彼は寝惚けた顔で大あくびをひとつした。  
子供がよくやるような仕草で目元を手でぐしぐしとこする。そして、ようやく先客がいることに気付いた。  
「おはよー、江波さん」  
いつも通り笑顔を浮かべた植木が、明らかなまでの寝起きの顔でそこにいた。  
「何言ってるんですか。まだ深夜ですよ。というか、おはようって」  
識子は心底呆れた顔を浮かべて見せた。  
とは言え、この男を相手に本気で呆れることはない。  
虫の研究が関われば幾番の徹夜だろうと早朝出勤だろうと超過勤務だろうとまったく苦にしないというのに、  
関わらなければルーズの極み。出勤してこない彼の所在を聞かれるのは、いつだって、なぜか。  
識子は思考をそこで振り切って、植木の顔を見て。  
「……っぷ。あ、あははははは!」  
腹を抱えて笑い出してしまった。  
「え、なになに?なんかあったの?」  
きょとんとする植木の顔を指差し、笑いを堪えて、ポケットから手鏡を差し出す。  
「あー!?なにこれ、誰の字!?」  
植木の、白い蓬髪の下。額には、はっきり『肉』と落書きされていた。  
 
「もー。江波さんのイジワル。筆跡鑑定くらいやってよー」  
休憩室に設置された小さな洗面スペースで、顔を洗いながら植木がぶつくさとごちる。  
識子は貸していたクレンジングをポーチにしまいながら、「証拠の写真は取っておきましたから、シモーヌさんに見てもらいます?」と、くすくすと笑った。水を受け止める手が止まり、逡巡を見せる。  
「でもそれって。僕の顔、なさけなーいことになっちゃってる写真なんだよね?」  
「そうですね」  
「……かなり、情けない?」  
「……そうですね。かなり」  
「じゃ、いいや」  
植木は執着なくそう言って、顔にざばざばと水をかける作業を再開した。  
少しの間、部屋に響く音は水と、時計の秒針と、二人分の呼吸の音だけになる。  
識子の落ち着いた呼吸音と、植木の息継ぎの荒い音。  
預かったゴーグルを手持ち無沙汰に弄り、何気なく植木を見ていた識子は、自分の洗顔と比べて随分と飛び散る水飛沫の量が多いことに気が付いた。  
大きな手のひら。ごつごつとした指の節。濡らさない為に捲っている袖からは意外と日に焼けた腕が伸びる。  
まるで植木と自分とが違う生き物のように感じて、思わず自分の手に視線を落とす。  
ソフトボールをしていた頃、日に日に手指の皮が硬くなっていくのを少しだけ寂しく感じたことがある。  
それだけ練習してきたということだと自分に胸を張り、周りに認められ、そんなことは忘れてしまっていた。  
「江波さーん、タオル持ってない?」  
じっと回想に耽っていた識子の意識は、急に現在へと引き戻された。  
「はいはい。手、出してください」  
識子は机にゴーグルを置き、ふらふらとあたりを探るように舞う腕を掴んだ。  
がっしりとした筋肉の硬さが指に伝わる。  
僅かに動揺しながら、その手に自分の鞄から出したタオルを握らせた。  
「ありがとう」  
植木の、男性にしては高めの声に温かな柔らかさがあった。ただの感謝だろう、素直な人だから……そう考え、識子はこれ以上意識しないことに努めた。  
 
「ん……?」  
顔を拭き終え、『肉』の字が目を凝らしても『人』ぐらいしか判別できなくさせることに成功した植木が、突然鼻を鳴らし始めた。  
「なんかこれ、いい匂いする」  
くんかくんか。  
「え?何か付いてました?」  
識子はしきりにタオルを嗅ぎまわす植木から、ソレを取り戻そうと手を伸ばした。  
その手を植木に捉まれ、ぐいと引き寄せられる。  
とっさのことに驚いてしまい動けない識子の、耳の後ろ。丁度うなじの辺りに顔を埋めて、植木は得心したという声を出した。  
「ああ、この匂いだ。江波さん、香水か何か付けてる?」  
「あ、え。お……!?」  
首筋で匂いを嗅ぐ植木の、その吐息がさわりと耳を撫でる。その感触に、肌が粟立つ。  
「え、ちょ、植木さ……!?」  
植木は自分が掛けた問いの答えを待たず、識子の長い髪を掻き分け、露出させた耳の後ろを舐めた。  
「……!」  
識子は目を硬く閉じ、息を止めてその感触に耐える。  
ぬるりとした温み。それが数度、普段は髪に隠れ外気にさえほとんど触れない箇所を這う。  
突き飛ばして、拒否して、拒絶すればいいのに。識子の心のどこか、冷静な部分から、そう声がする。  
「香水の味は、しないね。何の匂いだろう……」  
植木は真剣に匂いの元を突き止めようと考えていた。  
甘い、瑞々しい匂い。今にも開こうとする華のような、熟す直前の果実のような、心を惑わす強い匂い。  
本当にそれだけなら、どうして彼女の肌を舐める必要があった?植木の心のどこか、熱でうなされたような場所からそんな言葉が聞こえる。  
 
識子の足元から力が抜けていく。植木の白衣の胸元を掴んで、それでも突き飛ばすことなくしがみつく。  
自分の心の声に、識子は静かな熱で反論を返した。突き飛ばしたいのか、拒絶したいのかと。  
植木の両手は識子の肩を掴んでいる。まるでお互い、正面から抱き寄せ合うような形で。  
そしてようやく、植木は匂いの元に思い至った。思わず、呟く。  
「そうか。これは、江波さんの匂いだ。女性特有のいい匂いとかじゃなくて、多分……」  
僕が、この人を。  
華のように。果実のように。  
 
口付けは、目が合った瞬間互いに求め合った。  
それだけでも満たされるように感じた。  
それなのに、すぐに足りなくなった。  
口内を探りあい、舌を絡めあい、互いの息を分かち合う。  
あまりにも強い飢餓感。もっと触れていたい。少しでも多く触れていたい。  
先に机に押し倒したのは、植木だった。  
服を脱がせ始めたのは識子だった。  
「んんぅ、あぅっ、あ、あ、あ……! おく、おくまで、あ、ぅ、きてる……!」  
ひとつになることを望んだのは、ヒトの本能。  
「ココ?ココが、奥?もっと、もっと、もっと あぁ、もっと奥まで、イクよ、イけるよ、ほら、ほら!」  
相手の何もかもが欲しくて、自分の全てを捧げ合う。  
「ふぁっ、あああ、おく、あたって、あたって……っあ!あ!あ、あああああアアーっ!!」  
奪い合うような行為の後に、自分たちは、何を望むのだろう?  
 
 
 
「好き、大好きだよ、江波さん……っくぁ!」  
強く抱きしめあう腕の中、最後に望んだのは未来を分け合うこと。  
この先の時間を、可能な限り、ともに歩んでいくこと。  
識子は自分の中で放たれた熱を感じながら、涙を零して頷いた。  
「私も、です……」  
その涙を、植木は自分の唇で拭う。しょっぱいね。そう言って笑いながら。  
 
後始末を終え、簡単に身なりを整え、二人は植木のラボで横になっていた。  
片付いているわけではないが、仮眠の為に持ち込んだ毛布がある。そう植木が主張したのだ。  
植木は識子の横顔を見つめながら、困った顔で声をかけた。  
「ねえ、江波さん。目が覚めたら、どこにもいなかったり、しないよね?」  
識子は答えられなかった。きっと朝になれば、誰かが出勤するより前に識子は自分のラボへと戻るだろう。そのとき、植木が目覚めているだろうか。  
視線を逸らし、背を向けた識子を抱きしめ、植木は呟く。怯えるように。  
「胡蝶の夢……  
ねぇ、僕がこんなにも幸せなこと、全部夢だったりしたら、どうしよう。そう思うと、怖くて寝られない」  
識子は自分を抱きしめる腕に、そっと手を這わせる。  
「……じゃあ、明日。朝起きて、私を見かけたら。『僕は夢を見てたの?』って、聞いてください。  
夢じゃなかった、その証拠を見せてあげます」  
 
植木が目覚めたのは、ちょうど正午だった。  
彼の体内時計が正確だったのではない。あえて言うなら、所長の腕時計が正確だったのだ。  
「うぅうううえぇえぇええええきぃいいいいいいいぃい!!?」  
そう叫びながら、本当なら殴り飛ばしでもしたいのを抑えた選択なのだろう、ヒラタに鼻を摘ませたのだ。  
「あああああ!?ヒラタが、ヒラタが僕を裏切ったー!?」  
思わず自分でもわけのわからないことを叫んで飛び起きた植木の視界に、心底呆れたという顔で頭を抱えている識子の姿が映る。説教モードに入ろうとしている所長を押しのけ、植木は叫んだ。  
「江波さん!僕は、夢を見てたの!?」  
状況がつかめるわけもなく、所長は植木と識子を代わる代わる、不審そうに見た。  
識子は、いたずらっぽい笑顔を浮かべて顎に指を当て、反対の手で携帯電話を開いて見せた。  
 
待受けは、額に『肉』と書かれた植木の、情けない顔の写真だった。  
 
END 
 
 
 

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