「君はどうする?……フィシス」
地球へ降りる意思をジョミーに問われたとき、フィシスは彼の真意を測りかねた。
彼は知っているのだろうか。ドクターは彼に話したのだろうか。
もちろん、シャングリラの中で起きていることすべてを報告するのは義務なのだから事実をジョミーに伝えてもかまわないと、フィシス自身もドクターに言ってはあったのだが。
「わたしも…わたしも連れて行ってください」
自分一人だったらそんな勇気は無かったかもしれない。
この先自分がどうなっていくのか、仲間の未来も見えず、フィシスの心は不安で押しつぶされそうだった。
でも、今は一人ではない。
フィシスは胸の下で両腕を組んだ。
守りたいものが、自分を内側から支えてくれる。
どんなことになろうとも後悔はしないと、フィシスは決めた。
それでもキース・アニアンの部屋へ向かいながら、フィシスはまだ迷っていた。
もしも、やはりあの時キース・アニアンは気まぐれに自分を抱いただけだったとしたら、ひどく辛い気持ちで今日を思い返すことになるだろう。
そう思うと、フィシスの足取りは重くなった。
ドアが開いて彼の後姿が見えたときにはしかし、熱い思いが瞬時に胸に溢れて不安は消えた。
何も、考える必要は無かった。
「どうか、そのままで聞いてください。すぐに終わります」
フィシスは精一杯感情を抑えて、その背に声を掛けた。
キース・アニアンは振り返らなかった。
広く殺風景なその部屋の中では、彼の大きな背すら小さく見えた。
駆け寄ってその背にすがりつきたかったが、フィシスは涙をこらえ、自分を押しとどめた。
「…子どもを授かりました」
彼の背に動揺が走ったのを確認しつつ、フィシスは思わず視線を床に落とした。
なんと遠く離れてしまったことだろう。
あの時は、まるで互いが互いのために作られたのではないかと錯覚する瞬間もあったのに。
彼の肩には今や、地球政府のトップとしての責務が、重くのしかかっている。
個人的な感情移入など、公的な判断基準において許されるはずがない。
「あなたの今の立場のことは、よくわかっています。わたしはこの子を産んで、仲間の許で育てます。そして父親がキース・アニアンだということも、話します」
そこでフィシスは言葉を切り、勇気を奮って顔を上げた。
「あなたが、この子や他の子どもたちの未来にとって良き決断をされると、信じています」
彼が振り返りそうな気配を察して、フィシスは素早く彼に背を向けた。
身を切られるような痛みに、涙腺が決壊した。
「でも…忘れないで」
どうして彼のことをこれほど愛しいと思うのか、フィシスは説明のつかない激しい感情に翻弄されながら、自分をしっかり取り戻そうとした。
「あなたはこの子のもうひとりの親だということを。わたしに何かあったら、この子の親はあなたしかいないのだから」
ドクターには、出産が自分にとって命取りになるかもしれないと言われていた。
最悪の場合は子どもも危ないだろう、とも。
それでも少しでも可能性があるのなら、フィシスはそれに賭けたかった。
彼との絆を残したいから。
そして彼に、家族をあげたいから。
一人で立つ背に漂う寂しさを、たった今も見たばかりだった。
あなたは一人ではないと彼に伝えたくて、フィシスは地球へ降りたのだ。
「待て」
彼が何を言うのか、聞きたいような聞かずにおきたいようなジレンマがフィシスを襲う。
部屋を出ようとするのに、足が動かなかった。
足音が近づいてきて、後ろから抱き締められる。
力強い腕が身体に巻きついて、髪には吐息が吹きかけられた。
「迎えに行く。必ず迎えに行くから、信じていてくれ」
耳元で囁かれたキースの言葉に、フィシスは全身の力を抜かれて彼に身体を預けた。
時が、永遠に止まればいい。
彼の熱い思いに包まれ、この上ない至福を感じていながら、フィシスは悲しかった。
これほど平和な未来を望んでいる二人がここにいるのに、どうしてそれぞれに繋がる糸はこんなにも絡まっているのだろう。
キースの腕の中で身を捩り、フィシスは彼に向きなおった。
互いの息を間近に感じると、もう言葉はいらなかった。
唇を合わせて、体温を確かめ合う。
自分とは違う誰かと思いが通じるとは、素晴らしいことだった。
そこに明日の希望を見出せるような気がして、フィシスは唇を離し、口を開きかけた。
「わかっている」キースは答えた。
「お前が教えてくれたのだ。人を、人の持つ可能性を私も信じよう」
再び抱き合い、彼の鼓動を全身に感じたフィシスは、自分が幸せに酔っていると自覚していた。
この先何があっても悔やむまい。
愛し愛されて生まれる子どもの未来に、今は明るいことだけを見ていこう。
顔を上げると、彼が頬を合わせてきた。
彼の頬を伝う涙とフィシスの涙が交じり合う。
愛の結晶とはよく言ったものだとフィシスは思った。
親の意思までも突き動かす、この子の存在は小さくとも強大だ。
人と人の間を満たす愛の形として、子どもは生まれる。
荒廃し、ひび割れた大地に染み入る、水のように。
そのことを彼に伝えようとすると、彼の目が微笑んだ。
わかっている、と温かい光をその瞳に宿しながら。
おわり