紳士物の香水の匂いが、厭味でない程度にふわりと漂う。  
屋上扉に背を預けて、芦茂が識子を見ていた。  
「どうしたんですか?こんな時間に……」  
少し驚きながら、識子はその人影へと声をかける。  
急に、風が強くなった。髪が乱れるのを片手で抑える。  
「識子ちゃんのラボを見たら、灯りがついてたからね」  
識子ちゃんこそ、何をしてたの?そう言いながら歩み寄る芦茂に、識子は背を向けた。  
「いえ、ちょっと……」  
まさか書類仕事を溜め込んでました、なんて正直には言えない。  
識子の少し後ろで、足音が止まる。  
「ひょっとして、何か悩み事でも?」  
「ああ……それは近い、かも」  
学生の頃には、25だなんてずっと遠くのように感じていた。  
今の自分よりも、はるかにオトナで、格好いい姿を想像したりして。  
それが、どうだろう。  
こうして碌な化粧もせずに、現場を走り回る日々だ。  
望んで手にしたものとはいえ、たまに会う同期の友人たちの洒脱な服装、綺麗なアクセサリーには僅かな嫉妬を禁じえない。  
ちょっとだけ、昔のこと考えてました。識子はそう言って笑った。  
その笑顔に、芦茂は僅かに動揺し、そして、意を決したように口を開いた。  
 
「昔の……恋人のこと?」  
「え?」  
何を言ってるんだろう。その思いが口をついて出た驚きは、しかし芦茂には違って受け止められた。  
「遠山さんから聞いたんだ。その……有望な、役者さんだったんだよね?」  
そこまで聞いて初めて、識子はいつかの嘘を思い出した。  
「どんな人、だったの?」  
嘘なんて吐くもんじゃない。回りまわって、いつかは自分が苦しくなる。  
識子はうつむき加減に夜の街を見下ろした。  
「ご、ごめん、変なこと聞いちゃったね。でも、その……もしかして、ずっと、その人のことを、忘れられてないのかなって思ったんだ」  
芦茂は慌てて言葉を繋げる。  
詳しいことを追求されずに済んで、識子はほっとした。  
「いえ、いいんです。昔のことですから……」  
言いながら、識子の胸に一抹の寂しさが抜けた。  
昔のこと。  
子犬のような目をして笑う男のことを思い出してしまったのだ。  
そう、そんなのは、昔のことだ。  
あのときの銃声が、今もまだ耳の奥で響いているような気がして、識子は身をすくめた。  
その瞬間、その体を強く抱き締める腕があった。  
芦茂だった。  
芦茂は泣きそうな声で叫ぶように言った。  
「ごめん!識子ちゃん……もう泣かないで!」  
 
芦茂さんこそ。そう言おうとして初めて、識子は自分が涙を流していたことに気がついた。  
寂しさを感じた身に、人の温もりが心地よい。識子はしばらくその腕に体重を預けていた。  
「識子ちゃん……」  
声が耳元、すぐ近くで聞こえた。そのことに識子ははっとする。  
キスできるほどの距離感。慌てて、芦茂の胸を押した。  
「これ以上は、ダメです」  
「え。」  
今まさに唇を狙っていた男の口から、間の抜けた声が漏れた。  
「芦茂さん、今、キス、しようとしてましたね?昔の恋を思い出して感傷に浸ってる相手に。それって失礼じゃないですか?」  
そう言って唇を尖らせた識子の前で、芦茂は大袈裟にしょげ返って見せた。  
「ああもう、識子ちゃんってば、ガードが堅いんだから。  
 それじゃあ今からご飯でも一緒にどう?」  
何がどうそれじゃあに繋がるのか判らない。そう言おうと口を開いた識子の動きが止まる。  
……ぐぅう、きゅるー。  
体は、正直だ。  
芦茂は真っ赤になった識子に笑いかけて、イタリア車のキーを月光の下に晒した。  
 
駐車場までの雑談、へらーりとかいう会社がひあっととかいう会社の傘下でどーのこーのとか同じエンジンを積んだませらちとかいう会社がやっぱりひあっとの傘下でどーのとか。  
そういう話にはさっぱり着いていけなかった……というより正直、そんな話には興味がなかった識子だが、芦茂の指し示すその車が高級車であることだけは一目で理解していた。  
少しだけ情けない気持ちで足元を見つめる。  
泥だらけのローファー。  
「靴、脱いで乗った方がいいですか……?」  
おろおろした表情で見上げる識子に、芦茂は左ハンドルの助手席ドアを大きく開け放ち、恭しく頭を垂れる。それから少し顔を上げ、少し不器用なウインクをしてみせた。  
「そのままでどうぞ、識子ちゃん。君が僕の助手席に乗ってくれるなら、それだけで光栄だよ」  
 
  ◎   ◎   ◎  
 
こんな深夜でも、帝都ホテルは営業しているのかと驚いた。  
生活の多様化や世界で一層進むグローバル化への対応として、数年前から、ホテル内で営業している料理店は24時間かならずどこかが開いているようになったのだ、とフロントマネージャーの高鳥が説明しているのを聞き流す。  
識子の関心はそれよりも自分の服装が場違いなことに対して向いていたから。  
その時間にオープンしていたのはイタリア料理店。  
美味としか形容の仕様がない料理の数々に舌鼓を打ち、大切に使い込まれた一流品だけが持つ、贅沢な質素さで飾られた店内を見回す。  
おのぼりさん状態の識子に、芦茂は僅かに苦笑した。  
「識子ちゃんは、こういう店、初めてなんだね」  
「ええ、まあ……」  
一瞬真面目に受け答えてから、むっとする。  
「そりゃあ、芦茂さんみたいに、遊び慣れてるわけじゃないですから」  
 
言ってから、言い過ぎたかと慌てて芦茂の顔を見た。  
芦茂は怒るでも動揺するでもなく、少し黄昏た様子でゆっくりとグラスワインを飲み干した。  
「文壇に混じるようになってからは、僕にもいろんなことがあった。それだけだよ」  
芦茂の作家としての顔を、識子は知らない。アイザック・アシモフを意図したようなその名前が、本名なのか筆名なのかすらも。  
急に感じた居心地の悪さをごまかすように、識子はいい過ぎた言葉をジョークにしようとした。  
「またまたァ。時々女の子とか、連れてきてたりしたりするんじゃないですかぁ?」  
「……ここに初めて来たのは、まだ若い頃だったかな。論文と同時に発表した小説が認められて、選考委員だったベテラン作家に連れてきてもらったことがあるんだけど。そのときに、こう釘を刺されたんだ」  
芦茂は識子の目を見据えた。  
「本気で好きな女じゃなければ、この店には誘うな……って、ね」  
 
  ◎   ◎   ◎  
 
スイートには空室があった。それとも芦茂がもともと取っていたものなのか、識子は知らない。  
少なくとも、気がつけばこの部屋で、キングサイズのベッドに腰掛けているということだけが真実だろう。  
流されて、しまった。甘い言葉には気をつけていたつもりだったのに、つい、ほだされてしまった。  
それは口説く芦茂の表情がいつも以上に真剣だったから、とか、ワインが美味しかったから、とか、幾らでも言い訳できることかもしれない。  
ベッドを見れば、熟睡する男のいびきが響いている。  
はずし忘れた腕時計が傷む。見ると、もうすぐ5時になろうとしていた。  
体中が痛む。  
先刻のことを思い返して、覚えていることに少し傷つく。  
いっそ忘れてしまいたかった。  
 
『ああ、識子ちゃん、識子ちゃん……!!』  
フラッシュバックする、記憶。  
識子の上で、芦茂は何度識子の名前を叫び続けただろう。  
『ごめん、ごめんね、止まらないんだ……』  
謝罪しながら、どれだけの間、識子の体に己の楔を打ち込み続けたのだろう。  
痛いとか、苦しいとか、それを訴えるだけの酸素も足りなくて、識子は金魚より哀れに口を開き続けた。  
『……、……っ、……!…………っ!!』  
何も考えられなくなる、嵐のような時間は、それでも、決して永遠ではなかった。  
突き上げられるような感覚の中に、別のものが混じりだす。  
『こわいっ……なにか、なにか、くるっ!』  
シーツを握り締める手に、更に力が篭る。  
識子の様子に、芦茂は一層動きを強く、早くする。  
『はぁっ…あ、ひゃぁあああああんんうううう!!?』  
『ああ、あー、識子ちゃんッ!』  
最後の瞬間に、芦茂は楔を外に放ち、熱情の塊を識子の下腹部に撒き散らした。  
芦茂はそのまましばらくじっとしていたが、やがて荒い息を吐き、識子の隣へ転がった。  
そして、即座に睡魔に負けてしまったようだった。  
 
「本気で好きな女じゃなければ……、か」  
そんなの、男が女を口説く時の、常套句でしかない。  
女好きで知られる男の、気障な言葉の一つ一つ。  
それらが、冷静になった今では全て裏目に聞こえてしまう。  
知らず、涙がこぼれた。  
今までだって、ずっと、そう考えて突き放してきたというのに。何故、突然受け入れてしまったのか。  
本当に、いろんなことを考えすぎてしまう日には、ろくなことがない……  
嗚咽を押し殺しながら、識子はシャワーを浴び、身支度を整えた。  
 
識子自身は、徹夜仕事そのものには、割と慣れてしまっている。  
だが、今日はそれどころで済む様子ではなかった。ぼーっとして、スーツスタイルの制服のまま現場に向かおうとしたり、かんこさんが誤認しそうになるほどキータッチの様子がうつろだったり。余りにも調子が悪そうだ、と報告書の不備を叱る所長さえも心配しだす始末。  
少しでも目を覚まそうと休憩室でブラックコーヒーを飲み、識子は再びラボへと戻った。  
ドアを開ける。  
「た……」  
ただいま。そう言おうとした口が、【あ】の形のまま止まる。  
ラボの中は、なんだこれはと叫びたくなるほど大量の赤い薔薇で絢爛豪華に埋め尽くされ、視覚的には綺麗だが嗅覚的にはかなりごちゃ混ぜの臭いで、さながら花屋と化していた。  
中にいたのは、芦茂だった。  
真剣な表情は、今朝見たよりも、若干疲れているようだった。  
「そのまま仕事に行ってしまったんだね。その……僕を、置いて。」  
決して責める口調ではなく、ただ、どうしてそんなことをしたのか知りたいような口ぶりだった。  
識子は、顔を逸らす。  
申し訳ないとは思っている、それでも。正面から見返すことは、できそうにない。  
芦茂は大きくため息を吐いた。  
「識子ちゃんがどう思ってるのか、知らないし、今は……ちょっと。知りたくない。  
でも、僕は本気なんだ」  
そう言って、小さな箱をポケットから取り出し、識子に差し出した。  
「サイズ……は、多分間違ってないと思うし、その。デザインも悪くないんじゃないかな。  
識子ちゃん。……これ、受け取って欲しいんだ」  
芦茂は箱を開けた。中には、指輪がひとつ。  
 
識子はその箱を、芦茂の手を握り締めて、その掌に包ませた。  
首を横に振る。  
芦茂は傷ついた表情を浮かべまいと、唇をかみ締めた。  
「ちゃんと……」  
小さく呟いた声。識子の声だと気がつく前に、芦茂は聞き返していた。  
「え?」  
「芦茂さん。ちゃんと言ってください。誤魔化したり、飾ったりせずに。」  
そう言って、顔を上げた識子は、泣き笑いのような表情で芦茂の顔をまっすぐ見上げた。  
一瞬あっけに取られた後、芦茂は識子と同じような表情を浮かべ、力強く頷くと彼女の唇に己のそれを重ねた。  
 
 
 
2:END  
 

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