物部の表情には、疲労が色濃く浮き出ていた。  
識子に気がつくと、物部は普段の仏頂面をそれでも僅かに和らげた様だった。  
「ああ、江波くんか……」  
「お疲れ様です。今日も、泊り込みですか?」  
「うむ。新兵器を開発中だ」  
近いうちにお見せできるだろう。そう言いながら不敵な笑みを浮かべる物部。そういえば、こうして直に顔を合わせるのは随分と久しぶりだと気がつき、識子は目を細めた。  
「物部さんとは、いつもお話してるような気がしてましたけど……」  
「うん?そういえば、いつもはモニター越しだったか」  
そう言って、眉間を揉み解す物部。その左手薬指に指輪があるのに気づき、識子は怪訝な顔をした。  
「物部さんって、奥様いらっしゃるんですか?」  
「ああ、まあな」  
自分でも、まるで忘れていたといわんばかりの表情で左手を見る。その表情が陰ったのを見て、話題にすべきでなかったかと識子は自戒した。  
それでも、一度出してしまった話を止めることは、難しいものだ。  
黙してしまった識子が話の続きを待っているのだと思ったのか、物部は静かに続けた。  
「そういえばまた、長く自宅には帰っていないな。  
 ここか、大学か。いつも、どこかに泊り込んでいるような気がするよ。  
 なに、帰ったところで誰もおらん。どこにいようと、違いはない」  
「え、でも、今……」  
奥様がいらっしゃると。識子がそう続けたいのを察したのだろう。物部はゆっくりと空を仰いだ。  
「まだ若い頃に。癌だ。  
……もっと早く気がついてやれていたら。今でもそう思うよ」  
物部の横顔を見つめながら、せめて今だけでも星が輝いていほしいと、識子はそう祈った。  
この不器用な男を、今、見守っている存在が、せめて自分のほかにもあってほしいと。  
南東京市の空はどこまで行っても闇にはならない。  
明日は雨になるのだろうか、低く垂れ込めた雲を地上の光が照らしている。  
一番憂鬱な色の空。  
「江波君、君にも、誰か大切な人がいるのなら、その人との時間を大切にな」  
 
どこかはにかんだような笑顔。照れ屋なその横顔の主の胸に、識子はその身を寄せた。  
「……!?え、江波君?」  
「奥様のこと、今だけでも。忘れてもらえませんか?」  
顔を上げ、戸惑う物部の瞳を見据え、識子はしっかりとした口調で告げた。  
困惑した表情で識子を伺い見ていた物部だったが、識子の表情はひどく真剣なままで。  
本気なのだと、強い意志を持った瞳が訴えかけていた。  
それでも、肩に手を置いて、物部は識子の体と距離を置いた。  
「それは……できない。早く部屋に戻ったほうがいい」  
背を向け、足早に階段へと向かう。その物部の背中に、識子の声が届く。  
「好きです、私。物部さんのこと。物部さんの時間を、私に分けてください」  
革靴の足が、止まる。  
物部はなぜか、振り返り方を忘れたような気がした。  
無邪気な振る舞いにも見える、無鉄砲な女だと思う。嫌いかと言われれば、寧ろその逆だと思う。  
気丈に振舞っても、弱弱しいところのある女だと。  
物部の背中に、再度の拒絶を恐れるかのようにぎこちなく、識子の腕が触れた。  
「……ずいぶん、年上趣味だな」  
「若い女は嫌いですか?」  
「……長いこと独り身だった」  
「一途な人だって、知ってます」  
「君は……」  
「……」  
「男に身を任せるというのが、どういうことか。わかっているのか?」  
細い腕は、何も言わずに物部の体を抱きしめた。  
 
 
明かりを落とした物部のラボの、几帳面に片付いたデスク。白衣をシーツ代わりにひいても、その冷たさは誤魔化せない。薄明かりの中で、うっすらと汗ばんだ識子の肢体が、物部の体を受け止めるように包んでいる。  
長く女に触れていなかった男には、彼女を気遣う余裕などなかった。  
「あ、あっ……ん、ん、あ、もの、べ、さぁ、あん……!」  
肉が肉を貫く快楽。  
ぬめり絡みつく腔と、穿つような肉の牙。  
貪っているのは男なのか、女なのか。  
「ぐ……くっ!」  
それすらわからなくなる果てに、お互いの身勝手さをぶつけ合う。  
「あ、ん、んぁ、ぁはああ……!」  
どこか獣のような悲鳴をあげ、強くしがみつく女の、反らされた首筋。  
物部は噛み付くように強く吸い上げ、赤い痕を残した。  
 
そして、物部は夢を見ていた。  
自分で夢だとわかるくらい、鮮明で、曖昧な夢だった。  
 
「理太郎さんは、私のことを、忘れてしまったのですか?」  
物部はその声に、首を横に振る。  
「忘れていない。忘れたくもない。  
 だが、どうしてだろうな。  
 お前の声を、笑顔を。……肌を、髪の感触を。  
 あれほど焼き付けた物が、どうして今、こんなに曖昧で、思い出せないのか」  
それは、懺悔だった。  
若い頃、この先ずっと隣にいるものと信じて疑わなかった相手への、不器用な謝罪だった。  
 
着物姿の似合う女だった。  
 
看取った後、その棺には、彼女に一番似合っていた赤の着物を入れた。  
葬儀も何もかもが済んだある日、玄関先で何気なく「ただいま」と口にした。  
何もかえってこなかった。  
思えば、それからだ。  
自分が家に帰る日が少なくなったのは。  
 
赤い着物の女は、そっと物部の胸に寄り沿った。  
そっと、白い腕を物部の左胸、ちょうど心臓の上に這わせる。  
「私は、ここにいます。あなたが憶えている限り」  
そう言って微笑む女の、肩で切りそろえられた柔らかな黒髪。  
しなだれかかる、華奢な重さ。  
覚えていたのだと思い知る痛みに、物部は唇を噛み締めた。  
「すまなかった。おまえを、幸せにしてやれなかった」  
女は微笑み、僅かに身を引き、右袖の袂を翻した。  
ぱぁん。  
乾いた音が物部の頬を打つ。  
「馬鹿にしないでください。哀れまないでください。  
あなたに幸せにして欲しいなんて思っていません。  
私はあなたの妻として生を終えました。それでも。  
幸せだったのかどうか、決めるのは、私です」  
ああ、そうだった。物部の胸に、奇妙な懐かしさが燈る。  
「幸せでした。私はあなたと居たから幸せだったんです。  
 ……だからといって、あなたに、私の夫として死んで欲しいなんて」  
強気な女だった。気丈な心根の女だった。  
「……本当は、少し、想います。でもね、理太郎さん」  
そのくせ、酷く優しかった。  
「私は、あなたの幸せを、誰よりも願ってる。」  
だからこそ、愛した。  
「それだけは、忘れないでください。  
 あなたが幸せになることだけを、今でも願っています」  
女の笑顔は、とても優しくて、悲しげで、美しかった。  
思わず抱き寄せようとした赤い着物が、すっと掻き消える。  
目の前には、からっぽの、何もない空間が、広がっている。ただ儚々とした空間ばかりが、広がっているのである。  
もうこの世界のどこにもない姿を、物部は探そうとしなかった。  
そして、理解した。  
これが訣別なのだと。  
「……ありがとう、ツキコ」  
 
眠ってしまっていたのは、わずかな時間だったのだろう。  
目を開けた物部が最初に見たのは、不安げな表情で毛布をかけなおそうとする識子だった。  
「うん……?江波君……」  
「あ。……起こしちゃいましたか?」  
「いや……そんなことはない。……今何時だ?」  
自分はどれくらい寝ていたのか?そう聞く物部に、識子は少しだけ寂しげな顔を浮かべ、無理に笑顔を作ってみせた。  
「やだなあ、物部さん。ずっと寝てたじゃないですか」  
その目がうっすらと赤くなっていることに気が付き、物部は識子の頭を撫でた。  
「嘘はつかんでいい。確かに、私の時間を君に分けたんだから」  
すっと、識子の頬を一滴の涙が伝う。  
「ごめんなさい……」  
「なぜ謝る?」  
「物部さん、寝言で……。ツキコって、奥様の名前でしょう?」  
ああ、なるほど。何かがすとんと腑に落ちたような心持で、物部は識子の涙を拭った。  
「いつか、きちんと話すよ。……そうだな。すまないが、頼みがある」  
識子は不思議そうな顔で、物部の顔を見つめた。  
物部は、穏やかに笑って言った。  
「恋愛を前提に、付き合ってはくれないか?」  
識子は、泣き顔のような笑顔を浮かべて、強く頷いた。  
 
 
 
3:END  
 

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