4:植木さん…?どうしたんですか!?
「あれ、江波さんだ」
夜の屋上に現れたのは植木だった。白衣が夜闇にぼんやりと浮かび上がっている。
「あ……植木さん……」
が、識子は違和感をおぼえて首を傾げる。
すぐに原因は分かった。
優しそうに微笑む彼は、白衣ではあるものの、トレードマークになっているいつものヘッドセットをしていない。暗くてよく分からないが、肩にヒラタくんも乗せていない。
識子の不思議そうな視線に気付いたのだろう、植木はにっこりと笑った。
「夜だしね。あのルーペ、どうしても視野が狭くなるから。暗いと危ないんだよ」
「ヒラタくんは?」
「よい子は寝る時間」
植木は歩いてきて識子の隣りに立った。
両腕を大きく振り上げて……深夜の空に伸びをする。
ふぁー、とその口から盛大な欠伸が漏れる。
「あー疲れた。こんな遅くまで残業なんてするもんじゃないねー」
こんな遅くまで残業することなどざらな識子にはグサッとくる台詞である。
「……そーですね、あはは」
カラ笑いをするのがやっとだ。
「あー。それにしても」
顔の引きつった識子に、植木が笑いかけてくる。
「静かだね。せめて虫の音でもあったらいいのに」
「あ……はい」
思わず返答の言葉を探してしまったのは――植木の素の顔がそこにあったからだった。
南東京科研の男たちのなかで、顔の造りはこの植木虫介が一番いいと思う。ヘッドセットで隠れていないせいでそれを再認識してしまった。
(これで異常なほどの虫好きじゃなければね……)
つまりはそれがネックである。
冬月……、いや榎田か。彼女のラブレターは、植木には届かなかった。
芦茂クラスは望むべくもないが、彼にあと少しでも『人間』への興味があったなら。植木は、日本のどこかの山中で待つ榎田に会いに行くことになったのだろうか。
――というか、そもそも。
「植木さんって、女性とお付き合いしたことってあるんですか?」
ふと思ったことが口に出てしまい、識子は慌てて手で口を押さえた。
「すみません、あの」
ごめんなさい深い意味はないんです――その言葉を言い終わるよりもはやく植木は答えた。
「ないよ」
感情が欠落しているのではないかと思えるほど、彼は見事に笑顔だった。
「人間の女性に、興味ないから」
そうだろうなぁ、と識子は妙に納得してしまう。
女性のヌードと虫の産卵シーンの写真、どちらを取るかときかれれば、彼は100パーセント虫の産卵シーンを取る。そういう人なのだ。
「人間って、そういうとこ面倒くさいよね」
彼は手すりに手を置き、遠くを見ながら話している。夜風が色素の薄い髪をふわりと持ち上げたが、植木は直そうともしない。
「虫なら交尾に迷いなんかないんだ。本能に突き動かされて雄と雌が交尾して、受精して卵産んで、卵が孵って……。その繰り返し。そっちのほういいよね、何も考えなくていいし、何より崇高だ。そう思わない、江波さん?」
「え……」
珍しく露出した両目で間近から微笑まれ、識子の胸は高鳴る。繰り返しいうが、彼は顔だけはいい。
「自然の摂理。そうやって命は受け継がれていくんだよ。けど人間は……」
優しそうな顔に影が落ちる。溜息混じりに、彼は言葉を続ける。
「交尾に快楽を求めるでしょ。愛とか、束縛とかも。いろんなものが付随しすぎなんだよね。虫みたいに純粋じゃない」
「はぁ……」
人間の交尾が――セックスが虫みたいに純粋じゃないと嘆く日本でも有数の虫学者。やっぱり植木さんは植木さんだ、と識子はなぜか嬉しい。
「だったら、私としてみます?」
ほんの冗談のつもりだった。
「そのう、植木さんってしたことないんでしょ? 検証していないことを論拠にするのはよくないですよ、科学者として」
「……あっ」
植木は目を見開き、識子の肩を掴んだ。
「そうだね。どうかしてたよ。ボク、科学者なのに!」
「え……あの」
植木に掴まれた肩は、痛くない。植木の手はあくまでも優しく識子の肩を捕獲している。
「場所は……、江波さんのラボでいいかな? ボクのラボ、ちょっと散らかってて……」
苦笑いする植木に女を誘う下心を見ることはできない。
まるで、これから珍しい虫の交尾を観察する研究者のような目の輝きをしていた。
断ることもできた。いやだなー冗談ですよ、と笑うこともできた。
そうしなかったのは――認めたくはないが、識子はやっぱり、彼のことが好きなのだ。
今日が安全日なのも、なにか運命のような気がする。
常夜灯が照らし出す、薄暗い識子のラボ。
植木に椅子に座ってもらうと、識子はのしかかるようにキスをした。
なんといっても識子は経験者であり、植木は未経験者である。教えるのは識子であり、植木はただ識子の教えを享受しているのみ。
いつもと立場が逆ね。こういうのも面白い――。
そんな余裕も、何度か舌を合わせ唾液を交換するうちに薄れてくる。
「植木さん……」
囁く声が、自分でも驚くくらい甘い。
「ねえ、植木さん……触って……」
植木のしなやかな手を胸に導く。
「うん……こう?」
おずおずと、大きな手が識子の胸を撫でる。
「ん……」
久しぶりの感覚だった。他人の手がゆっくりと乳房の周囲を触る。植木の手は、決して無理強いしない。もどかしいが、それ故の快楽もある。
「植木さんのもしてあげる……」
胸を触られながら、識子は植木の白衣のボタンを外した。それからネクタイを解き、ブルーのシャツをはだけさせる。
植木の胸板や腹筋は引き締まっていた。仕事をほっぽりだしてフィールドワーク(捕虫網を持って野山に虫を追いかけること)に明け暮れているだけのことはある。
胸板に鼻をくっつけると、微かに男の汗の匂いがした。識子は植木の匂いに包まれながら、そっと薄紅色の乳首に舌を伸ばす。
「あっ」
植木の声があがる。胸を触る植木の手が止まるが、識子は構わず舌先を硬くして、ちろちろと左右に乳首を転がしてやる。
「えっ……江波さんっ……」
識子は顔を上げ、植木に微笑みかけた。
「えへへ。どうですか? 男の人でもここって感じるんでしょ?」
「あ……うん、いいよ……。なんか、冷たい感じがして……」
植木の反応に満足し、識子は再び胸板へと顔を戻した。こんどは逆の乳首を刺激する。つついたり転がしたりしていると、小さな乳首は一丁前に充血し、しこってきた。
さすがに植木も声を我慢するようになったが、苦しそうなうめき声が時たま漏れるのが、たまらなく識子の身体を熱くする。
「こっち、窮屈なんじゃないですか」
乳首への愛撫を十分してから、識子は植木の股間を軽く指でなぞった。植木の股間は、まるで骨そのものであるかのように硬くなっていた。
「うっ……」
ほんの少しの刺激でも、植木は辛そうに眉をひそめる。
(植木さん、かわいい……)
内側の膨張により張ってしまったチャックを、識子はゆっくりと下ろす。
できた隙間から、トランクスに包まれたモノが垣間見えた。
「あ、これ」
識子が目を引かれたのは植木のモノではなく、トランクスの柄だった。数年前に流行った子供向けの虫のカードゲーム、あれのイラストが描かれたものだった。
「あ……うん」
喘ぐように植木が言う。その頬は度重なる羞恥ですっかり赤くなっている。
「ほら……、やっぱり、ヘラクレスオオカブトって格好いいからさ……」
潤んだ瞳で識子を見上げる。
(う)
思わず生唾を飲み込んでしまった。
識子は、よく植木の母親みたいだといわれる。では、これは母性本能だろうか? 母性本能で合っているのか? とにかくたまらなく植木が可愛い。
本当はもう少し手順を踏みたかったのだが……。
識子は植木のベルトに手を掛け、外しはじめた。
半脱ぎになったズボンとトランクスが、植木の膝でとまっている。座ったままの彼の股間には屹立したモノ。使い込まれていないソレはまだ白くすべすべで、完全に先端部分を露出させている。すでにたっぷりと先走りの液が出ていた。
いっぽうの識子は、紺色に黄色のラインが通る地味な制服の、上だけを着用していた。下はなにもはいていない。
(見られてる……)
普段は隠れている植木の左目が自分を見ている。しかも、仕事着である制服をこんなふうに着崩している自分を。
その思いだけで識子の身体は火照ってしまう。
識子は座る植木に背を向けると、彼の腰に座るように尻を落としていった。手はしっかりと植木のモノを捕捉している。
つん、と識子の女性自身に植木の先端が当たる。識子の準備は万端だった。なにもしていないのに、識子のそこは恥ずかしいほど潤っていた。
「その……じゃ……、入れますね」
背後の植木を振り返り、識子は最後の確認をとった。
「……うん」
押し殺したような、低い声だった。
識子は腰をさらに落としていく。入り口がちゅぷりと植木の先端をはんだ。
「あ……」
識子の口から声が漏れる。
大きな悦びへの一歩め――。
そのまま、識子は植木を胎内に招き入れる。
ぬるっと――愛液に促された熱いカタマリが、識子の狭い器官を蹂躙しながら押し入ってくる。
「……んぅ」
すべてを受け入れたとき、識子は自然と息をついていた。
「江波さん……。江波さんのなか、あったかい……」
識子の耳元で、植木の声がとろけそうに囁く。背を植木の胸に守られた識子は、不思議なほどの安心感を得ていた。――彼の手は所在なさげに椅子の手すりにかけられている。
「ん……植木さぁん……」
識子は唇をとがらせキスをねだった。くすっと笑って、植木は唇を寄せる。最初は唇だけのキス――それでは物足りないというように舌が入ってくる。識子は植木の舌を迎え入れ、ざらざらとした舌の上の部分を擦り合わせた。
植木の舌……。いつもはモニタ越しにしか顔を合わせない、有能な虫学者。その彼が、いま識子のなかにいる。いちばん深い場所に……。
「あんっ」
突然植木が腰を動かしたので、びっくりした識子は顔を離してしまった。
「あ……ごめん。なんか、急になかが締まって……」
「え……」
もちろん意識してやったことではない。頬が熱くなる。
「あ、ほらまた。きゅって締まったよ」
植木の声は、いつも通りやさしい。
「だ、だめ。動かしちゃだめ……」
「うん? こう?」
「あんっ、だめって言ってるのにぃ」
下からの連続した突き上げが識子の快感を揺さぶる。
「あっ、やっ、……だめ、だめなのぉ」
子供のように頭をいやいやと左右に振る。せっかくリードしていたのに……またいつものように、植木がリードする側になってしまった。
「ん……植木さん、植木さぁん……」
「なに?」
識子の下で腰を動かしながら、植木は波打つ識子の髪を片側に寄せた。さらされた頬に植木の熱い息がかかる。それがぞくりと背筋に電気を走らせる。それにつられて、植木がまた力強く突き上げてくる。
「あんっ、植木、さん……」
あなたのこと好きなんです、と言いたかった。
顔じゃなくて――あなたの、虫に対する純粋な好奇心とか、生き物全体へ向ける優しい眼差しとか、共用冷蔵庫にウジ虫つき腐肉を入れてしまう常識のなさとか。そういうの全部ひっくるめて、あなたのことがすごく気になるんです、と。
だが……。
識子の脳裏に榎田の顔がちらつく。
彼女は植木を愛した。そして植木に、私を愛してくれとラブレターを送った。結果は――。
宝探しゲームに託した彼女の思いは。植木には、届かなかった。
(好きになっちゃいけないんだ)
植木の太股に手を置き、識子は彼の動き合わせて自分から腰を振る。
好きになっても、植木は答えてはくれない。好きだとか嫌いだとか、そういう情熱のすべてが彼の場合虫にまわされているのだ。それが植木を第一級の虫学者たらしめている主な要因なのである。
切ない思いを胸から押し出すためにも、識子は行為に没頭する。
「あっ……ん……」
「え、江波さん」
後ろからせっぱ詰まった声がした。
「ごめん、ボク、もう……」
「あっ、いいですよ、なかっ、なかに出してくださいっ」
膝に置かれた識子の手首を強く握りしめたのが、彼の答えだった。
「ごめ、イく……!」
植木の動きが激しさを増す。
「あっ、やぁっ」
なかのモノが膨張するのを感じ、識子のなかにも空白がうまれてくる。まるで圧縮された快感が魂をどこかに押しやろうとしているような、不思議な浮遊感。
喉奥からしぼり出すようなうめき声と同時に、植木が識子の最奥まで自らを突き入れた。
植木の命が、ほとばしる。
「あぁぁ!」
そのとき識子の頬に涙が一筋流れたのは――。きっと快楽のためなのだと、識子は自分に言い聞かせた。
後始末を終え服をなおした植木が、うーんと腕を組んで識子を見下ろしていた。腰かけているのは識子の机。お行儀が悪い、と注意するべきだろうか。だが――そんな気が起きない。注意するにも体力がいるのだ。識子はいま、とにかく疲れていた。
「ヒトの交尾を検証する、ということだったけど……」
「あ……はい」
識子は椅子に座ってぼんやりと植木を見上げている。こちらも、いつもの鑑識の制服を上から下まで着込んでいる。
「……科学では、検証実験を何回もやって、それではじめて発表するんだけど」
「え……」
発表、という言葉に、識子の意識が覚める。
「ちょ、ちょっと植木さん。これはその……、私たちがしたってことは、内緒ですからね内緒!」
特に芦茂さんには――と、口の中でもごもごと付け足す。あの人に知られると、いろいろと面倒なことになる気がする。
「分かってるよ。ボクだって大人なんだから」
「それならいいんですけど」
「それで、これからも定期的にこういうことをしたいんだけど」
「へ?」
「だから、ヒトの交尾を。相手は君で」
顎を引いた植木の両目が、上目遣いに識子を見ている。
「どうかな」
「え……、えっと」
それは、付き合って下さいという告白ですか? ――そう心に思いながら植木を見上げれば、植木の顔にはやはり下心がない。
これは、植木にとって本気の提案なのだ。
「う……」
かえって識子のほうがどぎまぎしてしまう。
少しだけ胸が痛いが――。いつまで経っても植木はこの調子で識子に接してくるだろう。『交尾の検証』が『愛の証』にかわることは、まずない。
指と指をつんつん合わせながら、植木をまともに見ることができずに視線をさまよわせる。
「私でよければ、その。いいですよ……」
「ほんと? ありがとう、江波さん!」
「あ……あははははは……」
――泣きたい。
が、その思いは植木の次の言葉でひっくり返ってしまった。
「ボク、江波さんのこと、前から好きだったんだ」
「……へ?」
ああ、榎田さんにいったのと同じように友達として好きなのね……。
「だってこれ、ヒトの交尾の……『セックス』の検証だからね。愛とか束縛とかも含めての検証だよ。だから江波さんなら適任でしょ、ボクの相手に」
「……はい?」
「虫くらい愛してるよ、江波さん」
虫かよ!
「でも、あの。人間の女性に興味ないんじゃ……」
そりゃ、確かに幽霊と喋るし猫又も飼ってるけど。しかもあの人たちに事件の捜査手伝ってもらったりしてるけど。でも、私は一応人間です。
「やだな。ボクだって、恥ずかしかったら嘘くらいつくよ」
――こんなふうににっこり笑われては、識子はもう何も言えない。
「そういえばさっき、何か言いかけてたけど……。あれはなんだったの?」
「へ?」
「ほら、交尾してるとき。なんか、ボクの名前呼んでたでしょ。あれってなんだったの?」
「あ……」
植木に『好き』と言おうとして……でもためらって……。
「なんでも……、なんでもないんです、植木さん。ただ、私も――あなたのことが大好きってだけですから」
言いながら、識子は指で目を擦った。じわりと熱い涙がにじみ出てくるのが、なんとなく恥ずかしかったからだった。
終わり