最早これ以上見ていられなかった。  
憤怒と屈辱を噛み締めながら、彩女は小窓から顔を離した。  
 
―憎い男だ…!餓鬼の癖しやがって…!  
 
彩女が力丸を我が夫としたのは、  
彼の邪気の無い幼児性と純粋性に魅力を感じたからである。  
 
それと同時に、  
 
―あの男なら、如何様にも自分の思う通りに出来る。  
 
このような若干の邪心を抱いた事は事実であるが、  
しかしそれでも彼を愛していた。これは間違いない。  
 
力丸の持つ幼児性と純粋性は、彼が施された教育の副産物と言って良い。  
この男は殺人鬼として育成された。  
人を殺すありとあらゆる技術を叩き込まれ、人でありながら鬼の性を持つに至った。  
しかしそれだけである。それ以外の事は、何一つとして教授されていない。  
無論、これも教育者の意図によるものだ。  
彼はただ、上官の下知に只管従順であれば良く、  
それ以外の意思は必要とされなかったのである。  
 
故に彼は今まで何ら思考思索する事も無く、意思も持たず、  
今だ自我すら芽生えぬ幼児の様に生きて来た。  
その力丸に女を教え、炭焼きの方法を教え、人間の生活を教え、  
彼を人たらしめんと奮闘努力して来たのは、この彩女なのだ。  
 
―それなのに、あの男と来たら…!生意気に情婦を持ちたいだって…!?  
 全く憎い男だ…!本当に憎い男だ…!  
 
彼女の脳裏に、一瞬「離縁」という言葉が浮かんだ。  
しかしそれは即座に否定された。  
力丸はこの昨日今日見せた突然変異以外は、極めて理想的な夫なのである。  
浪費もしないし、女郎に入れ込んだ事も無い。  
女房に暴言を吐いた事も、手も挙げた事も全く皆無なのだ。  
妻に対しては子供のように従順忠実であるし、  
反逆もしなければ造反を企てた事も一度も無かった。  
 
問題や疑問があれば必ず彼女に相談し、独断専行する事が無い。  
その結果、全て妻の下知通りに振舞い、却下されれば諦める。  
正に「如何様にも、自分の思う通りに出来る。」忠臣と呼ぶに相応しい男であった。  
離反造反が日常茶飯事の戦国の世において、  
この力丸程、我が意に忠実な家来はこの世に存在しなかった筈なのである。  
 
―畜生…!畜生め…!  
 あたいがあの男を可愛がり過ぎたのが、いけなかったのだ…!  
 
確かに、彩女は力丸と所帯を持って以来、  
無垢であった夫を全身全霊を賭けて溺愛し続けて来た。  
 
―それがいけなかった。それがあの男を思い上がらせたのだ。  
 世の中の女が全てあたいの様な女だと、勘違いさせたのだ。  
 
「畜生…!」  
道行く人にも憚らず、彩女は一つ悪態を付いた。  
「何も知らなかったあの餓鬼に、   
 慶い事を教えてやったのはこのあたいじゃないか…!  
 それが何だって…!?情婦を持ちたい…!?   
 人を馬鹿にするのもいい加減におし…!」  
 
直ぐ傍の畑で耕作に従事していた農夫が、一体何事かと彩女を顧みる。   
 
「あたいはあの餓鬼の師匠も同然だ…!  
 弟子が師匠を蔑ろにするとは、何と生意気な餓鬼なのだ…!」  
 
彩女はその後も、二歳年長の夫の事を盛んに「餓鬼、餓鬼」と連呼し、  
農夫はおろか、周辺で遊んでいる少年達をも恐れさせた。  
 
「あの餓鬼め!餓鬼男め!」  
 
ここに来て、彩女は漸く我が夫の本性に気が付いた。  
いや、正確にはかねてより察知してはいたが、  
それを改めて口に出したのは、これが初めてである。  
力丸と言う男の人間性は、全て彼女の悪態の中に表現されていた。  
 
しかしだから言って、今更それを責めるというのも、酷と言うものだろう。  
そもそも彩女は、力丸のその「餓鬼」の部分に魅力を感じて所帯を持ったのだ。  
 
彼女がこれまでに知った有象無象の男達に共通した、虚しい見栄や矜持、  
つまらぬ陰謀術数や野望、馬鹿げた嫉妬や体裁…  
そういった悉くを嫌悪し、憎悪し、拒絶した結果、  
辿り着いた先がこの「餓鬼」だった訳である。  
 
「ええい!腹が立つ!あの糞餓鬼!生意気な皮被りめ!  
 あんたの尿(ゆばり)だって飲んでやったじゃないか!  
 あんたが可愛いからそうしてやったんだ!畜生!  
 それを一丁前に情婦だって!?百年早いよ!  
 皮被りの餓鬼の癖しやがって!」  
 
一頻り喚き散らした後、彩女の怒りの矛先は、  
力丸から先程のお滝へと移行して行った。  
 
「大体あの年増女は何だ!寡婦の瘤付きめ!  
 どうせあの女が力さんを誑かしたに決まっている!  
 そうでなけりゃあ、あの力さんがあたい以外の女に手を出す筈が無いんだ!  
 きっとあたいを追い出して、力さんの女房にでも収まろうって魂胆だろ!  
 ふざけるんじゃないよ!年増の癖に!」  
 
彩女の心底には、如何ともしがたい猜疑心と被害妄想の渦が  
嵐の如く逆巻いていた。  
最早罵詈雑言を喚き散らす事でしか、自己を保つ術が見付からない。  
そうでもしない限り、彩女は内側に沸き起こった憤怒と憎悪で  
破裂してしまうであろう。  
 
「餓鬼を孕んだら力さんの世話になるって…?  
 一体何処まで図々しいんだい!あの年増め!  
 全く手前の親の面が見てみたいってもんだ!  
 どうせ碌な親じゃあ無いんだろ!  
 手前そっくりの汚い淫乱売女に決まってら!  
 畜生!力さんの子を孕めるもんなら孕んでご覧!  
 あたいにだって考えがあるよ!あたいは元々乱破だ!  
 乱破者を怒らせるとどういう目に遭うか、思い知らせてやるからね!  
 年増め!年増女め!孕んでみろってんだ!  
 その時が手前の最期だよ!手前の弛んだ手足をぶった斬って、胎かっさばいてやる!   
 その胎ん中から手前の汚いやや子(胎児)引きずり出して、  
 山犬にでも食わせてやらぁ!」  
    
喚きに喚いて、漸く疲れた。  
ふと視線を感じた方角に目をやると、  
痩せた農夫が恐怖に引き攣った眼差しを向けて、  
彩女を凝視しているではないか。  
 
恐らくは彩女の事を物狂いの女か、狐憑きの女とでも勘違いしたのだろう。  
彩女と目が合うと、彼は慌てて視線を逸らし、  
脅えつつも逃げるように踵を帰して行った。  
 
確かに、今の彩女には女夜叉が乗り移っていたのかもしれない。  
怒りに我を忘れていたとは言え、罵詈の限りを尽くしながら道を行く我が姿は、  
正に人外の化け物の如きものであっただろう。  
道すがらの数々の言動を反芻した彩女は、一転、我が身を恥じた。  
 
それからの彩女は、無言のまま帰路に着いた。  
その瞳が幽かに潤んでいるように見えた。  
 
 
彩女が帰宅してから一刻半後、力丸も我が家に到着した。  
「彩!彩!」  
草鞋を脱ぐのも煩わしいとばかり、慶び勇んで今に上がった彼は、  
 
「彩!やはり俺の思った通りの女であったぞ!  
 交わいが滅法巧かった!俺は三回も気を遣ってしまったぞ!」  
「そんな話は聞きたくない。」とばかり彩女は膝を横にずらし、そっぽを向いた。  
しかし力丸は妻の不機嫌も構わず言葉を続ける。  
「お滝は心底淫らな女であった!お前よりも淫らな女だ!  
 あの女を情婦にして良かった!俺の眼に狂いは無かった!  
 俺はこれから、村に降りる度にあの女と交わう事にする!」  
彩女は口を真一文字に結んだまま、返事を返そうとしない。  
 
ただ一言「いいから、早くお飯をお上がり。」独り言のように吐き棄てると  
後は座する石造と化した。  
「ん?飯か。」  
力丸は眼前に我が分の膳が用意されている事に気が付いた。  
この様な屈辱的な状況に置かれても、彩女は妻の役割だけは忘れてはいない。  
しかしその夫は何とも無情であった。  
「いや、飯はいい。お滝の所で喰ってきたからな。  
 あの女は飯も美味い。」  
 
―この餓鬼男め…。  
 
立腹しながらも、彩女はこの不貞男を一喝する事が出来ないでいる。  
力丸の持つ無邪気な「餓鬼」の部分を、彼女はそれでも憎みきれなかった。  
 
―今まで、あたい以外の女には目もくれなかったから、  
 年がら年中、毎朝毎晩懇ろに可愛がってやっていたのに…。  
 これじゃあ、可愛がりようが無くなっちまうじゃないか…。  
 
彩女が用意していたのは、何も膳だけは無い。  
夫の着替えまでも、その隣に伏せて置いていた。  
するすると一張羅を脱ぎ捨てた力丸は、当然の如く着替えの小袖を手に取って、  
「お滝はな、娘のお律も俺の情婦にしても良いと言ったぞ。」  
「な、何だって!」  
一切の無視を決め込んでいた彩女ではあったが、  
流石にこの言葉には目を剥いた。  
「お、お律ってのは、あの女の娘じゃないのさ!  
 あの女がそう言ったのかい!?」  
「ああ、言った。」  
力丸は涼しい顔をしている。  
彼の肉体から、仄かに女の残り香が漂って来た。  
「交わい終わった後、俺が娘も情婦にしても良いかと聞いたのだ。  
 そうしたら良いと言ったぞ。」  
 
―何と言う女だ…!  
 
怒りよりもまず呆れと驚愕の念に、彩女は打ちのめされた。  
一体何処の世界に、我が身は元より我が娘までをも  
情婦にしようとする母親が居るであろうか。  
 
「今度村に降りた時、娘とも交わらせてくれるそうだ。  
 その日までに娘に言い含めておいてくれるらしい。  
 今から愉しみな事だ。」  
 
「馬鹿!」彩女が喚いた。  
「あの子はまだ子供じゃないか!  
 そんな小娘と交わおうなんて正気なのかい!?」  
「確かにまだ子供だが、別段交わえない年頃と言うわけではあるまい。  
 何処かの殿様も、十二の小娘と所帯を持ったぞ。」  
力丸は気にも留めて居ない。  
しかも更に途方も無い事を言い出した。  
 
「なあ、彩。俺はあのお滝に、俺の子を産ませる事に決めた。」  
 
―何だって!?  
 
思わず叫んで彩女は夫に詰め寄った。  
力丸はしかし、慌てもしなければ悪びれる様子も見せなかった。  
それ所か、さらに妻を激怒させる言葉を述べ始めたではないか。  
 
「お滝が俺の子を産めば、あの女は俺の所へ来る。  
 そうすれば、俺は毎日のようにあの女と交わう事が出来る。」  
しかし流石にそれでは妻に悪いと思ったのか、その後に更に言葉を続けた。  
「勿論お前の事も忘れてはいないぞ。  
 そうだ。ではお前とお滝、一晩ずつ交互に抱いてやる。  
 いや、朝、仕事に出る前にお前を抱いて、  
 夜、寝る前にお滝を抱くというのも良い。勿論その逆でも良いぞ。」  
 
彩女は最早怒りを通り越し、呆れも尽き果て、言葉すら失った。  
 
力丸は続ける。  
「いや、いやいや、お前とお滝の二人を一遍に抱く、というのも良いな。  
 俺は一度、そうして見たかったのだ。うむ。それはいい。  
 どうだ。なかなか良い考えだろう。  
 うむ。一人ずつより、二人一遍の方が良い。そのほうが面白そうだ。  
 …それにな、」  
 
漸く着替えを終えた力丸は、その場にどすりと胡坐をかいた。  
 
「考えてみろ。あの女が俺の所に来れば、良い事だらけだ。  
 俺だけでは無いぞ。お前にも良い。」  
「あたいに…何でさ…。」  
彩女は疲れたように一つ溜息をついた。  
 
「あの女が俺の所に来れば、賄いも、掃除も洗濯も、  
 全ての仕事が半分になるだろう。お前は大分楽が出来るぞ。  
 半日寝てたって良いかも知れない。  
 それにあの女は、俺の所に来ても機織の仕事を続けたいと言っている。  
 そうすれば余分に扶持が入る。   
 お前にも良いべべや、良い櫛を買ってやれるだろう。」  
 
力丸は更にぽん、と膝を打ち、  
「いや、娘のお律の事も忘れていた。俺はあいつにも子を産ませようと思う。  
 母親のお滝と、その娘のお律にも子を産ませるのだ。  
 一体どちらが早く俺の子を孕むか。お前はどちらだと思う?」  
 
彩女は答えない。  
ただ一言「馬鹿っ!」と一喝すると、襖一枚を隔てて隣接している  
寝室へと飛び込み、ぴしゃりと襖を閉めてしまった。  
しかしそれでもまだ、力丸の言葉は留まる所を知らない。  
いや、これは最早言葉と言うより、挑発と言った方が良いだろう。  
 
「明日もう一度行って、今度はお律と交わって来ようと思う。  
 母親よりも一日遅れだが、そう大差はあるまい。  
 それからは村に降りる度に、母娘二人一遍に交わうのだ。  
 一体どちらが早く俺の子を孕むかな?二人同時だったら面白い。  
 考えてみろ。母娘が一遍に俺の子を産むのだ。  
 交わってから子が産まれるまで十月十日と言うが、  
 全く同じ日に、同じ時刻に子が産まれでもしたら、ますますもって面白い。  
 なあ、そうは思わんか?」   
 
隣室からの返事は無かった。  
力丸は知らなかったのだが、この時彩女は頭から布団を被って  
耳を塞いでいたのだ。  
それを良い事に、力丸は止めの言葉を吐いた。  
 
「そうだそうだ。あの母娘を同時に孕ませてやろう。  
 そして同時に子を産ませるのだ。これは面白い。  
 考えてみろ。母親とその娘が同時に孕んで  
 子を産むと言う話は世間でも聞かないであろう。  
 少なくとも、俺は聞いたことが無い。だからそうなったら面白い。  
 俺がそれをやってやる。そうだ。きっとやってやるぞ。」  
 
 
                              〜終わり〜  
 

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