「俺がいくさに出て手柄を稼いでくる。頸の一つでも獲れば暫くは暮らしていけるだろう。」  
宿の手代からいくさの話を聞きつけてきた力丸が、  
殆ど半裸のまま万年床に寝転び、一人双六遊びに興じていた彩女に告げた。  
 
この双六盤、木製の既製品を購入する金が無かった為、  
女主人から借りた安物の筆硯を用いて、  
美濃紙に枡目を書き付けだけの、貧相な代物である。  
サイコロは木片を小柄(小型のナイフ)で加工した、不恰好な六面体。  
駒に至っては、何の変哲も無い小石を代用としていた。  
何れも彩女に乞われて、力丸が即興で製作したものだ。  
 
その力丸の目線の先には、  
壁に立てかけたきり手入れもしていない護身用の打刀があった。  
本来なら対となるべき脇差も存在していたのだが、  
それは早々に売り払らわれ、宿賃に変えられてしまっている。  
 
「頸が取れなくても幾ばくかの稼ぎは手に入る。  
 お前はここで待っていてくれ。適当に稼いだらすぐに戻る。…戻れたらだけどな。」  
彼の投げやりな口調には「もうこのいくさで死んでしまっても良い」と言うような  
虚無感と脱力感が大いに含まれていた。  
 
それを敏感に感じ取った彩女は、  
「馬鹿だね。」  
そう言って気だるげに身を起した。  
途端に肩に掛かっていた夜着の合わせがするりと崩れ落ち、  
その拍子にまろび出た乳房が重そうに揺れた。  
彼女はそれを隠そうともせず、布団の上に胡坐をかきながら  
「あんたがそんなことする必要は無いんだよ。  
 あんたはもうずっとここで寝ていたって構いやしないんだ。  
 いざとなったらあたいが稼いであんたを食わせてやるからさ。  
 だから余計な心配は要らないよ。」  
そう言って、脇の下をぽりぽりと掻き毟った。     
 
ここに辿り着いてからというもの、  
碌に身体を拭った事も無かった為、全身のあちこちが痒い。  
彼女が胡坐をかいている万年床も、二人の汗や皮脂、  
そして体液に塗れて不快な湿り気を帯びているが、  
今となっては、互いにそれを気にもしないでいる。  
 
「そんなこといいからあんたもここで横におなりよ。  
 あたしと双六して遊ぼ。」  
手招きして双六遊びに誘ったものの、  
力丸は浮かない顔をしたままただ突っ立っているだけで、誘いに乗ってこない。  
「しかしもう銭が…。」  
力丸は、彼が都合が悪くなった時に何時もそうするように、  
眉間に皺を寄せ、不貞腐れた子供のように唇を尖らせた。  
 
それを見た彩女は、少々苛立たしげな表情を浮かべた。  
「銭の事なんかいいから、早くあたいと遊ぼ。」  
今度はやや強い口調で力丸を呼び寄せたが、しかしそれでも彼は、  
「そうは言っても、銭が無くなれば俺達はここから追い出されるぞ…。」  
相変わらず立ち尽くしたまま、愚図愚図と俯いている。  
 
彩女は呆れたように彼を一瞥すると、小さく溜息を付いて  
「あんたもいい加減臆病だね。銭なんてすぐ稼げるんだよ。  
 あたいに任せておきな。」  
 
彩女は簡単にそう言ったが、女が安易に金を稼ぐ手段はたった一つしかない。  
力丸は彩女に客を取らせたくはなかった。  
ただし、それは決して彼女の身を気遣った為ではない。  
自らの連れの女に春を鬻がせたとあっては、後々如何なる風評を立てられるか  
分かったものではない言う、身勝手な理由による物だ。  
「いくさに出たほうが稼げる。お前こそこうして寝ていてくれていい。」  
 
当時の戦争には、略奪目的で参戦してくる傭兵達が吐いて捨てるほどいた。  
戦闘のさなか有徳人(資産家)の屋敷に押し入り、  
労せずして大金を得た男の数も決して少なく無い。  
 
しかし彩女もまた力丸をいくさに赴かせたくなかった。  
「こっちのほうが安全だ。」  
いくさは稼げるかもしれないが、常に死と隣り合わせである。  
敵は勿論の事、味方ですら信用出来ない。  
何を略奪したところで、  
それを味方に奪われたついでに殺害される事など、日常茶飯事の世界なのだ。  
 
「運良く大将頸でも獲れば、一生遊んで暮らせる。」  
「そんなの無理さ。死んだらそれで終わりだよ。」  
 
―別に今死んだ所で。  
 
思わずそう吐き捨てかけて、力丸は沈黙した。  
彼にとっての「死」とは、若干の甘い響きと誘惑を伴ったものであるのに対し、  
一方の彩女にとってのそれはただ只管恐ろしく、忌むべき存在でしかない。  
故に、その台詞を吐けば彩女が悲しむだろうと思い、あわてて言葉を呑み込んだのだ。  
人間とも物の怪とも付かない今の生活に、悲しみは必要ない筈なのである。  
 
「今夜あたり、稼いでくるよ。」  
表には既に夕闇が迫っていた。  
「ここには貧乏人しか住んで無いみたいだけどね…はは、なぁに、数をこなせば平気さ。」  
この漁村に足を踏み入れた時に、痩せこけた身体の上に貧相な衣服を纏った  
貧しい漁師を何人か見かけた。彼らを相手にすれば幾ばくかの金になるであろう。  
例え彼らに金が無くとも、魚の一匹でも分けて貰えればそれで上等である。  
この世の果てでは、彩女の美貌と肉体ですら魚一匹と同等の価値を持つものでしかなかった。  
「あたいがちょっと本気を出してやればね、一刻で三、四人はちょろいもんさ。」  
 
彩女は「そんなことは何でもないんだ。」とばかり一つ欠伸をして、再び双六に戻っていった。  
それっきり、お互い後は沈黙である。  
彼女はそのまま一人賽を振り、出た目の数だけ駒を進めている。  
 
その日から、彩女は夕暮れ前になると宿を出、  
客を求めて漁村を徘徊し始めた。  
 
その間、力丸は特に為す事も無く、只管に孤独を弄ばねばならない。  
床の上には、彩女が遊び尽くした双六道具が散乱しているが、  
今更独り遊びに興じる気にもなれなかった。  
彼は冷たい床板の上に仰臥したまま、天井の梁をぼんやりと見つめ、  
時々思い出したように深い溜息を付く。  
 
そして田舎の山賊を思わせる、むさ苦しい無精髭を無意識の内に捻りながら、  
 
―俺の為した事は、やはり間違いだったのだろうか。  
 
薄暗い部屋の中で独り、力丸は何度も自問自答を繰り返した。  
 
―もし、俺がつまらぬ気を起さねば、  
 俺も彩女も平凡な人生を送る事が出来たのではなかろうか。  
 
そう自問して、即座に否、と否定した。  
 
―俺とあいつの人生に、平凡などと言うものはありえぬ。  
 どうせあのまま乱破として御屋形に飼われていても、  
 一生涯、身心を擦り減るまで扱き使われ、  
 野の獣のような生活を送るだけだ。  
 
これで良かったのだ、と力丸は半ば無理矢理納得した。  
過ぎ去った時間は決して戻らない。己の下した決断も、覆る事は無い。  
今更になって、別の可能性に想いを馳せ、  
また何を後悔した所で、全く無意味なのである。  
 
―俺達はほんの一時でも、人として生きる事が出来たのだ。  
 あの日より後は、最早余生だ。  
 俺も彩女も既に人の世から隠遁し、余生を送っているのだ。  
 考えてみれば、この村ほど人間の住処から遠く離れた所はあるまい。  
 この地こそが、そうとも。この世の果てなのだ。  
 だとすれば、人の世を棄てた俺達がこの地に辿り着いたのも、偶然では無い。  
   
「彩…。」  
 
この頃になると、既に力丸と彩女との間には、  
まともな会話など存在していなかったが、  
それでもこれまで常に傍らに居た女がいざ不在となると、  
途方も無い孤独感に苛まれるようになった。  
 
「彩…まだ帰って来ないのか。今頃何をしている。  
 俺の知らない男を悦ばせているのか。」  
 
力丸は、金銭と引き換えに、見ず知らずの男を前で  
一糸纏わぬ姿となり、巧みな手練手管を駆使して奉仕に勤しむ  
彩女の姿を想像した。  
男が彩女の胎内に侵入すると、彼女は商売女の嬌声を上げて答え、  
男が果てると、今度は頬を赤く染めて、  
その具合の程を大げさな表現を用いて賞賛する。  
力丸は何度も何度も寝返りを繰り返しながら、  
彩女と男の戯れる場面を思い描き、その都度歯噛みをし、溜息を付いた。  
 
―彩を抱きたいなぁ…。  
 
不毛な妄想に耽る度、  
胸を掻き毟られるような焦燥と供に、  
猛烈に彩女の肉体を味わいたくなった。  
彩女の肉厚の唇を吸い、乳房を頬張り、彼女の肉と言う肉を貪りつくし、  
その精妙な手練手管に身を任せ、やがて一つとなり、  
精根尽き果てるまで、迸りを注ぎ込みたいと胸を焦がした。  
 
それにしても、ついこの間までは、我が欲望の一端を  
ほんの一時受け止めるだけに過ぎなかった一個の肉塊に対して、  
力丸は何故、今更になってこれ程までの執着を抱き始めたのか。  
 
―若しかしたら、俺は彩に惚れていたのかも知れぬ。  
 
彼は何ら躊躇うことなく、そう結論付けた。  
 
―俺はあいつで女を知り、あいつは俺で男を知った。  
 あれから随分と戯れたものよ。それこそ数え切れぬほどにな。  
 彩の悦ばせ方を一番良く知っているのは俺であるし、  
 俺の悦ばせ方を一番良く知っているのは彩だ。   
 
力丸の記憶の中にある彩女との思い出は、  
少年時代、神社の軒下での日々を除けば、  
実はそれ程存在していない。  
 
二人が乱破者の里に引き渡されてからと言うもの、  
お互い顔を合わせる機会と言うものがめっきりと減った。  
しかしそれでも何とか暇や隙を見付けては逢瀬を重ね、  
その度に情を交わした。  
 
出会った当初は、力丸と殆ど大差無かった彩女の肉体が、  
年を追う事に肉付きを増し、丸みを帯びてくる驚愕と感動は、  
今尚、忘れる事が出来ない。  
 
闇夜の竹林、太陽の照りつける河原、人家の密集する路地裏、  
高台にある大岩の影、打ち棄てられた廃屋、  
田畑の途切れた所にある土手、咽るような草いきれの漂う草叢…  
その僅か四半刻にも満たない短い逢瀬の間、  
彼らは会話をする時間さえ惜しんで、互いの肉体を求め合った。  
 
いや、この二人に取っては、正に情交こそが、  
会話そのものであったと言って良いだろう。  
逢瀬の度に、力丸の肉体はより強靭に研ぎ澄まされ、  
彩女の手練手管はより巧妙さを増していくのが、手に取るように分かった。  
その事が二人の置かれている境遇を、何よりも雄弁に物語っていた。  
それを最も正確に、かつ迅速に理解する最良の方法が、  
会話ではなく、男女の営みだったのである。  
二人は互いの肉体と快楽を通して、無事を確認し合い、近況を報告し、  
時には戯言の一つでも述べたのだ。  
 
そして、あの日を迎えた。  
竹林で情を交えた後、  
普段ならば彩女の前から早々に立ち去ろうとする力丸が、  
何故かこの日に限っては、愚図愚図と留まっていた。  
暫くして、悲壮な覚悟を宿した眼差しで、  
彼は持参してきたズタ袋を開いた。  
 
「彩。つまらぬ乱破仕事はもう止めだ。  
 それより欲しいものを言え。何でも買ってやる。」  
 
彩女は早ければ夜半の内に、  
遅くとも早暁までには宿に帰ってくる。  
その際、幾ばくかの鐚銭を懐にしてくる時もあれば、  
数匹の干し魚のみが報酬と言う事もあった。  
 
力丸の待ち侘びている部屋に帰りつくと、  
彼女は無言のまま手土産を彼に渡し、  
後は寝床に倒れこむようにして、泥のように眠りに落ちる。  
 
―彩を抱きたいなぁ…。  
 
彩女の寝顔を横目で見る度に、力丸はそのように渇望した。  
彼女が日銭を稼いでくるようになって以来、  
力丸は例の日課を遠慮せざるを得なくなっている。  
 
褥で寝息を立てている彩女は、何とも艶かしかった。  
彼女が寝返りを打つ度に、素肌に纏わりついた薄い夜着が、  
その肉感的な姿態をより強調するが如く、扇情的に乱れた。  
その姿を目にすると、力丸はもう居ても立っても居られなくなり、  
彼女の艶姿を肴に自慰に耽るのだ。  
最初の内は、それで彼も身内の滾りを押さえる事が出来た。  
しかし半月も過ぎると、それも虚しくなった。  
       
今、力丸の目の前には、仕事に疲れ果て、  
眠り込んでいる彩女の姿があった。  
力丸は、音を立てぬように注意を払いながら、彼女の沈頭に寄り、  
改めてその姿態を観察した。自慰の肴にする為である。  
 
力丸の眼下では、彩女の呼吸に合わせ、夜着の下に収められた、  
豊かに盛り上がった彼女の二つの肉が、規則正しく上下していた。  
彼は彩女が目を覚まさないように気を付けながら、  
小袖の袷から、するりと手を差し入れてみた。  
 
―相変わらず、良い肉(しし)付きをしている。  
 これだけは、京女でも敵うまい。  
 
堪えきれずに、袷を開いてみる。  
その直後、  
「う…ううん…。」  
彩女の口から吐息が漏れ出した。  
はっ、と力丸の動きが止まった。  
しかし、目を覚ましたわけではなさそうである。  
彼女は何事も無かったかのように、  
再び小さな寝息を立て始め、力丸はほっと胸を撫で下ろした。  
 
彩女を起こさぬように、静かに袷を開いていくと、  
やがて彼女の豊かな乳房が露になった。  
白磁の柔肌に透かされて、青い血管が幾本も浮き出ている。  
その二つの肉は重力に従って、胸板の上に椀を伏せたように、丸く拉げていた。  
力丸は、彩女の左右の乳房を交互に揉みしだき、  
その柔らかな感触を愉しんだ。  
それに飽きると、今度は乳首を指の腹で優しく撫でてやる。  
すると、陥没していた乳頭が、見る見るうちに固くしこり立って来た。  
       
同時に、力丸の欲情も滾って来る。  
彼は左手で乳房を弄びながら、  
右手で褌の脇から屹立を取り出し、自慰に耽り始めた。  
 
―あの時のガリガリの小娘が、  
 このような円やかな乳房を持つ女になるとはな。  
 時の流れとは、何とも不思議なものよ。  
    
乳首を咥えようと、力丸が顔を近づけた瞬間、  
明らかに彩女の体臭とは異なった、据えた汗の臭いが彼の鼻腔の奥を付いた。  
あっ、と力丸が思わず息を止めた。  
思えば、彩女はほんの半刻ほど前まで、男と戯むれていたのである。  
彼女に染み付いていた不快臭は、  
力丸に改めて、連れの女の営む生々しい生業を思い起こさせた。  
 
―そうだ。この女は、俺の知らぬ行き擦りの男供に身体を開いて  
 銭を得て来たのだった。  
 
そう思った瞬間、焼け付くような嫉妬と供に、  
得体の知れない性的興奮が鎌首を擡げてくるのを、  
彼は抑える事が出来なかった。  
 
―.一体、どのように男達と戯れたのか。  
 何時も俺にするようにか。それとも、また違った方法でか。  
 
彩女が見ず知らずの男達に献身的な奉仕を施し、  
また彼らの思うまま身体を弄ばれた事を想像するにつれ、  
見慣れたはずの彼女の肉体が、  
また新たな魅力を放ち始めたような気がした。  
 
堪えきれず、力丸は一物の先端を、彩女の唇にぬっ、と押し当てた。  
途端、彼女の声を聞いた。  
「あんた何だい、いきなり…。  
 今はそんなモノ見たくないよ…。」  
眠りに付いていたとばかり思っていた彩女が、薄く目を見開いた。  
「あ、彩…寝ていたのではないのか…。」  
狼狽した力丸は、掠れた声を出した。  
実に滑稽な光景であった。  
仰向けに寝ている女の口許に、  
褌から一物を取り出した男が、その先端を突きつけている。  
 
大きく一つ溜息をついた彩女は、あからさまな嫌悪の表情を浮かべ  
「…後でにしておくれよ。あたいは眠いんだ…。」  
頸を大きく左右に振って男の要求を拒絶した。  
しかし、力丸の方としても、このまますごすごと  
引き下がる事が出来るような状況ではなかった。  
間抜けな行為を見咎められた以上、最早意地でも彩女を犯さなければ、  
男の沽券に関わる事になる。  
それに加え、彼の昂ぶりは、既に抑制が効かぬ所まで上り詰めていた。  
 
「いや、今してくれ。」  
力丸は彩女の後ろ髪を鷲掴みにし、  
今度は無理矢理口内へと割って入ろうとした。  
「ちょっ…嫌だ…嫌だったら…!」  
「いいから口を開けろ。舌を出せ。」  
「嫌だ…!お放しよ…!この乱暴者…!」  
「いいだろう。直ぐに済む。直ぐだ。  
 だから俺の言う事を聞け。」  
 
力丸は、普段から寡黙で、己の感情を露にする事も少ない男であるが、  
しかしだからと言って、温厚で理性的な人間と言うわけでは、決して無い。  
寧ろ、胸の内に秘めた鬱屈した情熱の赴くまま、  
突発的な行動に出易い人柄を有していた。  
 
立腹した力丸は、彩女の腰に申し訳程度に結わえ付けてあった腰帯を振り解き、  
力任せに夜着を剥ぎ取った。  
抵抗も虚しく彩女は全裸に剥かれ、  
湿った布団の上に転がされる格好となった。  
 
彩女は露となった肌を隠す事も無く、  
憤懣と侮蔑の込もった眼差しで、力丸を刺した。  
 
「…じゃあ、銭をお出し、銭を。  
 そうしたら、あんたの相手をしてやるから。」  
「何?何だと?」  
「銭だよ。銭。聞こえなかったのかい?」  
彩女は吐き棄てるようにそう言うと、  
力丸に向って、無造作に右の掌を突き出した。  
「お前…俺から銭を取ろうと言うのか。」  
「当たり前だろ。あたいはタダじゃ無いんだ。  
 あたいと交わいたいなら、銭をお出し。」  
「…おい、つまらぬ戯れをぬかすな。」  
「戯れ?そんな訳無いだろ。あたいは本気だよ。  
 あたいと交わいたかったら、銭と交換だ。  
 そうじゃなきゃ、させないよ。」  
「馬鹿を言うな。いいから俺の相手をしろ。」  
 
力丸は彩女が自分を嬲っているのだと思い、一度は立腹した。  
しかしどうにか怒りを圧し留め、  
「…なあ、いいだろう。少しぐらい。  
 俺はもう何日もお前を抱いていないのだ。  
 お前が恋しくて溜まらぬ。お前ほど慶い女子は居らぬ。」  
まるで駄々っ子を宥めるかのような穏やかな口調で、  
彩女を説得しようと試みた。  
しかし、彩女は頸を左右に振って、拒絶の意を露にする。  
「い、や、だ。今更優しい言葉を掛けたって駄目だよ。  
 この皮被りの甲斐性無しめ。全く、調子が良いったらありゃしない。」  
力丸の褌の前袋の脇からは、  
半分ほど包皮に覆われた屹立が、天を向いてそそり立っていた。  
 
「うんと時間を掛けて可愛がってやる。  
 腕に選りを掛けて、良い思いをさせてやる。  
 それなら良いだろう。」  
「外で十分に可愛がってもらったから、これ以上は結構さ。」  
「そのようなつれない事を言うな。  
 哀しくなるだろう。…なあ、彩。なあ。」  
そう言いながら、力丸が彩女の股間に手を伸ばした矢先、  
「だから嫌だって言ってるだろ…!  
 あたいを抱きたいなら、銭を出せ、銭を…!」  
投げ付けるかのような言葉と供に、彩女に手首を取られ、間接を捻られた。  
力丸は「あっ」と言う間に、身体を半回転させて床の上に転倒した。  
 
一瞬の空白の後、彼の目に映ったものは、いつもの煤けた梁であった。  
その瞬間、彼は我が身に起こった事態を悟った。  
「ふざけるな!」  
力丸は咄嗟に身を起こすと、雷火の如く喚いた。  
「何をするか!!俺が下手に出ていると思って、甘く見おって!!」  
 
彩女も負けてはいない。  
「はは、甘く見ているわけじゃあないよ。  
 だから銭をお出しって言ってるだろ。  
 銭さえ出してくれりゃあ、幾らでも抱かせてやるから。」  
彼女には、並みの男には後れを取らない程度の腕がある。  
先程見せた体術もその一端である。  
最も、それが手練の力丸相手に、どれ程通用するかは彼女にも定かではない。  
しかし力丸が幾ら激昂した所で、幼馴染の女相手に、  
手を上げるような人間でない事ぐらいは、彼女も熟知していた。  
そう言う意味においては、やはり彩女は連れの男を甘く見ていたと言って良い。  
 
「ほぅら、早く銭をお出しよ。  
 銭さえ出せばさ、あたいを好きに出来るんだよ。」  
彩女は自らの乳房を大げさに揺すって、力丸を挑発して見せた。  
「ほら、銭だよ、銭。あたいを抱きたいんだろ。  
 だったら銭をお出し。銭を。はは、今のあんたに出せるもんならね。  
 この乱破崩れの甲斐性無しめ。」  
 
力丸の顔面が、一瞬にして蒼白となった。  
一時期は、黄金二十一枚、銀三十六枚と言う財力を誇っていた彼も、  
今となっては一文無しの無宿人でしかない。  
彼も彩女も、所詮は出来星(成り上がり)の長者、  
一皮剥いてみれば、財産を貯蓄する方法も、管理運用に当てる方法も知らず、  
只管に浪費するしか能の無い、根無し草の七道の者に過ぎなかったのだ。  
 
「もう良いわ!!」  
怒りに任せて、大喝していた。  
「誰がお前のような売女と交わうか!!」  
       
激怒した力丸は、彩女の夜着をくしゃくしゃに丸めてその場に叩き付け、  
それを拾い上げては再び叩き付けると言う行為を、二度三度繰り返した。  
その余りにも子供染みた男の態度を見るに付け、  
彩女は大いに呆れると供に、失笑を禁じえなかった。  
いや、それは嘲笑と言っても差し支えないだろう。  
 
しかし彼女のその態度が、力丸の怒りに更なる火を付けた。  
彼は床に落ち夜着を拾い上げると、何を思ったか、  
今度は部屋の隅で埃を被っている彩女の小袖も引っ手繰るように手に取った。  
丸めた夜着の上に、更に小袖を覆い被せるようにして強く押し固め、  
最後に腰帯を縛り付けて固定すると、丁度、  
着物を用いて作られた鞠のようなものが出来上がった。  
 
「…一体何の真似だい。」  
彩女は連れの男の奇行を、相変わらず嘲笑うかのような眼差しで眺めている。  
返答を返す代わりに、力丸はこれまで硬く閉ざされていた鎧戸をがらりと開け放った。  
ぶ厚い暗雲を透過した滲んだ光が、室内の一角にするすると差し込んできた。  
 
「この売女め。」  
まるで唾棄するかの如く、一言毒づいた力丸は、  
今度は床に転がっていた火打石を手にした。  
これは煙管煙草に点火する為に、二人が用いているものである。  
石は大分磨り減っており、角が丸く取れていた。  
 
力丸は「俺を甘く見るな。」  
言うや否や、石を二、三強く打ち付け合って、事もあろうに  
その着物の鞠へと火を付けたではないか。  
石火は麻を用いて作られた小袖に引火し、瞬く間に燃え広がった。  
 
「な、何をするんだい…!」  
これには、流石の彩女も仰天した。  
彼女は慌てて身を起こしたが、しかし力丸はそれよりも早く、  
火の付いた鞠を、今度はぽおんと表に向って力一杯投げ捨てていた。  
鞠は庭先を五間も向こうに飛び、乾いた地面に転がった後、  
めらめらと本格的に燃え始めた。  
 
「あっ!あたいのべべが!」  
彩女が絶叫した。  
何しろ彼女の着物と言えば、普段着代わりに着用してる薄汚れた夜着か、  
そうでなければ旅装束でもあるあの小袖ぐらいしかない。  
その二着の着物が燃えてしまえば、彼女はもう着衣が無くなってしまう。  
 
「畜生め!」  
一言喚いた彩女は、脱兎の如く飛び上がると、  
裸のまま慌てて表に飛び出そうとした。  
しかし庭先まで後一歩と言う所で、力丸に押さえ込まれてしまった。  
 
彩女は遮二無二暴れた。  
「放せ!放せったら!」  
「俺の相手をしたら放してやる!」  
力丸の膂力は強靭である。  
武芸の経験があるとは言え、  
女の力では易々と太刀打ち出来るものではない。  
       
「糞っ!放せっ!放せっ!」  
「いいや、放さぬ!俺の相手をしなかった罰だ!」  
力丸は、剥き出しとなった彩女の乳房を力任せに握り潰した。  
彩女が悲鳴を上げた。  
「痛い!止めろ!何が罰だっ!畜生!放せよっ!糞っ!」  
「この身体で、一体何人の男の相手をして来たのだ!」  
力丸の指が、彩女の中心部分に侵入してきた。  
「彩!言ってみろ!ここで何人の男を愉しませてきたのだ!  
 …糞っ!この売女め!それなのに何故俺の相手が出来ぬ!」  
「五月蝿いっ!このろくでなし!誰があんたの相手なんかするか!」  
彼女は無意識の内に、力丸の二の腕に噛み付いた。  
今度悲鳴を上げるのは、力丸の番である。  
彩女を捕えていた彼の膂力が、僅かに緩んだ。  
 
彩女はその隙を見逃さなかった。  
生来の俊敏さで、彼女はするりと力丸の脇を抜けると、  
次の瞬間には驚異的な跳躍力を発揮し、  
殆ど一足飛びで表に飛び出していた。  
そのまま庭を数歩駆け出すと、背中で鎧戸が閉じられる音を聞いた。  
あっ、と思った時にはもう遅かった。  
鎧戸は完全に封印され、内側から用心棒も掛けられている。  
 
一瞬、彩女は目の前が真っ暗になるような感覚に襲われたが、  
 
―そ、それよりあたいのべべ…!  
 
刹那、思い直して頼みの綱の鞠に目をやった。しかしちらも時既に遅し。  
彩女のたった二着の着物は敢無く黒く焼け焦げ、  
最早着衣に耐え得る物ではなくなっていた。  
これでは、拾い上げた所で、何の役にも立つまい。  
哀れ、彩女は一糸纏わぬ姿のまま、  
寒風の吹き荒ぶ中を為す術も無く、途方に暮れている。  
 
表から回って、宿の玄関から屋内に入ろうかとも思ったが、止めた。  
玄関で、手代と旅人らしい髭面の牢人風の男が、  
何やら雑談を交わしていた為だ。  
彩女は宿の壁角にへばり付いて、恐る恐る聞き耳を立てた。  
どうやら彼らは、奇妙な男女の宿泊客の事柄、  
つまり力丸と彩女に付いてのあらぬ噂を話し合っているらしい。  
手代は、男女の人相から、その奇矯な生活態度、  
そして彩女の密やかな生業に至るまでを、  
虚実を取り混ぜながら語り、まるでお調子者の道化師宜しく、  
牢人風を笑わせている。  
彩女は赤面し、慌てて身を翻した。  
 
こうなっては是非も無かった。  
まことに口惜しいが、力丸の情けにすがるより他、術が無いようである。  
彼女は乳房を左腕で覆い隠しながら、先程の板戸の前まで来ると、  
「開けておくれ…!開けておくれったら…!  
 このままじゃ、寒くて風邪を引いちまうよ…!」  
周囲の者に気付かれぬ様、押し殺した声で我が身の窮状を訴えた。  
しかし力丸からの返事は無い。  
 
「ねえ…!ねえったら…!お願いだよ…!」  
彩女の口調に懇願の色が浮かび始めた。  
彼女が放り出された場所は、宿の西側に広がる荒地で、  
五間と離れていない前方南側には、  
漁師が頻繁が往来する小道が走っている。  
しかも周囲には目ぼしい樹木も存在せず、人家も疎らで、  
彼女が身を隠すべき場所は何処にも存在しない。  
 
「ねえ…!ねえ…!あたいが悪かったよ…!謝るよ…!だから…」  
言いかけて、彩女ははっと顔を上げた。  
小道の先から、数人の漁師がこちらにやってくるのが見えたのだ。  
今日の仕事を終え、海辺から帰ってきたのだろう。  
 
この宿から小道を挟んだ向かい側には、  
この村にたった一軒存在する、寂れた居酒屋が建っていた。  
彼らはそこに向かっているらしい。  
 
「ねえ…!ねえ…!人が来た…!見られちまう…!  
 早く開けとくれ…!後生だよ…!  
 あんたの相手する…!相手してやるから…!」  
狼狽した彩女が戸板をどんどんと叩くと、  
中の力丸から非情な返答が帰ってきた。  
 
「そいつは丁度良いではないか。  
 では早速その男供の伽の相手をして、銭を稼いで来たらどうだ。」  
 お前は銭が欲しいのだろうが。」  
 
見る見るうちに彩女の顔面が青ざめた。  
しかし次の瞬間、蒼白となった顔面は、一転、突如として烈火に燃え上がった。  
「この阿呆!!」  
手負いの野犬の如き大喝であった。  
「畜生!あたいを馬鹿にするな!この人でなし!人非人!」  
喚けば喚くほど、内奥から怒涛のように怒りが沸き上がってきた。  
彼女は、最早恥も外聞も捨て去り、  
乳房を振り乱し、陰部を曝け出しながら、金切り声の続く限り、  
戸板を拳で殴り付け、足で蹴り付けた。  
 
「糞っ!開けろ!開けろ!この碌で無しの甲斐性無し!  
 あたいが一体何をしたって言うんだ!何をしたって言うんだ!  
 ええ!?言ってみろ!言ってみろってんだ!このトウヘンボク!」  
形振りも構わぬ彩女の狂態に、道行く漁師の男達も気が付いたようだ。   
 
彼らは道の中央でぴたりと立ち止まると、  
互いに顔を見合わせ、暫く何事かを囁き合っていたが、  
その内の一人が恐る恐る彩女に声を掛けてきた。  
 
「な、何をしているのだ…この寒い中、そんな格好で…。」  
「五月蝿いっ!文句があるか!あっちへ行け!消え失せろ!」  
彩女は裸体を隠す事も無く、仁王立ちで男達を一喝した。  
 
仰天した彼らは、その場で身をぴしりと凍りつかせた。  
しかし、やがて彩女に命じられた通り、  
すごすごと遁げるようにその場から退散していった。  
恐らく狂女の類とでも思ったのだろう。  
 
そして、この時に退散したのは、何も漁師達だけではなかった。  
彩女は気付いていなかったのだが、  
密かに彼女の狂態を伺っていた手代と牢人風の男も、  
その余りの迫力に恐れ戦いて、慌てて何処かに身を隠していた。  
 
彩女の狂乱は更に激しさを増した。  
「畜生!畜生!あんたのせいだ!全部あんたのせいだ!  
 あんたがあたいを誑かさなければ、  
 きっと今頃あたいは何処かにお嫁に行っていたんだ!  
 それなのに畜生!何が金平糖だ!糞喰らえ!  
 帷子も櫛も簪も、みんなみんな糞喰らえ!  
 畜生!畜生!あんたなんか死んじまえ!」  
 
知らぬ間に、彼女の頬に涙が伝っていた。  
やがて力丸を罵倒する気力も、戸を叩く力も消え失せ、  
何時しか彼女はその場にぺたりとへたり込んで、  
わんわんと大声で泣き始めた。  
 
無論、その様子は屋内の力丸にも伝わっていた。  
彼は大いに困惑した。  
本人にしてみれば、悪辣であったとは言え、  
腹立ち紛れの悪戯の延長線上のつもりだったのだが、  
それでまさかあの気丈な彩女が泣くとは思わなかったのである。  
 
狼狽した力丸が、慌てて鎧戸を開放すると、  
彩女は裸体のまま、庭先に蹲って泣いていた。  
寒さによるものなのか、あるいは屈辱によるものなのかは分からぬが  
彼女の白い背中は細かく震えている。  
 
掛ける言葉が見付からなかった。  
またその余裕も無かった。  
彩女は力丸と目を合わせようとも、言葉を発しようともせず、  
力丸の脇をすり抜けて、屋内へと上がった。  
そのまま足を引き摺るようにして褥まで歩み寄ると、  
どさりとうつ伏せに倒れこんだ。  
 
力丸は、別段彩女に謝罪するわけでも無く、  
優しい言葉の一つでも掛ける事わけでも無く、  
不貞腐れたような表情でその場に佇んでいた。  
庭先から吹き付けてくる寒風が、  
まるで彼を責め立てるかの様に、その肌を刺して行った。  
その責め苦に耐え兼ねた力丸は、徐に鎧戸を閉め、何事かを呟いた。  
彼の言葉は、余りにも声量が乏しかった為、  
彩女には聞き取る事が出来なかったが、  
少なくともそれは、彼女に対する謝罪の言葉で無かった事は確かである。  
そしてその力丸はさっと身を翻すと、  
北側の壁に背を預けて、どかりと座り込んでしまった。  
 
それから半刻余りの時が流れた。  
若しかしたら、一刻以上の時が流れていたのかも知れない。  
いや、実際にはほんの僅かの時間の経過であったのかも知れないが、  
少なくとも針の筵に座している力丸にはそう感じた。  
時折、彩女にチラリと視線を送ってみるものの、  
彼女は褥の上にうつ伏せに横たわったまま、身動ぎ一つしない。  
 
―彩が、俺を嬲るからだ。  
 
彼は、彩女の形の良い尻を横目で見ながら、思った。  
 
―彩がつまらぬ事を言わなければ、  
 今頃俺は、お前を懇ろに可愛がってやっていたのに。  
 
「俺が悪かった。」とは言えなかった。  
これが赤の他人であったのなら、  
力丸はあっさりと謝意を表明していたであろうが、  
相手が竹馬の女であった事が災いして、  
素直に頭(こうべ)を垂れる事が、返って躊躇われたのである。  
その代わりに、卑劣な責任転嫁を繰り返す事で、  
良心の呵責を押さえ込もうとしたが、  
やがてそれも我が身を虚しくさせるだけだと言う事を悟った。  
 
兎に角、この寒空の下、  
何時までも彩女を裸体のままにしておく訳にもいかなかった。  
取り敢えずの詫びの印として、何か彼女に着せる物を入手してくる必要がある。  
 
―仕方が無い。何か着る物を買って来てやらなければ。  
 
力丸は、冬眠から目覚めたばかりの熊のように、  
緩慢な動作でのっそり立ち上がると、無言のまま居室を後にし、  
そのまま玄関を通って、宿の敷地内から一歩、外に踏み出した。  
表に出ると、海から吹き付けて来る冷たい潮風が骨身に凍みた。  
空に、何かちらちらと灰のようなものが舞っている。  
雪であった。力丸は思わず身を震わせ、白い息を一つ、吐き出した。  
どうやら本格的な冬の到来も間近に迫っているようである。  
 
小道の向こうに目をやると、  
この寒空の下、ボロボロの小袖を纏った乞食が一人、  
施しを求めて右往左往している姿が見えた。  
歩みに力が無い。今にも倒れそうである。  
 
―あの乞食は、この冬を越えられないだろう。  
 
自らの少年時代を思い起こした力丸は、  
何とも遣る瀬無い気持ちになった。  
そっと、懐を握り締めてみる。  
そこには組み紐に通された僅かばかりの一文銭があった。  
彩女が自らの女を売って稼ぎ出してきた金銭を、持ち出してきたのである。  
力丸は最初、このうちの幾枚かを乞食にくれてやろうと思った。  
しかし、声を掛ける段になって、何故か言葉が出なかった。  
理由は、彼自身にも良くわからない。  
ただ、あの憐れな乞食の姿に、自身の背負った宿業を重ね合わせて見るうちに、  
不覚にも足が竦んでしまったのである。  
愚図愚図戸惑っている内に、何時の間にか、乞食は力丸の視界から消えていた。  
 
力丸は乞食を探そうかと迷ったが、しかし彩女の事もある。  
仕方無く、彼は当初の目的を果す為、刈萱に縁取られた道を行った。  
道中、見かけた村民に示された通りに歩いてゆくと、  
村にたった一軒だけ存在する、雑貨屋を兼ねた古着屋に辿り着いた。  
 
そこで女物の古小袖を買った。  
継ぎ接ぎだらけの、安物である。  
その帰路、力丸は先程の乞食を無意識の内に探してみたが、  
しかし、乞食は彼の前に姿を現さなかった。  
その代わりに、道端で一人の痩せた雲水が、  
刈萱を踏みしめ、錫杖に凭れ掛かかるようにして、  
経文を唱えている姿が目に飛び込んで来た。  
 
この雲水、行きの道程には居なかった。  
力丸が古着屋に入った後に、ここにやってきたのだろう。  
力丸は雲水を無視してその前を通り過ぎようとしたが、  
その瞬間、雲水は疲労と懇願の籠った視線を力丸に投げかけ、  
経文の声量を一段上げた。  
 
―糞…。  
 
内心舌打ちをしつつも、力丸はその場に立ち止まった。  
そして懐から渋々例の一文銭を束ねた組み紐を取り出し、  
その中から一枚だけを取って、頸から掛けている鉢に入れてやろうとした。  
先程の乞食の代わりのつもりであった。  
しかし雲水は、それを鉢ではなく直接掌で受け取った。  
分厚く、肉刺の跡だらけの無骨な手であった。  
 
力丸から喜捨を受け取った雲水は、小さく会釈し、  
彼の温情に対する感謝の意を示した。  
しかしその途端、声量が元の調子に戻る。  
そんな彼の態度に立腹したのだろうか。  
力丸は雲水を振り返ろうともせずに、  
白い息を吐き出すと、暗雲に覆われた天を仰いだ。  
彩女が待っている。  
彼は、足を速めた。  
 
      
 

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