一歩進むごとに、その音は確かな旋律と歌声となって、僕の聴覚を撫でた。  
ドアの前でいったん立ち止まると、無意識に溜めていた息をひとつ吐く。  
わざわざ歩かなくともテレポートを使えば、入室など造作も無い事なのは分かっている。  
けれど、この部屋、いや、この部屋の住人だけは、別だ。  
特別視しているわけじゃない。ましてや尊敬の念を抱いているつもりもない。  
ただ、苦手なだけなんだ。  
 
微かな音と共にドアがスライドすると、明瞭になった室内の音声---- 歌声とハープの音色 ---- が一斉に僕を包み込んだ。  
「あ、ソルジャーだ!」  
いち早く僕に気付いた一人が、声を上げると、他の全員がそれに同調し、合唱は中断された。  
「こんにちは、ソルジャー!」  
「あたしたち、お歌上手になったでしょ?」  
「一緒に遊ぼう?」  
「今日はレインは来ないの?ぼく抱っこしたいな。」  
彼女の周りで輪になっていた子供たちが僕を取り囲んで、無防備な笑顔を見せた。  
 
「ごきげんよう、ソルジャー。」  
両腕やマントにまでぶら下がられて、辟易している僕の背中に彼女の声がかかる。  
子供たちの相手をしている名目で、返事をするどころか振り向こうともしない僕を気にする風も無く、  
いつもの穏やかな微笑みを浮かべているだろう彼女。  
本当に、この女は苦手だ。  
ミュウでもなく、人間でもない、中途半端な生命体。  
僕たちミュウを絶滅の危機に晒し、また、人間との絡まった因縁を解きほぐすきっかけの一端を担った女。  
先代のソルジャーたちが、女神と崇め、愛した女。  
与えられた力を失い、ただの雌の肉体を持つだけになった女。  
指一本動かさずとも、思念の一刃を閃かせればあっけなく破壊できる程、脆い存在。  
なのに、何故、僕はこの女が怖いのだろう。  
 
「どうしたのソルジャー?おなかが痛いの?」  
不安げな思念と声に我に返ると、右腕にまとわりついていた少女が心配そうに僕を見上げていた。  
「何でもないよ、心配しなくてもいい。」  
笑顔で答えてやると、丸い小麦色の頬に安堵の色と幼い笑みが浮かぶ。  
その中に、今は遠くなってしまったアルテラの面影を見た気がして、知らず胸の中が小さく痛んだ。  
 
そんな僕を、彼女はただ静かに見守っている。  
あの時から寸分変わらぬ美しい微笑みを浮かべて。  
 
長老たちの最期の力によって、地殻変動を始めた地球から生還した彼女。  
その周りには「実験材料」として地下で育成されていたという多くの子供たちが寄り添っていた。  
その約半数が、後にミュウであると診断されたが、人間であるはずの残り半数の子供たちも、何故か船を降りようとはしなかった。  
不安定な船上生活よりも、治安が回復しつつあったノアやアルテメシアで生活した方がいいという説得にも、彼らは首を左右に振り続けた。  
「だって、フィシスさまのそばにいたいんだもの。」  
こっそり示し合わせたんじゃないかと勘繰りたくなるほど、全員が全く同じ事を口にして朗らかに笑ったのだ。  
 
それからだ。彼女が変わったのは。  
いや、“変化”は既にあの時から始まっていたのかもしれない。  
 
「それは、ソルジャーに対する侮辱です!」  
打たれた頬の痛みより、胸に重く響いた彼女の言葉。  
犯した罪の重さも、己の非力さも愚かさも、全て受け入れ飲み込んだ彼女。  
力も、愛する者も全て失い、ただ一人寄る辺無き身に置かれても尚、閉じた目を前に向け、凛と立っていた彼女。  
愛され、守られ、庇われていた、ひ弱なあの女はもうどこにもいない。  
今の彼女からは、愛し、守り、庇う役割を担った者の持つ強さが、全身から暖かい光となって放たれている。  
この強さは、どこに隠されていたのだろう。  
 
「さあ、そろそろ次の授業が始まりますよ。  
 今週中に2桁の計算をマスターしないとね。」  
盲目の女占い師の執事兼楽師から、今やすっかり保育士然となったアルフレートが、しぶる子供たちを講堂へと引率してゆく。  
すれ違いざまに、僕に向かって軽く頭を下げる生真面目な横顔から、険しさが消えたのはいつの頃からだったか。  
自分も少しはソルジャーという呼び名に相応しくなってきたのかと、こんな時は、ほんの少し自惚れてみたくなる。  
 
甲高く澄んだ声と賑やかな足音が去った室内は、子供独特の甘い残り香と奇妙な静けさだけが残った。  
「……お茶はいかがですか?ソルジャー。」  
彼女は、微かな衣ずれの音をさせながら、静かに立ち上がった。  
 
手渡された、砂糖を入れていないはずの紅茶にほのかな甘みを感じ、自分が思いの他疲労しているのだと気付く。  
先代のソルジャーと人類軍の国家主席が共闘し、命を賭けて勝ち取った「自由」は、また「混乱と混沌」の始まりを告げるものでもあった。  
頻発する各惑星内のいざこざを、一つ、一つ、人類軍と共に根気よく治めてゆく。  
ほんの少し前まで殺し合いをしていた者同士が、同じ目的を持ち力を合わせるという行為は、口に出して言う程容易くはない。  
互いの信頼度がゼロどころかマイナスから始まっているのだから、当然といえば当然なんだろうが。  
ミュウと人間。同じ根を持つ異種族たちが、どこへどんな形で行き着くのか、僕にも分らない。  
しかし、今起こっている事全てが「過渡期」という名で称されるという事だけは確かなのだろう。  
 
でも、そんな想いを目の前のこの女には、聞かせたくない。  
子供じみた意地を張る一方で、先代達は、彼女とどんな語らいをしたのだろうと、ふと思った。  
 
彼女は、ただ静かに微笑んでいる。  
 
「----- 今日ここに来たのは、あんたに聞きたい事があるからだ。」  
言外に、お茶を飲んでくつろぐ為じゃないと匂わせたつもりだったが、相も変わらず柔らかな笑みを浮かべる彼女の表情からは、  
僕の意図を理解したのか否かを読み取ることは出来なかった。  
「最近、ツェーレンの様子がおかしいんだ。」  
 
今は失われてしまった、赤く美しい星。僕たちの故郷、ナスカ。  
そこで、ミュウの歴史上初の「母体出産」で生を受けた7人。  
僕たちの、頑強で完璧な身体と、強大な“力”は、それまでのミュウには持ち得なかったものだった。  
しかし、その“力”が、同胞達から、疎まれ恐れられる要因となったのだから、皮肉なものだ。  
その後、シャングリラで同じように母親の胎内から生まれた赤ん坊達は、一応健康体ではあったものの、僕たち程の力は持っていなかった。  
いつからか、僕たち7人は「ナスカの子」と呼ばれ、特別視される存在となっていた。  
人間達との戦いで、タージオン、コブ、そしてアルテラの3人を失い、今や4人となってしまった僕たち。  
思念の乱れは即、チームワークに影響を及ぼす。  
殺戮と破壊が目的ではない内乱制圧とはいえ、一瞬の隙が命取りになるのには変わりないのだ。  
ツェーレンの異変に最初に気付いたのが、約2ヶ月前。  
人類軍との共同作戦で、さる小惑星で出没するテロリスト集団の鎮圧に成功し、帰路に付いている時だった。  
一人シートにもたれ、ぼんやりとあらぬ方向を見ては時折ため息をつき、こちらの呼びかけにも、すこぶる反応が鈍い。  
そうかと思うと、いつも以上に元気にはしゃぎ回り勢い余って、休憩室の壁をぶち抜いたり。  
任務中に何かあったのか、と問いただしても「別に」とだけ答え、さりげなく目を逸らすばかりで。  
オヤエには「乙女心に土足で立ち入るものではありません、ソルジャー。」なんて訳の分からない事を言われるし。  
実際、彼女の思念を読み取ろうにも、巧妙にシールドを張り巡らしてあって、文字通り「打つ手無し」なんだが。  
 
「あんたは彼女の“名付け親”だろう。何か彼女から聞いていないか?  
 シラを切ったって無駄だぞ。昨日この部屋からツェーレンが泣きながら出てきたのは知ってるんだ。」  
もう誰一人、失う訳にはいかない。失いたくない。  
もどかしいまでの無力感と、それを認めたくない焦りが、僕を突き動かす。  
でも、目の前の女の表情には、一筋の変化も見られなかった。  
「ええ、確かに昨日ツェーレンはここに来ました。  
---------- でも、女同士の話ですので。」  
 
両目の奥が、かっと、熱くなった。  
 
「------- ああ、そうだろうさ。僕だってツェーレンから無理矢理聞き出そうなんて思っちゃいない。  
 あんたから聞き出しゃいいんだからな。----- 喋りたくなきゃ、身体に聞くだけだし。」  
長く忘れていた、暗くて熱い感情の波が、僕の奥底からごそり、と音を立て起き上がる。  
 
そのまま硬い床に叩きつけても構わなかった。  
しかし、ミュウ第一世代の記憶を持つ唯一の存在を失うのは、さすがに痛い。  
荒れ狂う思念の波の中で、かろうじて保った理性の欠片が、女の身体を寝台の上に“移動”させた。  
清潔だがいたって簡素なベッドの上に放り出された華奢な身体が、シーツの海に沈み、そして豊かな髪を金の花のように広げながら、ふわりと浮き上がる。  
「ツェーレンの名付け親ということに免じて、拷問だけは勘弁してやろう。  
 もっとも、あんたからモノを“聞き出す”のは造作も無いことだけどね。」  
その言葉に初めて頬を強張らせた女の反応に、胸の中がぞくぞくと波打った。  
もっと、慌てふためけばいい。見苦しく泣き喚けばいい。  
成す術もなく横たわる女を見下ろしながら、僕は邪魔で暑苦しいマントを脱ぎ捨てた。  
 
心をまともにガードすることもできず、結果、肌に触れた者に、己の思考を垂れ流してしまう女。  
ミュウでないという以前に、その心の脆さとだらしなさが許せなかった。  
ツェーレンの一件を利用して、長年積もった鬱屈を晴らしたい自分の狡猾さをとりあえず思考の隅に押しやって、僕は支配者の笑みを、口元に乗せる。  
 
「服が、邪魔だな。」  
 
言い終わらぬうちに、女を包み飾る衣服と装飾品が瞬時に消え、部屋の片隅に小山を作った。  
 
「いけませんソルジャー!お止めになって!」  
蒼ざめた唇が悲鳴を上げる。  
自分自身への危害よりも、ツェーレンとの記憶を読まれるのを恐れていることがありありと分かる反応。  
それすら、今の僕にとっては怒りの燃料でしかない。  
「うるさい。」  
吐き捨てるように呟いて、僕は、我身を庇うように折り曲げられていた女の四肢を大きく左右に開き、思念の鎖でシーツに固定した。  
「この部屋にはシールドを張ってあるし。助けを呼んでも無駄だよ。  
アルフレートが戻ってくるのも約3時間後だからな。諦める事だ。」  
跳ね上がりそうになる語尾を密かに抑えながら、僕は殊更ゆっくりと彼女の身体に手を伸ばす。  
 
お前の、その取り澄ました面の皮を引き?してやる。  
僅かに施された自分の居場所にしがみ付くことしか出来ない、惨めな姿を晒すがいい。  
お前など、怖いものか。  
怖いものか!  
 
そして。  
不規則な呼吸に激しく上下する、白く盛り上がった胸に右手を沈めたその時。  
女の全身から甘い香りが立ち上り、僕を包み込んだ。  
 
-------- しまった!  
取りこまれる。  
 
自分の失態に気付いた時には、もう、遅かった。  
 
まばゆく色鮮やかな無数の光球が、目の前を凄まじいスピードで通り過ぎてゆく。  
あるものは、焼けつくような熱を帯び、またあるものは肌を凍らせる冷気を発し、僕の脇を掠める。  
100年近く蓄積された、“記憶”という名の膨大な情報の渦。  
その奔流に逆らって、僕は突き進む。  
女の精神波に同調したばかりに、逆に取りこまれてしまったが、どのみち必要な情報を引っ張り出すつもりだったから、かえって手間が省けたというものだ。  
時折、今は失われた懐かしい声と気配に惹かれそうになる自分を叱咤しながら、目的を見失わぬよう、意識を集中する。  
 
「どこだ?ツェーレン!」  
 
僕たちは、同じ故郷を持ち、同じ境遇に置かれた兄妹。  
この女に話せて、僕に話せない事などあるものか。  
噛み締めた奥歯が、ぎりっと音を立てた。  
 
やがて、研ぎ澄まさせた聴覚が、微かな泣き声を捉えた。  
僕のよく知っている声。でも、初めて聞く、胸を締め付けるような泣き声が。  
そして目の前に、丸く淡い縁取りを施したビジョンが現れた。  
最初に見えたのは、金色の巻き毛。  
次第に明瞭になる泣き声に合わせ、くせの強い金髪が細かに震えている。  
ツェーレンが、誰かの膝に顔を伏せ、泣きじゃくっていた。  
「“ティンカーベルみたいだ”、って言ってくれたの。  
 皆、怖がっているのに、あの人だけがあたしのことを奇麗だって言ってくれたのに。」  
“あの人”って、誰だ?共同戦線を張った、人類軍の野郎か!?  
しゃくりあげるツェーレンの髪をふわりと撫でる白い手が映る。  
「あたしも、最初に会った時から好きだったの。----- なのに・・・」  
顔を上げた彼女の、涙に濡れた紫の瞳に映る、よく知った白い顔。  
 
ああ、そうか。これはあの女から見た映像なんだ。  
 
女の膝に縋りつきながら、ツェーレンは続ける。  
「やっと、殺し合いなんかしなくてもよくなったのに。大好きな人が現れたのに。  
パパと、ママみたいになれると思ったのに。」  
笑ったつもりの顔が、くしゃりと歪んで。  
「ドクターが教えてくれたの。  
あたしには、赤ちゃんを産める機能が無いんだって!  
 あたしだけじゃない、ペスタチオもタキオンも、------ トォニィも。  
 ナスカ生まれの子は皆、生殖機能に欠陥があるんだって!」  
 
ツェーレンの叫びが、胸を貫いた。  
同時に、脳裏に一つの言葉がよぎる。  
 
「対価」  
 
この異常ともいえる、強大な能力の為に支払った“対価”が、これだというのか。  
僕たちは、次代に繋ぐことのできぬ命。花も実も生み出せぬ存在。  
 
アルテラは、何も知らぬまま、逝ったのだ。  
 
「他の皆には、絶対話さないでって、ドクターにお願いしたわ。  
 ペスタチオはまだ小さいし、タキオンはあたしよりずっと大変な仕事をしているし、トォニィはソルジャーなんだし。  
 ------ “こんなこと”で、心を乱したりしたら、命に関わる、でしょ?」  
涙に濡れた頬が、必死に微笑みの形を作る。  
 
彼女は、全部一人で背負い込むつもりなのだ。  
何が“ソルジャー”だ。------ 同胞の心ひとつ守れないなんて!  
ごめんよ、ツェーレン。  
僕なんかより、君はずっと強い子だね。優しい子だね。  
 
あれほど勢い良く煮えたぎっていた感情が、みるみる冷えて小さくなってゆく。  
自省の波が僕を押し流し、2人から引き離そうとしたその時だった。  
 
「では、“彼”の事は、どうするのですか?ツェーレン。」  
“ここ”に来て、初めて耳にした女の声に、思わず心臓が跳ね上がった。  
「あたしの気持ちは、変わらないわ。あたしは彼が大好き!  
 でも、もう……諦めなきゃならない。」  
「何故?」  
白い指が、優しく頬の涙を拭う。  
「だ、だってあたしは、ママになれないのよ!?  
 彼をパパにもしてあげられないのに!」  
「でも、愛することは、できます。」  
穏やかな、それでいて凛とした声が、凍え始めていた僕を捉え、包んだ。  
「あいする、こと?」  
初めて使う言葉のように、たどたどしくツェーレンが繰り返す。  
「ええ、そうです。あなたは、彼があなたのことを好きだと分かったから、自分も好きになったのですか?」  
「違うわ!そんなことない!  
 ………それに、きっと私の方が先に好きになったと思うから。」  
小さな顔が耳たぶまで真っ赤に染まった。  
「本当に、彼の事が好きなのですね。」  
こくりと頷くしぐさが、ひどく幼い。  
「彼の心があなたから離れても?」  
「………好きだわ、それでも!」  
毅然と顔を上げたツェーレンは、初めて見るような大人びた顔をしていた。  
その大きな瞳の中で、女が優しく微笑んでいる。  
「それが、“愛する”ということですよ、ツェーレン。」  
「でも、あたしにできるかしら?」  
それでも残る小さな不安に、白い両手がそっと寄り添い、支える。  
「大丈夫、この私にだって出来たことですもの。」  
 
言葉も出ないツェーレンの驚きと、痛みが、僕に重なる。  
見開いた紫の瞳の中で、女は静かに微笑んだまま、自分の下腹部に金の巻き毛をそっと押し当てた。  
その瞬間、立ち上る、暖かな甘い香り。  
ツェーレンの記憶と共に、僕は、より深い女の中に引き込まれていった。  
 
左手に感じる、柔らかく暖かな感触。  
白い紗幕がかかった意識が少しずつ晴れ、本来の感覚が戻った時、僕は誰かの手を握っていた。  
霞みの少し残る目を瞬かせると、視線の先に、自分の伸びた左手と、それをしっかりと握る白い手が映った。  
足裏に不規則に当たるごつごつした感触で、自分が、どこか知らない所を歩いていると自覚した瞬間、つま先が何か固いものに当たった。  
つまずき倒れそうになった僕を、その白い手は思いもかけぬ強い力で支えてくれた。  
「だいじょうぶ?…もう少しだから、がんばって。」  
透きとおった少女の声と、その小さな手にすっぽりと包まれている左手で、自分の身体が小さな子供に戻っている事にようやく気付く。  
「君は、誰?」  
少女は振り向くが、強い逆光で顔がよく見えない。  
僅かな風に揺れる長い金の髪が、彼女の姿を光に縁取る。  
僕の問いに、淡い微笑の気配だけを返し、少女は再び前を向き歩き出す。  
 
やがて光に目が慣れて、自分の周辺の様子が確認できるようになった。  
白っぽい上空から乾いた強い光線が降り注ぎ、どこまでも続く岩だらけの赤茶けた大地を焦がしている。  
ツェーレンはどこにいるのだろう?  
彼女の記憶と共に、女の深層に導かれたところまでは確かだったのに。このあいまいな世界の中では、自分自身の認識を保つのが、今や精いっぱいだ。  
「どこまで行くんだ?」  
いちど振り向いたきり、後はただ無言の背中を見せるだけの少女に業を煮やし、声を尖らせた刹那、生々しい血の匂いが鼻孔を掠める。  
 
少女は裸足だった。  
そしてその白く細い足は無数の傷に蔽われ血にまみれていた。  
「おい!あんた怪我してるじゃないか!」  
「だいじょうぶ。へいきよ。」  
驚愕と気付かなかった自分への憤りに、思わず叫んでしまう。が、少女はこともなげに、振り向いた横顔で笑って見せた。  
こんな荒れ地を子供が裸足で歩けば、どうなるか想像するまでも無い。  
畜生!こんなチビでなけりゃ、この子を背負ってあげる事だって出来るのに。  
己の無力さが、悔しくて、悲しくて、胸が痛くて。  
「泣かないで、----- ほら、あそこよ?」  
よほど酷いべそ面をしていたのか、優しいいたわりと導きの声に顔を上げると、少女の細い指先が指し示す先に、一本の木が立っていた。  
 
剥き出しの岩肌が点在する大地にぽつんと生えているその大木は、太い幹からしなやかな枝を勢い良く張り巡らせ、濃い緑の葉をぎっしりとおい茂らせている。  
死と静寂の荒野で、そこだけが瑞々しい生命の息吹を伝えていた。  
でも、僕には分かっていた。分かってしまっていた。  
この樹は、花をつける事が出来ないのだと。だから実を結ぶこともないのだと。  
「------ まるで、僕たちのようだな。」  
木漏れ日に目を細めながら見上げ、呟く。  
「何も生み出せない存在が、生きている意味が何処にあるんだろう。」  
「あるわ。ここに。」  
僕の傍らから、透きとおった声が、凛、と答えた。  
 
緑の葉が作り出した優しい日陰の中で、白い少女が微笑んでいた。  
豊かな金の髪と同じ色の大きな瞳に、僕の顔を映し出しながら。  
 
白い指先が、すい、と上がった。  
 
「見て。」  
細い指先が作り出す軌跡に乗り、どこからともなく飛んで来た1羽の白い鳥が、枝にとまり美しい声で歌い始める。  
間もなく、その声に応えるように、もう1羽、大きさは同じ位で少し色合いの違う鳥がやって来た。  
2羽はしばらく互いに鳴き交わした後、ぴたりと身体を寄せ合い濃く茂った緑の葉の中に姿を消した。  
やがて枝の向こうから、複数のちいちいと微かな鳴き声が聞こえ出し、親鳥となった2羽は忙しく巣を往復する。  
僕の足元を何か小さな生き物が走り抜けた。  
そいつはナキネズミによく似た太い尾を揺らしながら、幹の上をらせんを描くように駆け登ると、枝の上にちょこんと座った。  
姿の見えぬ幾つもの小さな羽音、さわさわと葉を揺する気配。  
静寂に包まれていた荒野に、少しずつ“音”が加わってゆく。  
命の、息吹の奏でる音楽が。  
 
頬を撫でる風に微かな温かみと水の匂いを嗅ぎ取って、何気に上空を仰いだ僕の額に、ぽつん、と水滴が当たった。  
雨か? -------- と認識する間もなく、その水滴はたちまち無数の雨粒となって僕たちに降り注ぎ始めた。  
「……マントを脱いでくるんじゃなかった。」  
隣に立つ少女くらいは濡れずに済んだろうに。改めて自分の“勢い任せ”な所を何とかしなきゃ、と思った。  
「おい、あんた」  
寒くないか?と続く言葉が喉に引っかかって止まる。  
僕の隣で、僕と手を繋ぎながら、透明な雨粒に金の髪を光らせて、少女は嬉しそうに白い歯を見せ、笑っていた。  
僕の肩の下で。  
小さくなった?いや違う。僕の身体の方が大きくなっているんだ。  
足元を見ると、赤裸だったはずの地面は柔らかな緑の草に覆われていた。  
雨を吸い込んだ大地から立ち上る水蒸気の中、緑はゆっくりとその身を伸ばし、やがて色とりどりの小さな花を咲かせる。  
少女の足の傷はいつしか消えていた。  
「よかったな。」  
僕の言葉と、少女の笑みと、雲の切れ間から射し投げられた黄金の光が重なった時、僕たちの背後から幾つもの小さな足音が近づいてきた。  
 
ささやき声やくすくす笑う声、誰かが誰かを呼ぶ澄んだ声。  
子供たちが互いの手を繋ぎ、またじゃれ合いながら転がるように、僕たちの横をすり抜け、大木の元に集う。  
一人の少女と一人の少年が、僕に微笑んだ。  
それは、とても、とても優しくて懐かしい微笑みだった。  
「-------- ママ?パパ?」  
僕の呼びかけに、微笑みは一層深く暖かくなって。  
2人はしっかりと手を繋ぎ、光射す木の向こう側に消えてゆく。  
今一度、微笑みの残像を僕に残して。  
「------ ここは……あんたは……!?」  
問いにならない問いに、少女は僕を見上げ、ただ静かに笑みを返す。  
僕の腰のあたりで金の髪が風に揺れて輝いた。  
幾度目かの子供たちの一団が横をすり抜ける。  
その瞬間、髪を2つに結んだ少女の後姿が眼の端に焼き付いた。  
 
「アルテラ!」  
 
少女は足を止め振り向くと、刹那僕を見つめた後、弾けるような笑顔で大きく手を振った。  
 
「ま た ね!」  
 
声無き声で僕に呼びかけ、彼女は仲間達と共に、光の中に溶けていった。  
 
 
降り注ぐ陽射しの下、小鳥が、葉のざわめきが、子供たちが歌う。  
シャングリラの天体の間で、カナリアたちが歌っていた、同じ旋律で。  
静かに佇む大木の向こうには、光輝く緑の草原がどこまでも広がっている。  
そこに消えてゆく、無数の小さな命たち。  
僕も行きたい。みんなと一緒に。  
でも、自分の両脚は、前へ進めない事を知っていた。  
力の抜けた両ひざが、柔らかな草の上に落ちる。  
僕の肩に、小さな手が添えられた。  
「あんたは、寂しくないのか?」  
《フィシスは、寂しくないの?》  
僕の声と、ツェーレンの声が、重なる。  
「いいえ、ちっとも。」  
見上げた白い顔に微笑みが咲く。  
「寂しくなんか、ないわ。  
 だって、みんな、待っていてくれるから。」  
細い両腕を広げ、少女は僕をそっと抱き寄せた。  
華奢な白い胸から、ほのかに立ち上る、花の香り。懐かしい記憶の香り。  
 
ああ、そうなのか。  
この女は、何ひとつ失っていなかった。孤独ではなかった。  
全てを受け入れ、全てを許し、全てを見守り続けているのだ。今も、なお。  
だから、どんなに汚されても、ぼろぼろに傷ついても、彼女の中は、こんなにも豊かで清らかに美しいのだ。  
 
待っていてくれ、アルテラ。  
僕にはまだ、引き継がれた事、やるべき事、見届ける事が、たくさんあるんだ。  
全てが済んだら、いつか、きっとそこへ行くから。約束するから。  
だから、その時まで、待っていて。  
 
抱きしめた細い身体の温もりが、僕を包み込む。  
意識が、ゆっくりと溶け、無数の粒子となって上空に舞い上がる感覚。  
『カリナ、おめでとう!なんて可愛い赤ちゃんなんでしょう!  
どうか健やかに育ちますように……』  
喜びに満ちた、彼女の声。僕の記憶の欠片。  
『ああ!なんて酷い!こんな小さな子供に!  
  ------ 痛かったでしょう?怖かったでしょう?  
 ごめんなさい、ごめんなさい。あなたを守れない私を許して……』  
慟哭と後悔と悲しみの波動が、僕を揺さぶって。  
 
上昇が、加速する。  
復活してゆく五体の感覚。  
 
最初に感じ取ったのは、髪を撫でる細い指。  
そして、暖かく柔らかな白い胸。  
頬を撫でる彼女の指先の動きで、自分が泣いている事に気付く。  
 
「------ 僕は、あんたが、嫌いだ。」  
「ええ、存じております、ソルジャー。」  
こと、こと、と、規則正しいリズムを刻む、心臓の音に合わせ、緩やかな声が返ってくる。  
「よせよ、“ソルジャー”なんて。----- あんたが言うと厭味ったらしく聞こえる。」  
「では、何とお呼びすれば?」  
返答の代わりに、僕は半身を起し、目の前の白く美しい顔を両手でそっと挟んだ。  
「----- 本当の名前で、呼べよ。」  
紅い唇が微かに震え、僕の名を作り出す。  
「……トォニィ」  
「聞こえない。」  
喉が、とても乾いて、声が上ずってゆくのを止められない。  
「トォニィ」  
こぼれる甘い吐息を、微笑む唇ごと奪う。  
 
ぎこちなく長い口づけが終わり、互いの唇が離れた時、自分がどうすればいいのか、既に僕には分かっていた。  
 
「------- いい、服ぐらい、自分で脱げる。」  
気遣うように、そっと伸ばされた白い手を押しとどめる自分の声は、ひどく上ずっていた。  
 
触れ合った素肌から伝わる体温と鼓動。  
男のものとは異質の、しっとりと滑らかな皮膚は、指先や手のひらの動きを取り込み、そのまま包んでしまいそうな錯覚を与えてくる。  
細く、のびやかな首筋。片手で砕けそうな肩。その下でうっすらと浮き上がる鎖骨。  
片手に余る程、大きく盛り上がった白い乳房は、僕の動きに反応した彼女の微かな身じろぎにさえ豊かに揺れた。  
絞り込んだような細い胴、そこからなだらかなラインを描く丸い腰。すんなりと伸びる両脚。  
僕の髪を梳く白い指先も、背に回った腕も、以前図書室で見たことのある古代彫刻の女神像を思い起こさせた。  
「------- あんたは、奇麗だな。」  
大嫌いだけど、と、続く言葉は肌を通し思念で伝える。  
「あなたのお母様ほどでは、ありませんが。」  
微かな恥じらいの波動を含んだ彼女の返答。  
“謙遜”とかいうやつか。大人っていうのは面倒な言い回しをするものだ。  
それ以上の“会話”は無駄な気がして、僕は今するべき行為に集中することにした。  
 
うっすらと汗ばみ始めていたうなじに口づけをしたのは、彼女の唇にした同じことを肌にしたらどうなるだろうか、という好奇心からだった。  
「あ………っ」  
僕の唇と舌先が、焼けつくような熱と甘い中にほのかに混じる彼女の汗の味を感じるのと、彼女が吐息に混じった微かな声を上げたのは同時だった。  
“どうした?”  
「いえ、なにも…」  
戸惑いと、一層深くなった羞恥の感情が肌を通し、さざ波のように伝わってくる。  
“ふん、なら、こういうのも何ともないんだ?”  
自分の中の、何か言い知れぬ色の波が騒ぎ出すまま、鎖骨に軽く歯を立ててみると、鋭く息を飲む音と同時に、僕の胸の下で白い身体がびくん、と跳ね上がった。  
視線だけ上げて彼女の顔を見ると、目を閉じたままの白い顔には薄い赤味がさし、普段は調和のとれた半円を描いている金の眉も、その心のありようのまま不安定に揺れていた。  
鼓動の加速してゆくさまが、肌をまさぐる僕の指先に熱を伴って伝わってゆく。  
少しきつく吸い上げただけで、赤く跡がつく肌の反応が楽しくて、いつしか僕は夢中で彼女の全身に口づけを落としていた。  
 
ひそやかだった吐息に掠れた声が混ざり、やがて抑えきれぬ声が甘く苦しい響きとなって、僕の聴覚を弄った。  
2人の動きで作られたシーツの波の中、長い金の髪が広がり漂う。  
「----- ! あ、ああ…っ!」  
汗に光りながら揺れる白い乳房の誘いに耐えられず、ぴんと立つ薄赤い先端を口に含んだ瞬間、彼女の背が弓なりに反りかえった。  
反射的に、浮き上がった背中とシーツの間に左腕を差し入れ、上半身を固定し、右手はもう片方の胸をゆっくりと揉みしだく。  
こんな行為で、母でもない彼女から得られるものなど何も無いはずなのに。  
自分のしていることを無意味で滑稽に感じる一方で、それを凌駕する荒々しい感情の渦 ------- 本能、と呼ぶもの ------- が、僕を突き動かしてゆく。  
柔らかだった彼女の乳首は、音を立てて吸い上げ甘く噛む度に、こりこりと硬く変化し、僕の舌先を刺激した。  
もう片方の胸も丹念に吸い上げ終わる頃には、彼女の上げる声には明らかな快感の色に染まっていた。  
そして、彼女だけのものであったはずの、“熱”が、僕自身からも発せられていることに気づく。  
それが、彼女の肌から伝えられたものなのか、自分自身の中から沸き起こったものなのか、もう僕にも分らなかった。  
ただ、彼女の声を。喜びに喘ぐ、耳をとろかすような甘い声をもっと聞いていたい。  
そんな想いで満たされさ迷う僕の指が、白い腹をまさぐり骨の浮き立った腰を通り、彼女の中心にたどり着く。  
ふわりとした金の茂みをかき分け、行き着いた指先に熱い滑りを感じ取った刹那。  
僕の下で、白い身体がこれまでにないほど大きくたわんだ。  
 
声にならぬ悲鳴が、甘い悲鳴が、僕の中を駆け抜けた。  
 
軽く触れただけのつもりだった指先が、ぬるり、と、“中”に引き込まれる。  
熱い。  
それが最初の感覚だった。  
人の生れ出る場所。そして、その種を植え付ける場所。  
“知識”として得た、そこの機能と意味。  
しかし、今、彼女が見せている反応は、この場所の存在意義がそれだけではないことを明確に物語っていた。  
差し入れた中指の腹に、びっしりと並ぶ、何かの細かな突起を感じ、その形状を確かめようとほんの少しだけ動かしたとたん、周りの濡れた壁が一気に僕の指を押し包みうねり始めた。  
予想もしていなかった事態に、反射的に引き抜こうとした指をより一層強く巻き込み、彼女の内壁は逆に奥へ奥へと誘うような動きをする。  
体内の動きに連動したように、一層激しく全身をくねらせる彼女のきめの細かい肌はいつしか薄赤く染まり、汗に濡れ滑らかに輝いていた。  
声を出すのがそんなに恥ずかしいのか、両手で押さえる下から、しかし止め切れぬ濡れた声が吐息のように零れ落ち、僕の耳にまとわりつく。  
他のどの場所でも。乳房を吸った時でさえ、こんなに激しい反応は見せなかったのに。  
彼女の滑りに誘われて、人差し指が新たに加わる頃には彼女の中から発せられる粘ついた水音は、はっきりと聞こえる程大きいものになっていた。  
 
僕のぎこちない指の動にさえ、熱い内壁は反応し新たな熱い粘りを溢れさせ、  
のけぞった白い喉から甘い喘ぎを生み出している。  
この不思議で奇妙な器官の構造を、僕は直接自分の目で確かめたくなった。  
「-------! あ!……いやぁ!」  
無造作に引き抜かれた指に反応して仰け反った彼女に構わず、僕は素早く彼女の両脚の間に体を滑り込ませ、完全に動きを封じた。  
「いやっ!あ…お願い!トォニィ、やめて…」  
燃え上がるような羞恥と恐怖で奇妙に彩られた思念に構わず、僕は力なくシーツを蹴る白い両足の膝裏に手を差し入れ、持ち上げながら大きく開いた。  
 
僕の目の前に、赤い花が咲いていた。  
眩しく白い太ももの付け根、黄金の茂みに縁どられ、彼女の性器は透明な露に濡れた幾重もの花びらを微かに震わせていた。  
視線にすら感じるのか、花弁の奥からまた新たな露がじわり、とにじみ出てくる。  
彼女の哀願の声が、次第にすすり泣きへと変化してゆく。  
花弁の繊細なひだをゆっくりと追っていた僕の目が、花の上部にある小さな突起をとらえた。  
よく見えるよう、僕は周辺の肌を両の親指でぐい、と左右に開く。  
花弁にまさる複雑で繊細なひだに包まれたその中からちらりと見え隠れする小さく光るもの。  
花のつぼみを思わせるそこを、容赦なく指の腹で割り開く。  
シーツをずり上がって逃れようとする彼女を、腕の力だけで抑え込み、僕は現われた薄紅の小さく丸い粒をそっと口に含んだ。  
躊躇もためらいも無かった。  
そうすることが、当たり前のように。生まれる前から決められていた約束のように。  
舌先に、つるん、と小さな丸い粒を感じた瞬間、彼女の喉から悲鳴が迸り、全身の皮膚から凄まじい放熱が始まる。  
拘束の解かれた上半身が、僕の舌の動きに反応し、狂ったようにのたうった。  
連動して跳ね上がりそうになる腰を両腕と肩で抑え込んで、僕は夢中で粒を味わう。  
「いや!いやぁ!お願い、やめて、やめて!」  
“嘘言うなよ、あんたのここは、気持ちイイって、言ってる。”  
びくびくと震える太ももを抑え込み、再度花びらに右手指を2本突き入れながら、僕は彼女の懇願を嗤った。  
「駄目!やめて!トォニィ、早く、あなたが……!」  
彼女の身も心も支配下に置いている優越感に満たされていた僕は、その時になってやっと、自分の方こそが瀬戸際まで追いつめられていることに気付いたのだ。  
腰の中心で、熱く、痛みを覚えるほど硬く膨張した僕のペニスが、収まるべき鞘を求めて、先端を濡らしながら、反り返っていた。  
半身を起こし、白くくねる腰を両手で掴んだのと、しなやかな両腕が差しのべられたのは同時で。  
かすみ始めた視界の中、彼女が自ら腰をより大きく開き、角度を調整して僕の侵入を補助してくれたのに気付きながら、突き進むしか術はなくて。  
 
熱く濡れた無数のひだに包まれたと感じた瞬間。  
僕の熱は、爆発していた。  
 
顔を上げられなかった。  
いくら生まれて初めての経験でも、自分が男として果てしなく情けない状況に陥った事くらいは理解できていた。  
直前まで、未知の領域に足を踏み入れた興奮と、彼女の心身を支配している優越感に高揚していた身体からはすっかり熱は去り、いたたまれなさと居心地の悪さだけが残滓のように僕に貼りついていた。  
「------- 笑うなよ。」  
とっさに口から出た自分の言葉に更に落ち込む。  
馬鹿か、僕は!何予防線張ってるんだ。余計惨めになるだけじゃないか!  
目の前のしわだらけのシーツを睨みながら、自分を思念で力の限り罵倒する。  
その癖、2人の間に一瞬生じた沈黙に心臓が冷たく軋む感覚で、無意識に彼女の返事-------- 否定の言葉を欲していると自覚して、本気でこの場から消えたくなった。  
不可能なことではなかった。だが、僕の心を読み取ったように、その時、耳元で小さな声がした。  
「何故そのような事を仰るの?」  
取り繕いも、機嫌取りも、ごまかしも無い、言葉通りの無垢な問いだった。  
未だ彼女の顔をまともに見られない僕が顔を伏せたまま答えに窮していると、シーツに放り出されたままの僕の手に、柔らかな手が重ねられた。  
『何故、そのような事を仰るの?  
 私は、とても気持ちがよかったのに。』  
恥じらいと、それにも増した悦びの想いがさざ波のように僕の中を走り抜ける。  
弾かれたように顔を上げた僕の目の前に、頬を薄紅色に染めた小さな顔があった。  
「-------- 本当か?」  
言ってすぐに、自分の発言の馬鹿馬鹿しさに気付き、余りの羞恥に耳が痛いほど熱くなった。  
問いただすまでもない。彼女は僕に嘘はつけないのだ。言葉でも、思念でも。  
そのことを一番知りつくしているのは自分のはずなのに。  
混乱の極みにある僕に、どこまでも優しく綺麗な微笑みが静かに頷いた。  
「---------- そうか。なら、いいや。」  
言葉の後を思考が追いかけてくる。通常ではありえない、異常事態と言ってよい状況なのに、何故か僕自身はそれを受け入れていた。  
不思議と静かな気持ちで、彼女の身体から繋がりを解こうとした僕の頬を、白い両手がそっと包んだ。  
『ですから、今度は、あなたも気持ち良くなりましょう……』  
手のひらから流れ込む彼女の想いと、僕の性器を押し包む熱い粘膜が、僕の身体に再び熱を呼び起こそうとしていた。  
 
二度目の口付けは、僕なりに学習した成果か、より積極性を出してきた彼女の技巧か、前回とは比較にならないほど、熱く、濃厚なものだった。  
甘く濡れる小さな舌を追い、歯列を割って侵入させた舌先で口中をなぞると、その刺激に白い身体が細かく震え、逃げていたはずの彼女の舌が逆に僕を捉え絡みついた。  
連動したように、僕のペニスを咥え込んでいだ彼女の性器が、微細な強弱をつけた波を打ち始める。  
『-------- あんたに、喰われている、みたいだ。』  
徐々に速度を増す心拍と呼吸の中、舌先から隠さぬ心情を伝えると、彼女はより強く舌を絡ませながら、応えた。  
『では、あなたも私を喰らってください。----- トォニィ。』  
羞恥という薄絹の最後の一枚を脱ぎ落した剥き身の心が、僕を呼ぶ。僕を求める。  
どくん、と身体の奥底から、大きな鼓動が聞こえた。  
シンクロする、血流。呼吸。粘膜の蠢き。そして想い。  
 
彼女の体内に留まっていた僕自身が、再び、芯を取り戻し始めていた。  
 
「……あ…っ」  
ほんのわずかな身じろぎで、赤い唇は快楽の声を発する。  
その微かな、でもとろける様に甘い声をもっと聞きたくて、もう少し大きく腰を動かしてみると、今度は声だけでなく、白く細い首が仰け反った。  
繋がった腰がゆらり、とうねり、一層きつく締めつけるのに負けまいと、僕もその容量を増大させてゆく。  
「あ、あぁ…!」  
快楽の声を発する度に、冷えかかっていた白い身体が再び熱くなってゆく。  
そして、それを組み敷く、僕の全身も。  
「…ひ……!」  
ぐちゅり、と粘ついた水音と、細い悲鳴が、美しく淫らな音楽を奏でる。  
「聞かせろよ、……もっと!」  
放出を堪えることすら、目も眩むような快感に直結する事を初めて知った僕は、ただ夢中で彼女の中を刺し貫き、掻き回していた。  
 
2人の呼吸と、嬌声、肉体の合わさる乾いた音と濡れた音、寝台の軋む音。  
それだけが、僕たちの存在証明だった。  
 
突き入れる肉塊と、それを受け入れる肉の鞘。  
僕たちを繋ぐ器官は、そんな言葉でも表わせる取るに足らないモノだ。  
でも、今、こうして生まれたままの姿で肌を重ね、互いの身体の奥深い処で探り合い、喰らい合い、求め合う自分たちには、そんな事実など、どうでもよかったのかもしれない。  
僕は、彼女が嫌いだ。  
女神と称される美しく優しい微笑みも、おっとりとした優雅な立ち振る舞いも、甘く透き通った声も、完璧な創りの淫らな肢体も、しなやかで強い心も、彼女を形作るすべてが。  
そんな頑なな感情を、自らの行動で見事に裏切っておきながら、何故か僕はひとかけらの矛盾も感じてはいなかった。  
 
「----------- はぁ……っ!あ、あぁ、ト……トォニィ!」  
身体の下で、幾度目かの絶頂の機会を逃した彼女が、掠れた甘い悲鳴を上げる。  
ほんの気まぐれで、侵入する身体の角度を少しずらし、偶然彼女のつぼみが僕の下腹に擦られた時に判明した、彼女の“スイッチ”。  
僕を包み込む粘膜に電流のような衝撃が走り、やわやわとまとわりつくだけだった濡れた襞が一気に奥へと引き絞られる。  
汗の粒を光らせながら、白い半身がシーツから浮き上がるタイミングを逃さずに、“そこ”から離れてやると、濡れた赤い唇が苦しげな、それでいてとろけるような溜息をこぼした。  
「何だよ、言いたいことがあるんなら、はっきり言えば?」  
優越感に満ちた台詞を吐くことで、徐々に追い詰められている事を隠そうとする自分は、滑稽なほど姑息で卑怯だった。  
そうしながら同時に、皮膚から勝手に読み取れる思念ではなく、彼女の唇から生れ出る“言葉”を必死に乞うている僕がいる。  
決して相容れぬ支離滅裂な想いは、だがどちらも僕の偽りのないむき出しの心だった。  
ねっとりと熱い空気の中で、少しずつ重なってゆく2つの呼吸。  
やがて、僕の目の前で彼女の唇が花のように開き、明確な意思を持つ、一つの言葉を紡ぐ。  
 
「私を、連れて、いって 。トォニィ-------- 」  
 
艶やかな汗に光る頬に、微笑みが広がっていた。  
あの、緑の地で、消えゆく命をひとり見送っていた少女の、どこまでも透明な微笑みが。  
 
押し開き、抉り、切り裂き、駆け昇る、凄まじい快楽という名の衝動。  
見栄も、外聞も、虚勢も、理性も、すべて捨て去った、剥き出しの心と身体で、僕たちは互いを貪り合う。  
この世界にただ2人残された孤児のように。一瞬でも離れたらたちまち凍えてしまうような、そんな錯覚さえ覚えながら。  
寝台のスプリングに助けられた動きでは物足りなくて、もがく細い腰を両手で掴んで持ち上げ、より深く結合したまま自分の腰を抉るように回すと、彼女の嬌声は狂気の色を帯び始める。  
「あぁあ!いや!いやあっ!」  
刺激で一層過敏になったつぼみの先端を抉られ泣き叫ぶ声は、とうに意味をなさないモノになっていた。  
白くくねる身体に、僕の汗が滴り落ちて彼女のそれと混ざり合う。  
汗だけじゃない。結合した局部から全身に伝わった灼熱に溶かされたみたいに、次第に僕たちの境界線が曖昧になってゆく。  
粘膜も、体液も、皮膚も、髪も、骨も肉も、そして想いすら絡み合い溶け合ってゆく、ぞっとするような、それでいて奇妙に甘美な感覚。  
遥かな時の彼方から、絶え間なく繰り返されてきた、“人が人を生み出す”ための聖なる営み。  
でも、同じ行為でありながら、僕たちのそれは、永遠に一粒の実すら結ぶことのないモノなのだ。  
『でも、ぬくもりと喜びを、分かち合うことは出来ます。』  
彼女の“声”が、白くかすみ始めた視界と思考の中に、染み込んでゆく。  
両目の奥が再び痛いほど熱くなり、熱い液体があふれ出て僕の頬を濡らした。  
シーツの海でさ迷っていた細い両腕が大きく広がり僕を誘い、そこに身を埋めてゆく僕の腰を、しなやかな両脚が持ち上がり絡み付く。  
反り返った背を、今度こそ逃さずに両腕でしっかりと抱き上げ、僕は彼女の耳元に囁いた。  
 
「行こう、一緒に ------- フィシス」  
 
 
そういえば、彼女の名前をまともに呼んだのって、生まれて初めてだ。  
白く弾けてゆく意識の中、僕はそんな妙に現実味の濃い思考を巡らせていた。  
 
 
 
真新しいシーツに包まれて、静かな寝息を立てている彼女は、とても幼く見えた。  
 
獣のように叫びながら快楽の頂に駆け上がった僕たち。  
互いに打ち砕き喰らい合った身体と意識を拾い集め、一足先に現実世界に戻った僕の下で、彼女はまだ幻想の世界に心を置いているようだった。  
抱き上げて運ぶことも出来たけど、快楽の余熱に染まっている肌をまた求めてしまいそうな自分がひどく恥かしかったから、彼女を最初にこの寝台に運んだ時と同じ力を使うことにした。  
彼女専用に造られたバスルームで、白い身体と長い髪がどんなふうに清められているんだろうか、なんて想像をしかける自分は馬鹿だと思う。  
2人分の体液を吸ってぐしゃぐしゃに濡れたシーツと、ついでに室内の空気を一気に真新しいものに変える。  
僕と彼女の行為の痕跡を消す作業に、何故心がしくりと痛むのか、その時の僕にはまだ分からなかった。  
 
シャワーを借りて手早く汗を流し、足音を忍ばせながら身支度を済ませても、寝台の彼女が目覚める気配は無かった。  
寝息に合わせてかすかに上下する長い金の睫毛が美しいと思う一方で、何故かさびしい、と感じる自分を振り払ってドアに向かう。  
「……トォニィ」  
待ち焦がれていた、小さなかすれた声に背が跳ね上がる。  
「何?まだ寝てればいいよ。  
 アルフレートには適当に言っておくから。」  
上ずりそうになる声を必死に抑え、そっけなく言い置いて退散しようとする僕に彼女の声が追いすがる。  
「あの……、ツェーレンのことを ------ 」  
それは、必死に子を想う母親の声だった。  
「ツェーレンがどうしたって?  
 僕は、あんたのところにお茶を飲みに来ただけだ。」  
暖かく切ない何かが胸の奥底から湧き上がってくる感覚を抑えながら、僕は部屋にかけていたシールドを解いた。  
「--------- ありがとう、トォニィ。」  
涙がこもる綺麗な声を背に、僕は脚を踏み出す。  
“彼女を困らせ、泣かせてやろう”という当初の目的は果たせた。なんて負け惜しみだか何だかよく分からない想いを胸に丁寧にしまい込みながら。  
 
僕は、僕たちはどこまで行けるんだろう。  
でも、どんな道を進んだとしても、どれほど血を流し肉を骨を刻もうとも、僕はもう恐れない。  
あの緑の地で、待っている人たちがいるかぎり。  
 
「------ その時には、一緒に、歌おう。  
     フィシス。」  
 
白く輝く微笑みを脳裏に浮かべ、僕は力強く床を蹴った。  
 
 
 
 
「君歌う緑の地」完  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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