情婦(イロ)  
 
 
 
 
力丸は大抵毎晩、半刻ほど時間を掛けて妻の彩女を抱き、  
その後、四半刻ばかりの寝物語をして眠りに付く事を日課としていた。  
 
その寝物語の席の事である。  
事を終えた力丸は、今だ興奮冷めやらぬ様子の彩女の乳房を片手で弄びながら、  
何やら面妖な事柄について切り出した。  
 
「なあ、彩。情婦(イロ)を持っても良いか。」  
「え?」と彩女は目を丸くした。  
我が亭主の言葉を意味を、直ぐには理解出来なかった。  
「どういうことだい?」  
「情婦だ。」  
乳房を弄ぶ力丸の手に若干の力が籠った。  
「お前の他に、情婦を持ちたい。」  
つまり、彼は愛人を持ちたいと言うのである。  
 
「何を言っているんだい?  
 力さん。あたいをからかっているのかい?」  
「からかってはいない。俺は本気だ。」  
「なあ、彩。」と力丸は途端に甘えた声を出し、  
「良いだろう?情婦を持っても。」  
 
彩女は呆れた。一体何処世界に我が妻に向かって、  
しかも寝物語の席で、この様な馬鹿げた願望を口に出す亭主が居ると言うのだろうか。  
「…力さんは、あたいの事が嫌いになったのかい?」  
「俺がお前を嫌いになるわけが無い。」  
「…じゃあ飽きたんだろう。」  
「俺がお前に飽きるわけが無い。」  
「…じゃあ、なんで情婦なんか持ちたいなんて言うのさ。」  
 
「うむ。」と力丸は暫し黙考する仕草を見せた。  
その最中にも、妻の手を取って自身の陰嚢へと導き、愛撫を要求する。  
仕方無しに、彩女は彼の要望に答えてやった。  
「実はなぁ…村に出ている最中…。」  
力丸はその訳を語り出した。  
「俺がいつも通る道の脇に建っている家に、  
 一人交わいたい女が居るからだ。」  
力丸の仕事は、炭焼きである。  
焼き上がった炭を麓の村々へ卸す事でこの夫婦は日々の糧を得ているのだが、  
その道中、夫は己の嗜好に合う女に出会ったのだそうだ。  
「その女を情婦にして、交わいたい。」  
力丸は大真面目に言う。  
 
しかし一方の彩女としてはたまった物ではない。  
「交わいたいって…。」  
彼女は大きく溜息を付いた。  
「力さんはあたいと毎晩交わってるだろ?それだけじゃあ不足なのかい?」  
「不足というわけではない。しかしどうしてもその女を情婦にしたいのだ。」  
 
「ねえ、力さん。」  
仕置き代わりに、彩女は夫の陰嚢から手を離した。  
しかし直ぐ様力丸に連れ戻され、再び元の位置に収まらざるを得ない。  
「力さん。もし、あたいがだよ、力さんと同じような事を言い出したら、  
 あんた、どう思う。良いって言うかい?」  
「言わない。お前は俺の女だ。」  
「だろ?じゃああたいだって…。」  
「だが彩よ。」  
力丸の声の調子が一段上がった。  
「お前は俺以外の男を知っている。だが、俺はお前以外の女を知らない。  
 だから、お前以外の女と交わってみたい。」  
彼は全く悪びれる様子も無く語った。  
 
これには彩女も沈黙するしかない。  
確かに彼女は力丸以外の男を知っている。それも十や二十では済まない。  
しかしそれはあくまで女乱破であった時代、任務の一環として男と同衾しただけで  
自ら好んでそうしたわけではない。  
自らの自由意志と好意を持って閨を供にした男は、  
あくまでもこの力丸しかいなかった。  
 
「…どんな女なのさ。その女ってのは。」  
彩女は思わず問うて見た。  
我が夫が情婦として望む輩に対し、  
知らず知らずの内に対抗心が芽生え始めている。  
 
「一瀬村のお滝という女だ。機織をして暮している。」  
「あたいより慶(い)い女なのかい?」  
「お前より慶い女ではない。」  
「じゃあ、あたいより若いんだろ。」  
「若くは無い。俺より歳は六つ、いや、七つか。七つ上だ。」  
彩女は力丸より二歳年少である。  
従ってその「お滝」とか言う女は、彼女より九歳も年長という事になる。  
 
「何だい、年増じゃないか。」  
彩女は鼻で笑った。  
「ああ、そうかも知れぬ。それに寡婦(やもめ)だ。  
 亭主をいくさで死なせたらしい。  
 それにお滝には娘も居る。今年で十二になると聞いた。」  
「あっはは。」  
今度は声に出して笑った。  
「何だい。年増の上に寡婦女かい。おまけに瘤付きと来た。  
 …ねえ、力さん。一体そんな女の何処が気に入ったのさ。  
 ああ、可笑しい。言ってご覧よ。そんな女の何処がいいのさ。」  
「何処と言われても困る。」  
彩女とは対照的に、力丸は怖い程真剣であった。  
眉に皺を寄せ、口許を真一文字に結び、考え込んでいる。  
 
―この男、本気なのか?  
 
当初、これは力丸一流の諧謔なのであろうかとも疑っていた彩女も、  
彼のこの態度の前にして、大いに動揺した。  
 
「とにかく一目見た時から、  
 俺の情婦にして好きな時に交わいたいと思ったのだ。」  
暫し黙考した後、力丸が答えた。  
「寡婦女は交わいが巧いと聞く。  
 そんな女を情婦に出来たら、どんなにか良いだろう。」  
 
―何だ?この人は別にお滝って女が好きになったわけではなくて、  
 ただ単に交わいをしたいだけなのか?  
 
若干安堵しつつ、彩女は「ねえ。力さん。」と力丸の耳元で甘く囁いた。  
「交わいなら、あたいがいくらでも巧くやってやる。  
 力さんの望むように何でもやってやるから。」  
彼女の手は既に夫の陰嚢から離れ、再度屹立を始めた彼の中心部分を愛で始めている。  
「だからさ、そんな女の事は早く忘れてお仕舞いよ。  
 ね、あたい、何時だって力さんのして欲しいようにしてやるから。」  
言うや否や床の内に身を沈めた彩女は、  
今度は我が口腔を持って屹立を溺愛した。  
 
途端に力丸が大人しくなる。  
 
―この人は、簡単だ。  
 
彩女は内心ほくそ笑んだ。  
 
―こうしてやれば、直ぐにあたいの思い通りになる。  
 
既に力丸の屹立は、今し方の二回の絶頂にもへこたれず、  
妻の口腔内で十分な硬度を保ちつつあった。  
 
「ねえ、力さん。」  
彩女が囁いた。  
「情婦なんて、そんなつまんない事言うのはもうお止し。  
 交わいがしたいんなら、あたいが幾らでも相手してやるから。」  
「あ、ああ…。そうなんだが…。しかし…。」  
妻の溺愛は、確かに力丸の屹立を蕩かしていた。  
しかし年来の度重なる営みの日々は、  
彼の耐性を彩女の想像以上に鍛え上げていた。  
 
歓喜の吐息を吐きながらも、力丸は口を開いた。  
「…お前も確かに良いのだが、それでも情婦が欲しいのだ。」  
「…力さん、そんな事言うのはお止しったら。  
交わいなら、女房のあたいとすれば良いだろ。」  
「…ああ、お前とも交わいたい。しかし…お滝とも交わいたいのだ。」  
 
―この期に及んで、まだそのような戯言を。  
 
彩女は立腹したが、それでも夫を愛する行為を止めようとはしない。  
 
―そんな事を、言えないようにしてやる。  
 
彼女の舌が、力丸の排泄口をなぞり始めた。  
この敏感な箇所は、彼の最も脆弱な急所でもある。  
そこを責められたのでは堪らない。力丸は思わず上擦った声を漏らした。  
 
「ねえ、力さん。これ好きだろ?」  
「…あ、ああ、好きだ…。」  
「ふふ、そうだろ?こんな事、情婦はやってくれないよ。  
 女房のあたいだからしてやれるのさ。」  
 
彩女はまるで熟練した料理人のように、力丸の肉体を操る事が出来た。  
目で見ずともその吐息の具合、熱の昂ぶり、仕草の程…  
あらゆる変化を瞬時に感じ取り、それに合わせて何とも見事に、  
そして自由自在に料理参らせるのである。  
 
同時に、夫のあらゆる行為を慈愛を持って許し、  
あらゆる行為を歓喜を持って受け入れる事は勿論、  
彼の精血を口にする事も何ら厭わなかったし、  
請われて尿(ゆばり)を飲み干す事もあった。  
 
―それこそが夫婦ならでは、でないか。  
 
だからこそ、力丸の突然の造反が何とも憎い。  
 
先程二回も弾けたと言うのに、彼の屹立が更に一回り膨張した。  
これなら、再度交合に及ぶ事も十分に可能であろう。  
彩女は頃合を見計らい、  
「ね、もう一度、交わおう。ね、あたいにお情けおくれ。  
 あたいなら、何度交わったって構いやしないんだから。」  
慣れた動作で夫の上に跨ると、屹立を我が胎内へと導いた。  
そのまま、動いてやる。  
ここのあたりは、流石は女房と言った所だ。  
力丸の最も好む角度も、速度も、力の具合も知り尽くしている。  
 
更に彼の両の手を取り、我が乳房に触れさせた。  
そのまま身体を折り曲げると、今度は力丸の顔面中に唇を這わせ始める。  
彼女の濡れた口唇は、終には夫の唇に辿り着いた。  
「力さん…んふ…力さん…。」  
鼻を鳴らしながら無理矢理舌を侵入させ、絡みあい絡ませあい、  
互いの唾液を交換し合った。  
 
やがて力丸は呆気無く果てた。  
夫の絶頂を見届けた彩女は、今だ繋がったままの肉体を  
がばりと彼の上に放り投げ、乳首を彼の口に含ませてやった。  
力丸は「彩…ああ、彩…。好きだ…彩…。」彩女の背中を掻き抱き、  
まるで乳飲み子のように音を立てて乳首を吸いたてた。  
 
「よし、よし、いい子だ。いい子だ。  
 可愛い力さん。可愛い可愛いあたいの力さん。」  
彩女もまた、二歳年長の夫の頭を抱き、  
まるで母親を思わせる素振りでその頭を愛しげに撫でてやる。  
 
―やっぱりこの人は簡単だ。  
 
こうやって少し甘やかしてやれば、  
力丸の如きは如何様にも操縦する事が出来た。  
彼女は何時でもこの様にして、  
我が夫を己の意のままに操って来たのである。  
 
「彩…俺が悪かった。赦してくれ。もう二度とあのような事は言わない。  
 やはり俺にはお前しか居ない。お前以外の女は要らない。」  
 
彩女は、夫の口から上記のような言葉が飛び出して来る時を、  
今か今かと待ち受けていた。  
 
しかし期待とは裏腹に、彼の口から飛び出してきた言葉は、   
「…彩。頼む。良いだろう?お滝を俺の情婦にしても。  
 俺はあの女を情婦にしたいのだ。どうしてもそうしたいのだ。」  
 
彩女は力丸に軽い失望を覚えた。  
「力さん…良い加減にしておくれ。あたいは…。」  
「…なあ、彩、頼む。駄目か…。なあ…。」  
「良い加減におし。」  
 
ここに来て、彼女はいよいよ立腹した。  
彼女は怒りの意思を表す為に、乳首を力丸の口から引き離すと、  
同時に我が胎内からも彼の中心部分を引き抜いた。  
 
そして「力さんなんかもう知らないよ。  
そんな我侭を言う子なんて、あたいは嫌いだ。」  
力丸にくるりと背を向けて、頭から布団を被ってしまった。  
 
「なあ、彩。そんなに怒らないでくれ。  
 俺はお前の事が嫌いになった訳では無いのだ。  
 ただ、情婦が欲しいだけなのだ。」  
 
この期に及んで尚、力丸は未練の言葉を吐いている。  
「なあ、彩。聞いているのか?彩。」  
彩女は返事をしない。その代わりに一つ屁をひって、彼を拒絶した。  
 
しかし力丸も相当執念深い男である。  
妻の返事が無いとわかるや否や  
「彩!」  
何と彼は彼女の眼前で土下座を始めたのだ。  
「彩。俺は今まで、博打を打った事も、女郎に手を出した事も無い。  
 高い道具を買った事も無ければ、お前に手を上げた事も無い。  
 だから、頼む。俺のたった一つだけの頼みだ。  
 あの女を情婦にしてもいいだろう。頼む。」  
彩女は狼狽した。  
まさか力丸が土下座をしてまで情婦を所望するとは、  
思っても見なかったのである。  
同時に「それ程までに情婦を欲している。」という彼の心境にも驚愕していた。  
 
しかし彩女は、我が亭主に何時までも平伏させておく事を良しとするような  
図太い精神を持った女ではない。  
彼女は一転、がばりと起き上がり、  
「…ねえ、力さん、そんな事は止めておくれ。」  
必死に夫の頭を上げさせようとするものの、彼は頑として聞かない。  
それ所か、ますます「頼む。頼む。」と敷布団の上に頭を擦りつけ、  
懇願してくるではないか。  
 
「力さん、ねえ、力さん。あたいなら、どんな淫らな事だってしてやる。  
 力さんのして欲しい事だったら、どんな淫らな事だってしてやるから。  
 それじゃあ、不満かい?ねえ、それでも情婦が欲しいのかい?」  
力丸の答えは「それでも情婦が欲しい。」と言うものであった。  
 
彩女は溜息を付いた。  
我が夫ながら、情け無くなる。  
「どうして力さんはそんなに情婦が欲しいのさ。」  
「お前以外の女と、交わってみたいのだ。」  
「…そんなにあたい以外の女と交わいたいのかい?」  
「ああ。交わたい。何故なら…。」  
ここで力丸はすわ、と頭を上げ、妻の瞳を真っ直ぐに見つめた。  
「お前は俺以外の男を知っている。俺はお前以外の女を知らない。  
 これでは不公平だ。だから、俺もお前以外の女と交わってみたいのだ。」  
 
―どういう理屈なのだ。  
 
彩女はますますもって情け無くなった。不公平も何も無いであろう。  
独身時代ならともかく、現在の二人は夫婦なのである。  
少なくとも、彩女は力丸と所帯を持って以降、  
ただの一人も他所の男と閨を供にした事は無い。  
それなのにこの男は「不公平」を理由に、他の女に手を出そうとしているのだ。  
 
―…仕方のない奴だ。しかし男なら、そう言う事もあるかもしれない。  
 
彩女は決して男の欲望に理解の無い女ではない。  
そこで、妥協案を提示する事にした。  
「…わかったよ。そんなに女と交わいたいのならさ。  
 情婦じゃなくて、お女郎におし。お女郎なら、構わないから。」  
本当は夫が女郎と同衾する事も嫌であるが、この際止むを得まい。  
少なくとも、関係が長引く情婦よりも、  
一夜の女郎遊びの方が幾分かマシであろうと判断した。  
「ね、お女郎ならいいから。あたいが貯めた銭もやる。  
 それを持って街の廓に行って、お女郎と交わっておいで。」  
彼女なりの精一杯の譲歩の筈であったが、  
一方の力丸としては、受諾出来る案ではなかったらしい。  
 
彼は「女郎では嫌だ。」と頸を横に振り、その理由を述べ始めた。  
「女郎だと、銭が掛かる。俺の家は貧乏だ。女郎を買う銭など無い。  
 その点、情婦だと銭が掛からない。  
 銭が掛からない割りに、何度でも交わう事が出来る。」  
 
―何とまあ、この男は吝嗇(りんしょく)なのだ。  
 
最早情け無さを通り越し、彩女は大いに呆れた。  
吝嗇とは、ケチの事である。  
確かに力丸は吝嗇者だ。無駄銭の使用を大いに嫌う。  
その為、滅多に酒も飲まなければ、煙草も吸わない。  
 
しかし、夫の吝嗇は彩女の矜持でもあった筈だ。  
他所の亭主連中が、酒だ博打だと現を抜かし、女房を困惑させているというのに  
我が夫にはそう言う所が一つも無い。  
 
―あたいの亭主は、他所の亭主と違って手が掛からない。  
 
内心そう思って、世の女房達を哀れんでさえいた。  
それなのに今更になってこの男は。  
 
「なあ、彩。一人だけで良い。一人だけ、情婦を持っても良いだろう。  
 頼む。なあ、頼む。俺のたった一つだけの頼みだ。だから頼む。」  
 
これなのである。  
 
「ねえ、力さん。」  
「何だ。」  
「あんたに女を教えてやったのは誰だい。」  
「…それは…お前だ。」  
「そうだろう。あんたのこの可愛い皮被りを綺麗に引ん剥いてやってさ、」  
ふふふ、と蟲惑的な笑みを浮かべながら、  
彩女はその愛しい皮被りに手を伸ばした。  
彼の皮被りは、今だ互いの体液で濡れている。  
「…一から十まで全部教えてやったのはこのあたいだろう?」  
「…ああ。そうだ。お前だ」  
力丸が彩女に教授されたのは、何も女の味だけではない。  
同時に人として生きる道も教えられた。  
それ以前の彼は、単なる人外の殺人鬼に過ぎなかったのである。  
 
「だからさ、」  
彩女は力丸の手を取って、口付けた。  
 
「あんたは黙ってあたいの言う事を聞いていれば良いんだ。  
 今までだってそうだっただろ?  
 そうやって、いつも上手くやってきたじゃないか。  
 だから今度もあたいの言う事をお聞き。  
 そうしたら、これから先もずっと可愛がってやるから。」  
 
彩女にたった一つ、邪な部分があるとしたら、正にこの部分であろう。  
彼女は我が夫、力丸を常に己の支配下に置く事を望んだ。  
その為に、時には辛辣な言葉を、又時には肉体と手練手管を、  
そして時には母の如き慈愛を持って、彼を篭絡し、調教し、そして征服したのである。  
 
彩女の言葉を耳にした力丸は、一瞬ではあるが疲れたような表情を見せた。  
そして「…だから情婦が欲しいのだ。」と哀しげに呻いた。  
 
「俺は何時だってお前の言う事を聞いて来た。  
 何時でもお前の言う通りにして来た。  
 俺が昔『一度、博打を打ってみても良いか。』とお前に聞いたら、  
 お前は『あんなものは損をするだけだから駄目だ。』と言った。  
 俺が『予備の刀を買っても良いか。』と聞いた時も、  
 お前は『もう家に一振りあるだろう。余分な刀は要らない。』と言った。  
 俺が『鶏でも飼おうか。』と聞いても、駄目だと言う。  
 『庭に柿を植えようか。』と聞いても、やはり駄目だと言う。  
 では、何ならば可なのか。言ってくれ。    
 お前は俺のする事は、みんな駄目だと言うではないか。  
 何であるならば可なのか。何であるならば良いのか。」  
   
力丸は泣いていた。  
いや、実際はそうではなかったのかも知れないが、  
少なくとも彩女にはそう見えた。  
 
彼女は殆ど無意識の内に、彼の頭を我が胸に抱き寄せていた。  
しかし、途端に振り払われる。  
夫の思わぬ反抗を目の当たりにした彩女は仰天し、そして狼狽した。  
 
「…俺はお前の事が嫌いになった訳では無い。  
 お前は三国一の女房だ。そうとも。三国一の女房だ。  
 それに、お滝の事が好きになった訳でも無い。  
 ただ、お前以外の女と交わってみたいだけなのだ。」  
「だから…それはお女郎を抱けば良いじゃないか。  
 ね、お小遣いをやるって言ってるだろう?  
 それを持って、お女郎と交わっておいで。」  
「女郎は嫌だ。」  
この一点に置いては、力丸は頑なであった。  
 
「何で嫌何だい…?言ってご覧よ。」  
「銭を渡して交わうのが嫌なのだ。」  
「それが何で嫌何だい?」  
「女郎は銭が欲しくて男と交わうのだろう。   
 俺と交わいたくて交わう訳では無かろう。」  
「…だってお女郎はそれが商売なんだから仕方が無いだろう?」  
 
―昔はあたいだって。  
 
と言いかけて、彩女は閉口し、沈黙した。  
力丸は続ける。  
「俺は銭とは関係無しに交わって見たいのだ。  
 お前だって別に銭が欲しくて俺と交わっている訳ではなかろう。」  
「…そりゃあ、まあ、そうさ。  
 あたいは力さんが可愛いから交わっているんだ。  
 可愛くなけりゃあ交わらない。」  
彩女は、決して力丸の事を好きだとは言わない。  
「可愛い」という言葉が、彼女なりの最大限の愛情表現の言葉であり、  
彼女の支配欲の一端は、そのような箇所にも見る事が出来る。  
 
「…本当に困った子だねぇ…。」  
 
彩女は今夜何度目かの溜息を付いた。  
「ねぇ、力さん。一体どうしちまったのさ。ん?  
 『情婦が欲しい』だなんて、そんな悪い事言う子じゃなかっただろ。  
 何かあったのかい?何かあるのなら、隠さないであたいにお言い?   
 隠し事はしないって、あたいと所帯を持つ時に約束したろ?  
 ね、言ってご覧。怒らないから。」  
「…別に何も無い。ただ情婦が持ちたいと思っただけだ。  
 ただそれだけだ。本当だ。」  
これは事実である。  
力丸は、彩女の前においては極めて素直で正直な男であった。  
   
「…ねえ、力さん。あんた、そんなに情婦が欲しいのかい。」  
「…ああ。欲しい。」  
「でもさ、力さん。」  
彼女は再度力丸の手を取って、今度は乳房へと導いた。  
妻に誘われるまま、力丸は彼女の乳房を弄び始め、  
やがて胸に顔を埋めると、まるで赤子のように乳首に吸い付いた。  
 
途端に彩女の表情が和らいだ。  
ふわりと彼の頭を抱いてみる。今度は拒絶されなかった。  
「…もしそのお滝とか言う女が、  
 力さんの情婦になるのが嫌だって言ったらどうするんだい?」  
「それは…。」  
乳首に吸い付いたまま、力丸は沈黙した。  
彩女が続ける。  
「そうだろう。力さんがそうしたいって言っても、  
 相手が嫌だと言ったら駄目だろう。  
 …まさか力さん、無理矢理その女を情婦にするつもりじゃないんだろう?」  
「…ああ、それは勿論だ…。」  
「その女は、力さんの情婦になっても良いって言ったのかい?」  
「…いや、言っていない。」  
沈んだ声で、力丸は答えた。  
 
「その女とは、何時何処で知り合ったんだい?」  
「…知り合ったのは半年ほど前、俺が村に出かけた時だ。」  
「その女と力さんは、懇ろなのかい?」  
「…いや、たまに挨拶するだけだ。懇ろではない。」  
「そうかい、たまに挨拶するだけの女かい。」  
力丸を胸に抱きながら、彩女はくすくすと笑っている。   
 
―何て事は無い。あたいの杞憂だった。  
 
力丸とお滝の関係が、何と無しに理解出来た。  
 
突然「お滝を情婦にしたい。」と告白してくるものだから、  
二人はさぞや親密な関係にあるのであろうと勘ぐっていたが、  
お互い単なる顔見知り程度の付き合いに過ぎなかったのだ。  
 
この程度の希薄な関係では、女を情婦にする事など到底不可能である。  
世間知らずの上、女知らずの力丸らしい早計であった。  
この男の知る所と言えば、殺人の方法か、そうでなければ炭焼きの方法しかない。  
 
「…じゃあさ、力さん。こうしよう。」  
彩女の声は華やいでいた。  
所詮子供染みた願望である。  
このまま放置していても支障は無さそうであるが、万が一と言う事も在り得た。  
元乱破者の彩女は、そう言った部分には抜かりは無い。  
 
「明日、そのお滝って言う女の所にあたいと二人で行ってみよう。」  
「…お前と?何をしに行くのだ?」  
「決まっているだろう?  
 力さんの情婦になっても良いかを聞きに行くのさ。」  
「あ、彩。」力丸は思わず口に含んでいた乳首を吐き出した。  
「ほ、本当か?」  
「ああ、本当さ。明日あたいと一緒に言って聞いてみよう。」  
彩女はもう笑みを抑え切れない。  
 
―行った所で、無理に決まっている。  
 こんな子供染みた男の情婦になっても良いと言う女など、  
 そうそう居る筈も無かろう。  
 居るとしたら、天下広しと言えどもあたいぐらいのものだ。そんな女は。  
 まあ、気の毒だけれども、そうやって一遍現実を突き付けて、  
 諦めさせてやったほうが良い。  
 そうすればこの男も大人しくなるだろう。  
 
「ね、あたいと明日行って聞いてみよう。」  
女房も同伴する、と言うのがこの作戦の要である。  
女房付きの男が突然現れれば、相手としても不快を感じるに決まっている。  
その上「情婦になれ。」と言うのでは、かえって嫌悪の対象にさえなるだろう。  
 
しかし当の力丸には、妻の謀を看破するだけの能力が無かった。  
「あ、彩も頼んでくれるのか?」  
彼は彩女も我が意に賛同し、尚且つ協力してくれるものだと勘違いをしている。  
 
「ああ、お願いしてやる。」  
彩女はそ知らぬ顔で嘯いた。  
当然彼女には、その様な意図はさらさら無い。  
代わりにこの元乱破女の心中には、夫に付き添う振りをして相手の女に嫌悪を抱かせ、  
場合によっては口舌の一戦をも辞さないと言う算段があった。  
 
そうとなれば、元々希薄であった力丸との関係は、その場で終焉を迎える。  
これからは挨拶すら交わして貰え無くなるだろう。  
 
「ね、あたいが明日お願いしてやる。  
 力さんの情婦になってやって下さいってお願いしてやる。  
 …でもね、力さん。一つだけ、約束しておくれ。」  
「何だ?彩。」  
「その女が力さんの情婦になるのが嫌だって言ったら、  
 その時はすっぱりと諦めるんだよ。」  
「いや…それは…。」と力丸は狼狽した。  
無論、彼にも拒否される可能性がある事は理解している。  
しかし仮にそうだとしても、  
また再度挑戦すれば良い、と楽観視を決め込んでいた所だ。  
そこに早くも楔を打ち込まれてしまったのでは、立つ瀬が無い。  
 
「諦めるんだよ。いいね。あたいとの約束だ。」  
「…いや、まだそうとわかった訳では…。」  
「力さん。諦めるってお言い。わかったね。」  
我が妻に強く念を押されれば、彼には同意するしか術が無かった。  
「…ああ、わかった。諦める…。」  
彩女の口許が僅かにゆがんだ。  
「よし、約束だ。さ、指切り。」  
彼女は力丸の眼前に左の小指を突き付けた。  
「さ、ほら。指切りだよ、早く。」  
促されて、仕方なく力丸も小指を絡ませる。  
 
「ゆーびきーりげーんまーん、うーそつーいたーら…  
 …そうだねぇ…うん。力さんの皮被りの皮を切り取って食べちまおう。  
 よし、それがいいや。そうしよう。」  
 
彩女が何とも恐ろしげな罰則を口にした。  
力丸は脅えた。  
何故なら、彼女は時々  
「力さんのこの可愛い皮を喰っちまっても良いかい?」と  
夫の耳元で秘めた願望を囁く事があるからである。  
 
「そんな事は止めてくれ。」と懇願した力丸に向って彩女は、  
「おや、何を言っているんだい。  
 力さんがあたいとの約束を守れば済む事さ。  
 それともあたいとの約束は守れないって言うのかい。」  
「いや…守る…。守るが…しかし…。」  
 
万が一と言う事も在り得る、と言いかけて、力丸は閉口した。  
彩女に証人(人質)となってしまったその皮を抓られてしまった為だ。  
 
恐怖に引き攣った表情の力丸を尻目に、彩女は何とも愉しげに唄った。  
 
「ゆーびきーりげーんまーん、うーそつーいたーら、  
 りーきさんのこの皮ーを喰っちーまお。  
 …ふふふ、その時はどうやって喰ってやろうか。  
 茹でて醤(ひしお)に付けて喰おうか。それとも汁物にして喰おうか。  
 …ほーんとーだよ。りーきさーんがうーそつーいたーら  
 こーの皮ーを喰っちまーうかーらね。  
 …そうだ、塩漬けにして干物にするって言うのも旨そうだ。  
 ね、力さん。ふふふ…。あはは…ああ、可笑しい。  
 可笑しいや力さん。力さん可笑しいや、ははははは。」  
 
 
                           〜続く〜  
 

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