闇の中の華燭  
 
 
 
主は滅び、虎狼は縛鎖から解き放たれた。  
 
倒木に腰を掛けた一組の男女が、何やら会話を交えている。  
 
「ねえ、力丸さん。あんた、今の仕事愉しいかい?」  
「今の仕事か…?」  
力丸は直ぐに返答を返す事が出来なかった。  
仕事の苦楽についてなど、今だかつて思考した事すらなかった。  
「…さあ、どうであろうな。  
 俺は今まで一度も仕事が愉しいと思った事は無いし、  
 つまらぬと感じた事も無い。」  
やや間を置いた後、彼は抑揚の無い返事を返した。  
力丸の仕事は殺人である。  
彼は一個の殺人鬼として、この人界の闇に跋扈した。  
 
―この男は、やる。  
 
力丸の鮮やかな殺人術を目にした彩女は、一言そう思った。  
人の心臓に寸分違わず刃を付き入れた際に見せた彼の眼差しが、  
今も瞼の奥に焼き付いて離れない。  
 
―あれは、獣の目だ。  
 
と思った。  
人を殺めるにしても、呼吸一つ乱さず、眉一つ動かさない。  
それはまるで、鹿を仕留める狼の所作を思わせた。  
殺した死体は見ぐるみを剥ぎ、わざわざ山深くに捨てた。  
「何故そうするのだ?」と聞くと「畜生の餌食にする。」と言う返事が帰ってきた。  
死体の処理を、山野に巣食う肉食獣に任せようという魂胆らしい。  
 
「畜生の?」  
「…食わせてやる。」  
全くの無表情で力丸は答えた。  
「…そうかい。」  
 
彩女は深くは追求しなかったが、  
 
―この男は、人の命を何とも思っていない。  
 
力丸が見せた非情に刹那の恐怖を覚えつつも、  
同時に可笑しみの籠った清々しさも覚えてた。  
これは常人には理解し難い、乱破者特有の感覚なのかも知れない。  
彼らは日夜闇に潜伏して生きる事を定められた者供である。  
 
乱破者はしばしば世間を軽んじ、  
そこに生きる世人を見下す傾向にある。  
所詮世人などと言うものは、卑しい欲望と複雑怪奇なしがらみから死ぬまで遁れられずに、  
一生を世間と言う名の澱んだ檻の中で生きるしか術を知らぬ憐れな「家畜」であると、  
ある意味世を疎む聖のような眼差しを持って遠望している。  
 
ただ、「家畜」と言えば、乱破者もまた十分に家畜であろう。  
表の世界に繋がれた家畜か、裏の世界を蠢く家畜かの違いでしかない。  
勿論彼らにもその事は判っている。  
しかし、その家畜にも貴賎はある筈だ。  
大抵の乱破者は、以下の様な優越感を抱いて生きていた。  
 
―確かに我が身も家畜だ。ただし、我が身は気高い虎狼である。  
 世人のような惨めな犬猫とは違う。  
 
「家畜ではあるが、世人よりは孤高の存在である。」  
これが彼ら闇に潜む者を支える精神の拠り所であり、  
矜持と呼べるものであった。  
 
しかし乱破物の持つこのような感覚こそは、  
実の所世間や世人に対する限りない羨望と憧憬の裏返しに過ぎない。  
世界の達観者を気取っている乱破者も所詮人であり、  
そうである以上、ある者は平凡な家庭に憧れを持ち、  
またある者は世間の認知を欲している。  
世人並みに人の愛に飢え、人の温もりを求めて止まない者も、決して少なくは無い。  
 
しかし哀しいかな。  
乱破者である以上、彼らは生涯それらに手を触れる事すら出来ない定めの中に居た。  
この彼らの秘めたる欲求不満、  
いや、これはある種の飢餓感と言った方が良いかも知れないが、  
これを巧く昇華し、我が身を納得させるには、  
世間を捨てた聖になり切り、死ぬまで世人を侮蔑し続けるしか  
術が残されてはいなかったのである。  
 
そしてこの羨望と憧憬の入り混じった歪んだ飢餓感は、  
時に先程の力丸が見せたような冷酷な刃として表に現れる事となる。  
だからこそ、それを目の当たりにした彩女は感動した。  
やはりこの男は、我が身と同じ「世間の異物」であると思った。  
異物には異物にしか理解し得ない、  
排他的な同朋意識にも似た連帯感を覚えたのである。  
 
だが「不幸」にも既に主は滅び、彼らは意図せずに自由の身となった。  
自由を得た虎狼ほど、惨めなものはいないだろう。  
彼らは「世間の異物」であるが故に、世間で生きる術を知らなかった。  
取り分け力丸のような、獣の瞳を持つ人間ならば尚更だ。  
彼はもう生涯、世間の中で、人として生きる事は出来ない筈である。  
 
しかし。  
 
「ねえ、力丸さん。」  
「何だ。」  
「あんた、何か他の仕事をやってみる気は無いかい?」  
「他の仕事?」  
力丸は目を丸くした。  
これも彼の思考の範疇外の話であった。  
殺人鬼の仕事は殺人以外には無く、  
それ以外の事柄は全く未知の領域に等しい。  
 
「俺にその気は無い。」  
「どうしてだい。」  
「俺は…。」  
力丸が俯いた。  
「俺は田畑を持っておらぬし、物も造った事が無い。  
 金勘定も出来ぬ。」  
故に百姓も職人も商人も出来ぬ、と彼は言った。  
 
「俺には刃を握る事しか出来ぬ。」  
心無しか、声が沈んでいる。  
事実、彼は殺人以外の事柄に関しては、全くの無能であった。  
 
そして力丸は「ふう。」と一つ溜息を付きながら、  
「…ただ、餓鬼の頃、畜生の皮を剥いで幾ばくかの銭を得ていた事はある。  
 それだけだ。仕事といえば、今の仕事か皮剥ぎ以外の仕事は知らぬ。」  
彼はその後「…だが俺は畜生が好きだったから、皮剥ぎの仕事が嫌いであった。  
俺の友は、山の畜生以外には居なかったからな。」と続けた。  
 
二人は暫し沈黙する。  
 
やがて「ねえ。」少々離れて隣座していた彩女が、すさ、と腰を寄せて来た。  
「じゃあさ、炭焼きでも教えてやろうか。」  
「炭焼き?」  
力丸は彩女が腰を寄せた分、腰を離した。  
「…いや、結構。俺には出来ぬ。」  
「そんな事無いさ。あたいが教えてやる。」  
「お前は炭焼きとやらが出来るのか?」  
 
「あたいの前の亭主がさ。」と彩女はもう一つ、腰を寄せた。  
同様に力丸も、もう一つ腰を離す。  
「あ、亭主と言っても、向こうが勝手にそう思っていただけさ。  
 そう言うお役目だったんだ。あんたも乱破ならわかるだろ。」  
彼女は何やら言い訳染みた言葉を吐いた。  
乱破とは忍びの隠語である。  
彼女はかつて、とある城下に潜入し、そこで情報収集に当たっていた事があった。  
その際、彩女が化けた身分は、城下一の炭焼き窯元の主人の妾であった。  
 
「…そのあたいの亭主が、炭焼きの窯元だったんだよ。以外に大きな窯元でね。  
 地元の大名の屋形に炭を納めていたのさ。」  
そこでやり方を覚えたのだ、だからあんたに教えてやる、と彼女は言った。  
 
力丸は唇と尖らせながら黙考している。  
いや、困惑している、と言ったほうが良いかも知れない。  
やがて「…俺には出来ぬ。」指で地面を穿り返しつつ、言った。  
「何でさ。」  
「俺は今まで一度も炭焼きとやらをした事が無い。だから出来ぬ。」  
あっはは、と彩女は笑った。  
「そんな事は心配しなくて良いよ。あたいの亭主もさ、元は武士さ。  
 炭焼きなんか、これっぽっちもした事が無かった人だよ。」、  
 
力丸の指が止まった。  
「何故?」  
「何故?何がだい?」  
「何故、俺に炭焼きとやらをやらせようとする?」  
「あんたをこのまま乱破家業で死なせたくないからさ。」  
「俺を?何故?」  
 
彩女は返答に窮した。  
彼女は心密かに、この男に好意を抱いていたのだ。  
その理由は以下の通りである。  
 
―かつてあたいと任務を供にした男の中で、  
 この力丸ただ一人が、我が肉体を求めて来なかったから。  
 
生娘でもない女が男に好意を抱いた理由としては、真に青臭いものであるが、  
しかし流石にこの場で秘想を告げる事は躊躇われた。  
彩女の心身にもまた、乱破家業が染み付いている。  
 
口を開いたのは力丸の方だ。  
「…もし、俺がお前の言う炭焼きとやらをやらないと、どうなる?」  
「どうなる。」とは奇妙な疑問である。  
しかし、力丸に取っては至極当然の疑問であった。  
彼は己の任務を拒否した場合、或いは任務が失敗に終わった場合、  
速やかに抹殺される。  
従って、この場合に置いてもその規律が適応されると思い込んでいた。  
 
無論、彩女はそのような女では無い。  
「…別にどうもしないよ。」  
彼女は力丸を安心させる為に、軽く微笑んで見せた。  
「そうか。」力丸が安堵の溜息を付いた。  
 
彩女が再度腰を寄せて来た。  
「で、どうする?炭焼きをやってみるかい?」  
今度は力丸は動かなかった。  
「…判らぬ。」  
「…でも他に仕事が無いんだろ。  
 このまま渡り乱破(一時雇用の忍び)でもやるかい?  
 それともまた畜生の皮でも剥ぐかい?」  
「もう畜生の皮は剥がぬ。」  
この部分に関しては、力丸は毅然として宣言した。  
 
「…止むを得ぬ。このまま何処かで生きるだけ生きようと思う。  
 それで命運が尽きれば、やはり何処かで野垂れ死に、  
 今度は俺が畜生の餌食となろう。」  
 
「馬鹿。」と彩女は力丸の顔を覗き込んだ。  
「そんなの駄目さ。  
 だからあたいが炭焼きを教えてやるって言っているだろう?」  
力丸は沈黙した。  
暫くして「銭が欲しいのか?」  
「え?」彩女は一瞬、虚を突かれた。  
「何?銭だって?」  
「俺に炭焼きとやらを教えて、  
 見返りに銭を欲しているのであろう。」  
 
彩女は呆れた。苦笑している。  
しかし同時に、我が好意がこの朴念仁に  
卑賤な形で誤解されてしまった事に対して、  
少々の失望と哀しみを覚えていた。  
「違うよ。銭なんか要らないよ。」  
「只で、教えてくれるのか。  
 銭が欲しいのなら、別に炭焼きを教えてくれなくとも、  
 幾ばくかならくれてやっても良いが。お前には世話になったからな。」  
 
力丸に取って貨幣は、単に「円形の金属片」という存在でしかない。  
世人はこれを好むらしい、と言う事実は知識として持ってはいるものの、  
自身の体感としては、彼等の嗜好は到底理解出来るものでは無かった。  
従って、力丸はこれまでこの「円形の金属片」を、自らの欲望に任せてばら撒いたり、  
或いはそれとは間逆に、金属片が徐々に蓄積して行く様を愉しんだりした事はただの一度も無く、  
世俗的な生活とは掛け離れた、隠遁者にも似た日々を送っていた。  
 
銭が無いなら無いで、山野に分け入って山菜や川魚を採って食えば良いし、  
そうでなければ、野盗の真似事をして糧を得ても良かった。  
乱破者である彼には、その知識と技術がある。  
それで駄目なら、その時は潔く飢えて死ねば良いだけの話だ。  
この様に、力丸の経済観、ひいては死生観は、  
極めて短絡的であり、また簡潔なものであった。  
 
その為、この女が銭を好むのであれば、  
懐の「円形の金属片」を残らずくれてやっても良い、と思っている。  
 
しかし彩女もまた、「円形の金属片」を殊更好むような女ではない。  
「違う。銭が欲しいわけじゃない。」  
先程の力丸同様、彼女もまた毅然として言い放った。  
「あたいはただ、あんたに炭焼きを教えてやりたいだけさ。」  
「何故?」  
「…別に。何となくだよ。」  
 
ここでも彼女は、一度抱いた秘想を告げる事が出来なかった。  
蝶よ花よの生娘でもあるまいし、まさか  
「あんたは今まで一度もあたいの身体を欲しなかった。  
 あんたみたいな男は初めて見た。だからあんたの事が気に入った。」  
などとは、口が裂けても言えるものではない。  
ただ「教えてやりたいから、教えるだけだ。」とだけ言った。  
 
「そうか。」  
力丸もそれ以上の追求はして来ない。  
彼の場合  
「…そんなに俺に炭焼きとやらを教えたいとは、  
 変わっておるな。」と少々の驚愕を持って彩女を眺めている。  
 
「では、俺に炭焼きを教えてくれるのか。」  
「ああ、教えてやる。」  
「それは難しいのか?俺は阿呆だから、余り難しい事は出来ぬぞ。」  
「阿呆でも出来るさ。何せ、あたいの前の亭主にだって出来たんだから。」  
そう言って、彩女は笑った。  
 
「…そうか。」  
言いながら、力丸は天を仰いだ。  
そして暫し黙考した後、  
「どうしても、俺に炭焼きをやらせたいのか。」  
彩女の返答は「どうしても、やらせたい。」  
これが乱破の女なりの、秘想の告白であった。  
 
そうか、と力丸は呟いた。  
そして「…お前がやれというのなら、やってみよう。」  
彼は子供のような素直さで一つ、頷いた。  
 
日差しが暖かい。  
冬ももう終わりを告げようとしていた。  
 
 
それから力丸は彩女に連れられて、彼女の家に向った。  
道中、彼は「本当に俺に炭焼きが出来るのか。」と弱気の言葉を何度も吐いた。  
その度に彩女は「きっと出来るさ。出来るまで、あたいが教えてやる。」  
彼を安心させる言葉を掛けてやった。  
 
彩女の家は、深い山中に穿たれた窪地にぽつりと建っていた。  
「何故この様な辺鄙に庵を結んでいるのか?」  
常人ならば当然に抱く筈の疑問も、力丸は口にしなかった。  
ただ一言「俺の生まれ故郷に似ている。」とだけ呟いた。  
 
「狭くて悪いけれど。」と彩女は申し訳無さそうに眉を潜めた。  
事実、狭い。小さな土間と、二間四方の居間が一つあるだけの、方丈の庵である。  
しかし力丸は「別に構わぬ。」と気にも留めて居ない。  
 
任務の内容次第によっては、彼は半月も一月も山中に潜伏する事があった。  
薄汚い草庵とは言え、それに比べれば、雨風を凌げるだけでも上等と言える。  
 
「何にもなくて、恥ずかしいや。」  
客人に丸茣蓙を勧めながら、彩女は頭を掻いた。  
彼女の言葉通り、屋内には目ぼしい物は何も置かれて居ない。  
 
居間の片隅に小さな囲炉裏一つが設置され、  
その脇には僅かばかりの柴が積まれていた。  
反対側の隅には、薄い寝具が几帳面に折り畳まれて置かれている。  
しかしただそれだけである。  
装飾品の類は勿論の事、季節の花一輪、飾られていない。  
それが彼女の半生を雄弁に物語っていた。  
 
「待っていておくれ。今、お白湯でも飲ませてやるから。」  
立ち上がった彩女に向って、力丸は、  
「それより、早い所炭焼きとやらを教えてくれないか。」  
彼の表情は可笑しいほどに真剣であった。  
「いや、教えてやるけど、その前にお白湯でも…。」  
「白湯は良い。俺は炭焼きを教わりに来ただけだ。」  
彩女は一瞬呆気に取られ、次の瞬間には思わず噴出していた。  
 
―何だこの珍妙な男は。  
 
「いや、炭焼きも教えてやるけど、  
 その前に一休みしようじゃないか。」  
「別に疲れてはおらぬ。それよりも炭焼きを教えてくれ。  
 俺は一刻も早く、その炭焼きを体得してみたいのだ。」  
どうやらこの男、「炭焼きの技術」は、  
一朝一夕で身に付くものと勘違いしているらしい。  
故に今すぐにでも技術を体得し、  
早々にこの場から立ち去りたい、と考えているようだ。  
 
「あのね、力丸さん。炭焼きは、そんなに直ぐには覚えられないよ。」  
「…では、どのぐらいの日にちが必要だ?十日で出来るか?」  
「十日でも無理さ。…そうだね、早くても三月は掛かるね。」  
「三月も掛かるのか。」  
むう、と唸って、力丸は閉口した。  
「だからそんなに焦っても駄目さ。今お白湯を入れてやる。  
 少しぐらいゆっくりおし。それにほら、もう日も暮れるだろ?」  
言いつつも、彩女は既に囲炉裏に火を起し始めている。  
彼女の言う通り、表では既に日が暮れ始めていた。  
 
力丸はもう一度、むう、と唸った。  
日が暮れれば仕方が無い。  
「…では、白湯を貰おう。本当は俺も喉が渇いていた。」  
 
 
炭焼きの作業は、その翌日から始まった。  
 
まず、木材を炭化させる為の土製の窯を造った。  
この窯は庵の裏庭に造る事に決めた。  
 
「ささ、力丸さん。あたいの言う通りに窯を造ってみておくれ。」  
彩女が指示を出し、力丸がその手足となって製作に及んだ。  
この男、自ら思考し行動する事は苦手だが、  
一度命じられると、まるで機械の様な正確さと生真面目さを持って、事に当る。  
その力丸の奮闘もあって、窯は僅か三日で完成を見た。  
 
それからは、只管炭焼きの作業である。  
橡や楢などの木材を釜に投入し、後は根気良く火加減を見て、  
炭化するまで只管待ち続ける。この作業は非常な忍耐を必要とする。  
常に火を絶やさぬように注意し、  
それこそ徹夜で火の面倒を見続けなければならない。  
 
しかしその部分に関しては、  
この力丸ほど適した人材は存在しなかったかもしれない。  
彼は逐一彩女の指示に従いながら、驚異的な忍耐力と集中力とを発揮して、  
何ら失策を遂げる事無く仕事をやってのけた。  
 
その間力丸は、決して無駄口を叩かず、怠ける事もせず、  
師の彩女に対して口説き文句の一つも囁かず、ただただ炭焼きの人と化した。  
 
しかしこの男は幾分変わっている。  
奇人変人の類はこれまで何度も目にして来た彩女であったが  
力丸の場合、その彩女にすら奇異の目を向けさせた。  
 
仕事の合間に僅かな暇が出来た時などは、  
地面をじっと見つめたまま、微動だにしない。  
その姿はまるで、古の哲人がこの世の真理について  
思索している様にも見受けられるし、  
或いは山の獣のように、一切の思考の範疇外に佇んでいるようにも見える。  
 
食事は一日二食、彩女の拵えた物だけを食い、かわりを勧められても、  
「いや、もう良い。」と言って、それ以上は食わなかった。  
「酒を飲むか。」と聞いても、「要らぬ」と言い、  
「では、点珍(菓子)でも買ってきてやろうか。」と尋ねても、やはり頸を横に振る。  
 
ただ、「それでは、罠を仕掛けて鹿でも獲ってきてやろうか。  
鹿の肉はどうだ?精が付くだろう。」と聞かれた時だけは、激しく拒絶した。  
力丸は「要らぬ…!それだけは要らぬ…!」と子供のように激昂し、  
暫し彩女を唖然とさせた。  
 
しかし、それだけである。  
それ以外は、彩女に対してまるで山犬のように極めて従順、かつ忠実で、  
口答え一つしなかった。  
 
―本当に珍妙な男だ。  
 
彩女は今だかつて、このような変人を見た事が無かった。  
若い女と同棲しているというのに、決して彼女との同衾を望まないし、  
夜這いを掛けてくるといった事も無い。  
また、あわよくば手篭めにしてくれようなどといった邪心も見られ無い。  
 
彩女は一度、この男を試すつもりで、  
「あたいが夜伽の相手をしてやろうか。  
 あんたも男なら、女が必要だろう。  
 あたいなら別に構わないよ。」と誘った事があった。  
 
しかしその際も力丸は  
「俺に『夜伽』とやらは出来ぬ。  
 俺には皮剥ぎと、乱破家業しか出来ぬ。  
 後は少々、お前に教わった通り一遍、炭焼きが出来るぐらいだ。」  
こう言って、独りでさっさと寝てしまうのだ。  
 
彩女はもう呆れるばかり。  
更にしつこく誘ってみても、  
今度は寝た振りをしてやり過ごそうとするのだから、  
流石に女心にも複雑なしこりが残る。  
 
―この男は、女が嫌いなのか。それとも生粋の衆道家か?  
 
しかし一方で、これら力丸の奇妙な言動の数々は、見方によっては、  
人間らしい情緒や欲望が欠落している為だとも受け取れた。  
 
―この男は、人というよりも獣に近い。  
 …まるで獣を庵に住まわせているようだ。  
 
こう思う一方で、彩女は、  
 
―いやいや、そうではない。あたいの思った通り純情な男なのだ。   
 何故ならこの男は、あたいに一度も手を出そうとしなかった。  
 こんな男は初めて見た。確かに珍妙な男だが、こういうのも悪くは無い。  
 
この炭焼きの人に、相変わらず生娘のような好意を募らせてもいた。  
 
 
やがて日数が経過し、お互い打ち解けて来ると、  
力丸がぽつりぽつりと己の過去を明かし始めた。  
 
「俺の母(かか)は、淫売であった。」  
彼が最初に語ったのは、己の出生に付いてである。  
「故に俺は父(てて)の顔を知らぬ。母も俺の父が誰だか判らぬと言った。」  
 
二人は窯の前にドカリと置かれた丸太に並んで腰を掛け、  
火の具合を見ている。  
 
「俺の家にはしょっちゅう知らない男がやって来た。  
 幾人もだ。そしてやって来ては母を買っていった。  
 だがそれでも俺の家は貧乏であった。だから俺も銭を稼がなくてはならぬ。  
 俺は母を買いに来た客の紹介で、畜生の皮剥ぎの仕事を始めた。  
 確か、四つか五つか、それぐらいの時だ。」  
 
そう言いつつも、力丸は窯の中を覗き込む。  
火はまだ十分に燃えていた。  
 
「俺には弟や妹が居た。だが皆死んでしまった。  
 母が殺したのだ。産まれたばかりの弟や妹を、このように踏み付けて…。」  
 
力丸は薪の一本を地面に置き、無造作に踏み付けてみせた。  
 
「…皆、殺してしまった。俺は母に命じられて、  
 死んだばかりの弟や妹を裏山へと捨てに行った。  
 すると山の畜生供がやって来て、弟や妹を掻っ攫っていった。  
 山の畜生と俺は、その時に仲良くなったのだ。だから連中は俺の友であった。」   
   
言い終わると、彼は踏み付けていた薪を窯へと投げ入れた。  
 
「母は良く俺に向って、  
 『お前も間引かれたくなかったら、うんと畜生の皮を剥いで銭を稼げ。』と言った。  
 俺は間引かれたくなかったから、母の言う通りにうんと畜生の皮を剥いだ。  
 せっかく友になれたというのに、俺は片っ端から連中の皮を剥いだ。   
 しかし母はその後、病で死んだ。  
 俺は病の事は判らぬが、母は体中が腐って死んだ。」  
 
―唐瘡(梅毒)か。  
 
と彩女は察した。しかし何も言わない。  
沈黙したまま、戯れに小さな薪の一片を窯の中に放り入れた。  
 
「その後、俺はやはり畜生の皮剥ぎをして暮した。  
 俺にはそれしか出来ぬから、仕方あるまい。  
 …畜生は皆優しい連中ばかりだった。  
 村の連中のように、俺に石を投げたりしなかったし、  
 母のように、俺を殴り付けたりしなかったからな。」  
 
見ろ、と力丸は顔を彩女に向けた。  
「俺のこの眼は、母に殴られて潰されたのだ。」  
彼の右眼は醜く潰れていた。  
稲妻状の裂傷が、眼孔を縦に割っている。  
 
そして力丸はふふ、と自嘲を零しながら、  
「…しかし今となっては、これだけが俺の母の思い出となってしまった。  
 これでしか、俺は母を思い出せぬ。」  
彼の口許には幽かに笑みが浮かんでいた。  
今は亡き、母の姿を思い出したのだろうか。  
それにしても、痛ましい記憶である。  
 
そして彼は一つ溜息を吐き出し、今度はかか、と声に出して笑った。  
 
「…いや、畜生は本当に優しき連中ばかりであったよ。  
 人よりも、ずっとな。  
 故に俺は畜生の皮を剥ぐ度に『すまぬ、すまぬ。』と言いながら皮を剥いだ。  
 『俺はお前達が好きだ。お前達は俺の友だ。だから赦してくれ。』そう言いながら皮を剥いだ。」  
 
山の獣は、確かに孤独な彼の友であったのだろう。  
そして人は彼の敵(かたき)であった。  
 
「しかしな、幾ら俺に皮を剥れても、山の畜生は何も言わなかった。  
 俺に仕返しをする事もなかった。  
 ただ黙って、俺に皮を剥れるままとなっていた。  
 …ああ、今でも良く覚えているよ。  
 俺に皮を剥れる時の鹿の眼などはな、とても美しかった。  
 お前は黄金と言うものを見た事があるか。  
 世間の人間は、黄金がこの世で一番美しいと言う。  
 だが俺に言わせれば、この世で最も美しいものは、死んだ鹿の眼だ。  
 あの丸くて真っ黒く透き通った眼が、一番美しい。   
 世間のあらゆる財(たから)よりも、もっともっと美しい。」  
 
そこまで言うと、力丸は漸く言葉を止めた。  
そしてやや間を置いた後「…あの眼はお前の眼に似ている。」と感慨深げに呟いた。  
思わず彩女がその眼を伏せる。  
 
「…だから、俺は畜生が好きだった。  
 村の連中は、俺の顔を見ると俺に石を投げる。  
 母は、俺の顔を見ると俺を殴る。  
 だが畜生は、俺の顔を見ると俺の所に寄って来るのだよ。  
 もしかしたら俺の事を、同じ畜生と見たのかな。そうかも知れぬ。  
 何せ俺は村の連中に「山畜生の餓鬼」と呼ばれていたからな。  
 きっとそうだ。山の畜生は、俺を仲間と見たのだ。だから俺の所に寄って来たのだ。」  
 
感傷に溺れるでもない。彩女に同情を引かせようとするでもない。  
力丸はただただ淡々と、己の半生を語った。  
 
「…だがな、それから暫くして、俺の所に胡乱な野伏せり供がやって来た。  
 最初、俺はその者達の事を、俺の剥いだ皮を買ってくれる大人達かと思った。  
 何せ、その者供の中には、熊の毛皮の半纏などを身に付けておった者も居たからな。  
 俺はまだ熊を殺す事は出来なかったが、鹿や狐や狢ならば殺して皮を剥ぐ事が出来た。  
 だから俺の剥いだ獣の皮でも買ってくれるのかと思っていた。  
 しかし、違った。連中は親無しの俺をかどわかしに来たのだ。それが連中の仕事であった。   
 そして俺は連中が持っていたズタ袋の中に押し込められ、乱破者の里に連れて行かれた。  
 俺が八つか九つの時だ。」  
 
そこで俺は連中と同じ、乱破者になったのだ、と力丸は締めくくった。  
この彩女の庵と同様、余りにも簡潔、そして空虚な半生である。  
彼がこれまで歩んで来た道のりには、畜生の皮剥ぎと、そして殺人しかなかった。  
 
「…そうかい。」短く答えた彩女も、彼に同情した風は無い。  
ただ「あたいもあんたと同じ様なもんだ。」と小さく呟いた。  
彼女の黒目がちの瞳には、燃え盛る窯の炎が寸分違わずに映し出されていた。   
 
暫しの沈黙の後、力丸が独り言のように呟いた。  
「…何故、俺は畜生に生まれて来なかったのか。  
 俺は人ではなく、鹿に生まれたかった。」  
彼の氷のような瞳にも又、夜の闇を照らす炎が宿っている。  
 
 
       

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