ぎしり。  
 ベッドのスプリングが軋む音が聞こえた。  
 不意に恐怖を覚え、識子の喉は引き攣ったように、声を発することを拒んだ。  
 近づく足音が聞こえ、ようやく目が慣れてきた薄闇の中、白衣がすぐ傍で翻るのが見えた。  
 識子の顔の傍らを通って伸びた腕が、壁に体重を預ける。気が付けば、識子は植木という檻の中に捉えられていた。  
 稲光が一瞬、二人だけの室内を照らす。  
「どうしてそう思う?」  
 柔らかい声は、ほぼ頭上から聞こえてくる。  
 なぜかそちらを直視することができず、識子はうつむいた。  
「ねえ、江波さん?」  
 声の調子は変わらない。それなのに有無を言わせない雰囲気があり、識子はやむなくそれに従う。  
「最初にもしかしたらって思ったのは、標本を渡された時。冬月さんに持ち出す許可を求めたのは……私じゃなくて。植木さん、あなたでした」  
 植木は黙って聞いている。識子はたどたどしく続けた。  
「だって、そうでしょう?  
 ……植木さん、本当はわかってたでしょう、与戸さんの死因がなんだったのか。これだけじゃわからない……って、有名なキノコなんでしょう?吐瀉物まで、的確に拾っておいて」  
 やっと上を向いた識子の目に映ったのは、困ったように微笑む植木の顔だった。  
「やっぱり、バレてた?」  
 植木はそう言うと、識子の額に、自分の額をこつんと当てた。  
「……もし、あのキノコが。与戸さん自身が持ち込んだものじゃなくて、彼女が渡したものだとしたら。そう考えるとね。  
 ……怖かった。  
 キミも、食べたって言うし。  
 ……もし、強行軍で科研に戻るとか言い出さなかったら、どうにかして今日一晩、僕の部屋に引き止めようと思ってた」  
 植木の右手が壁から離れ、識子のうなじを包み込む。  
「榎田さんは優秀な研究家だ。僕も好きだよ、同じ研究者として、ね。……彼女も、それには気が付いてたみたいだったね。  
 その意味じゃ、江波さんを呼んだのは失敗だったかなと、思わなくもないんだけど。足を挫いた時には忘れちゃってたよ」  
 あはは、と軽く続ける植木に、どこから突っ込めばいいのか、とか、この右手は何のつもりですか、とか。  
言いたいことがいろいろありすぎて、とにかく思考を落ち着かせようと識子は右に――植木の左手は、まだ壁にあった――顔を背ける。  
 不意に、識子の首筋を離れた右手が椅子の背もたれと背中の間に差し込まれた。  
空いた首筋に植木が顔を埋めるのを、壁から離れた左手が自分の腰を抱くのを、識子は何故か、他人事のような気持ちで見つめていた。  
「ねえ、江波さん」  
「……なんですか?」  
「来てくれて、ありがとう」  
「……今更ですよ」  
「うん。……江波さん」  
「なんですか」  
「……生きててくれて、ありがとう」  
「……はい」  
 ジジッと小さな音を立て、蛍光灯が点く。  
 しばらくの間、植木は抱擁を解かなかった。  
 
「植木さん、あの……恥ずかしい、です。そろそろ放してください」  
「ん〜……あと5分〜」  
「私は冬の布団ですか」  
「あー、それいいね。そしたら僕、絶対一日中放さないな」  
「意味わかりませんよ」  
「……もっと恥ずかしいことしたいんだけど。いい?」  
「へ!?」  
「反論は聞かないよ〜」  
そう言うと植木は左手を識子の膝裏へと回し、軽々と持ち上げてしまった。慌てて落ちないための支えを探した識子がしがみ付いたのは植木の首筋で。  
(これって、お姫様だっこじゃない!)  
そのまま、植木はさっきまで自分が腰掛けていたベッドへと識子を運んでしまった。決して投げ出すことなどないよう、ゆっくりと識子を降ろす。体を起こそうとする識子の肩を掴む植木の目は、欲望を燃やす男の目だった。  
「あの、どうしても、するんですか?」  
当然の疑問でありながら、口にした識子自身も間の抜けた質問だと感じる。それを聞いた植木はにっこりと確信犯の笑顔を浮かべながら、「するって、何を?」と言ってのけた。  
その間も片手は識子を押さえ込み、もう片方の手は自分のネクタイをするりと緩めている。だが、少し考えるような素振りを見せるとネクタイを放し、ほとんど無意識に植木の肩を押し、突き放そうとしていた識子の腕を掴んだ。  
「ねえ。そんなに、イヤ?」  
「そ……そういう問題じゃ、ないと思います」  
 識子自身、自分の抵抗がほとんど形だけのものであるという自覚はあった。だからこそ、こうして正面切って聞かれてしまえば、イヤだと答えることはできない。  
 それでも。  
「私たち、こんな関係じゃないです」  
 流されるのは、嫌だった。  
 
 識子はじっと、植木の顔を見つめていた。時折思い出したように轟く雷鳴も、いつの間にか随分と遠くなっていた。明日には、何の問題もなく南東京市に帰れるだろう。  
 そうすれば、日常が待っている。  
 識子はいつも通り現場を駆け回って、時々、植木や他の専門課の助言を仰ぐだろう。  
 植木はいつも通り遅刻したりしながら、ヒラタや他の虫たちの世話をしたりするのだろう。  
 特別な関係なんて何もない、ただの同僚の顔をして。  
 目を逸らさないまま、植木はいつも着けたままでいるあのゴーグル――寧ろ、謎眼鏡――を外した。  
「江波さんが欲しいのは、言葉?」  
 植木は呟きながら、識子の耳元へと唇を寄せる。  
「いいえ」  
 識子は目を閉じ、聴覚から犯されていくような感覚を堪能する。  
「僕に、どうして欲しい?」  
 識子の耳朶に舌を這わせながら、ネクタイを解く、植木。  
「私が欲しいのは、言葉じゃありません。態度でも、ありません。  
 ……これがひと時の遊びなら、それでも構いません。ひとつだけ、約束が欲しいんです」  
 既に囁くような声しか、識子の喉からは出てこない。それでも、互いの鼓動すら聞き漏らすことのないこの距離で。  
「それは僕にできること?」  
 植木は、識子の言葉をただのひとつも逃すまいと頬を寄せる。識子は己の腕を掴んだままの手に、指を絡める。  
「やめないで。私が嫌がっても、今だけは」  
 植木は識子の唇から零れ落ちたその言葉を味わうかの如く、深く自分の唇を重ねた。  
 
「は……ん、う」  
 全ての息を分け合うような、執拗なまでのキスに呼吸は苦しい。それでも、止まらない。  
 唇の端々を余すところなく堪能した舌が互いの口腔を行き交う。生温い快楽は、優しい麻薬。歯列をなぞり上顎に触れ、絡み合い、どこからどこまでが自分なのか、わからなくなる。  
 ようやく開放された唇に、ひりつくような僅かな痛みを感じて識子は、ああ、後でリップを塗らなきゃな、などとどこか冷めた自分が考えているのを自覚する。  
すっかり上気し、欲情の色を宿した瞳が、同じ色をした植木の眼差しの向こうに見える。  
「江波さん……」  
 喘ぐような声でその名を抱いて、植木の腕が識子の肩を包みこむ。一塊になって倒れこんだベッドの上、布団には僅かな湿気が残っていた。不意に、識子の目端に涙が浮かぶ。  
(もしかしたら、一昨日や昨日も、この人はここにいたのかも知れない。ここで、あの人と)  
「いや……そんなことは、ないよ」  
 小さく返す声で、識子は自分が、想像を口にしていたことを知る。  
「昨日は確かに、誘われた。  
 でも僕には、彼女は抱けない。  
 信じなくても、いいよ。  
 僕は好きな女しか、抱きたいと思わない」  
熱に浮かされた男の言葉を、識子は今だけ信じることにした。明日になれば忘れる戯言だとしても、今だけは騙されていたかった。  
熱を持った指が、識子の耳に触れる。ピアスの痕に触れ、耳の付け根をたどり、顎に触れ、顔の輪郭を確かめるようになぞる。  
されるがままに首筋をさらけ出した識子の喉に植木は強く吸い付き、そこに紅く記された跡に、満足したように目を細めた。  
違和感に、喉へと手を伸ばす識子。植木はその指を捕まえて、愛おしそうに甲へとキスを落とした。  
そうしてふとその手首に視線を落とすと、ベッドへと投げ出したままの識子の、もう片方の手も掬い上げ、その両手首を握り締めた。  
「何を……?」  
 識子の訝しげな視線に、ウインク――普段から片目を隠しているというのに、妙に器用なウインクだった――を返し、先程外したばかりのネクタイでさっと縛り上げてしまった。  
「え。え、えええ!」  
「これで良し♪」  
「いやそんな嬉しそうに言われても!?」  
 
識子が手首の戒めに気を取られている間に、植木は嬉々として識子の上着を脱がしにかかり、はたと手を止める。  
「あれ。このままじゃ、脱がせられない?」  
「当たり前です!」  
「まあいいか」  
「いいんですか!?」  
そのままいつもの作業着のボタンを外しにかかる植木に、識子はとりあえず全身をばたつかせて抵抗を試みる。  
しかし縛られた手首はいつの間にかベッドの桟にくくり付けられてしまっていて、さらに腰から下には植木が圧し掛かっている。結果として。  
「……あのね。江波さん。それ、僕のが擦れてキモチイイんだけど。もしかして、誘ってる?」  
 妙に荒い息をつきながら、植木はようやく露出させた識子の素肌を舐め上げる。臍の少し上から、ベージュ色した(気合も何も入っていない、ウニクロで買った)スポーツブラの辺りまでを、丹念に、丹念に。  
「そ、そんなつもりじゃ……」  
 識子は恥ずかしさとくすぐったさで、顔を赤らめて身を捩る。その動きに、植木はまた、ん、と小さく息を洩らした。「……本当に可愛いな、江波さん」小さくそう呟き、身を乗り出してキスをする。  
 識子は半開きにした唇で植木の舌を待ち焦がれていたが、植木はそっと重ねただけだった。呻き声にも似た溜息を零し、待ちきれなくなった識子から舌を伸ばして植木の唇に触れる。  
「ん、んぅ……」  
 識子は植木の下唇をなぞり、上唇を咬み、僅かなスキマを捜して潜り込もうとする。やがて、植木の唇に綻びを見つけたと思ったときだった。  
 植木の両手が、識子のスポーツブラをたくし上げて、豊かな胸を包み込む。それまでにすっかり、痛いほどに硬くしこっていた識子の先端を摘みあげると強く揉みしだいた。  
「んはあっ……っ!」  
 急な刺激に、痛みよりも強い快楽を覚え、識子は背を仰け反らせる。  
植木は焦らしていた唇を逃がさず、全身で覆いかぶさるように識子に触れると、服の上からでもわかりそうなほどに湿り気を帯び始めた識子の両足の間、女の子の場所に太腿を擦りつけた。  
「っ、ん……!!  
あ、あ、はあっ……っ」  
識子の体が植木の下で二、三度強く跳ね回り、やがて激しい息をつきながら、小さな喘ぎ声を洩らす。軽く達したその様子を満足そうに見つめながら、植木は自分の服を脱ぎ捨てた。  
 
ぬちゅ。くちゃ。  
両足から脹脛の辺りまでズボンやショーツを引き抜かれた識子(ちなみに、この中途半端な状態に識子は一度拒絶を示したのだが、「着衣エロって知ってる?」との一言で軽く受け流されてしまった)の、潤みきった場所へと植木の指が出入りする。  
最初は人差し指。その次は中指だけ。それだけでもキュウキュウと締め付けてくるその場所が、今まで誰も受け入れたことがないのだと知って植木は子供のようにはしゃぎ、丁寧にほぐす事に決めたようだ。  
くちゅ、ぬぷ。  
随分と粘着質な音をたてるようになって、識子の焦点が合わなくなってからでも随分な時間になる。徐々にその場所を往復する指はスムーズになり、その数を増やした。  
くぷり。ちゅぷ。  
胎内に余裕ができだしてからは、植木もただ出し入れさせるだけでなく、内部を探るように蠢かし始めた。時折、識子の体が強く跳ねる場所を見つけては、丁寧にそこを刺激する。  
ぬちゃ、くちゅ、くぷ。  
識子の口からは、殆ど意味のある言葉は出てこない。時折「あ、そこぉ……、やぁ、やだぁ」などというのを「イヤ?いやじゃないよね?」となだめてみる。その自分の声こそ、意味がない言葉のように感じて、植木は苦笑する。  
くちゅ、くちゃ、ぬぷ、ちゅく。  
やがて、親指と小指を残して3本。僅かな抵抗がありながらも、出入りが出来るようになったのを確認して、植木は指に残った粘液を、自分のモノに擦り付けた。避妊具ならば、持っている。それでも、わざと身に着けなかった。  
明日になれば、お互い今夜のことなどなかったように振舞うのだろう。日常に帰れば、仕事や、周囲との人間関係もある。恋人という関係になるには、障害は多い。何より植木自身が、そういう鎖のようなものを嫌った。  
それでも。彼女にとって、忘れられない出来事にしたいと強く願った。もしも、彼女との間に、今日を残す何かが残れば。その結果が幸福な物語であれ、悲劇であれ。彼女に強く自分が刻み込まれるのであれば。  
子供じみた狂気を抱えたまま、植木は識子の脚の間へと身を沈める。  
 
植木虫介は、本気で江波識子を愛していた。  
 
強い圧迫感と違和感、そして苦痛に、恍惚に漂っていた識子の意識が覚醒する。  
「か、はっ……!?」  
「ああ、大丈夫?江波さん……っ」  
ぎちっ、と音を立てそうなほどにきつく、繋がった場所からは一筋の鮮血が流れる。  
生理的な涙が、後から後からぽろぽろと識子の目から溢れ、髪を濡らす。腕は識子の感じた衝撃を表すかのように強くネクタイを引いており、強く握り締められた拳ともども蒼白になっていた。  
苦しそうな識子のその様子を、僅かに申し訳なさそうな顔で見つめながら、それでも植木の侵攻は止まない。  
ず、ぬぷぷ、ずちゅ。  
深く、深くまで押し入って、ようやく植木は腰を止めた。識子の痛みが退くまで、軽いキスを降らせ、髪を撫でる。拳をそっと握り締め、爪が識子自身の手に食い込まないように自分の指を滑り込ませる。  
同時に、少し桟の方へと押しやって、血が止まるのを和らげさせた。  
やがて痛みが治まり始め、識子は出来る限り大きく深呼吸をして、呟いた。  
「痛いです」  
なんとなく間の抜けた発言に、植木は思わず笑ってしまった。  
「笑いごとじゃないですよ……っ、うう、ジンジンします」  
「うん、初めてなんだよね。嬉しいなあ」  
「こんな痛いものなんですか……」  
「まあ、猫よりはいいんじゃないかな」  
「は?……意味がわかりませんよ」  
 いろいろとぼやき始めたのを植木はにこにこと見守りながら、識子の白い下腹部を撫でた。  
 今、ここに自分がいるのだ。  
 そして、彼女とひとつになっている。  
 
識子の痛みが薄れたころ、それを確認してから植木は腰を動かし始めた。  
胎内を擦られる違和感にも慣れてくると、識子の呼吸も徐々に変化し始める。小さな喘ぎ声が漏れ出すのを聞いて、植木は識子に声を掛けた。  
「ねえ、江波さん?」  
「ぁ……はい?」  
「っ、ん……僕さ。避妊具、つけるの。忘れちゃってたよ」  
「え……」  
 植木の言葉の意味を理解すると共に、識子の顔色がゆっくりと変わっていく。  
「まあ、そもそも、っ、持ってきて、ないんだけどね……っ」  
 腰を突き入れるように動かしながら、その胸に口付ける。逆の胸には優しく触れながら、軽く噛み付いた。識子の膣は、さっきの告白からこっち、強く植木を締め付けて、離そうとしない。  
それはもちろん、意識してのことではないだろう。  
「ちょ、アッ、植木、さんっ!?」  
「ああ、凄いよ、江波さんってば、僕のこと、離さないよ、締め付けて、絡み付いてくる……っ!」  
 今の状態を素直に口にして、植木は一気に身勝手な頂点へと駆け上がる。  
「あ、ああぅっ、ん、あっ、あくぅ……っ」  
 識子の声が、快楽を噛み殺した辛そうなものへと変わる。それを聞いてしまえばもう、植木には自分を抑えられなかった。彼女の華奢な腰を押さえつけ、自分の体ごと叩きつける。  
 くぷっ、ぷちゅっ、ぱちゅっ。  
「どうする、ん、ですかっ」  
 識子の声に、笑顔を向ける。  
「どうしたい?ねえ、江波さん、……っ!!」  
呼びかけながら、白濁した欲を識子の中に放ち、植木はただ、自分の顔が泣き笑いになっていないことを祈った。  
 
翌日、識子が起き出した時には植木の姿はどこにもなかった。  
あの緑のネクタイはベッドから外されていたが、右手首に蝶結びでくくり付けられていた。  
のろのろと服に着替え、島中を探しても、見つからない。それどころか、島にいる誰に聞いても、見かけなかったという。  
科研に帰っても、所長に「植木はどうした」と、逆に聞きたいことを聞かれる始末。  
 
芦茂には予想通り質問攻めにあったが、殆ど上の空で聞き流しており、何を答えたかは識子自身、後からどれだけ考えても思い出せなかった。  
戻ってきたラボにはこの数日分の仕事が溜まっている。今考えてもどうにもならないことより、目の前の山を片付けなければならない。  
そうすれば、今まで通りの日常に戻れるのではないか。何もなかったかのような、日常に。識子はそんな思いで、仕事を片付ける日々に舞い戻った。  
 
緑のネクタイは、机の引き出しに綺麗に選択してアイロンかけて畳んで、入れてある。  
植木が帰ってきたら、とりあえず投げつけてやろうと識子は考えている。  
『この間は大丈夫でしたけど、次にあんなことしたら、本当に怒りますからねっ!』  
そう、怒鳴りつけてやろうと。  
 
 
A:END  
 
 

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