(いけない。)  
(そう願ってはいけない。)  
男の大きな手に引かれ、指図されたとおり逃げ道を案内しながらも、フィシスは自分の感情と戦っていた。  
腕に抱えたトォニィの重さに耐えかねて少しでもしゃがみこみそうになると、男はその前に振り向いて彼女を支える。  
胸のうちが読まれているのだと思い知るのはつらかった。  
指を絡めて合わせたその手を通して自分の考えが伝わってしまうのはしかし、フィシスにはどうしようもないことだった。  
先を急ぐ男の背中を見つつ、この男に流れ込んでいるはずの自分の感情はどのように受け止められているのだろうとフィシスは考えた。  
その考えさえ読まれてしまうのだと気がつくと、もう何がなんだかわからなくなった。  
ただひとつ、その逃避行が始まって以来ずっと不思議な快感がボンヤリとした熱のように自分の内側に息づいている、ということ以外には。  
 
 
ソルジャー・ブルーの攻撃から男を守ったとき、フィシスには自覚がなかった。  
けれどすぐに自分のしたことの重大さに気づき、全身の血が凍る思いがした。  
もう後戻りは出来ないと、はっきりわかった。  
自分は出て行くのだ、注がれる愛の光に満ちていた陽だまりの庭から。  
そしてそれは、男に会った瞬間から彼女が望んでいたことだった。  
男の全身から溢れる生命力と野性的な生身の躍動力が、フィシスの心を一瞬で惹きつけた。  
(連れて行って欲しい。)  
その願いはかなうのに、ブルーを前にしたフィシスの胸には後ろめたさが流れる。  
それでも男の手が力強く自分の腕を引くと、フィシスは男と共に船に乗った。  
帰る場所がなくなったと、フィシスは思った。  
 
 
船を手早く自動発進させた男が、フィシスに向き直った。  
「なぜ私を庇った」  
フィシスは答えなかった。  
自分の感情はもう十分、男に伝わってしまったに違いない。  
今さら何も語るつもりはなかった。  
男は座席の背もたれの裏に、立ったままのフィシスの身体を押し付けて、その顎を掴んだ。  
「お前は自分のしたことがわかっているのか」  
「わかっています」殺して欲しい、とフィシスは胸のうちで囁いた。  
帰る場所どころか、進んでいく先も無いことにたった今気がついた自分を、我ながら愚かだと思った。  
男は黙ってフィシスの顔を見下ろした。  
殺して、ともう一度胸の奥で呟くと、後悔もしていないのに目から涙が溢れ出すのをフィシスは感じた。  
俯こうとする顎をあらためて仰向かされる。  
唇に冷たい指が押し付けられた、と思った。  
だがそれは、男の唇だった。  
 
何が起きているのかわからなかった。  
舌が入ってきてから我に返り、男の身体を押しのけようとしても、フィシスの手は男に掴まれて動けなかった。  
顔を背けて、唇から逃れた。  
「いや、やめて…」動揺して言葉が続かない。  
「助けてもらった礼だ」と男は言った。「お前が望むようにしてやる」  
(死ねるの?)  
しかし男の手はドレスの裾を捲り上げていく。  
フィシスは自分の置かれている状況がまだ理解できなかった。  
すぐに殺されるのではないようだ。  
先が読めないという恐怖に全身が震える。  
次の瞬間、フィシスの息が止まった。  
下着の中にいきなり冷たい指が入ってきた。  
身体が硬直した。  
男が低く笑った。  
「お前はまだあの男のものではないのか。それは面白い」  
指で中をまさぐられると、羞恥で頭の中が真っ白になる。  
「…待って、こんな…あっ…」  
ようやく振り絞った声も蚊の鳴くようだった。  
男の唇が首筋を這い始めていた。  
「い、いや…やめ…て…」  
「いやなのか?」男はフィシスの顔を上目遣いに眺めた。「ずっと私に抱かれたいと考えていたのはわかっていたぞ」  
「違います、それは…」まさか、現実になるとは思っていなかったから。  
「知識だけはあるのだろう。あの子どもがどうやって出来たのかはわかっているな?」  
男の考えていることが、フィシスにもわかった。  
抵抗する意味がないのだと知った。  
それはフィシス自身が望んだことだった。  
「でも、あの…」呼吸が乱れて、うまく話せなかった。「あとで必ず…」  
(殺して欲しい。)  
「…わかった」男は小さく答え、フィシスの首からアクセサリーをはずし取った。  
 
自分から進んで身体を開き、男を受け入れたかったが、考えるのと実際にそうするのとは大違いだった。  
何をするのもされるのも初めてのことで、恥ずかしさが先にたってしまう。  
乳房をあらわにされてその表面を撫でさすられると、フィシスの内側で何かが蠢いて鼓動が鳴り響き、それを男に知られるだけでも恥ずかしかった。  
これで自分の人生が終わるとしても、男の前で自暴自棄になるなどとは、フィシスにはどうしてもできなかった。  
「お前はあの男のなんなのだ」  
立ったまま乳房を吸われ、もう片方は手で愛撫されていた。  
「わ、わたしは彼の、ために、仲間の、未来を占って、いたのです」  
愛されていたけれど、自分の望む形ではなかった。  
結局彼には、未来を読む形でしか愛が返せなかった。  
「自分の未来は見えていなかったのか。気の毒なことだ」男が顔をあげ、フィシスの顔を覗き込む。  
「わたしの占い、の力は、仲間のために…あるのです」(過去を封印して、占いの能力を高めて…。)  
船体が揺れ、男が座席の背もたれにしがみついて、フィシスと男の胸が重なった。  
「お前も、自分の存在を軽いと感じながら意味のあるものにしようとしてきたのか」  
男の肌はいまや熱く、火照るフィシスの肌の上でその汗が光った。  
(どういう意味?)  
男の答えは無く、続いて唇を吸われた。  
今度の口づけは激しかった。  
音を立てて舌を絡ませてくる男についていくのに必死で、フィシスは気づかぬうちに喘ぎ始めていた。  
唇を離さないまま、男は再び指を下半身に伸ばしてくる。  
(いやっ…)  
中に、深く指が侵入してきた。  
先刻と異なり、自分のその部分が濡れているのも初めての感覚だった。  
潤っているだけでなく、まるで氾濫した川のようだ。  
これでいいのだろうかと、フィシスは不安になった。  
「優秀だ」男は唇を離して言った。「初めてでこれほど感度がいいのは、才能があるということだ」  
さらに深く指が沈められ、フィシスの声が上がる。  
すると自分の声の響きがなまめかしくて恥ずかしく、フィシスはあわてて口元を左手で押さえた。  
その手を取った男に、指を舐められる。  
「あああっ、やめてっ…」  
「ここか?」男が薬指と小指の間を軽く噛む。  
「いっ…いやぁっ…」フィシスの上体が大きく仰け反った。  
男がフィシスの左手に自身の手の指を絡めてきつく握り締める。  
一度感じると、触られるだけでたまらず、フィシスの全身はびくびくと震えた。  
いつの間にか下半身に沈められていた指が抜かれていた。  
その代わりにあてがわれたものの存在に、フィシスは気づく。  
「あ…待って、まだ…」  
(怖い。)急速に感覚が冴えた。  
男の腕にしがみつくと、男は微かに笑った。  
「大丈夫だ。初めは仕方がない。一気に行くぞ」  
「待って、まだ……あああっ」  
右足の大腿を持ち上げられて、もの凄い力で下から突き上げられる。  
「いやあっ、痛いわ、やめて、あ、ああっ…」  
片足しか床に着いていないのに、切り裂かれる痛みにつま先立ちになる。  
それでも上に逃れようとするフィシスは、男に座席に押し付けられながらも身体が支えられなかった。  
男の脇の下から腕を入れて、両肩にしがみついた。  
痛みを通り越し、気を失いそうになる中で続けて律動に揺す振られ、男が自分の頬にキスしていることにすら気づかなかった。  
 
「お前は今、死んだ」と男は言った。「もう気が済んだか」  
「だめよ、約束したわ」フィシスはまだ男の腕の中で、その肩に頭を乗せていた。「あとで必ずって」  
静かな気持ちだった。  
「お前が私を庇ったのはなぜだ」男が同じ質問をした。  
「それは…」顔を上げると、目の前に男の唇があり、その息がまぶたにかかった。「あなたを死なせたくなかったから」  
「ではお前も死ぬな」フィシスを抱き締める男の腕に力がこもる。  
嬉しかった。  
でも、どうしようもない。  
もしかしたらもう自分には占いができないかもしれないという気がしていた。  
それならなおのこと、仲間の元へなど戻れるはずがなかった。  
「お前を連れて行きたい。だがいくら私でも、お前を匿いきれないだろう」男は腕を解き、フィシスにドレスを着せながら言った。「仲間の元へ帰してやる」  
「無理よ」(帰れるわけがない、ソルジャー・ブルーの元へなど。)  
首を振るフィシスの頬を、男が押さえた。  
「生きてくれ、私のために。お前が生きていると思うことで、私も生きていかれる」  
この人も寂しい人なのだ、とフィシスは思った。  
行きずりの自分を拠り所にしなければならないほど、男のこれまでの人生は空虚だったのだろうか。  
 
マツカという男の声が船内に響いたのは、そのすぐあとのことだった。  
 
 

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