やがて夜の帳が降りた。  
屋内には一面、闇が充満する。今宵は月も出ていない。  
この貧しい草の庵には、夜の闇を照らす行灯さえ無かった。  
従って、夜に我が身を抱擁された時が、即ち就寝の刻となる。  
 
「もう寝よう。」と彩女が切り出した。  
ここまでは、普段通りである。  
しかしこの夜は、ここから先が違っていた。  
 
「今夜は新床だねぇ。」  
力丸は闇の中から紡ぎ出された彩女の声を聞いた。  
心無しか、艶めいている。  
 
この三ヶ月間、この師弟が同衾した事は、ただの一度も無かった。  
庵に居候を始めた当初、力丸はたった一敷だけある褥を  
宿主である彩女に進められたが、彼はそれを丁重に遠慮し、  
自らは茣蓙の上に筵を掛けて寝た。  
 
そして彩女はその横で、薄い布団を頭からかぶり、  
力丸の背中を盗み見しつつ眠りに付いていたのだ。  
しかしお互い夫婦となった今夜は、ついに褥を共にする事が出来る。  
 
彩女は力丸を褥の上に上げ、お互い対面する形で着座した。  
二人の距離は二尺と離れてはいないが、  
この闇の中では相手の輪郭を判別するだけで精一杯であり、  
双方の表情までは伺う事は出来ない。  
 
力丸がこの褥に腰を下ろしたのは、この時が初めてである。  
その為か、無造作に髪の毛を掻き毟ったり、膝を何度も撫で摩るなどの  
明らかな困惑ぶりを見せ、終始無言であった。  
 
その手をふわりと彩女が取った。  
「…あんたは女を抱いた事あるかい?」  
途端、力丸の体が僅かにぴくりと跳ねた。しかし返事は無い。  
「…ねえ、恥ずかしがらないで言ってご覧よ。」  
彩女はすさ、と膝を前に寄せた。  
これで二人の距離は一尺へと縮まった。  
薄い夜着を纏っただけの彼女の肉体が、  
闇の中でもはっきりと浮かんで見える。  
 
「…ん?どうなんだい?  
 あんた、今まで女を抱いた事があるのかい?」  
彼女は先程力丸がそうしていたように  
彼の膝頭を撫でている。  
 
すると「…いや、無い。」  
消えるような声で、力丸が返事を返してきた。  
「…だろう。」彩女の心が歓喜に沸き立った。  
薄々察してはいたが、やはり力丸は無垢であった。  
「だったらあたいが教えてやる。  
 あんたに炭焼きを教えてやったようにね。」  
 
しかし「いや、俺はよい。」と力丸は項垂れた。  
「俺には出来ぬ。」と言うのが、その理由であった。  
彩女は少々呆れた。  
よほど己に自信が無いのか、  
この男は口を開けば「俺には出来ぬ。」と言う。  
 
彼女は力丸を安心させてやる為に、  
「…ふふ、心配は要らないよ。  
 それもあたいが教えてやる。ね、だから出来るさ。  
 炭焼きよりも簡単だし、それにとっても面白いから。」  
まるで幼子に語り掛けるような口調で、優しく諭した。  
 
しかし力丸は哀しげに頸を横に振り、  
「…俺には出来ぬ。俺は無能者だ。  
 皮剥ぎと、乱破家業と、炭焼きしか出来ぬ。  
 それに今、酒を飲んでお前の亭主になったばかりだ。  
 それでもう勘弁してくれ。俺はそれ以外は何も出来ぬ。」  
何やら殺人鬼らしからぬ気弱な台詞を吐いた。  
緊張の為か、或いは恐怖の為か、  
まるで生まれたての小鹿のように震えている。  
 
彩女はもうすっかりこの男が可愛くなってしまった。  
「契りの杯を交わしただけじゃあ、  
 まだ半分亭主になっただけさ。」  
そう言って、彼女はするりと力丸の腕を取った。  
「女房と新床を供にして、漸く本当の亭主になれるのさ。」  
そして彼女は更に「あんたの事、夜通し可愛がってやる。」と耳元で甘く囁いた。  
 
しかしそれでも力丸は  
「…やはり俺には出来ぬ。」  
やはり震えたまま、縮こまっている。  
 
「おやまあ、どうしてだい?」  
彩女は左の腕を力丸の左肩に回して、我が方に抱き寄せた。  
「…ん?どうしてなんだい。あたいの事が怖いのかい?怖くなんてないさ。  
 別にあんたの事を獲って食おうなんてしやしないんだから。」  
 
力丸はややどもりながら、  
「べ、別に怖くは無い…。た、ただ…、」と上擦った声を上げて返事を返した。  
「ただ、何だい?」  
「…お前が腐って死ぬといけない。」  
 
ああ、と彩女は得心した。  
この男の母は、梅毒で死んだ。  
 
「大丈夫さ。あんたの母様は、何処か他所の男に病を移されたのさ。  
 あんたはそんな病を持っちゃ居ないだろ?」  
「…わからぬ。何せ、俺はあの淫売の子だからな。」  
「大丈夫さ。あの病はね、病持ちの女と交わらなけりゃ、罹らない。  
 あたいはそんな病には罹っちゃいないから安心おし。」  
「…本当か?」  
「ああ、本当さ。」  
 
彩女は、これまで性病の類に罹患した事が一度も無かった。  
彼女の仲間が任務中、次々と性病を患い、  
ある者は苦しみながら死に、又ある者は生涯の不具者として  
一生を送らざるを得ない地獄を余儀なくされた中で、  
彼女はたった一人、その悲劇から取り残されていた。  
 
―あたいは運が良い。  
 
戦場において激しい銃火に晒されながらも、  
運良く一命を取りとめた男達が、そのように我が身を回顧するのと同様、  
彼らとは別種の戦場に身を置いている彩女もまた、  
我が幸運には感じ入るものがある。  
 
「自分でした事はあるのかい?」  
「…何を?」  
「決まっているだろう。手遊びさ。それぐらいなら、あるだろう。」  
力丸は直ぐには返答を返さなかった。  
しかし再度彩女に促されると、  
「乱破の里に居た時、昔見た雌鹿を思い出しては、  
それを女子に見立ててした事はある。」と白状した。  
 
「…乱破の仕事で、気が昂ぶった時などにした。  
 それから、何やらふと寂しくなった時などにもした。…人の女子は、好かぬ。  
 俺がまだ村に居た時、村の女子は俺の顔を見ると皆遁げ出したからな。  
 『山畜生の仔』『皮剥ぎの仔』と囃し立ててな。  
 別に俺が何をする訳でも無いのに、俺を嫌って皆遁げるのだ。   
 だから俺は人の女子は好かぬ。  
 …俺を嫌わずに近づいて来てくれた女子は、山の雌鹿だけであった。」  
 
力丸は過の日に見たしなやかな雌鹿の姿態を  
脳裏に巡らせていた。途端、我が身の昂ぶりを感じた。  
 
「…そうかい。雌鹿だけだったのかい。それじゃあ寂しかったろう。」  
彩女は力丸の頭を飽く事無く撫でている。  
既に彼の身体からは振るえが消え、新妻の胸に身を預けるに任せていた。  
「あんただって、女子と仲良くしたかったろうに。」  
「別に寂しくは無い。」と強い口調で力丸は嘯いた。  
 
「俺の側にはいつも雌鹿がいてくれたからな。  
 俺の所へやって来た雌鹿は多いが、  
 俺が一番気に入っていた雌鹿は何と言っても『はつ』だ。  
 この名は俺が付けた。今思ってみても、美しい鹿であった。」  
 
この「はつ」と言う名は、彼の亡母の名を取って付けたものだ。  
当時の彼は、それしか女の名を知らなかった。  
力丸は語らなかったが、しかし彼はその後、  
自らの手でこの最愛の「はつ」を殺め、皮を剥いでいる。  
 
それにしても、人間の代わりに鹿を愛するとは、  
珍妙この上ない男である。  
 
―この男は、やはり山の畜生の生まれ変りなのかもしれないな。  
   
彩女は少々の驚愕と可笑しみを伴った眼差しで、力丸を見た。   
無意識の内に、口許に笑みが零れてしまっていた。  
「そうかい。そんなに鹿が好きだったのかい。  
 でもさ、流石に鹿相手じゃあ、好き合えないし、  
 夫婦にもなれないし、交わえもしないだろう。」  
「…ああ。」と力丸は呻いた。  
「…だが、村の女子は俺を見ると遁げるから仕方あるまい。  
 だから、俺には雌鹿しか居なかったのだ。」  
 
力丸の往年の孤独と懊悩の根源は、我が身を「山の畜生の生まれ変り」と観じながらも、  
それでも尚、畜生には成り得なかった事である。  
幸か不幸か、彼はやはり人間としてこの世に生を受けた。  
そうである以上、所詮鹿は鹿でしか無く、人間の代用品であるに過ぎない。  
その証拠に、彼は愛する「はつ」の皮を剥いでいるではないか。  
いや、そもそも力丸が、雌鹿に人の子の名を付け、愛でていたのも、  
人間に対する飽くなき希求と渇望による所以ではなかったか。  
この殺人鬼が人間に対して見せた非情や酷薄も、  
結局はそれらの裏返しである歪んだ求愛表現であったのだ。  
 
「…じゃあ、あたいを鹿だと思っておくれ。  
 そうすりゃあ出来るだろう。」  
「…お前を鹿に…?」  
力丸は一瞬ちら、と彩女の顔を盗み見た  
そして無言のまま、再び顔を伏せる。  
目の前の女は、どう見ても人間であった。  
 
「ほら、あたいはあんたの鹿だ。だからあたいの所においで。」  
彩女はそう言って柔らかく微笑んだ。  
「…いや、俺は出来ぬ…。」  
それでも力丸は消えるような声で呟いた。  
「平気さ。おいで。力さん。あたいはあんたの鹿だ。」  
彼は今度は無言のまま頸を振った  
 
「おいで。」  
彩女は力丸の手を取った。  
出来ぬ、と力丸が呻いたような気がした。  
 
「おいで。」  
 
彩女は半ば無理矢理力丸の頭を我が方へと引き寄せた。  
彼女の豊かな胸に、彼の頭が押し付けられる格好となった。  
途端、若い女特有の甘い芳香が、力丸の鼻腔をくすぐった。  
「ああ…。」不覚にも溜息が漏れた。魂が蕩けるような錯覚さえ感じた。  
 
同時に、薄い夜着を通して、彩女の体温を感じた。  
鹿のものではない、人の体温を。  
力丸は実の母親にすら、ただの一度も抱かれた事は無かったのだ。  
人肌と言うものは、これ程暖かいものであったのか、と彼は  
生まれて初めて味わう恍惚に酔った。  
 
それらは、彼が長年追い求めて止まなかった物の  
欠片であったのだろう。   
渇き切って痛々しくひび割れた土くれが、恵みの雨を吸い込んで柔らかく潤うように、  
力丸の長年の呪詛と悔恨が、急速に消失して行く音を彼ははっきりと聞いた。  
 
彩女は実に四半刻ばかりもの間、力丸を抱き続けていた。  
「…どうだい?少しは落ち着いたかい?」  
囁くようにして問いかけた。力丸は無言のまま頷いた。  
「…じゃあ、出来そうかい?」  
力丸は少々逡巡した後、「…ああ。」と返事をした。  
 
 
 

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