部屋に入るなり崩れるように膝を折ったブルーの元へ、フィシスは駆け寄った。  
「大丈夫だよ、フィシス」  
いつものように彼女を安心させるための笑顔を浮かべて、ブルーは彼女の差し出した手に頬擦りしてみせる。  
だがその頬擦りがいつもより長く熱のこもったものであると、彼女は気づいた。  
「何か…良いことがあったのですか、ブルー」  
「そうだよ。決めたんだ、ジョミーに」目を閉じて語る彼の声には安堵と、一時的にも肩の荷を降ろした開放感が満ちていた。「彼が、我々の迎える新しいソルジャーだ」  
そんな、とフィシスは自らの胸に痛みが走るのを知る。ソルジャー・ブルーが自らの時代が終わることを他人事のように語る口調が、彼女にはたまらなくつらく寂しいことだった。  
「何が悲しいの」フィシスの低調な思念をからかうように微笑んで、彼はフィシスの顔を見上げ、その口のはたに軽いキスをする。  
「やっと君だけの僕になれるのに」  
そんなの嘘。  
笑わなくてはいけないと思いつつ、フィシスは涙が零れそうになる。  
「フィシス」そっと立ち上がったブルーが彼女を抱き締めた。  
「ごめんね。君に火を点けておきながら、いつも一人にして」  
「ブルー…」応えるように彼の背に手を回し、その温もりに安心する。  
ブルーはフィシスの髪を掻き分け、その白い耳朶を唇で軽く挟んだ。  
「あっ…」彼の唇が触れただけでフィシスの眠っていた感覚は呼び覚まされ、腰が引けた。「ごめんなさい、ブルー」  
「何をあやまるんだい。こんな君にしてしまったのは僕なのに」  
ブルーはフィシスの頭を抱え、その首筋に上からゆっくりとキスを落としていく。  
「あ…ん、だめっ、だめです、ブルー」疲れて帰ってきた彼に先を続けさせるわけにはいかないと、フィシスは自分の身体を裏切って彼を制する言葉を繋ぐ。「お疲れなのですから…もう、おやすみにならないと」  
「今日だけは許してくれ」と彼が囁いた。「…我慢できない」  
その彼の声の熱さに、フィシスは自分の内側がとろけ出すのを感じた。  
 
ベッドの脇まで、抱き合い、口づけを交わしながら移動した。  
ブルーの手のひらが彼女の胸を下から包む。ドレスの薄い生地を通してその手の熱と、五本の指の感触が伝わる。その指がそれぞれに動いて、彼女を刺激する。  
「ああ…ブルー」自分の声に悦びの響きがあることが恥ずかしかった。身をよじって、彼から顔を背けた。  
胸元に、ブルーの唇が下りていく。指がドレスの飾りと肩紐をはずすと、ドレスは簡単に彼女の身体から落ちた。白い裸体の輪郭を、ブルーは両手を滑らせて確かめ、抱き締める。  
そのままフィシスをベッドに横たえて、ブルーは彼女の身体を見下ろしながら服を脱いでいった。  
「…きれいだよ、フィシス」震える彼の声にも気持ちの昂りが溢れている。  
羞恥に頬が染まるのが、フィシスにはわかる。ブルーの視線はいつも熱くて、フィシスはその視線に捕らえられるだけで疼いてしまうこともあった。  
ブルーが乗ってきて、彼女の首筋の肌を今度は本気で吸い始める。  
「だめ、跡が…」  
「いいじゃないか、僕が残したい」  
微笑むブルーの唇が、彼女の肌を滑っていく。手が、あらわになった乳房を直に揉み上げる。  
「ああ、ブルー…」自分はその手や唇を待っていたのだと、フィシスはあらためて思い知る。  
「嬉しい?フィシス」上目遣いの彼には、既に彼女の悦びが伝わっているはずだった。「僕とこんなふうに仲良くするのは久しぶりだね。寂しい思いをさせてごめんね」  
「そんな、寂しいなんて」フィシスは首を振った。  
「本当に?」ブルーが彼女の顔の正面まで戻ってくる。「そんなことを言われると僕が寂しいよ」  
「まあ、いじわる」からかわれているのだと、フィシスは微笑んでブルーの口づけを受ける。  
寂しくて、恋しくて、せつなくて。自分がどんなにブルーを求めていたか、彼にわかっていないはずがなかった。  
(…それは君が僕しか知らないからだよ)  
漏れ聞こえた彼の微かな思念に、鈴の音のような哀切が一瞬響く。  
え、と聞き返そうとしたフィシスの口が彼の口で塞がれ、絡んでくる狂おしいまでの舌の乱舞につき合わされて、思いは流された。  
「ブルー…」互いの唇が離れたとき、フィシスは彼の吐息の中に溶けてしまいたかった。  
「僕のことが好き?」いつものように彼が尋ねる。  
「ええ、もちろん」答えながら、自分は幸せなのだとフィシスは考える。好きな人にこれほど大事にされて、これ以上を望む自分は間違っている。  
これ以上?自分の考えたことに、フィシスは一瞬戸惑った。だがきっと、それはブルーとの時間のことだろう。  
「フィシス…」  
ブルーの熱い眼差しに射竦められて、フィシスの五感が興奮で浮き立つ。一方で、急ぎすぎる自分をはしたないと思う自分が他にいて、息づく身内の熱情をフィシスは自ら抑えこんだ。  
 
ブルーの舌が、乳房の外側から円を描きつつ、のぼっていく。舌の先で、乳首の先端を弾く。  
次の瞬間にその乳首を強く吸い上げられて、フィシスはこらえきれずに大きな声を漏らし、上体を反らした。  
「可愛いよ、フィシス」恍惚と酔うような口調で彼が囁く。  
片手で乳房を揉み続けながら、ブルーはフィシスの足の方へ移動する。舌が臍までおりてくる頃、指が先に足の間に達し、深く沈んだ。  
「ああ…ん、ああ…」フィシスは期待と悦びで、自分が抑えきれなくなっていた。  
ブルーの指が入ってきた時、フィシスは自分から足を開きかけて気づき、あわてて閉じようとした。  
「いいんだよ、それで」手で押さえたフィシスの膝の間に、ブルーが身体を落としていく。「愛してるよ、フィシス」  
彼の舌をその場所に受けて、フィシスは自分が途方もない濁流に巻き込まれたと知った。  
甘美な感激が、瞬く間に全身に広がって感覚を押し上げる。  
「ああ、ブルー!」無駄とはわかっていても、この瞬間が永遠であればいいと彼女は願った。  
ブルーに愛されているという悦びが閃光となって、フィシスの頭上で大きく弾ける。きらきらと美しい光を放つ細かい花びらのように、それが降ってくる。  
何も知らなかった自分に、愛し愛されるということはこういうことだと教えてくれたのはブルーだった。  
「僕だけのものでいて、フィシス」  
強く祈りにも似た思念のこもるその声に、フィシスはいつものように答えた。  
「わたしはいつでも、あなたのものです…」  
彼自身が入ってくるのを感じ、フィシスの思念は白熱し始める。  
(ありとあらゆる場所へ出かけていったんだよ、フィシス。そして君を見つけた)  
ブルーの思念が、その身体の律動と共に直接フィシスに流れ込む。思念は形となって、彼女の身体に刻まれていくようだった。  
(君に出会ったとき、僕はソルジャーという役目以外の意味を、僕の人生に見つけたんだ)(君は僕の大切な女神だよ、フィシス。僕が生きてきた意味を、君は何もせず、ただ存在するだけで教えてくれている)  
(それまでの僕は、役割を果たし責務を全うすることだけを考えて、ミュウの仲間のために生きるという名目の中に自分を埋没させていた)  
(だが僕は気がついたんだ、君の抱く美しい地球を見て)(君がいれば、僕は僕の希望を持ち続けることができると)  
(君が僕を支え続けてくれた)(そしてようやく、僕はジョミーを見つけた)(僕に成し遂げられなかったことを、彼がきっとやり遂げてくれる)  
(すべて君のおかげなんだよ)  
(わたしは何もしていません)穏やかな快感の波の中で、フィシスは答えた。  
(君にもいつかわかるよ。人は存在するだけで他の人間の支えになるということが)  
その時ふっつりと、ブルーの思念が途切れた。  
あわてて起き上がり、フィシスはブルーの頭を抱き寄せる。「ブルー?」  
無理をしていたのだ。疲れが限界に達していたのに、無理に自分を慰めてくれようとしたのだと、フィシスは悲痛な思いに身を裂かれた。  
「…ごめん、フィシス。今、ちょっと眩暈が」フィシスの膝の上で、ブルーは頭を振った。  
「だからだめだと言ったのに」自分が泣き出しているのがフィシスにはわかった。胸が張り裂けそうだった。「もうだめ。いけません」  
「だって、したいんだ」今やその声にすら力のないブルーの、閉じかけたまぶたの下の眼差しはしかし変わらずに赤く激しく燃え盛って、彼女を見上げた。「君と仲良くしたいんだよ」  
「いけません」涙声で、フィシスは首を振る。  
「泣かないで…」震える手が伸びてきて、金髪ごと彼女の腰を抱き寄せようとする。  
その前にフィシスは自身の腕を広げ、ブルーを抱き締めた。  
 
行かないで。  
いくらそう叫んだとしても、彼はやがて行ってしまうとフィシスにはわかっていた。  
愛しいという思いとつらいこととは、既に同じものだった。  
ブルーが自分の肌に残した跡は、いつも一両日で消えた。  
自分は一人残されるのだ。  
年月を経て、ブルーが弱っていくにつれて、あの青い星だけが彼の心の支えとなっていることにフィシスは気づいていた。  
それでもいい、何も与えられないよりは。  
そう思っていた。  
でも本当に疲弊しているときのブルーは、彼女の星すら見ることができなかった。  
ベッドへなだれ込み、そのまま眠りに落ちていく彼を見て、ブーツを脱がし、マントをはずして衣服を緩める他に、彼女のできることはなかった。  
大切な人が傷ついて帰ってきても、自分には何も与えるものがないことが悲しかった。  
求めない者の前では自分が無力だと知り、フィシスは途方にくれた。  
 
やがて眠り続けるようになったブルーの横で、フィシスは彼の魂に話し掛ける日々を送るようになった。いらえが返ってくることもあれば、ただの独り言で終わることもあった。  
テラを見せて。君のあの青い星を。  
あんなふうに求められることがどんなに幸せだったかと、フィシスはつらつらと思い返した。  
行かないで。行かないでください、ブルー。  
答えが返ってこない日に限って、ブルーの顔を見ながらそっとそう訴えた。  
ある時、いつものように訴えていたフィシスの手に彼の手が触れて、彼女を驚かせた。  
「全部…聞こえていたのですね」頬に流れていた涙をあわてて拭いながら、少しとがめる口調で彼女は言った。「人の悪い…」  
(君は面白いよ)眠った顔のままでブルーは答えた。(僕が返事をしないでいると、何でも話すから)  
「話したいことがたくさんあるのです」  
(僕が起きていたときはあまり話す時間がなかったね)ブルーは言う。(できるだけ一緒にいるようにしたけれど、全然足りなかった)  
「ブルー…」  
(君は気づいていないかもしれないけれど、僕は、いつでも君の中にいるんだよ) ブルーの思念は、少しずつゆっくりとし始めた。  
「どういうことなのですか」  
(君が、僕に会いたいと思うなら、いつでも、こんなふうに、会話をすることができる、はずだ)  
「会話…あなたとですか」  
(そう、いつでも、会えるよ。試して、みて…)  
ことん、と音を立てるように彼が眠りの底に落ちて、あとには静寂が満ちた。  
 
何度も、フィシスは試してみた。  
ジョミーが自分に好意を寄せてくれていると感じたときも、ミュウの仲間たちがナスカに降りることになったときも。  
自分がどうしたらいいのかわからないとき、不安に駆られたとき、彼女は彼を捜し、求めた。  
だが、答えが返ってくることはなかった。  
そうして時が過ぎ、ブルーの思念や言葉が無いところに長くいると、フィシスには彼が何をどんなふうに感じていたのか、想像するのも難しくなってきた。  
自分は彼にとって何だったのだろうと、次第に彼女は思うようになった。  
ブルーはいつも自分の夢に入ってきたけれど、自分は本当の彼のことがなにもわかっていなかったのではないか。本当に近づけてはいなかったのではないか。  
いつでも会える、とブルーは言った。  
だが結局のところ会えずじまいであれば、何の支えもない自分の所在をフィシスは心細く思い、広い天体の間で一人過ごす時間は、何ともいたたまれなかった。  
 
だからといってあのときの過ちは、気の迷いのなせる業だったなどと言えるものではなかった。  
フィシスはブルーの前で、ブルーに背く選択をしたのだ。  
最後の別れはその結果、残酷なかたちで訪れた。  
鮮烈な記憶が、そののちも彼女を苦しめることになった。  
あの兵器の中枢で、彼女を待っていたその姿。  
「ブルー!!」拘束の手から逃れて、彼女は彼に駆け寄った。  
「フィシス、この補聴器を持って帰って」いつもの優しい眼差しで、彼はフィシスを見つめた。  
「いや、あなたも一緒に」手に補聴器を押し付けられると同時に揺らぎ出した自分の姿に動揺し、フィシスはブルーに向かって手を伸ばす。その手が宙を掴んで、フィシスは絶望した。  
「いやです、ブルー」必死に伸ばした指の先で、霞んでいくブルーが微笑んだ。  
「また会えるよ、フィシス」  
閃光が彼らの間に割って入り、またしても二人を引き離して光の波に巻き込んだ。  
 
(つらい)  
(こんなにつらいことは、もういや)  
身体を引き裂かれる思いで、フィシスは光の海を彷徨っていた。  
激しい痛みに身をよじり、声の出ない叫びを上げ続ける。  
(あなたとは、こんなふうにいつも引き離された)  
(もっと見つめられたかった)(もっと触れて欲しかった)  
(誰かにそうされている時にだけ、わたしは生きている実感が得られるのに)  
自分の輪郭は他の者の目で、手で確かめられることによってこの世に存在していると、いつからか彼女は考えていた。  
誰かに求められ、与えていなければ自分は存在する価値がない。  
(そうではないよ、フィシス)  
ブルーの声が聞こえた。待ち望んでいた、ブルーの声が。  
(君は特別な存在なんだ)  
(一人だけで、何よりも特別なんだよ)  
(わかりません、ブルー。それはどういう意味なのですか…)  
彼方で、誰かが自分を呼んでいた。  
力強い手が、自分の手を握り締めていることにフィシスは気づいた。  
その手を見ることはできなくても、確かに誰かに支えられていると感じる。  
(そうだ、この手を信じて、わたしは歩いてきた)  
(長く、漂いさまよい続ける年月の中で、この手を見つけた)  
(この手はわたしの座標)  
(足の下に確かな大地を感じなくても、この手があればわたしはわたしの足で立つことができる)  
今や自分という存在が、ただの影や形にすぎないわけではないと、フィシスにはわかっていた。  
そして今の自分には、彼に与えたいものを与えることができるということも。  
再び、自分を呼ぶ声が聞こえてくる。  
どの方角だろうと顔を上げたフィシスは、自分が闇に差す光の束のなかに浮かんでいることに気づいた。  
声は頭上高く、光の源から響いていた。  
あの声を目指そう。  
フィシスは両足に力を込めて、闇を蹴った。  
 
 
赤ん坊が泣いている。  
「無事に生まれた、男の子だ」  
まぶしい室内灯の光の中から、夫の声が聞こえる。  
フィシスの手を握り締めるその手が、感動に打ち震えている。  
ええ、知っているわ、とフィシスは胸の奥で答え、夫の手を握り返す。  
産湯につかり、新しい布にくるまれた赤ん坊が運ばれてくる。  
ああ、やっと会えた。  
泣きながら、笑顔でその子を迎える。  
長い旅だった。自分はずっと捜してきたのだ。  
星の海から自分を見つけ出し、命を懸けて愛してくれた人を、今度は自分が捜し出したかった。  
赤ん坊を両手で受け止めて胸にいだいたとき、フィシスは自分がこれまで生かされてきたことに感謝した。  
自分にしかできない奇跡が、腕の中にあった。  
赤ん坊の額に口づけて、そっと囁く。  
おかえりなさい、ブルー。  
 
 
 

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