ロマンスグレーの髪が夜風に僅かになびく。
「おや?江波君じゃないか。うら若き乙女がどうしたんだね、こんな時間に」
屋上に現れたのは、古畑博士だった。
いつもの白衣ではなく、ダークグレーのストライプのジャケットを羽織り、腕には書類が入っていると思しき白色の大判封筒を抱えていた。
「博士こそ、なんでこんな時間に?検死だった……ってわけでもないようですし」
古畑の顔には若干、疲労の色が濃いようだった。
もし検死解剖だったとすれば、生き生きとした表情で颯爽と風を切りながら現れたことだろう。
「うむ。……実は、明日、小鷹の公判が控えていてね。その書類を纏めていた」
検察側から出廷を要請されたのだという。何がしかの証言をすることになる、そう呟きながら、古畑は識子の隣で夜空を眺めた。
「本人が罪を認めたのだから、話がややこしくなることはないだろうが、それでもね」
そう言って眉間を揉み解す古畑の様子に、識子はなんとなく理解した。
「……どうにかして、真実は真実のままに、それでも、罪が軽くなる術を。探してたんですね?」
「そんなに買い被らんでくれ。私に出来るのはせいぜい、死者が苦しまなかったかどうか、どんな思いで最期を迎えたか……それを推し量ることだけなのだから」
そう言って古畑はゆっくりと目を閉じる。
「ああ、考えていたら、腹が空いてきたな。こんな時間では、出前もとれないだろう。家にまだステーキ肉があったかな」
何を考えていたのか、一瞬推測しそうになって識子は苦笑した。
そして、初めて、古畑の『腹が空く』という意味に気がついた。
それはつまり、徹底して死者を代弁しているのだということ。
自分が関わった、もう何をすることも出来ない彼らに代わって人生を謳歌するということ。
……彼らの分まで、まるでそれがひとつの供養の形であるかのごとく。
悠々と屋上扉まで向かっていた古畑は、不意に振り返り、少々悪戯っぽい笑顔を向けた。
「江波君。君も来るかね?一人で食べるよりは、誰かと食べた方がいい」
◎ ◎ ◎
アメリカンバイクに二人乗りなんてのは、識子にとって初めての経験だった。
体で風を切る速さ。うなるような低い音が体中に響く。
慣れない感覚に生じる恐怖。思わず古畑に強くしがみついた。
「怖いのかね、江波君」
「い、いえ、そんなことは」
赤信号で停車した時、古畑が識子を気遣うように声をかけた。
慌てて否定した識子だったが、その声は僅かに震えてしまっていた。
それを感じ取ったのか、古畑は、安全運転で行くから安心してくれ……と声をかけ、信号へと目を向けた。
◎ ◎ ◎
「ふぅー、美味しかった!」
「喜んでもらえて光栄だ。一人の食卓とはなかなか寂しいものでね」
古畑は腕の揮い甲斐があったというものだ、と嬉しそうに言いながら食器洗い機に皿を並べていく。
肉好きなだけあってか、つい先までその皿に盛られていたのはただ焼いただけの厚い肉ではなく、『ステーキ』と呼ぶに相応しい物だった。
味付けも盛り付けも完璧な一品に、識子は思わず「博士ってば、乙女の天敵だわ!」と口に出してしまったほどだ。
室内の時計はもう3時を指そうとしている。
ちらりと食器洗い機を見れば、中ではなかなか美味なワインを供してくれたグラスが2つ、水流に晒されている。
バイクで送ってもらうというわけにもいかない。なんとも中途半端な時間に識子は戸惑う。ここからなら、いっそ歩いて南東京署に向かうのが一番安全かもしれない。
古畑の自宅は、市街地にある分譲マンション、その最上階の一室だった。
バイクから降りた時には、新築というわけでこそないがそれでもいっそ優雅ともいえる落ち着いたたたずまいに圧倒されたものだったが、古畑いわく「若気の至りで購入してしまった」のだそうだ。
思わず呆れた識子は、それっていつのことなんですか、とだけは口にせずにすんだ。
通されたDLKも、家具はセンス良くまとまっていて、同時に単身者故の希薄な生活感と清潔感があり、上京以前から識子が抱いていた、こんな部屋に住んでみたかったという想像を掻き立てられた。
ただ、自分ではあっという間に散らかすだろうという情けない結論に陥ってしまったのだが。
「おや、3時か……江波君、今日は泊まっていくといい。何、私はそこのソファでも大丈夫だ」
古畑はそういうと、手際よくソファに毛布を敷いてしまった。
「え!?いや、博士、いくらなんでもそんなわけには」
「うん、それがいい。こんな時間に女性に外出させるなんて、紳士としては許可できないことだ。パジャマもないだろう。寝室に私のシャツがかかっているから、どれでも好きなのを着るといい」
慌てる識子を余所目に、古畑はどんどん自分で決めていってしまう。この男が一度言い出したら聞かないことは、識子には今までの、仕事上でしかない付き合いの中でもよくわかっている。
せめて出せるのは、妥協案くらいだ。
「あの、博士!じゃあ、私がソファで寝ます。私のほうが、背もずっと低いですし。博士がソファでは、窮屈でしょう?」
お邪魔してるのも私ですし。そこまで言って、渋る古畑を納得させた識子は、しかし制服の皺を嫌がって服だけは古畑の黒いシャツを借りたのだった。
時間がどれくらい経ったのかはわからなかったが、まだ外が暗いことから、そんなに時間は経っていないのかもしれなかった。違和感によって識子は、眠りの海から引き上げられた。
目の前には、寝室に行ったはずの古畑の顔がある。上半身は裸で、歳の割にはしっかりとした筋肉が見て取れる。おなかの辺りは、年齢による宿命から逃れ切れていないようだったが。
「……起きてしまったか」
低い、囁くような甘い声が、そっと耳を打つ。
鎖骨の僅か上に、ひやりとした感触を感じた。古畑はいつから持っていたのか、小さなステーキナイフをその手に隠していた。
「……メスで肌を切る感触と、このナイフで肉を切る感触というのは、あまりにも違う。
ただ、肉を切るということに特化させるために、ステーキナイフにはノコギリ状のぎざぎざとした刃がついている。
……江波君。もし今、私が、君の首をこれで掻き切ったら、その場で君は遺体になってしまうのだろうね」
そう言いながら、静かにナイフへと力を込める、古畑。
識子の首に、ちりりとした痛みが走り、じわりとわずかな熱を感じた。少し切れたのだ。
ぷつりと浮かぶ、赤い珠。
識子はその間中、古畑の目から、一度も視線を逸らさなかった。
……先に視線を逸らせたのは、古畑だった。
識子の首筋に顔を寄せ、赤い液体を吸い付くように舐め取った。
ナイフを放り投げる。毛足の長い絨毯はその金属が耳障りな音を立てることを許さなかった。
「冗談だ。……君の遺体など、見たくない」
「……わかってます」
識子の言葉に嘘は無かった。
ナイフを当てる古畑の目には、動揺と恐怖が浮かんでいた……傷つけることを恐れるが故の。
どれだけ歳を経ようとも、男は男なのだな、と識子は微笑ましさを感じた。
強がりで、偉そうで、怖がりで、まるで子供のよう。
あやすようにそっと髪を撫で、背中に腕を回す。識子はそのまま、古畑に身を委ねた。
古畑は自分が借したシャツのボタンをはずし、識子の胸元をはだけさせる。
たっぷりとした脂肪質の存在感は、古畑にはある種見慣れたものではあったが、それが熱を持ち脈を打ち、呼吸とともに上下するのはそれだけで違った意味があった。
てのひらですくい上げるようにして包み込む。
識子は切なそうな表情を浮かべ、古畑の頬へと両手を伸ばし、顔を上げさせる。
額にくちづけられて古畑は笑った。心の底から嬉しそうに。
識子には、その瞬間は初めてではなかった。結果として、あまりいいレンアイとは言えなかった相手とのその行為を、わずかばかり恥じいる。
だからだろうか。以前は痛みしか感じなかったその行為に違う感覚が混入し始めたことに、識子はすぐには気がつけなかった。
「ん、う……あ、はぁっ。……あ、あ。ぅうんっ…」
慣れない感覚に生じる恐怖。思わず古畑に強くしがみついた。
「怖いのかね、江波君」
「い、いえ、そんなことは」
怯えるような様子に、動きを止めて、古畑が識子を気遣うように声をかけた。
慌てて否定した識子だったが、その声は僅かに震えてしまっていた。
それを感じ取ったのか、古畑は、怖いことなどなにもない、安心してくれ……と声をかけ、それから急に、笑い出した。
識子は怪訝そうな表情を浮かべ少しぼやけた視線で、古畑を睨む。
「なにか、おかしいことでも……」
「いや、そういえば、さっきもこんな会話をしたと思ってね。そのときには、まさかこうして、君を抱くとは思っていなかった」
識子の長い髪を、大きな手で優しく撫で、その一房に口付ける。
「きちんと言えていなかった。こんなオジサンだが、私は今、君をどうしようもなく愛しているよ」
今までの行為で赤く染まっていた顔が更に熱くなることを自覚しながら、識子は呟いた。
「……年齢の差なんて、関係あるんですか?」
「江波君、君は……嬉しいことを言うね」
優しい笑顔を浮かべ、古畑は動くのを再開した。
識子の胸のうちには、もう恐怖はなかった。
穏やかな感情。
優しい感覚に導かれ、昇り詰めていく……
「あ、あ、ぁあ、ん、んぁ、ぁああああああっっっ!!!」
最後の瞬間、一際強く抱き締められたのを感じながら、識子の意識は白く弾けた。
◎ ◎ ◎
日本家屋である江波家では感じ得なかった、カーテン越し特有の柔らかな日差しに、意識が覚醒する。識子は身を起こし、あたりを見回した。
ふかふかのベッド。見覚えのない部屋。壁にかかっているの見覚えのあるシャツ。
そして、着込んでいるだぶだぶの紳士物の黒いシャツ。
古畑の寝室であることには間違いがないようだ。
昨晩のアレは、夢だったのだろうか?
識子はほとんど無意識に首筋に手をやる。
そこには、小さなかさぶたがあった。
識子は誰か見ている人があれば艶っぽいといわれただろう笑顔を浮かべ、立ち上がるとひとつ大きな伸びをし、コーヒーの匂いが漂ってくるキッチンへ続くドアを、音を立てないようにそっと開いた。
1:END