遠く、泡の弾ける音がする。  
とろりと重い闇の中。微かなその音を頼りに、凍えた素足が硬い床を進む。  
ここは、どこなのか。  
自分は何を探しているのか。  
浮かんだ疑問の答えを見つけられないまま、女の眼は、小さくにじむ青白い光を捉えた。  
物の形や色を、捉える事が出来ない筈の眼で。  
一歩近づくごとに、光は明瞭なフォルムを作り出し、やがて女は巨大な水槽の前に立っていた。  
 
体温と等しく調整された透明な液体の中を、規則正しく上昇する泡の帯。  
淀んだ空気を微細に震わす、機械の振動音。  
そして、その中心にたゆたう、小さな一つの影。  
女は瞬時に理解した。  
ここは、自分が誰よりもよく知っている場所。  
郷愁と恐怖、執着と拒絶。  
相反する感情を掻き立てさせる、生まれ故郷。  
意識の深淵に封じられ、深い眠りによって呼び覚まされた記憶。  
ヒトでもなく、ミュウでもない、無から生み出された命。  
出来そこないの、無残な命。  
乾いた唇に、己を嘲る微笑みを浮かべ、女は過ぎ去った時のはざまに浮かぶ、自分自身の姿を今一度、確認しようと水槽に左手を添えた。  
添えた、その時。  
女は気付いた。  
そこにいるのは、自分ではないことに。  
 
天井からの照明を受け、水中で生々しく光る人口臍帯の先、両脚を胸の前で抱え、眠り続けている幼子。  
規則的に循環する人口羊水の流れに乗り、漆黒の髪がゆらりとなびく。  
「------- あなたは、誰?」  
反射的にこぼれた問いかけは、唇から離れると同時に意味を失った。  
自分は、この子を------、彼を知っている。  
彼は、私の ----------  
全身の血流が、ざわり、と音を立てた。  
 
胸の前で強く握った震える右手が、目の前の水槽に向かって上がり、すぐ下される。  
幾度も、幾度も躊躇した後、ようやく女の右手は水槽を打つことに成功した。  
 
コン  
コン  
コン、と3度。  
 
その瞬間、長い睫毛に縁どられた瞼が、ゆっくりと持ち上がり、澄んだ青灰色の瞳が現れた。  
 
「24時間ごとに、ノックを3回」  
決められた約束事によって、長いまどろみから覚醒した幼子は、決められた約束通りに、ゆっくりと「目覚めさせた者」へと近づいていく。  
水中を泳ぐ髪が、細かな泡の粒をまとい、照明を受け青い光りを放つ。  
やがて、水槽の端までたどり着いた少年は、目の前に立つ「いつもと違う人物」に戸惑ったように、ぼんやりとした瞳を瞬かせた。  
「大丈夫よ、怖がらないで。」  
女が、蒼ざめた頬に精一杯の微笑みを浮かべると、少年が微笑み返す。  
その反応が、単に自分の表情の模倣に過ぎないと理解していても、胸の奥から湧き上がる切なく熱い想いは留めることが出来なかった。  
己の生れ出た根拠も、待ち受ける運命も、未だ知らぬ無垢な微笑み。  
その幼い顔がふいにぼやけた。  
微笑んでいた少年が、少し不思議そうな顔をして、2人を隔てる透明な壁に細い指先をなぞらせる。  
その動きと、目の奥の熱い痛みで、女は自分の頬に涙が流れている事を知った。  
「ごめんなさい、心配しないでね。」  
細い首を傾げ見つめる幼い瞳に、震える声で答えながら、女は水槽の壁に突いた小さな両手に、自分のそれを合わせる。  
 
ごく、当たり前のように。  
この世に生れ出る以前から決められていたように。  
 
分厚いはずの強化ガラスを突き抜け、掌から凄まじい勢いで全身に流れ込む何かに、女の意識は攫われていった。  
 
それは、見知った過去なのか、見知らぬ未来なのか。  
合わせた少年の掌から、流れ込む膨大な情報という名の「記憶」。  
成す術もなく、流れに翻弄される女の目の前を、横を、背後を無数の声と映像が過ぎ去っていく。  
柔らかさや、冷たさ、暖かさ、それから切り裂かれるような痛みと悲しみを伴って。  
水槽の壁はいつしか消え去り、2人は互いの体温を、鼓動を、血流を交わし合う。  
 
自分たちは、かつて出会っていた。  
自分たちは、いつの日か出会う。  
眠りが呼び起こした、捻じれた時空の渦で、相反する認知が女の中を錯綜する。  
過去か、未来か、それとも今この刹那か。  
現実か、幻か。  
もう、どれでも構わない。  
自分たちを切り離すことなど、誰にも出来ない。  
たとえ、自分自身であっても。  
 
皮膚の細胞が融合し一つの存在に変化する、恐怖にも似た狂おしいイメージが女の中を駆け巡り、唇に恍惚の微笑みが浮かぶ。  
それに応えるかのように、ゆるりと指を絡ませてきた少年の幼い笑顔を今一度見つめようと、顔を上げた女は息を飲んだ。  
 
そこに、女が知っていた幼子はいなかった。  
 
青い光を放つ黒髪と、透明な薄青色の双眸はそのままに。  
強靭な意志を秘めた眉も、通った鼻筋も、引き締められた唇も。  
額から頬、顎を辿る、硬質で完璧な造形の線も。  
逞しい首筋、一切の無駄もなく完成された骨格の上に乗った筋肉。  
反射的に放そうとした手を、男は絡めた長い指に力を加え、その場に押し留める。  
骨が軋む程の痛みの中に生まれた確かな悦楽の芽を感じ、女の微笑みが一層深みを増した。  
 
こうなることを予知していたのか。  
こうなることを望んでいたのか。  
それは誰にも分からなかった。  
女自身にすらも。  
 
こぼれる熱い吐息と共に、額に浮かんだ汗の粒が肌を転がり落ちる。  
光る透明な粒は、薄紅色に上気した頬を伝い不規則にのけぞる首筋を舐め、収まることを忘れた呼吸に激しく上下する白い胸の間に吸い込まれていく。  
 
熱い  
溶ける  
 
汗に濡れる肌が、絶え間なく押し寄せる快楽の波に泡立つ。  
全身の毛穴から、見えない感覚の触手がびっしりと突き出し、ほんの一欠けらの感覚も逃すことなく捉え、狂喜に戦慄いている。  
麻痺し始めた思考の中で、女はぼんやりと、そんな幻想を見ていた。  
 
細胞が呼び合い、熱い共鳴を続ける。  
隙間なく合わされた掌が、強く絡ませ合った指が、互いを求め、生まれ落ちた原始の海に還ろうと誘い合う。  
 
幾度目かの波に身を捩った女の聴覚が、その時、微かな音を捉えた。  
自分の身体の奥底から発せられている、粘ついた水音を。  
 
己の底無しの貪欲さに、羞恥の余り目が眩む。  
反射的に、汗に濡れた太ももを固く擦り合わせても、音は掻き消されるどころか、一層淫らに物欲しげに歌うばかり。  
それどころか、鞘に納まりきれないほど増した泉が、解放を求め女の中心をこじ開けようと暴れ始めていた。  
 
どうしよう  
彼はきっと呆れているに違いない。軽蔑しているに違いない。  
途方に暮れた女が、決死の覚悟で開いた目の前に、男の深い微笑みがあった。  
そして、彼の中心にそそり立つ肉の欲望が。  
 
「--------- ああ…!」  
あなたも、  
あなたも、そうなのね。  
 
安堵と歓喜の涙が、女の頬を濡らした。  
 
青灰色の瞳に、快楽に歪んだ自分の顔が映っている。  
一点の曇りの無い澄んだ瞳を、貪欲な自分が穢している。  
身を切られるような罪悪感と、無垢な存在に自分の色を染み込ませる総毛立つような暗い悦び。  
清濁、背中合わせの感情が螺旋を描きながら女の中を駆け巡る。  
止め切れなくなった熱い流れが女の奥から溢れ、汗ばむ腿の内側を伝い落ちるのと、男の中心から透明な流れが一筋生まれたのは同時だった。  
 
あなたを、抱きしめたい。  
あなたが、欲しい。  
たとえ眠りから醒めた自分に、今、この時の記憶が何一つ残っていなかったとしても。  
 
生きる者の本能が咆哮する。  
だが、同時に女には分かっていた。  
こうしている限り、互いの背をかき抱くことは永遠に叶わない。  
そして、互いの手を放せば、2人は二度と触れ合うことは叶わない。  
 
ならば、せめて。  
 
残された最後の力を振り絞り、女は微笑みながら震える唇で告げる。  
声にならない言葉で。  
応え、男も深く優しい笑みを返し、見上げる女の唇にゆっくりと自分のそれを近づけていった。  
 
男を求める女、女を求める男。  
等しい命の故郷を持つ2人の唇が触れ合ったその瞬間。  
女の周りから、全てが消え失せた。  
光も、音も、熱も、触れあった肌も。全てのものが。  
水中でもない、硬い床の上でもない。上下左右すら不確かな漆黒の闇の中、女の身体からゆるやかに重力が失われていった。  
 
 
 
 
 
 
「怖い夢を、見たんだね?でももう大丈夫。僕がいるよ。  
ずっと君の傍に、いるよ。  
だから、もう、泣かないで。------ フィシス。」  
 
 
end  
 
 

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