力丸が彩女の元へと帰り着くと、彼女はまだ布団の上に伏せっていた。  
「…彩。べべを買ってきたぞ。」  
ぶっきらぼうにそう言うと、  
力丸はなだらかな曲線を描いて隆起している彩女の背中に  
今し方購入してきたばかり古小袖をそっと掛けてやった。  
 
彩女からの返事は無かった。  
しかし、既に涙は乾いているようだ。嗚咽が漏れていると言う事も無い。  
力丸は若干安堵し、彼女の枕頭にどっかと胡坐をかいた。  
往復で四半里ほどの道を歩いただけに過ぎないというのに、  
何だか酷く疲れているように思えた。  
その原因の一つには、日頃の運動不足が挙げられるだろう。  
この宿において、力丸が為す運動行為といえば、  
一日二回、彩女を無造作に抱く事だけであったのだから。  
 
しかし、それだけでは無い。原因は、更にもう一つ存在した。  
こちらのほうが問題である。  
力丸は迷っていた。これを言おうか言うまいか、暫し葛藤に苛まれた。  
しかし、言わねばならなかった。ここから先の事は、彼の義務である。  
 
乾いた雑巾を絞り切るが如く、  
力丸は心底に押し込められていた勇気を奮い起こし、  
「…彩。話しがある。」  
漸くそれだけの言葉を吐き出した。  
彩女の反応は無かった。  
彼はそれにも構わずに、話を続けた。  
     
「お前、俺の嫁になれ。」  
力丸の話は常に単刀直入である。彼は美辞麗句の類を一切知らない。  
まず結論から先に述べ、気が向けばその結論に至った理由を述べる。  
しかし、その力丸の結論は、彩女の想像を遥かに凌駕したものであった。  
沈黙から一転、彼女は伏せていた顔をがばりと上げ、連れの男の面を仰いだ。  
あからさまな疑念の眼差しを、力丸に突き刺している。  
 
「お前を俺の嫁にしてやる。」  
力丸は臆する事無く、再度、同じ事を言った。  
 
最早彩女の表情に、憤怒の様は見られなかった。  
力丸の非道に対する憤懣を露にする以上に、  
彼の唐突な言葉は、彼女を驚愕させていたのである。  
「…どうして…突然そんな事を…。」  
 
力丸は彩女の声を久しぶりに聞いたような気がした。  
彼は、「ああ、それはだな。」と暫く考える素振りを見せた後、  
「…表を歩いていたら、ふと、昔の約束を思い出してな。それでだ。」  
まるで独り言を呟くかのように、抑揚の無い声でその理由を告げた。  
 
「約束…?」  
最初、彩女は不審を露にし、続いて困惑したが、  
やがて記憶の奥底で眠っていた力丸と約束事を掘り起こすと、  
「ああ、あれか。」と頷いた。  
 
「子供の頃の約束だろ?社の軒下に居た頃の…。」  
「ああ。そうだ。蝉の子のように暮していた頃のな。」  
「…でも…何故、突然そんな事を…。」  
 
彩女が怪訝そうな視線を向けるのも無理は無い。  
何しろこの約束は、彼女ですら殆ど忘れかけていたものなのだ。  
おまけにこの直後に、村人から苛烈な暴行を受けたと言う事もあり、  
彼女は意識的にこの記憶を封印していた。  
 
力丸がからりと答えた。  
「今言った通りだ。表を歩いていたら、突然お前との約束を思い出したのだ。  
 そうしたら、今にでもその約束を叶えぬと、何とも気分が悪くなった。」  
 
それを聞いた彩女は、  
 
―何ともおかしな男だ。  
 
と眉を顰めたが、同時に、  
 
―いや、若しかしたら、これがこの男なりの和睦の方法なのかもしれない。  
 
とも推測した。  
力丸の無粋と不器用は、これまでにもしばしば彩女を呆れさせたが、  
こと、今日の彼の突拍子も無い言動は、それに輪を掛けて酷いものであった。  
だからこそ、彩女は思わず笑ってしまった。  
 
「あっははははは…あたいが?甲斐性無しのあんたのお嫁に?」  
「ああ、そう言う約束だったからな。」  
「あっははははは…今更そんな子供染みた事を。」  
「そうかもしれぬ。だが、約束は約束だ。お前との約束は、守らねばな。」  
薄暗い部屋の中に、憐れな程透き通った瞳が一つ、  
まるで蛍火のように浮かび上がった。  
彩女の面から笑いが消えた。双方供に、押し黙る。  
 
「…いや、でもさ。」  
沈黙を嫌った彩女は、何とか会話を続けようと言葉を捜した。  
「…でもさ、あたいが、嫌だって言ったらどうするんだい?」  
力丸のたった一つの眼球に、彩女の裸体が寸分違わずに映し出されている。  
彼女はその鏡に映る我が身を覗き込みながら言った。  
 
「それは、困るな。」  
鏡から、ふと、彩女の姿が消えた。  
力丸が、哀しげに目を伏せたのである。  
「…困るかい?」  
「ああ、困る。それでは、約束を守ってやる事が出来ぬ。」  
 
彩女は一瞬、この男は馬鹿なのではないかと思った。  
先程の非道を詫びる事もせずに、  
突然、少年時代の「約束」云々を持ち出してきたのである。  
和睦を図りたいのであれば、一言詫びればそれで済むはずなのだ。  
それで彩女は力丸を赦す。  
彼女には、この朴念仁の意図が全く読めなかった。  
 
「…どうしようかね。  
 だって、あんた、あたいにあんなに酷い事をするんだもの。」  
「もうこれからは二度とはせぬ。本当だ。」  
「本当かい?」  
「ああ、本当だ。二度とはせぬ。約束する。  
 嘘ではないぞ。二度とはせぬ。本当だ。」  
力丸は怒ったような口調で、同じ言葉を繰り返し述べた。  
 
ふむ、と彩女は閉口した。  
或いはこれは、彼一流の諧謔か何かなのではとも疑った。  
しかしこの無愛想な朴念仁に、そのような高度な芸当が出来る筈も無い。  
その証拠に、力丸は相変わらず、  
沈痛な面持ちで床板を睨みつけているだけである。  
 
やがて、彼は溜息と供に呟いた。  
「…やはり駄目かね。俺では。」  
自嘲の為か、或いは諦念の為か、  
そうでなければ彩女の同情を引く為かはわからぬが  
力丸の仏頂面には、幽かな微笑が差していた。  
 
それを目にした瞬間、彩女は思わず泣きたくなった。  
この男が心底邪悪な人間で無い事は、  
何より彼女が一番良く知っている。  
 
親も無く、身分も無く、金も無く、  
縁も、学問も、将来も無い七道の力丸がただ一つ、  
彩女に対して捧げる事が出来るものといえば、  
これまでも、そしてこれからも「約束」の名を借りた、  
憐れな優しさ以外には無かったのだから。  
 
―恐らく、これは今し方の非道に対する、  
 この男なりの不器用な詫びのつもりなのであろう。  
 
彩女はそう確信した。  
このような辺境に落ち延びて尚、  
少年時代の約束とやらを引っ張り出すしか術の無い力丸が、  
何とも滑稽で、気の毒に思えた。  
 
彩女は、力丸を赦そうと思った。  
そしてその方法は、たった一つしかない。  
彼女は、力丸が購入して来た古小袖の袖に両腕を通すと、  
帯をきっちりと締めこんだ。  
 
「…あんた、そんなにあたいをお嫁にしたいのかい。」  
「ああ、そう言う約束だからな。」  
「ふうん…でももう二度とあんな事をしないって、誓えるかい?」  
「ああ、誓うとも。」  
「今度同じ事をしたら、その時は離縁だよ。」  
「ああ、わかった。」  
「本当にわかったのかい?」  
「ああ、本当にわかった。」  
 
彩女は呆れたように笑った。  
「…じゃあ、あんたの好きにおし。」  
「では、俺の嫁になっても良いか。」  
「ああ、いいよ。」  
「…そうか。すまぬな。これで俺の肩の荷も降りたわ。」  
薄暗い部屋の中に、力丸の白い歯が浮かんで消えた。  
何とも奇妙なやり取りである。  
この奇妙なやり取りを経て、二人は夫婦となった。  
 
「では、夫婦となった暁に、身でも清めようか。」と力丸が言い出した。  
これまでの怠惰な生活を象徴するかのように  
二人の体には、垢や皮脂がこびり付き、不快な異臭を漂わせている。  
「折角の晴れの日に、このような有様では、余りに格好が付かぬからな。」  
試しに力丸が腕を軽く擦ってみると、浮き上がった垢がぽろぽろと剥落した。  
 
彩女が「それはいいね。」と賛同すると、力丸は  
「湯を持ってくるから、待っていろ。」  
と言い残し、手代の元へと向った。  
暫くして、力丸は手代に沸かせた湯を盥に入れて、帰ってきた。  
二人は早速着物を脱ぎ捨てて全裸になると、  
手拭を湯の中に浸して互いの身体を拭きあった。  
 
「おや、少し肥えたんじゃないのかい?」  
力丸の胸に手拭を当てた彩女が、彼の腹回りの肉を軽く摘んだ。  
痩せぎすで筋肉質だった彼の身体は、確かに少々の脂肪によって覆われている。  
しかしそれも当然であろう。  
お互い朝っぱらから酒をかっ喰らい、  
ろくな運動もせず惰眠を貪っていたのだから。  
「お前も人の事は言えないだろう。」  
力丸がお返しとばかり彩女の乳房に触れた。  
「馬鹿!助平!そっちじゃないだろ!」  
笑いながら力丸の胸を一つ張った。  
「では、こっちか。」今度触れたのは彼女の尻だ。  
「こら…!こら…!お止め!」  
力丸はきゃあきゃあ喚いて悪餓鬼から逃れようとする。  
 
しかし彼女も負けてはいない。今度はこちらが反撃する番だ。  
「あんたのこれを中までよーく綺麗にしてやる。」  
思わせぶりな台詞を吐いて、彩女が力丸の中心部に手を伸ばし始めた。  
それを寸でで交わした力丸がさらに反撃に転じ、  
今度は彩女の中心に触れようと手を伸ばすが、  
やはり彼女もひらりと身体を捻ってそれを赦さない。  
「こら、大人しくしてな。あたいが綺麗にしてやるって言ってるだろ。」  
「ここは自分でやるからいい。お前こそ大人しくしていろ。」  
「生意気な事を言う子だね。それなら無理矢理にでも綺麗にしてやる。」  
「やれるものならやってみろ。」  
「言ったね。じゃあお望み通りそうしてやる。」  
 
一糸纏わぬ姿の男女は、狭い部屋の中でお互いを追い掛け回し、  
身体に触れあっては笑い、盥のお湯を掬って引っ掛けては騒ぎ立て、  
それはもう幼いあの日に帰ったかのように戯れた。  
 
―これは一体何の騒ぎだ。  
 
突如として沸き起こった喧騒の真相を突き止めようと、  
例の手代が忍び足でやってきた。  
部屋の手前まで来た彼の耳に、  
「こら!馬鹿!お止め!」と言う女の声が飛び込んで来た。  
次に「後ろは壁だ。もう逃げられぬぞ。」と言う男の声が聞こえてくる。  
そうかと思うと今度は「この皮被りめ!あたしが全部引っぺがしてやる!」と女が喚き、  
男の「く、来るな!」と言う慌てふためく声がする。  
 
―何だ…何をやっているのだ…?  
 
手代は恐れた。この男女が殺し合いでも演じているのかと思ったためだ。  
しかしそれにしては様子がおかしい。  
時折女の甘ったるい嬌声や、男が愉しそうに笑う声まで聞こえてくる。  
殺し合いをしている人間の発する声ではない。  
 
手代は逡巡したが、万が一修羅場などが展開されていた場合の事を考えて、  
悪いとは思いつつも無断で部屋の障子を少し開け、中の様子を覗き見た。  
 
―何だこの有様は。この客は物狂いか。  
 
彼にはそうとしか思えなかった。  
前から奇矯な客であるとは思っていたが、ここに来てそれが確信に変わった。  
何しろいい歳をした男女が、こともあろうに真っ裸になって、  
狭い部屋の中で鬼ごっこに興じ、互いの秘所に手を伸ばしあい、  
自分がやった盥の湯をぶちまけて騒いでいるのだ。  
 
だが当の男女は、すぐ表で呆然としている手代にも  
気が付いていないようである。  
女は上半身の肉を、男は下半身の突起を大いに揺らしながら、  
相変わらず子供のようにはしゃぎ回り、馬鹿のようにふざけあっている。  
 
暫くすると体中びしょ濡れになった二人が、  
部屋の真ん中で突然「ひし」と抱き合った。  
これ以上無いくらいに強く胸を密着させ、  
後ろに回された掌で互いの背中や尻を撫で回しながら  
耳元で何かを囁きあっている。  
 
「手代に見られているぞ。」  
「知ってるよ。」  
「いいのか?見られても。」  
「別に減るもんじゃ無し、構いやしないよ。」  
「俺はちょっと嫌だな。」  
「皮被りぐらいどうってこたないだろ。」  
「いや、そうじゃなくてお前のほうだ。」  
「はは、あんた若しかして妬いているのかい?」  
「馬鹿。そう言う訳じゃなくて…。」  
「そうなんだろ。正直にお言い。」」  
「…違う。男の俺は見られてもいいが、女のお前が困ると思っただけで…。」  
「いいのさいいのさ。あたし達に隠すものなんて何も無いんだから。  
 見せてやりゃいいんだよ。」  
 
一体どのような睦言を交わしていたのかは知らないが、女がにやりと笑ったかと思うと、  
突然お互いの身体を離し、再びあの下にも付かない狂騒に舞い戻るのだから  
訳がわからぬ上に気味の悪い事この上ない。  
 
最初手代はこの馬鹿騒ぎをしている男女を咎めようとした。  
しかしよくよく考えてみると、今この宿に宿泊しているのはこの男女しかおらず、  
彼らの迷惑となるような客は存在しない。  
 
―放っておこう。この客は物狂いだ。下手にかかわらないほうがいい。  
 
これまでこの宿から一歩も外へ出ず、部屋を締め切ったまま手代の干渉を赦さず、  
布団も干させず掃除もさせず、ただ只管沈黙してきた彼らが  
今日に限っては、裸で馬鹿騒ぎをしている。  
これはもう物狂いか、そうでなければ狐憑きとしか思えない。  
手代は及び腰で男女の部屋の前から姿を消した。  
 
―気味の悪い客を泊めてしまった。早い所この宿を出て行ってくれないものか。  
 
手代は溜息を付いて後ろを振り返ると、  
物狂いの乱舞する部屋を恨めしげに見つめた。  
彼の耳には、まるで季節外れの蝉しぐれのような、  
あの男女の狂騒が、今尚届いている。  
 
 
子供染みた遊びに疲れると、二人は壁に背中を預けて座り、  
手を繋いだまま寄り添った。  
改めて見回すと、部屋中嵐でも過ぎ去ったかのようにびしょ濡れである。  
口まで満たされていた盥の湯がもう殆ど残っていない。  
しかしこの不始末を二人は全く気にしていなかった。濡れた床は後で拭けばよい。  
そんな事より今はこの一時が何よりも大事であった。  
 
「ああ、面白かった。」  
彩女は満足げに溜息を付くと、力丸の肩にふんわりと頭を乗せた。  
この地に辿り着いて以来、まともに身体すら動かしていなかった。  
朝も早くから馬鹿騒ぎすることで、身も心も軽くなったような気がした。  
力丸も同感する。  
「ああ、面白かったな。」  
お互い「くっくっくっ」と悪餓鬼の笑みを漏らし、続いて大きく笑った。  
最後にこんなに笑ったのは、一体何時の事だったであろうか。  
今では思い出すことすら出来ない。  
 
暫くして、彩女が  
「ねえ、口を吸っておくれ。」  
見ると彼女は口を大きく開け、舌を半分べろりと出してこちらを見ている。  
力丸は一見して了解した。  
彩女同様、彼もまた舌をべろりと出し、  
お互いの味を確かめるべく顔を近づけた。  
 
彩女の鼻息が力丸の舌を擽った瞬間、  
「あ。」  
彩女が大きく顔を仰け反らせ、眉を顰めた。  
「何だ?」焦らされて、力丸は不服の籠った眼差しを向ける。  
 
「あんた、お髭を剃ってやる。」  
「髭だと?」  
「ああ、お髭さ。だってあんた、とてもむさ苦しいもの。  
 まるで、山賊の頭みたいだ。」  
そう言って、彩女はケラケラと笑った。  
力丸が最後に髭を剃ったのは、一体何時の事だったであろうか。  
元々彼は身嗜みには無頓着な男であったが、  
ここに辿り着いて以来、その風体は日に日に、  
無様な様を晒すようになっていた。  
 
「後でいい。今は…」  
せっかく興が乗ってきたと言うのに、  
下らない用事で中断されては面白くない。  
口を尖らせながら不満を漏らす力丸に彩女は、  
「今じゃないと駄目さ。後でじゃ忘れちまうかもしれないだろ。」  
彩女の言うとおり、彼女の記憶力には今ひとつ頼りないところがあった。  
その為、思いついたらすぐにでも実行に移さないと気がすまない性質なのである。  
 
それに目の前にあった力丸の髭面は、昨日にも増して、むさ苦しかった。  
女房としては、それを放って置くわけにも行かない。  
 
彩女は「ちょっとお待ち。」言い終わらぬうちに、  
「すわ」と立ち上がると、  
何日も開けていなかった荷物の前でしゃがみ込み、  
その封を解いて剃刀を物色し始めた。  
「どこにいっちまったっけ…確かこの辺りにあった筈なんだけどねぇ…。」  
長らく中身を確認していなかったので、剃刀の所在が中々掴めない。  
彼女は今度は四つん這いになり、荷物の中身を一々床の上に出して剃刀の探索を始めた。  
 
その直ぐ真後ろに居る力丸には、  
彩女の尻とその中心部分が丸見えとなっている。  
彼女が荷物を一つ取り出すたびに、  
それはまるで力丸を誘うかのように、怪しく胎動した。  
 
―ほう、これは絶景かな。  
 
力丸は目を細めた。  
そして更に間近で観賞しようと、  
身を屈めて彼女の露な部分に見入った。  
 
「…すっかり見飽きたとばかりと思っていたが、  
 こうして改めて見てみると、やはり良いものだな。」  
「え?何がだい?」  
彩女は間延びした返答を返した。  
彼女は今だ、荷物と格闘している。  
 
力丸は好色そうな笑みを浮かべながら、  
彩女に気づかれないよう、恐る恐る顔を近づけた。  
 
しかしその時、  
「おや、あった!」  
彩女がむくりと起き上がった。  
どうやら目当てのものを発見したようである。  
彼女の手には、小さな剃刀が握られていた。  
 
力丸は慌てて元の壁に引き下がったものの、  
「全く、何してんだい。この助平め。」  
彩女には彼の企みが全てお見通しだったらしい。  
「そんな事をすると、これであんたの皮を切り取っちまうよ。」  
剃刀の刃を突きつけながら、恐ろしい事をさらりと口にしてくる。  
これには流石の力丸も恐れ戦き、  
「すまん。もうしない。」と平に頭を下げるしかない。  
 
彩女は笑いながら  
「ははは、冗談さ。あたいがそんな事をするわけが無いだろ?。  
 だってあたいも、そのほうが好きだもの。…ほら、赦してやるから顔をお上げ。」  
彼女は力丸に胡坐をかかせると、自らはその対面に座した。  
そして桶の残り湯を使って彼の髭を湿らせ、剃刀を当てて髭を剃り始めた。  
 
水分をたっぷりと含んだ力丸の髭は、少し剃刀を滑らせるだけで、  
面白いように良く剃れた。  
この男とは長い付き合いであるが、  
それでもその髭を剃ると言う経験は、これが初めてである。  
その為、何だか不精者の亭主の世話を焼いているようで  
照れ臭いやら嬉しいやら、彩女の心中は喜びに高鳴った。  
 
「ねえ、ついでに頭もやってもいいかい?」  
この喜びを、髭だけで終わらせるのは惜しい、と彼女は思った。  
「何?頭もか?」  
「ああ。ついでだからさ。  
 だってあんたの頭も、まるで山賊みたいだもの。」  
「頭も山賊か。」  
彼はかか、と快活に笑った。  
「ああ。やってくれ。  
 確かに今の俺は、山賊と大して違わないだろうからな。」  
 
髭を剃り終えると、山賊面が多少マシになった。  
元々顎の線が細い男であるだけに、髭が失われると、  
途端に面に元の精悍さが戻ってくる。  
 
―やはりこの男は、慶(い)い男だ。  
 
と彩女は密かに内心を熱くした。  
 
「じゃあ、次は頭をやるよ。」  
約束通り、彩女は頭のほうに取り掛かった。  
力丸の眼前には、淡い桜色をした彩女の豊かな果実が二つ、柔らかく実っている。  
彼女が剃刀を動かす度に、それは確かな重量感を伴ってたわやかに揺れた。  
 
力丸の両の掌は無意識のうちにそれを包み込んでいた。  
「こら、危ないだろ。」  
彩女は擽ったそうに身を捩った。  
苦笑しながら彼の悪戯を非難したが、しかしそれを決して止めろとは言わない。  
「いい子だから大人しく遊んでな。」  
そう言ってこの悪戯を容認した。  
 
力丸がそうして遊んでいると、やがて屹立に力が籠ってきた。  
「ねえ。」  
彩女はちらちらと、その昂ぶりに視線を移しながら、  
「これが終わったら、あたいを抱いておくれ。」  
彼女の頬は、うっすらと情欲に染まっていた。  
「…それはどうであろうな。何せ、お前を抱くには銭が掛かるのだろう?」  
この期に及んで、力丸は意地の悪い事を言う。  
「あれは嘘さ。もう忘れておくれ。」  
「では、只か?」  
「ああ、只だよ。だってあたい達はもう夫婦だ。」  
そうか、それもそうだな、と力丸は笑った。  
 
「ほら、綺麗になった。」  
彼の頭を青々と剃り上げた彩女が自慢げに鼻を鳴らした。  
そして自分の仕上げた芸術作品を見回しながらさも可笑しそうに、  
「あんたはすっかりお坊様みたいだ。」  
「変か?」  
「変じゃないよ。凄く可愛いや。」  
目を細めながら、力丸の頭をつるつる撫で回す。  
 
すると、力丸が突然無茶苦茶な経文を唱え始めたではないか。  
彩女は笑うよりもまず、仰天した。  
普段から気難しい一面のある力丸は、  
この手の諧謔を好まないし、また理解する度量も無い。  
生真面目さだけが、取得の男である。  
 
しかし今、目の前で滑稽芸を演じる彼の、  
場末の道化師さながらの陽気さは、一体何事であろうか。  
若しかすると、むさ苦しい髭や頭髪と供に、  
彼の精神を冒していた鬱屈した靄も  
綺麗さっぱりと消え去ったのかもしれない。  
 
ここで漸く彩女が噴出した。  
「馬鹿!罰が当るからお止め!」  
しかしこの生臭坊主は読経を止めようとはとせず、  
更に大声で出鱈目な文言を唱える始末である。  
「この罰当たり!」  
彩女はもう堪えきれず、  
大声で笑いながら坊主頭を胸に抱きしめていた。  
 
後はもう、我を忘れて互いを貪りあうだけである。  
 
存分に戯れて、漸く疲れた。  
力丸は彩女を背後から抱き抱えるようにして、胡坐の上に乗せると  
指の腹を使って、飽く事無く二つの乳首を転がしている。  
 
暫くして、言った。  
「…彩。ひとつ良い物を見せてやる。」  
振り返った彩女は、柔らかく相好を崩した。  
「何だい?良いものって。」  
「今は内緒だ。良い物を見せるには、暫し支度が要る。それまで少し待て。」  
「おや、待てってどれぐらいだい?あたいは今直ぐに見たいよ。」  
 
一体この男は自分に何を見せるつもりなのであろうか。  
特に事前から準備をしていた気配が無い事から察するに、  
恐らく他愛も無いものなのであろうが、  
それでも今の彩女には十分に好奇心を刺激される話しである。  
 
「ねえ、何なのさ。ちょっとぐらい教えておくれよ。」  
彩女は媚びる様な仕草で力丸を覗き込んだ。  
「今直ぐに支度をする。お前は後ろを向いて、目を瞑っていてくれ。」  
力丸に乳房を愛撫されながら囁かれると、  
彼女は少々頬を赤く染めながら素直に従った。  
「俺が良いと言うまで、目を開けるなよ。」  
「ああ、わかってる。」  
 
―.一体何なのだろう。  
 
彩女の胸は、はちきれんばかりに高鳴った。  
背後で、力丸の気配がする。  
「ねえ、まだかい?あたい待ち切れな…。」  
最後の部分は言葉にならなかった。  
刹那、紫電の煌きと供に、部屋中が暗赤色に煙った。  
どさり、と床に何かが落ちる音がした。  
彩女の頸であった。  
その後、主を失った胴体もゆっくりと床に崩れ落ち、  
その瞬間、彼女の生命活動は永久に停止した。  
まるであの夏の日の無邪気な少女のように、彩女は微笑んでいた。  
微笑んだまま、この世を去った。  
 
彩女の亡骸を見下ろしながら、力丸は重い息を一つ吐き出した。  
その右手には、たった今、彼女の生命を寸断した二尺二寸が、握り締められている。  
まさに一刀の出来事であった。懸念していた逡巡も無かった。  
 
「俺は、お前だけには嘘は付かぬ。約束は、守った。」  
 
そう呟くと、力丸は間を置かずに、  
今度は自らが宿の壁に背中を預けて持たれかかり、  
天井の梁を仰ぎ見たまま、大きく一つ溜息を付いた。  
 
やがてその隻眼がくわっ、と大きく見開かれた。  
刹那、力丸は彩女の鮮血に濡れた二尺二寸を、  
自らの左脇腹に深々と突き立てた。  
そのまま左から右へ一文字に斬り割ると、  
切開部から、鮮血が滝のように溢れ出して来た。  
同時に、力丸の口からも、くぐもった苦悶の呻きが漏れる。  
 
腹部に灼熱した鉄塊を押し付けられたような激痛が走った。  
一瞬、意識が朦朧となりかけたが、  
それでも自らを叱咤し、震える手で、一端腹から刀身を引き抜いた。  
羅刹の形相に、脂汗の玉が浮かんでいる。  
耐え難い苦痛に苛まれ、呼吸すらままならなかった。  
 
力丸は刀身を握り直すと、今度は切っ先を鳩尾に突き入れ、  
峰に手を掛けて、力任せに下方へと押し込んだ。  
その瞬間、弛緩した肛門から、大量の糞便がひり出された。  
糞便は、床に溜まった血の池の中に、ぼとりぼとりと落ちた。  
 
しかし力丸の我が身に対する獄卒の如き残虐は、  
これで終わったわけではない。  
霧中を彷徨うかのような意識の中、彼は最後の気力を振り絞って  
十文字に裂けた胎内へ左手を捻じ込ませると、  
「ああああああああ…っ!!」  
物の怪のような絶叫と供に内臓を掴み出して見せた。  
苦痛は感じなかった。  
飛散した内臓と供に、意識もまた、彼岸の彼方へと飛んでいた。  
 
「ああああ…あああ…あ…ああ…。」  
力丸の断末魔は次第に力を無くし、終には壁際を滑り落ちるようにして、  
彼は自らの鮮血と糞便に塗れた床の上に、尻餅を付くような形で倒れこんだ。  
力丸の肉体は、暫しの間、断続的に痙攣していたが、  
それが完全に沈黙するのに、それ程時間は掛からなかった。  
 
それから、ほんの十を数えるか数えないかの後の事であろうか。  
この部屋に通じるあらゆる進入口が、何の前触れも無く、  
まるで破裂したかのように一斉に蹴り破られた。  
続いて乱入してきたのは、手にそれぞれの獲物を携えた屈強な男達である。  
その数は四名。しかし、庭や裏手にも更に複数の人員が存在する。  
宿を包囲している内の一人は、何と彩女が全裸で表に放り出された際に見た、  
あの三人組の漁師であった。  
残りの二人は、宿の主人である老婆と手代に刃を突きつけている。  
突入の気配すら匂わせぬ見事な連携と手際から、この突如の闖入者達は、  
揃いも揃って相当の訓練を積み重ねた精鋭であるだけに留まらず、  
この突入作戦に際して、事前に綿密な計画を立てていた事も容易に知れた。  
 
満を持して乗り込んできた手錬供であったが、  
しかし彼等の目的が達せられる事は無かった。  
 
「これは…。」  
最初に声を発したのは、力丸が道端で見たあの痩せた雲水である。  
しかしそれから先は言葉が続かない。  
如何に数々の修羅場を潜り抜けてきた猛者達とはいえ、  
予想外の修羅場を目の当たりにしては無理も無かった。  
部屋中に咽返る様な鮮血と糞便の悪臭が充満し、  
この凄惨な光景を、より一層生々しく際立たせている。  
 
「糞…一足遅かったか…。」  
続いて声を発したのは、鼻を手で覆った大柄の男だ。  
こちらは宿の前で手代と雑談を交わしていた、髭面の牢人風であった。  
 
「どうする…。御屋形様は生け捕りにせよと申されたが…。」  
「…俺が知るか。」  
忌々しげに言葉を吐き棄てた雲水の、  
分厚く、肉刺の跡だらけの掌には、  
先端に鑓の穂先を装着した錫杖が握り締められていた。  
彼は憤懣やるかたない様子で、部屋の内部をぐるりと一瞥した。  
 
六畳間ほどの板葺きの部屋の中央部には、頸を切断された全裸の女の死体が、  
まるで血の海に浮かぶかのように、仰向けに倒れている。  
その左大腿部付近には、斬り落とされた彩女の頭部が  
やはり血海に右頬を沈めたまま、無造作に転がっていた。  
兎に角夥しい出血であった。  
死体を中心に、足の踏み場も無いほど鮮血が流れ出している。  
無論、雲水をはじめ、他の三人の男達も血の海に踵を沈めながら、  
この惨状を呆然と見つめていた。  
天井部や庭側に面した戸板にも血飛沫が飛び散っている事から、  
切断部分から、相当の勢いで血液が噴出した事が分かる。  
 
一方の力丸は、部屋の北側の隅の床に尻餅を付き、  
板壁に持たれかかる格好で、絶命していた。  
その腹部は十文字に切り裂かれ、溢れ出た大量の血液と供に内臓も露出し、  
その一部が、まるでばら撒かれたかのように死体の周囲に散乱していた。  
 
「女の頸を刎ねた後、腹を切ったな…。」  
雲水は、力丸の右手側の床に打刀が転がり、  
左手に腸の一部が絡み付いている現状から、  
まず力丸が女の頸を斬り落とした後、  
壁に寄りかかったまま立ち腹を切り、  
自らの手で内臓を抉り出したのだと推測した。  
 
その時、  
「この女…。」  
牢人の隣に陣取っていた、流浪の乞食に扮した男が呟いた。  
先程とは打って変わって、今の彼は、足取りもしっかりしている。  
「この女、笑っておるわ…。」  
この男の立ち位置からは、彩女の表情が良く見て取れた。  
断末魔の形相で事切れている力丸とは違い、  
その面には、死してなお、幸福に満ちた微笑を浮かべている。  
 
「…男と睦んでおったのだろう。」  
言いながら、雲水は錫杖を使って、彩女の両脚を強引に開いて見せた。  
彼女の中心部分からは、力丸の迸りが逆流し、血の海に流れ出していた。  
 
「…睦んだ後に、頸を刎ねられたか。」  
牢人風は、苦笑交じりの溜息を吐くと、彩女の胴体部分の横にしゃがみ込み、  
鮮血に濡れていない左側の乳房に手を伸ばした。  
絶命して間もないため、まだ体温と質感が残っている。  
 
「阿呆、よせ。この人非人め。」  
雲水は強い非難の意味を込めて牢人風を面罵したが、  
しかし当の彼は、  
「まあ、良いではないか。  
 このような田舎くんだりまでやってきて、獲物も捕えられずに居るのだ。  
 このまま帰り付いたとしても、俺達は何らかの罰を受けるだろう。  
 だからこれぐらいは赦せ。  
 本当なら、この女は俺達で弄ぶつもりだったのだからな。  
 見ろ、この身体を。生きておれば、良き女子であったろうに。惜しい事をした。」  
牢人風は雲水を鼻で笑い返すと、行為を続けた。  
雲水は露骨に侮蔑の表情を浮かべたが、それ以上は何も言わない。  
 
言い用の無い遣る瀬無さを覚えた彼は、蹴り破った戸板を踏み、  
所在無さげに表を覗き見た。  
その時である。  
何処かで蝉の声を聞いたような気がした。  
 
―はて。  
 
雲水の表情に、今度は疑念の色が浮かんだ。  
しかし、当の昔に夏は終わりを告げている。  
ましてや、このような小雪の舞い散る閑村に、  
蝉が生き残っている筈も無い。  
不審に思った雲水であったが、  
 
―気のせいか。大方、風の音を聞き違えたのだろう。  
 
ただの勘違いだと判断し、踵を返そうとした。  
しかしその矢先、今度は盛んに啼き喚く蝉しぐれを聞いた。  
 
―まただ。今のは聞き違いではない。  
 
「おい、今、蝉が啼かなかったか?」  
薄気味の悪さを覚えた雲水は、堪らず部屋の中の男達に問うてみた。  
 
「蝉だと?何を言っておるのだ?」  
牢人風は、今だ彩女の乳房を弄んでいる。  
「蝉だ。今、蝉が啼いたであろう。」  
「馬鹿を言え。夏はとっくの昔に終わっておろう。」  
「そんな筈は無い。俺は確かに聞いたのだ。…お前達はどうだ?聞いたであろう。」  
雲水は他の二人にも尋ねてみたが、返答は何れも否であった。  
 
―いや、確かに聞いたのだ。蝉しぐれの声を。  
 
埒が明かぬ、と判断した彼は、小雪の舞う西側の庭に飛び出して、  
そこを持ち場にしていた男にも聞いた。  
「そんなものは聞いておらぬ。」と彼は面倒臭そうに答えた。  
 
―俺の聞き違いなのか…。いや、そうかも知れぬ…。  
 散々この者供を追って来て、疲れておるのやも知れぬな…。  
 
雲水は自らの耳が聞いた季節外れの蝉しぐれを、  
単に疲労による幻聴であると結論付けようとした。  
それでも念の為、その場に居合わせていた他の仲間にも問うてみたが、  
その答えは、何れも先の男達と同様のものであった。  
そして今となっては、その雲水本人も、三度蝉しぐれを聞く事は無く、  
ただただひょうひょうと言う寒風の吹き荒ぶ音が、  
耳に届くばかりとなっていた。  
 
―やはり俺の聞き違いであったか。  
 疲れておるせいだ。今夜はゆっくりと休もう。  
 
若干安堵した雲水は、気分を落ち着かせる為に、  
眼前に広がる海原を望遠した。  
相変わらず、そこには、この世の果てを思わせる  
見渡す限りの灰色の光景が広がっている。  
 
 
                            〜終わり〜  
 

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