それから暫く沈黙の刻が流れた。
やがてその沈黙に耐え切れなくなったのか、
「ああ…。」と力丸が搾り出すような声を吐いた。
「何故俺は畜生に産まれなかったのか…。
何故人に産まれてしまったのだ…。何故…。」
―麓の村人のように、平凡な人生を送りたかった…。
それが果せぬとあらば、せめて山の畜生に産まれたかった…。
俺には人の生活というものが一体どういうものなのか、皆目検討も付かぬ…。
その俺に、今更人の生活が送れようか…。
俺はこのまま人にも畜生にもなれず、
浮世の闇を彷徨い続けるしかないのだ…。
大の字姿の力丸は、
無意識の内に身内の奥底に秘めていた懊悩を吐き出した。
彩女はそれを閉口したまま聞いている。
暫くして「…大丈夫。やり直せるさ。」
彼女は静かに口を開いた。
「…あたいとあんたで、人の生活をやり直そう。」
「俺には出来ぬ…。」
「出来るさ。」
「…いや、出来ぬ…。」
「出来るさ。あたいが付いているだろう。」
力丸は戸惑っていた。
床の上に大の字であった彼は一転、彩女に背を向けるように身体を丸めると、
年端も行かぬ幼子のような質問を矢継ぎ早に彼女に浴びせ始めた。
「…お前は俺を殴ったりせぬか。」
「ああ、殴ったりしないよ。」
「…俺に悪口(あっこう)を浴びせたりせぬか。」
「ああ。そんな事は一言も言わないよ。」
「…俺に石つぶてを投げたりせぬか…。」
「ああ。投げたりしない。約束する。」
「…俺を嫌ったりはせぬか…。」
「ああ。嫌ったりするもんか。
だってあんたはあたいの亭主だろう。」
「…そのような偽りを申すな。俺にはわかる。
何故なら俺は今だかつて人に好かれた事が無い。」
「偽りじゃあないよ。本当の事さ。」
「…俺には信じられぬ。人の言葉が。」
「人の言葉なんて信じなくても良いよ。
その代わり、あたいの言葉は信じておくれ。」
「…俺は人が恐ろしい。…恐ろしいのだ。」
「大丈夫。あたいが守ってやる。
だからそんなに怖がらないでおくれ。」
「…お前が俺を?何故だ。そのような謂れは無い。」
「あんたに惚れているからさ。」
「…それも偽りであろう。それともつまらぬ情けか。」
「違う。本当さ。」
彩女が力丸に対して抱いた愛情には、
彼女の言葉とは裏腹に、彼に対する哀れみが多分に含まれている。
闇の中を彷徨う異物が、同様の闇を行く異物に惚れた理由としては、
身に積まされる様な同情と、そして痛ましい共感を置いて他に無かった。
裏を返せば、彩女は力丸を哀れむ事により、我が身を哀れんだのである。
力丸を愛する事により、我が身を愛したのである。
「…大丈夫さ。力さん。あたいが付いているだろう。
だから何にも心配は要らないよ。」
だからあたいの亭主になっておくれ、と彩女は力丸の顔を覗き込んだ。
しかしこの期に及んで力丸は今だ大いに困惑し、硬直している。
やがて彼は突如がばりと身を起こすと
今度は胡坐をかいたままやはり石化した。
これまでの半生において、彼の友人は彼自身だけであったし、
彼の恋人も彼自身だけであった。
それ所か本来彼を庇護し、無償の愛を注いでくれる筈の父母もまた、
彼自身なのである。
彼が愛でていた獣は、言うなれば我が分身とも言えよう。
これまでただの一度も人の愛を受ける事無く、只管に闇の中を漂流してきた力丸には
他人の愛と言うものの存在を信じる事が出来なかった。
仮にそれが存在していたとしても、それは「山の畜生の生まれ変り」である我が身とは
全く無縁の何処か遠い世界、つまり「人界」においてのみ存在する
蜃気楼のようなものだ、と頑なに信じていた。
「…ねえ、いいだろう。あたいの亭主になっておくれ。」と再び彩女が懇願した。
力丸は頸を小さく横に振った。
「…俺には出来ぬ。人の亭主など…。」
彼は彩女の愛情を恐れていた。
それは未知なる物への恐怖であると同時に、
人間への根本的な不信から来る恐怖である。
その恐怖から遁れる為には、やはり彼は今まで通り、
我が身一つを頼みとして「山の畜生」として生きていくしかない。
「…すまぬ…。やはり俺にはお前の亭主は出来ぬ…。」
「…出来るさ。」
「…いや、出来ぬ…。俺には無理だ…。」
「…それじゃあ、別に出来なくても良いさ。
ここであたいと暮してくれるだけで良いよ。
それなら出来るだろう。」
「…それも出来そうに無い…。」
力丸は力無く頸を左右に振った。
他人と、しかも女と同棲し、供に生活を築き上げていく己の姿が
全くと言って良いほど想像出来なかった。
夜毎女と肌を合わせ、やがては子を為し、人の親となる我が身などは
初めからこの世には存在しない筈なのだ。
今だかつて、力丸は死を恐れた事が無い。
鉄砲玉も、弓矢も、刀鑓も恐れた事が無い。
激しい拷問も、飢餓も、病も同様である。
その彼がこの世で唯一恐れたもの、
正確に言えば、恐れながらも密かに希求し続けていたもの、
それこそが「人間の生活」に他ならなかった。
「ね、どうしても、駄目かい?」
突如、彩女の口調が今までの湿気を帯びたものから、
乾燥したものへと変わった。
「……………。」
力丸は返事をしなかった。
彼に唯一つ残された左の眼球が、哀れな程泳いでいた。
「…力さん、答えておくれ。
力さんがどうしても嫌だと言うなら、あたいもこれ以上の無理強いはしない。
あたいもきっぱり諦めるから。
その代わり、ここから出て行っておくれ。
そしてもう二度と、あたいの前には姿を表さないでおくれ。
炭焼きの礼なんて要らないからさ。」
これは彼女なりの覚悟の言葉である。
仮に力丸に拒絶された場合、彼女は最早この世に対する一切の未練も希望も打ち捨てて、
やはり今まで通り、肉の傀儡として生涯を送る所存であった。
「…ねえ、あたいの亭主になっておくれ。
亭主が嫌なら、ここであたいと一緒に暮してくれるだけで良いよ。
それだけで良いんだ。」
それだけを一息で言い切って、彩女は力丸の返事を待った。
しかし力丸は今だ目を白黒させ、乱破者らしからぬ動揺を見せている。
彩女はもう一度、
「ねえ、どうなんだい?答えておくれ。」
今度はやや強い口調で返事を請うた。
それに釣られるように、
「…わ、わからぬ…。」と力丸は呻いた。
「わからぬ?どういうことだい。
亭主になっても良いのか、嫌なのか、どっちなんだい?」
「…わ、わからぬのだ。」
わからぬ、とは奇妙な返答である。
力丸の喉はからからに渇ききり、全身に不快な脂汗が粘りついていた。
男の曖昧な返答に痺れを切らせた彩女は、更に執拗に可否を迫った。
しかし力丸の返答は要領を得ない。
相変わらず「わからぬ、わからぬ。」と言う言葉を繰り返すのみである。
ただ、力丸がここで断固として彩女を拒否しなかったのは、
やはり彼にも人並みの生活に対する羨望と憧憬が、
僅かながらにも残存していたからであろう。
卑賤な方向から覗き込んでみれば、
「山の畜生」として生きて来た筈の力丸にも、
世間の男のような生身の女に対する情欲と未練が
間違いなく存在していたのだ。
正直な所、彩女から好意を告げられた際、
不覚にも力丸の胸は高鳴ってしまった。
しかし、仮に彩女に絆されてこのまま夫婦となったとしても、
彼女が一度でも我が身に注いでくれた好意は、
すぐさま嫌悪と拒絶に変じるのでは。
それならば、彼女が己に対し好意を抱いている内に
このまま「山の畜生」らしく身を引いたほうが良いのではないか。
詰る所、人間に対する抗い難い希求と根深い不信との葛藤が、
「わからぬ。」と言うあやふやな物言いとなって、
力丸の口から零れ落ちたのである。
「お、俺は…山の畜生だ…。人の生活を知らぬ…。
それでも良いのか…?」
「ああ、良いさ。」
「俺は…きっとお前が思っているような男ではない。
それでも俺の事を嫌ったりはせぬか?」
「ああ、嫌ったりはしないさ。」
「ほ、本当か…?」
「ああ、本当さ。」
「しかし…俺には亭主とやらが巧く出来ぬかも知れぬ…。
若しかしたら、お前を怒らせてしまうやもしれぬ…。」
「怒りゃあしないよ。約束する。」
「…本当か?偽りではあるまいな…。」
「本当さ。偽りなんかじゃあないよ。」
ここに来て今まで石であった力丸に、大きな乱れが生じた。
彩女の凝視する前で、彼はしきりに髪を掻き揚げ、乾燥した唇を舌で湿らせ、
また時折大きく息を吐き出し、手に掻いた汗を小袖の裾で拭うなど、
落ち着かない素振りを見せている。
力丸は、先程見た彩女の瞳をふと思い出した。
あの五月晴れの空のように澄み切った漆黒が、
今尚脳裏に鮮烈に焼き付いて、彼を魅了していた。
それは全くの無垢の闇であった。穢れ無き真実の闇であった。
思い出してみて、改めて全身が感動に震え立った。
力丸は狼狽し、ちらりと彩女を見た。
彼女は無言のまま、例の漆黒の瞳で力丸を見つめている。
その清冽なる闇の煌きが、力丸の心を開かしめた。
彼は二、三大きく息を吐き出した後、
「…わかった…それ程言うなら、亭主とやらをやってみる。
正し巧く出来なくとも、本当に怒らないでくれ…。」
今にも泣き出しそうな声で、漸くそれだけを言った。
「本当かい…?」
彩女の声が踊った。
「…本当にあたいの亭主になってくれるのかい?」
力丸は頷いただけで返事を返した。
ややもして、彼は頭を掻きながら、
「本当に怒らないか…?巧く出来なくとも…。」
それだけ念を押した。
「怒らないさ。あたいが亭主のやり方を教えてやる。」
「…そうか。」
力丸がぎこちない笑顔を見せた。
いや、それは笑顔などと言ったような
気の利いたものでは無かったのかもしれない。
或いは狼狽による顔面の引き攣り程度のものだったのであろう。
しかし、彩女はそれを笑顔と見た。
それ故彼女も相好を崩した。
こちらは艶やかな女の微笑みである。
そして間を置かずに言った。
「…それじゃあ、契りのお酒でも飲もうか。」
固めの杯のつもりであった。
同時に、この奇妙な「山の畜生」が、
臆病風に吹かれて変心しない内に、
一刻も早く既成事実を作ってしまおうと言う
やや狡猾な思惑も含まれている。
「いや…俺は…。」
力丸は躊躇したが、既に彩女は立ち上がっていた。
そそくさと台所から小さな酒瓶と杯を持ち出して来た彼女は、
「さ、まず力丸さんからお上がり。」杯一杯に安酒を注いだ。
「む…。」
指図されるままに、力丸は杯を取った。
杯に満たされた薄い白濁には、
やや困惑した様子の新郎の面が揺らめいている。
少々の間を置いた後、一息に呑み干した。
刹那、顔面が歪んだ。
「不味い。」
力丸の飲酒はこれが生来初の事である。
「…喉と胸が焼けるようだ。…毒にはならぬか?」
「毒になんかなら無いよ。安心おし。」
彩女はくすくすと笑った。
そして「あたいにもおくれ。」
彩女は力丸から杯を受け取りつつ、言った。
彼は素直に下知に従う。
彩女も一息に白濁を胃袋に流し込んだ。
こちらは「ああ、美味しい。」にっこりと微笑んだ。
それから夕餉を取った。華燭の膳である。
山菜や茸類の入った稗粥が、この晴れの日の祝膳であった。
力丸はこの稗粥を三杯平らげ、彩女を悦ばせた。