一歩進むごとに、その音は確かな旋律と歌声となって、僕の聴覚を撫でた。
ドアの前でいったん立ち止まると、無意識に溜めていた息をひとつ吐く。
わざわざ歩かなくともテレポートを使えば、入室など造作も無い事なのは分かっている。
けれど、この部屋、いや、この部屋の住人だけは、別だ。
特別視しているわけじゃない。ましてや尊敬の念を抱いているつもりもない。
ただ、苦手なだけなんだ。
微かな音と共にドアがスライドすると、明瞭になった室内の音声---- 歌声とハープの音色 ---- が一斉に僕を包み込んだ。
「あ、ソルジャーだ!」
いち早く僕に気付いた一人が、声を上げると、他の全員がそれに同調し、合唱は中断された。
「こんにちは、ソルジャー!」
「あたしたち、お歌上手になったでしょ?」
「一緒に遊ぼう?」
「今日はレインは来ないの?ぼく抱っこしたいな。」
彼女の周りで輪になっていた子供たちが僕を取り囲んで、無防備な笑顔を見せた。
「ごきげんよう、ソルジャー。」
両腕やマントにまでぶら下がられて、辟易している僕の背中に彼女の声がかかる。
子供たちの相手をしている名目で、返事をするどころか振り向こうともしない僕を気にする風も無く、
いつもの穏やかな微笑みを浮かべているだろう彼女。
本当に、この女は苦手だ。
ミュウでもなく、人間でもない、中途半端な生命体。
僕たちミュウを絶滅の危機に晒し、また、人間との絡まった因縁を解きほぐすきっかけの一端を担った女。
先代のソルジャーたちが、女神と崇め、愛した女。
与えられた力を失い、ただの雌の肉体を持つだけになった女。
指一本動かさずとも、思念の一刃を閃かせればあっけなく破壊できる程、脆い存在。
なのに、何故、僕はこの女が怖いのだろう。
「どうしたのソルジャー?おなかが痛いの?」
不安げな思念と声に我に返ると、右腕にまとわりついていた少女が心配そうに僕を見上げていた。
「何でもないよ、心配しなくてもいい。」
笑顔で答えてやると、丸い小麦色の頬に安堵の色と幼い笑みが浮かぶ。
その中に、今は遠くなってしまったアルテラの面影を見た気がして、知らず胸の中が小さく痛んだ。
そんな僕を、彼女はただ静かに見守っている。
あの時から寸分変わらぬ美しい微笑みを浮かべて。
605 名前:名無しさん@ピンキー 投稿日:2007/12/02(日) 00:22:33 ID:xP/QhrBf
「君歌う緑の地 2」
長老たちの最期の力によって、地殻変動を始めた地球から生還した彼女。
その周りには「実験材料」として地下で育成されていたという多くの子供たちが寄り添っていた。
その約半数が、後にミュウであると診断されたが、人間であるはずの残り半数の子供たちも、何故か船を降りようとはしなかった。
不安定な船上生活よりも、治安が回復しつつあったノアやアルテメシアで生活した方がいいという説得にも、彼らは首を左右に振り続けた。
「だって、フィシスさまのそばにいたいんだもの。」
こっそり示し合わせたんじゃないかと勘繰りたくなるほど、全員が全く同じ事を口にして朗らかに笑ったのだ。
それからだ。彼女が変わったのは。
いや、“変化”は既にあの時から始まっていたのかもしれない。
「それは、ソルジャーに対する侮辱です!」
打たれた頬の痛みより、胸に重く響いた彼女の言葉。
犯した罪の重さも、己の非力さも愚かさも、全て受け入れ飲み込んだ彼女。
力も、愛する者も全て失い、ただ一人寄る辺無き身に置かれても尚、閉じた目を前に向け、凛と立っていた彼女。
愛され、守られ、庇われていた、ひ弱なあの女はもうどこにもいない。
今の彼女からは、愛し、守り、庇う役割を担った者の持つ強さが、全身から暖かい光となって放たれている。
この強さは、どこに隠されていたのだろう。
「さあ、そろそろ次の授業が始まりますよ。
今週中に2桁の計算をマスターしないとね。」
盲目の女占い師の執事兼楽師から、今やすっかり保育士然となったアルフレートが、しぶる子供たちを講堂へと引率してゆく。
すれ違いざまに、僕に向かって軽く頭を下げる生真面目な横顔から、険しさが消えたのはいつの頃からだったか。
自分も少しはソルジャーという呼び名に相応しくなってきたのかと、こんな時は、ほんの少し自惚れてみたくなる。
甲高く澄んだ声と賑やかな足音が去った室内は、子供独特の甘い残り香と奇妙な静けさだけが残った。
「……お茶はいかがですか?ソルジャー。」
彼女は、微かな衣ずれの音をさせながら、静かに立ち上がった。
手渡された、砂糖を入れていないはずの紅茶にほのかな甘みを感じ、自分が思いの他疲労しているのだと気付く。
先代のソルジャーと人類軍の国家主席が共闘し、命を賭けて勝ち取った「自由」は、また「混乱と混沌」の始まりを告げるものでもあった。
頻発する各惑星内のいざこざを、一つ、一つ、人類軍と共に根気よく治めてゆく。
ほんの少し前まで殺し合いをしていた者同士が、同じ目的を持ち力を合わせるという行為は、口に出して言う程容易くはない。
互いの信頼度がゼロどころかマイナスから始まっているのだから、当然といえば当然なんだろうが。
ミュウと人間。同じ根を持つ異種族たちが、どこへどんな形で行き着くのか、僕にも分らない。
しかし、今起こっている事全てが「過渡期」という名で称されるという事だけは確かなのだろう。
でも、そんな想いを目の前のこの女には、聞かせたくない。
子供じみた意地を張る一方で、先代達は、彼女とどんな語らいをしたのだろうと、ふと思った。
彼女は、ただ静かに微笑んでいる。