ノアに降りたいと言ってきたのはルリだったが、おそらくニナの差し金だろうとトォニィは思った。  
「なんで?遊びに行きたいの?」  
トォニィがそう尋ねると、案の定ルリは不安顔で後ろのニナを振り返った。  
「遊びに、なんて人聞きの悪いこと言わないでよ!」ニナが声を抑えてトォニィに抗議する。「見学よ!人間社会の」  
「観光だろ?」  
「違うってば。勉強しに行くの。あたしたち、この船に来たのは赤ん坊の頃だったんだもの。人間の暮らしのこと、よく知らないのよ」  
「でも僕は地球政府と公式の話し合いのために行くんだよ。お遊びで行く人を乗せていったら宇宙港の係員に何言われるか…イテッ」  
ニナに腕をはたかれて、トォニィは大げさに痛がってみせる。  
「暴力行為を働く危険人物は連れて行けないよ」  
「あんたが聞き分けないからじゃない」ニナは、はたいたばかりのトォニィの腕に今度はすがりつく。「お願いソルジャー。あたしたちも連れて行って」  
「落とされたり持ち上げられたり…」トォニィがルリに向かってぼやくと、彼女は少し相好を崩した。  
「…慣れておきたいのよ」ルリはためらいがちに口を開いた。「そのうち、フィシス様のところへも行ってみたいし」  
「ああ…そうだね」トォニィはうなずいた。「わかった。スタージョン大佐に相談してみるよ」  
「やったーー!!」ニナがトォニィの腕を掴んだまま振り回す。  
お道化てその動きにつき合うトォニィの視線の先で、ルリが微笑んだ。  
 
近づくノアを上機嫌で眺めている窓の前の二ナから離れて、ルリは後方の席に腰掛けていた。  
「コーヒー、飲む?」  
背後から声がして、目の前にカップが差し出される。  
「…いただくわ」カップを受け取り、ルリは声の主を見上げる。  
トォニィはルリの隣の席に腰を下ろして足を組んだ。自分のコーヒーを一口すすってから、ニナをあごで指す。「あれはどうしたの、一体?」  
「ああ…ニナはトキと喧嘩したのよ。顔も見たくないって」  
「そんなことだろうと思ったよ」やれやれ、とトォニィは大げさに肩を落とす。「そんなことで、地球政府の高官にいろいろとお膳立てを頼む羽目になったとは」  
「ごめんなさい。だけど彼らのような生活に私たちが慣れておく必要があることは、わかってもらえるわよね?」  
「それはさ、君たちもいずれ船を降りるってことなの」カップをソーサーに戻すと、トォニィはルリを真っ直ぐに見つめた。  
「…今すぐではないわ」トォニィの強い視線から逃げることなく、ルリは言葉を返す。「でもこのままミュウが人間と暮らせる社会が定着していくのであれば、私は降りるかもしれない」  
トォニィは何も言わなかった。  
ルリはトォニィの瞳に自分が映っているのを見たが、それは一瞬のことだった。  
彼はすぐに正面を向いて席を立ち、何事も無かったかのように自然な様子で前方へ歩いていった。  
 
宇宙港ではセルジュが自ら、彼らを出迎えた。  
「この人たち、こう見えても僕のママと同じ歳なんだ」  
自己紹介を終えた二人の後ろでトォニィが真実を明かすと、ニナが振り返って彼をにらみつける。  
「それはあなたがまだ5歳児ってことと併せて言ってくれないと、語弊があるでしょ!」  
「二人の言っていること、どちらも本当なんです」ルリは冷静にセルジュに向かって話しかけた。「私たちの見た目って、みなさんから見ると気持ち悪いのでしょうね、やっぱり」  
ルリの言葉にトォニィとニナは驚いたが、セルジュはにっこりと笑顔を見せた。  
「いや、初対面の方にこう申し上げては失礼かと思いますが、若くてきれいな容貌をいつまでも保つことは、いつの世も人類共通の願いでしょう。あなた方をうらやましいと思う人数のほうが断然多いと、僕は自信を持って言えますよ」  
「…ありがとう」ルリは安堵の息をつき、セルジュの笑顔に応えた。  
 
街を気兼ねなく見て回れるようにと、セルジュは一般市民の女性が着る服を何着か用意していた。  
「とりあえずこれで我慢してください。今日これからショッピングモールにも立ち寄る予定にしてありますから、その際ご自身でお好きなものを選ばれるといいでしょう」  
「これで十分だわ」服を自分の身体に合わせてはしゃぐニナがセルジュに礼を言う。「この服、全部選んでくださったの?すごくセンスがいいわ」  
「ニナ、失礼よ」  
「いえ、残念ながら僕の見立てじゃありません。でもお気に召してよかった」  
「馬子にも衣装だな」  
「トォニィ!!」  
つられてみんなが笑う。張り詰めていたようなルリの表情も徐々にほぐれだし、トォニィは少し安心した。  
だがセルジュの語る今日の予定を聞いていたルリの顔色が、また少しずつ沈みこんでいく。  
特に、乗用車に乗って町へ繰り出すのは少し大胆すぎやしないかと、ルリは躊躇した。  
「私たちはいいけれど、あなた方は政府の要人なのだし…」  
「大丈夫だよ、ちゃんと警護がつくんだから」トォニィはセルジュと顔を見合わせる。  
セルジュがうなずく。  
「大仰なものではありませんから、周りの者には気づかれないでしょう。安心してください、トップクラスの警備ですよ」  
「なんだか申し訳ないわ」ニナが神妙な面持ちで言う。  
「何をいまさら」あきれ顔でトォニィはニナを振り返った。「喧嘩ぐらいで船を降りたがったくせに」  
「ルリ、しゃべったのね!」  
「喧嘩って?」  
「何でもありません」ルリはニナの腕を掴んだ。「着替えてきます。殿方は少々お待ちください」  
二ナの抗議の声が、二人の退場によって遠ざかった。  
 
後部座席に四人が向かい合って座ると、車は滑るように走り出した。  
前方の座席に並んだセルジュとニナの会話がすぐに弾んで、楽しげな笑い声が社内に溢れる。  
ルリはトォニィの横でぼんやりと、二人の様子を眺めていた。  
「窓から外を見ないの?」  
いきなり話しかけられて、ルリは思わずトォニィに顔を向ける。  
「慣れるために来たんだろう?見ておかないと、見学に来た意味がない」トォニィはルリの服をあごで指す。「…それ、似合うよ」  
「そうかしら」ルリは自分が身に着けている衣服を見下ろした。  
薄い生地でできたグリーンのワンピースだ。むき出しの膝下に空調の風が当たって落ち着かないという思念を、ルリは隠さなかった。  
「これに慣れるのは時間が掛かりそうだわ」  
「あっちはもう慣れちゃってるみたいだよ」  
またしてもトォニィがあごで指す先で、ニナがピンクのワンピースの裾をもてあそんでいる。会話に夢中で、自分の手が何をしているのか意識にのぼっていないのだろう。  
「注意しないの?」  
「…もういいわ」ルリの声には力がなかった。  
「見えそうだよ…」トォニィが正面を向いたまま、ルリに向かって身体を傾けていく。  
「あの人はあなたのママと同じ歳よ」  
冷静なルリの声が聞こえても、トォニィは止まらない。  
「…ソルジャー、やめてください」ぴしゃりとルリは言った。  
「なんだよ、ご機嫌斜めだな」姿勢を戻して、トォニィは真顔になった。「本当はどうしたかったんだよ。君自身はさ」  
「私自身?」  
「そうだよ。ニナじゃなくて、君」  
「私は…私はフィシス様に…」  
「なんだ、フィシスに会いたかったのか。それならそうとはっきり言ってくれていれば…」  
「いえ、会いたいというより」とルリは首を振りながら窓の外を見やり、小声で先を続けた。「フィシス様に、近づいてみたかったの」  
 
 
二人が買い物を終えて帰ってくるのを、男たちは車の中で待っていた。  
「なんだ、ずいぶん時間が掛かったわりに収穫が少ないみたいだな」トォニィは、二人の手荷物がほとんど増えていないのを見てからかった。  
「うーん、いろいろ迷っちゃって」ニナが照れ笑いで答える。「結局みんなにお土産買っただけ」  
「やっぱり観光じゃないか」  
「うるさい!ちゃんと見てきたわよ、あれやこれや」  
「ルリは?」  
「私は…」ルリは小さな紙袋を一つ持っているだけだった。「探し物が見つからなくて」  
「何をお探しですか?」セルジュがにこやかに声を掛ける。「専門店にお連れしますよ。まだ時間があるし」  
「いえ、もう申し訳ないわ。戻ります」  
「遠慮するなよ。せっかく来たんだから」トォニィが身を乗り出してルリの顔を覗き込む。「何が欲しかったの」  
「いいの。もうこれで」とルリは手の中の紙袋を胸に抱えた。「これを見つけたから」  
「あたしたち、ちょっと疲れちゃったのよ」ぺろりと舌を出してニナが言う。「こんなに人が多くて、それにみんなあたしたちがミュウだって知らないから、感情がそのまま流れてきちゃうし。…ノアで暮らしているミュウは、みんなミュウだって名乗っているんですか?」  
ニナの質問に、セルジュが答える。  
ルリは聞いていなかった。  
窓の外を流れる景色に視線を向けていても何も見ていないことが、トォニィにはわかっていた。  
ルリの口から漏れたかすかなため息を、自分のもののように彼は感じた。  
 
夕食を挟んで公式の話し合いが設けられていたため、トォニィが連絡艇に戻ってきたのは深夜だった。  
送ってきたセルジュと、二人は別れの挨拶を交わす。  
「最後にひとつ、お願いしたいことがあるのです」とルリがその場で言い出して、トォニィとニナはまたもや驚いた。  
ルリは今日の買い物で買ってきたものを、紙袋のままセルジュに手渡そうとした。「お手数ですが、これをフィシス様のところへ届けていただけないでしょうか」  
「フィシスのところなら自分で届ければいいじゃないか」トォニィが口を挟む。「ここから近いってわけじゃないけど、この次は直行すればいいんだし」  
「そうよ、自分で渡すつもりで買ったんじゃなかったの?」ニナも口を揃える。  
「でも次はいつ来られるかわからないわ」ルリはセルジュの手に紙袋を押し付けた。「よろしくお願いします」  
「これはもしかして…赤ん坊のものですか?」紙袋の中を覗き込んだセルジュが言う。  
「え、もう生まれたんだっけ」とトォニィが素っ頓狂な声を出すと、「まだよ!!」と女性二人の声が重なった。  
「来月の予定ですが、早まりそうだと聞いています。やはりご自分で手渡されたほうが良いのではありませんか?お喜びになりますよ」  
ルリはためらった。  
「ではこうしましょう。僕がいったんお預かりしておきます。お子さんが生まれたらみなさんにお知らせして、正式にまたご招待します。今回はちょっと準備不足だったし、ぜひもう一度お越しいただきたい」  
笑顔で締めくくったセルジュに対し、もはやルリもうなずいてみせるしかなかった。  
 
 
「…がっかりしちゃった?」  
あいかわらず静かな様子のルリに、横の席からトォニィは話し掛けた。艇内は音も無く、耳をすませば前方の席で横になっているニナの寝息すら聞こえそうだった。  
「がっかりじゃなくて…予想していたよりはるかに大変そうだなと思っただけ」  
「やっと本音が出たね」  
トォニィの笑顔に、ルリは少し頬を緩めた。  
「フィシス様はすごいわ」ぽつりと、彼女の口から言葉が零れる。「フィシス様だって、あの船から出たことなんてなかったはずなのに。突然一人であの社会に入っていくなんて、私にはとてもできない」  
「うん、まあ、あの人は強いよ」鼻の下を擦りながらトォニィは言う。「それに郊外に住んでいるから、あまり社会に触れている生活というわけでも…」  
「でも知らない人ばかりの社会で手術を受けて、今度は出産するっていうのよ」ルリはゆっくりと首を振る。「あそこで子どもを育てるっていうのよ。そんなこと私にはとても…」  
「そうしたかったの?」  
「え?」  
「ルリはあっちで子どもを生んで育てたかったの?」  
 
「…そういうわけではないけれど、いずれミュウが人間の社会に融合する形になれば生活を彼らに合わせることになるのだし…」  
「合わせるばかりじゃないんじゃない?生活様式なんて、新しいものを取り入れてどんどん変わっていくものだろ?僕たちがたとえ彼らと一緒に暮らすことになっても、彼らに合わせる必要は無いんだよ」  
「フィシス様は合わせているのでしょう?」  
「自然出産は僕らが始めたことだろ」にっこりと笑って、トォニィは自分を指差す。「それが今や人類全体のブームだぜ。互いに影響しあって、僕らも人間も変わってきているんだよ。それに、フィシスは社会を選んだんじゃない。彼を選んだんだ」  
「そうね」深いため息をついて、ルリはトォニィに横顔を見せた。「愛があれば、どんな困難だって乗り越えられるのね…」  
咳払いをして、トォニィも前を向く。  
「…セルジュっていい奴だろ。あいつ多分、君たちと実年齢でもそう変わらないんじゃないのかな」  
「トォニィ、女性にあまり年齢のことは言わないで」  
「気にしてるの?」  
「…してるわ」  
その頬に、トォニィは音を立ててキスをする。  
「な、何するのよ」動揺して、ルリは顔を赤らめる。  
「僕は気にしないよ」  
「あなたがどうこうということじゃなくて」笑顔で身を乗り出してくるトォニィを腕で押さえてルリは言い返す。  
「セルジュのほうがいい?」  
「いいって何が」と言いかけたルリの口をトォニィの唇が塞いだ。「くっ…トォニィ!」  
「僕の愛じゃ頼りない?…種無しじゃ駄目か」とトォニィはいきなり力を抜いた。「僕には立候補する権利が無いよね。子ども、つくれないもん」  
「そんなこと…」一瞬見開かれたルリの大きな目から、涙が零れた。「そんなこと言わないで。私はそんなことであなたに対する気持ちが変わったりしないわ」  
「やっと言ったな」にやりとしたトォニィが再びルリに手を伸ばし、ためらわずにその身体を抱き寄せた。  
「でも私はカリナと同い歳なのよ」トォニィの胸に顔を埋めてルリが泣く。  
「フィシスの年齢を知ったときにキースが言ったことを教えようか?…いや、本人の口から言わせよう。あんな気障なこと、僕の口からはとても言えないよ」  
「フィシス様はお幸せなのね」  
ルリの濡れた頬をトォニィが仰向かせてキスをする。  
「僕たちも幸せになろう」  
彼が囁くと、ルリは、はにかむように微笑んだ。  
「…えー、おほん」前方から声がした。「続きはあたしが降りてからにしてよね、お二人さん」  
 
 
 
おわり  
 

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