さて、力丸が炭焼きを初めて三ヶ月が経過した。  
彼はこの間、ただの一日も休息を取る事無く、只管仕事に没頭した。  
 
そして「我、意を得たり」と感じた力丸は、師である彩女の元に馳せ参じ  
「世話になった。」と平伏した。  
 
「お前のお陰で、俺にも炭焼きの仕事が出来そうだ。  
 今の俺には何の礼も出来ぬが、何時の日か、必ず礼に訪れる。」  
言いながら、彼はそろそろ師の元を去ろうかという素振りを見せた。  
 
しかし「お待ち。」その師匠、彩女が、  
炭粉で黒く染まった弟子の袖を強く引いた。  
「何処に行こうって言うんだい。」  
「判らぬ。だが、何処か、炭焼きが出来る所だ。  
 そこでお前に習ったように、炭焼きをしてみよう。」  
 
「馬鹿だね。」彩女は眉間に皺を寄せた。  
「あんたの家はここだろう。」  
袖を引いていた筈の手が、何時の間にか力丸の手を取っている。  
「…いや、ここはお前の家だ。今の俺は宿無しだ。  
 だが俺もその内何処かに…、」  
家を持とうかと思う、と言い掛けた力丸の口を、彼女の言葉が封じた。  
 
「あんたの家はここだ。  
 だって、あんたはあたいの亭主なんだから。」  
 
力丸は、直ぐには彩女の言葉の意味を理解する事が出来なかった。  
取り分け「亭主」という単語の意味が、彼の理解の範疇を超えていた。  
彼は独来独去を義務付けられた男である。  
唯一の肉親であった母が死んで以来、身寄りも居ないし、  
家族は勿論の事、恋人や友人すら持った経験が無い。  
 
我が身は、それら人界の者とは全く違った次元を  
往来する人外の化生であると思っていた。  
人外の化生とは、とどのつまり化け物や物の怪の類の事である。  
彼の場合、己の事を「山の畜生の生まれ変り」だと信じていた。  
その「山の畜生」が、どうして人の亭主などに成り得ようか。  
 
そもそも力丸が彩女の家にやって来たのは、炭焼きを習得する為である。  
それ以外の理由は無い。  
その為、彼は技術を一通り習得した後は、速やかにこの地を去ろうと  
来訪した際から心に決めていた。  
事実、彼はたった今、彩女に別れを告げようとしたばかりなのだ。  
それなのにこの女は「何処にも行くな。亭主になってここで暮せ。」と言う。  
 
口には出さなかったが、力丸は内心、  
 
―迷惑だ。  
 
と思った。  
しかし師匠の手前、本心を明かす訳にもいかない。  
 
間を置いて、力丸が聞いた。  
「…亭主?俺が?」  
「ああ、あんたはあたいの亭主さ。」  
「何故?」  
「何故って…だって三月も一緒に暮したんだもの。   
 だからあんたはもうあたいの亭主さ。だから何処にも行かないでおくれ。」  
   
彩女は力丸の腕を取っていた。  
力丸の左腕が彼女の胸の内に埋った。  
 
傍目にも分かるほど、彼は動揺した。  
一刻も早くこの場から遁げだそうと、浮き足立った。  
しかし腰を上げようとした矢先、  
彩女に更に強く腕を抱かれ、再び引き戻されてしまう。  
「ねえ、ここに居ておくれよ。毎日あんたの御飯(おまんま)作ってやるからさ。   
 あたい、あんたが居なくなると寂しいよ。  
 ね、お願いだよ。炭焼き教えてやっただろ。  
 だからあたいの亭主になって、ずっとここで一緒に暮しておくれ。」  
 
彼女は決して「あたいをあんたの嫁にしてくれ。」とは言わなかった。  
その代わりに「亭主になれ。寂しいからここに居ろ。」としつこく食い下がった。  
 
先程力丸の事を「独来独去の男」と評したが、  
それはこの彩女にも当て嵌る事だろう。  
彼女の半生もまた、力丸の歩んで来た道程とそう大差のあるものでは無い。  
 
彩女は語らなかったが、彼女は少女の頃に、  
いくさの混乱に乗じた敵軍による人的略奪の餌食にされた女である。  
彼女はその際に初めて男を知り、そして気が付いた時には  
人市(人身売買市場)に流されていた。  
 
哀れにも売買の対象と成り下がってしまった人間の内、  
幸運な者は身内に買い戻される場合があるが、  
残念な事に、彼女の両親はそのいくさの際、命を落としてしまっていた。  
実際に彼女を購入したのは、  
彼女の美貌に目を付けた「乱破の里の者」であったと言う訳だ。  
 
その時から、彩女は第二の人生を乱破者として送る事となった。  
力丸が我が身を「山の畜生」と観たのと同様、  
乱破者となった彩女は、自身の事を「我、肉の傀儡(くぐつ)なり」と俯瞰した。  
その自嘲を胸に秘め、彼女は浮世の闇を漂流して来たのである。  
 
「肉の傀儡」は「肉の傀儡」として、ただの一度たりとも人間の情を持ち得る事無く、  
その生涯を終える筈だったのだ。  
 
しかし力丸を一目見た瞬間、彩女は、  
 
―この人は、あたいに似合っている。  
 
「肉の傀儡」と釣り合う存在は、眼前の「人外の化生」を置いて他に無かった。  
この「山の畜生の生まれ変り」こそが、我が生涯の伴侶であると、直感した。  
 
彩女は右腕で力丸の左腕を抱きつつも、更に左手で彼の腰帯を握り締めた。  
女のものとは思えぬ程の、強靭な膂力である。  
膂力には自信のある力丸でさえ、容易に動く事が出来なかった。  
 
「ねえ、ねえ、ここに居ておくれよ。あたいの亭主になっておくれ。」  
彩女は背中を入り戸に向けて、力丸の退路を断つ体勢を取った。  
そこには「意地でも遁がさぬ。」という、彼女の気迫と決意が見て取れる。  
 
「お、俺は…炭焼きは出来るようになったが、お前の亭主などは出来ぬ。」  
「出来るさ。それもあたいが教えてやる。」  
そう言って、彩女は「ひし」と力丸の胸板に顔を埋めた。  
分厚い大胸筋を通してでも、早鐘のように打ち鳴らされる彼の鼓動を感じた。  
「いや、出来ぬ。俺には出来ぬ。」  
「出来る。あたいが教えてやる。  
 炭焼きを教えてやったように、亭主のやり方もあたいが教えてやる。」  
 
「で、出来ぬ…、お、俺には出来ぬ…。」  
力丸は突如幼子のように震えだした。  
胸を打った鼓動は、決して彩女に絆されたが為ではない。  
彼は恐怖を覚えていたのである。  
 
「山の畜生の子」が、今更人の子の生活を送る事が出来る筈も無かった。  
それは自身が今まで殺めて来た獣達への造反に当るのでは無いか。  
友と定めた獣を裏切り、今更どうして  
一度敵(かたき)と定めた人への服属を承諾する事が出来ようか。  
それは自身の存在と、そしてその半生の否定でもある。  
或いはこれは一種の意地の現われ、と言って良いかも知れない。  
武士には武士の、そして乱破には乱破の意地が存在するように、  
畜生にも畜生の意地があった。  
 
初めて獣を殺した時、力丸は泣いた。泣きながら、皮を剥いだ。  
しかし初めて人を殺した時、彼は微笑を浮かべながらこう言ったのだ。  
 
―これで、今日からは畜生を殺さずに済む。  
 人ならば、幾ら殺しても心が痛まぬ。  
 
「俺には出来ぬ…!出来ぬ…!」  
力丸が喚いた。  
「何でだい…!炭焼きは出来ただろう…!」  
彩女もまた、喚き返した。  
「いや、出来ぬ…!俺には出来ぬ…!俺は無能者だ…!  
 俺に出来るのは畜生の皮剥ぎと乱破家業と、  
 それから炭焼きだけだ…!」  
「それだけ出来れば上等じゃないか…!  
 だからあんたにもあたいの亭主が出来る筈だ…!  
 亭主なんて皮剥ぎよりも、乱破家業よりも、炭焼きよりももっと簡単だよ…!  
 あたいと一緒にここで暮してくれれば良い…!  
 それだけだ…!たったのそれだけなんだ…!」  
 
二人は暫し揉み合った。  
ややもして、彩女が力の限りに力丸を押し倒し、その上に乗った。  
凄まじい膂力である。力丸ですら抵抗出来るものでは無かった。  
 
「出来ぬ…!出来ぬ…!赦してくれ…!銭ならやる…!銭ならやる…!  
 俺は幾ばくかの銭を持っている…!これをやるから赦してくれ…!」  
力丸は無意識の内に懐を弄っていた。  
取り出したものは、汚い巾着袋である。  
中には一文銭がずっしりと詰っていた。  
ただし、これは彼の財産と言うわけではない。  
刃物と同様、単に仕事に使うだけの道具の一つ過ぎなかった。  
 
彩女は差し出された巾着袋を引っ手繰ると、  
「銭なんか要るもんか!」力任せに部屋の隅に投げ付けた。  
その衝撃で袋が裂け、乾いた音を立てながら床に一文銭が散らばった。  
「あたいを馬鹿にするな!こんなもの誰が要るか!」  
 
彼女は更に激しく力丸を責め立てた。  
「亭主になれ!あたいの亭主になれ!  
 炭焼きを教えてやった代わりに、あたいの亭主になれ!」  
「で、出来ぬ…!出来ぬ…!俺には出来ぬ…!見返りに銭をやる…!  
 炭焼きを教わった見返りに俺の銭を全部やる…!だからもう赦してくれ…!」  
「銭なんか要らないって言ってるだろ!いいからここに居ろ!  
 ここであたいと一緒に暮すんだ!  
 それが炭焼きを教えてやった見返りだ!」  
 
力丸はもう激しく脅えていた。  
彩女の如夜叉面(にょやしゃおもて)が、  
かつて亡母が彼を殴打した際に見せた形相そのものだったからである。  
 
「赦してくれ…俺には出来ぬ…俺には出来ぬ…  
 亭主など出来ぬ…俺は山の畜生だ…人の亭主など出来ぬ…。  
 俺は山の畜生だ…人ではない…山の畜生なのだ…。」  
力丸は泣いていた。泣きながら赦し乞うた。  
 
しかし泣いていたのは、力丸だけではない。  
「だから何だってんだい…!山の畜生だから何だってんだい…!」  
上になっている彩女もまた、泣いている。  
「あたいだって傀儡人形だ…ただの傀儡人形なんだ…山の畜生が何だってんだい…。」  
泣きながら、力丸の小袖の襟足を激しく揺さ振った。  
胸元の合わせが乱れ、彼の厚い胸板が露になった。  
彩女の涙はその上にひたひたと落ちた。  
 
「俺は…俺は…最早人にはなれぬ…今更…今更人を赦す事が出来ぬ…。  
 俺は山の畜生の生まれ変わりだ…人ではない…山の畜生なのだ…。」  
 
「それでもいい…それでもいい…あたいだって今更人には戻れない…。  
 だからだ…だからだよ…あんたが人で無いなら、あたいも人で無いんだ…  
 だから人で無いもの同士、一緒にここで暮しておくれ…。  
 寂しいよ…あんたが居なくなったらあたいは寂しいよ…。  
 あんたが居なくなっちまったら、あたいは独りぼっちになる…。  
 あたいはこのまま本当の独りぼっちになっちまう…。」  
 
『本当の独りぼっち』と言う言葉が、彼女の孤独に満ちた半生を物語っていた。  
人で無いものは、結局どうあがいても人と交わる事は出来ない。  
例え「人の形」を真似る事は出来ても、それでも決して人には成り得ないのだ。  
彩女がこの様な人里離れた草庵に居を構えているのも、その為であった。  
「人外の化生」同様、「傀儡人形」もまた、人の世に生きる資格を持たなかったのである。  
 
しかし、そこに力丸と言う彼女の同類が現れた。  
我が身と同じ、浮世の闇を彷徨う「人外の化生」の男である。  
彼をこのまま遁がしてしまえば、  
我が身は永遠に『本当の独りぼっち』となってしまうであろう。  
その彼女の孤独への恐れ、そして一度伴侶と定めた男への妄執が、  
涙に暮れる如夜叉面となって現れたのだ。  
 
「お願いだよ…お願いだよ…ここに居ておくれ…  
 炭焼き教えてやっただろ…だからここであたいと一緒に暮そう…   
 あたいの亭主になっておくれ…教えてやる…亭主のやり方も教えてやるから…。」  
 
彩女はそのまま力丸の胸に突っ伏して、声を上げて泣いた。  
いや、泣いたのではない。「哭いた」のである。  
両の眼からは、止め処も無く涙が溢れ出した。  
それを拭いもせずに、彼女はただただ哭いた。  
 
涙に濡れる彩女の瞳を目にした瞬間、力丸は声を失った。  
それはかつて見た鹿の眼であった。いや、それよりも遥かに美しい漆黒である。  
底すら伺えぬ深淵冥渤にも似た、全てを呑み込まんとする闇の色であった。  
 
力丸は闇を愛した。  
闇こそが、老若男女、善人悪人、有徳(資産家)無徳、有能無能、貴賎、美醜を問わず、  
全ての人間達を包み込み、永遠の奈落へと連れ去って行く仏である。  
無論、「山の畜生の生まれ変り」も「肉の傀儡」も、そこでは何ら区別される事は無い。  
彼ら「人外の化生」ですら、闇の前では平等であった。  
 
最早掛ける言葉が見付からなかった。  
胸の彩女の悲嘆のみを、力丸は呆然と聞いている。  
やがて彼女の哭き声は嗚咽へと変じ、その内それも止んだ。  
二人は重なり合ったまま、石と化した。  
 
それからどれ位の時間が経過したであろうか。  
二人はいまだ石のままである。  
表で鳶が鳴いている。五月晴れの風が、肌を涼やかに撫でて行った。  
力丸の胸を濡らしていた彩女の涙も、すっかり乾いていた。  
 
やがて彩女はするり、と力丸の体から離れ、彼の横に腰を下ろした。  
若干、今し方の狂乱を恥らう素振りを見せている。  
一方の力丸は今だ天井を仰いだまま、硬直していた。  
お互い無言であった。  
 
 
       

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