い姿を晒している。  
          
―彩女。俺と所帯を持ってくれないか。俺の女房になってくれ。  
 俺は百姓でも何でもする。何でもして、お前を食わせてやる。  
 だから俺と一緒に暮らそう。  
 
その言葉を何度口にしようとしたか、力丸にはわからない。  
しかし、今に至るまで、終にそれが出来なかった。  
 
力丸と違い、綾女は別段この男を愛しているわけではない。  
彼はそれを良く知っている。  
仮に今、彩女が息を引き取ったとしたら、  
力丸は遅疑無く舌を噛み千切り、彼女に殉じるであろう。  
しかしそれとは逆に、この場で力丸が絶したとしても、  
彩女はやはり昨夜と同じように行き擦りの男に体を開き、日々の糧を得ているに違いない。  
 
だから、言えなかった。  
彼の魂は、碓氷(うすらい)よりも繊細で、破損し易かった。  
万が一、彼女に拒絶された場合の事が、何よりも恐ろしかったのである。  
 
しかしこの臆病者が、これまでたったの一文の銭も稼がなかったと言うわけでは、決して無い。  
つい三ヶ月前程前までは、行く先々で日雇いの土担ぎ(土木作業)等の肉体労働に従事して、  
幾ばくかの収入を得ていた。  
しかし、日雇いの人足ではその稼ぎもタカが知れている。  
 
汗と土に塗れて帰参する力丸を見て、彩女は半ば呆れたように  
そして半ば愉快げに、  
「あんた、土担ぎはもうおやめ。明日からあたいが稼いで来てやる。  
 あたいの方があんたよりもずっと稼げるから。」  
彼女が女を売り始めたのは、その翌日からである。  
 
成る程、彩女の言う通りであった。  
土担ぎではその労力と比較しても、得られる報酬は極めて吝(しぶ)いものだ。  
一方女売りの方は、労力以上の稼ぎが期待出来る。  
 
「こっちのほうが、割が良い。理に適っている。」と彼女は言うのだ。  
 
 
その時から、力丸は一切の労働を放棄した。  
 
「悪いけど、あたいはもう寝るよ。」  
言うや否や、綾女は小袖も脱がずにのそのそと褥の中に入った。  
昨夜一晩中、客の男を求めて彷徨い歩き、そして伽の相手をして来たのだ。  
眩暈がする程の眠気に襲われている。  
 
褥の中は幽かに暖かい。力丸の体温がまだ残っていた。  
その為であろうか。  
「あ、そうだ。」  
彩女ががばりと半身を起した。  
「あんた、あたいが眠っちまう前に、あたいを抱いておきな。」  
無論、彼女は連れの男から金銭を徴収するつもりは毛頭無い。  
これは全くの無償奉仕であり、  
これまでにもこうして度々彼の欲求を満たしてやっていた。  
 
―連れの力丸は幼馴染みであり、しかも男である。  
 そうである以上、女を必要とするであろう。  
 
「女郎を買われると、高く付く。あたいなら、タダだ。」  
これが彩女の理屈であった。  
 
しかし力丸は小さく頭(かぶり)を振って、その申し出を断わった。  
「…いや、いい。」  
「何でさ。別に汚くないよ。帰って来る前に水浴びしたから。」  
「…そう言う事ではない。いいと言ったら、いいのだ。」  
「…ははあ。」  
彩女が口許を歪めて笑った。  
「あんた、昨晩女郎を抱いて来たんだろう。」  
彼女は、自身が女を売って稼いだ銭を使い、  
この力丸が女買いをして来たのであろうと勘ぐっているのだ。  
しかし、そこに憤怒の素振りは無い。  
それ所か、彼女は半ば愉しげに苦笑しているではないか。  
 
「…仕方の無い人だねぇ。女を買うのは別に良いけど、  
 あんまり高い女は止めておくれよ。買うなら、あたいみたいな安い女にしておきな。  
 でないと、あたいの体が幾つあっても足りないからさ。」  
 
「違う!」  
力丸は声を一段張り上げて否定した。  
「そんな事はしておらぬ!」  
彼は「する」と体の向きを変えたかと思うと、自身の荷物の中をごそごそとまさぐり、  
「これを見ろ!俺は一文たりとも手を付けてはおらぬ!」  
金銭の入った巾着袋を、彩女の眼前に投げ捨てた。  
この中には、彼女の稼ぎ出した銭が納められている。  
 
「この俺が女郎を買う筈が無かろう!  
 嘘だと思うなら、この中身を確認してみろ!」  
 
力丸は、彩女以外の女を知らない。  
これから先も、知る事は無い。  
生涯最初で最後、唯一無二の女が彩女であり、それ以外に女は無かった。  
 
「わ、わかったよ。疑って悪かったよ。」  
綾女は袋の中身を確認せずに、力丸に投げて返した。  
確認せずともわかる。  
巾着袋は昨日と寸分変わらぬ形状と重量を保っていた。  
 
―子供みたいな男だ。別に女買いを咎めているわけでは無いのに、  
 そんなに怒る事は無いだろうに。  
 
「じゃあさ。」  
力丸の子供染みた言動に半ば呆れながらも、彩女は聞いた。  
「何であたいを抱かないのさ。あんた、最近あたいを抱かないだろう。  
 もしかしてあたいに飽きたのかい?」  
「…いや。」  
力丸は俯いた。  
「…お前が…疲れているだろうからだ。」  
「ははは、何だ。そんな事かい。馬鹿だね。  
 確かにあたいは疲れてるけど、寝る前にあんた一人ぐらいなら何でもないよ。  
 ほら、あたいが眠っちまう前においで。あたいに遠慮なんてするんじゃないよ。」  
彩女は小袖の裾を腰まで捲り上げて男を誘った。  
彼女の白い両の足とその中心部分が、力丸の眼前に曝け出される。  
 
それに釣られるようにして、力丸は無意識の内に立ち上がっていた。  
殆ど条件反射のようなものである。  
「…あ、ああ。いや、やっぱりする。」  
呆気なく前言を翻したかと思うと、  
気が付いた時には彼女の股座に割って入り、盛んに腰を動かしていた。  
 
しかし、これは彩女を愛する為の行為ではない。  
只管自身の欲求を満たす為だけの運動に過ぎなかった。  
 
その為、連れの男の名を艶かしく連呼し、切なげに戦慄く彩女と違い、  
力丸は一言も彼女の名を呼ぼうとしない。  
それ所か、眼前にある筈の彼女の顔すら見ようとしなかった。  
眼を固く閉じ、口を強く結んだままという殺風景の中で、行為を進行させている。  
 
「あたいがきちんと朝夕二回、あんたにお飯(まんま)を食わせてやる。  
 あんたの欲しい物も、買ってやる。」  
下になった彩女が呻くようにして囁いた。  
「だからあんたは何もしてくれなくて良いよ。  
 時々こうしてあたいと遊んでくれるだけで良いから。」  
これは、彼女なりの皮肉を込めた言葉では無い。  
男の不甲斐無さを責める為のものでも無い。  
ただ言葉通りの意味であって、他意は無かった。  
 
天涯孤独の身の上である彩女は、連れの男との離別を何よりも恐れていた。  
その彼を何時までも、出来る事なら一生涯に渡って自身の手元に繋ぎ止めて置く為には  
こう言うしかなかった。  
力丸同様、彼女もまた儚く脆い魂を有している女であり、  
一個の脆弱な人間に過ぎなかったのである。  
 
しかし、上の力丸にはそのような彼女の心底や人間性を見通す力は無い。  
その為、下で呻く女が、遠まわしに自身を非難していると信じて疑わなかった。  
力丸は彼女の言葉を無視し、意識の内から消去する事だけに務め、  
その為にただ只管一心不乱に事を進め、一刻も早く終了させるべく動きを早めていく。  
 
暫くして事が済むと、力丸は即座に彩女の股座から腰を離した。  
彼女に優しい言葉を掛ける事も無ければ、その頬を撫でてやる事もしない。  
 
欲望を吐き出し終えれば、最早彩女に用は無かった。  
彼はそのままフラフラと木賃宿の片隅まで歩を進め、  
土壁に背中を預けたまま、どかりと腰を下ろした。     
 
「何だい。たったの一回きりかい。」  
彩女は明らかに不服の籠った言葉を漏らした。  
「あたいに遠慮なんて要らないって言ったろ?  
 ほら。あんたの気の済むまで好きにしておいき。」  
そう言って、再び彼の方向に中心部分を晒してみるものの、  
「…いや、もういい。」  
壁の力丸は力無く頭(かぶり)を振り、彼女の申し出を今度は完全に拒絶する。  
「…やっぱりあたいに飽きたんだろ?」  
「…違う。」  
「じゃあ、ほら。おいでったら。  
 …愚図愚図してたら本当に眠っちまうよ?」  
「…ああ、眠ってくれて構わない。」  
その一言を最後に、力丸は俯いたまま沈黙した。  
再度彩女が誘っても、彼が返事を返す事は無かった。  
 
―何だい。やっぱりあたいに飽きたんだ。  
 
彩女は抗議の意味を込めて鼻を鳴らした。  
先程、連れの女買いを勘ぐった際には怒りを露にしなかった彼女も、  
このつれない仕打ちには腹を立てたようだ。  
「じゃあ、いいよもう。ああ、つまらない。」  
不貞腐れたように一つ吐き捨てながら、  
中心部分の汚れも拭い取らぬまま、小袖の裾を正す。  
そして、  
 
―…仕方が無い。あたい達の仲は長いんだ。  
  そりゃあ飽きもするさ。  
 
確かにこの二人の付き合いは長い。  
供に十に満たない頃からの幼馴染みであり、  
十代の半ばから、顔を合わせる度に互いの肉体を求め合い、  
情を交し合って来た仲だ。  
彩女は力丸をあっさり赦す事にした。  
 
「やれやれ、じゃああたいはもう寝ようかねぇ。」  
頭から布団をすっぽり被った彼女は、  
「…じゃあさ、あんた。後三刻(六時間)もしたら、起しておくれよ。  
 今日は日も暮れない内から客を探してみる。  
 ここに来て五日も客を取っているから、大分銭も溜まっただろ。  
 今日一日稼いだらさ、二人でお祝いに何か美味しいものでも食べよ。  
 それからさ、あんたが前から欲しがっていた、煙管を買ってやるよ。  
 勿論煙草も一緒にね。」  
 
「…ああ。」消え入りそうな声で、壁の力丸が呟いた。  
既に彼は土壁と同化している。  
彼自身、このまま土壁に塗り込められ、風雨に晒されて朽ち果てた挙句、  
やがては塵と消えても良いと思っていた。  
 
その力丸に、今度は布団と同化した彩女が念を押してくる。  
「きっかり三刻だよ。わかったかい?」  
 
―彩女。俺の女房になってくれ。何処かに根を下ろし、そこで所帯を持とう。  
 俺は百姓でも、鍛冶屋でも、馬喰でも、何でもやる。  
 毎日休まず働いて、銭をたんと稼いだら、お前の欲しい物は何でも買ってやる。  
 流行りのべべでも、櫛でも、白粉でも、何でも買ってやる。  
 だから俺と所帯を持ってくれ。俺と一緒に暮らそう。  
 
胸に秘めた想いを今この場で口に出来ていたら、力丸は直ぐにでもこの地獄から  
抜け出す事が出来たであろう。  
 
しかしその想いとは裏腹に、彼の口を付いて出て来た言葉は、  
「…ああ、きっかり三刻だな。わかった。必ず起す。それから…。」  
「何だい?」  
「煙管の他にも、べべも買って良いか?俺のは大分擦り切れて、汚れているから…。  
 それから酒も呑みたい。」  
「ああ、いいよ。煙管の他に、べべと酒も買おう。あと他に欲しい物はあるかい?」  
「…いや、今は無い。思い付いたら、後で言う。」  
「ああ。そうしておくれ。じゃあ、あたいはもう寝るよ。」  
 
それきり、二人は沈黙した。  
彩女の方は早々に夢の世界に落ちたようだ。  
 
 
しかし壁の力丸は、  
 
 
―俺はどうすれば良い…。俺は…どうすれば良い…。  
 …俺はこの先どうすれば良いのだ…。  
 …誰か助けてくれ…。俺を助けてくれ…。  
 誰でもいい…誰か…俺を助けてくれ…。俺はもう駄目だ…。頼む…誰か俺を助けてくれ…。  
 …彩女…彩女…俺を助けてくれ…。俺にはお前しかいないのだ…。  
 だから俺を助けてくれ…彩女…彩女…彩女…。  
 
 
彼は未だ、地獄の中に居る―  
    
 
                       〜終わり〜  
 

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