きょとん。  
 まさにそう表現されるような声色だった。  
 識子は思わず脱力する。  
「あ、いえ。なんでもないんです」  
「そう?」  
 植木は特に気にした様子もなく、再びライトを点けては消し、点けては消しと繰り返した。  
「なんかこうやってると、面白いよ」  
 こ、このがきんちょ。  
 識子は思わずそう唸りそうになるのをぐっと堪えた。窓を叩く強い雨音が、室内に響く。  
「もう一泊、することになりそうですね。  
 ……鑑太、お腹空かせてなきゃいいんだけど」  
 識子の独り言に、しかし退屈を持て余していた植木は耳を傾けていたようだった。  
「かんた……って、前に連れてた、猫のこと?ほら、ツツガムシに咬まれてた」  
「え?……ああ、よく覚えてますね」  
「うん、まあね」  
 随分と痒そうだった。そう言って笑う。  
 その時、私も咬まれて痒かったんですけど。  
 識子はそう言おうとして、やめた。その事件の時、植木は自分のことなどまるで気にしていなかったのを覚えている。  
 ごろごろと空を鳴らし、雷が雲を渡る。  
 榎田のことにもまた、植木は興味を持たなかったのだろうか。  
 そうであれば良いのだけれど。  
 識子はそんなことを思う自分の思考に驚き、頭を振ってその考えを追い出した。  
「ん?どうしたの、江波さん」  
 ライトを消したままの暗闇に慣れた目が、植木がベッドの上に大の字になっているのをうっすらと認識する。  
 胸の中にちくりとした痛みが走るのを自覚し、識子は戸惑った。  
「あ……その、喉が渇いたなーって。あはは」  
 自分の声がぎこちなくなっていないか、識子は無意識に細心の注意を払っていた。  
「そっか。んー、たしかこの部屋に紅茶があったよ。えーっと……窓際の棚だったかな」  
 あー、と間延びした、欠伸交じりの声で答える植木に、識子はぎょっとした。  
 慌てて部屋の中を見回す。  
 いまだ灯りの戻らない室内。暗く、一瞥しただけでは何がどこにあるのかなんて、さっぱり判らない。識子は口を開こうとして、上手く声が出ないことに気が付いた。  
 まるで喉の奥に何か塊があって、それがつかえているようで。  
「植木さん、そんなのいつの間に見つけてたんですか?」  
 自分の声が、ちゃんと音になっているのかどうか、識子にはわからなかった。  
「一昨日かなあ。冬月……榎田さんが、淹れてくれたんだ。すごく美味しかったよ」  
 布団の上でまどろむ植木の、普段は優しいその声が。今は何故こんなにも憎らしいのか。  
 どうしてこんなにも、泣きたくなるのか。  
 識子の心は叫び声を上げていた。  
 その叫びに耳を塞いでいたのは、理性。  
 今までずっと、わかっていた。  
 わかっていて、それでも、見ないふりをしていた。  
 
(私、この人のことが、好きだ。)  
 
 きっと、昨日も植木はこの部屋にいたのだろう。そして、冬月と。  
 はらはらと零れ落ちる涙に、識子は今が闇の中にあることを心から感謝した。  
 植木に異変を気取られる前に、慌てて立ち上がる。  
「電気、なかなか戻らない、ですねっ。  
 私、ちょっと見てきてみます」  
 今は、とにかく今は。この人と同じ場所にいたいと思えなかった。  
 自覚した時には既に叶わぬ恋。なんて残酷。  
 慌てて小走りに部屋を出ようとした識子はその思いに捕らわれていて、だから。  
「あ、江波さん!」  
「――!?」  
 自分が向かっていた扉の、その足元にあった障害物の存在に。足を取られるその瞬間まで、気が付かなかった。  
 ごん!  
 識子は意識が暗転する直前、そんな音を聞いたと思った。  
 
  ◆   ◆   ◆   ◆  
 
 ――大丈夫?  
 なに?え、なに? なに?  
 ――うーん……脳震盪かな。  
 ノウシントウ?  
 ――見せてみて。ん、痛む?  
 イタイ。いたいよう。  
 ――大丈夫?  
 おでこいたい。  
 ――……痛いの痛いの、とんでいけー。  
 とんでけー。  
 
  ◆   ◆   ◆   ◆  
 
 ゆらゆらとした意識と視界の中、識子は自分の手が眼前、灯りを遮るように振られていることに気が付いた。  
「あれ……電気……」  
「気が付いた?」  
「わっ!?」  
 識子の頭上から、白い塊が覗き込み、あまつさえ何か言葉を発してくる。  
 一瞬の混乱の後、それが後ろから頭越しに顔を出した植木の心配そうな顔だと理解し、識子は大きく安堵の溜息をつく。  
 そして今度は、自分の置かれた状況を認識して、顔が熱くなるのを自覚した。  
 ベッドの上に座らされていることはすぐに理解できたが、問題は上半身だ。  
 意識の曖昧な識子をここまで運んできたのだろう、また縁に座っている植木の、その胸に寄りかかるようにして肩を抱かれている。  
 頭は植木の肩にだらしなく預けられ、痛む額をさすられていた。  
 何故か高々と掲げられた自分のてのひら――とんでいけー、と呟きながら空へ投げ出したのだが、識子には思い出せなかった――が、重力に引かれ植木の髪へ、ぽてりと落ちる。  
 いつものゴーグルを外した植木の、穏やかな笑顔。その瞳に吸い込まれるような気がして、もっと良く見たいと思って、その髪ごと引き寄せた。  
 ぐい、と。  
 近づきすぎた唇を重ねるには、十分な距離。不意打ちに植木の目は丸く見開かれたが、それでも白い髪に絡められた細い指の、優しい拘束を振り払おうとはしなかった。  
 まるで、それが自然なことであるかのように。ただ重ね合わせるだけの口づけを、二人はしばらく楽しんでいた。  
 
自分の行動を理解して赤くなり、飛び起きて距離をとる。そんな識子の様子を、植木は少しだけ残念そうな顔で眺めた。  
「もういいの?」  
「〜〜〜〜っ!?」  
 植木はいたずらっぽくそう言って、慌てて唇を押さえそっぽを向く識子の髪をくすくす笑いながら撫でる。  
「江波さんがキス魔だったなんてね。思わなかった」  
 気楽にそう言ってのける、間延びした植木の声に識子はがっくりと肩を落とした。  
「ええ、実はそうなんですよ。恥ずかしいところをお見せしちゃって、あは、あははは……」  
 間抜けな嘘と虚ろな笑い声が、識子自身にも情けなく感じられた。  
 識子は大きく息をついて、気分を変えるつもりで周囲を見回した。部屋の中は灯りが消える前とそう変わらない。変わるわけがない。一部の床が盛大に散らかってるのは……  
そこまで考えて、ふと識子は自分の額に違和感を覚えた。手をやると、濡れたハンカチが張り付いている。男物、というより少年用の。  
「昆虫王子、ムシプリンス……」  
 プリントされている文字を読み上げると、植木が慌てた声を出した。  
「あ!それ、綺麗だからね!全然使ってないし」  
 それもどうかと思い軽くにらみつけた識子の視線に、植木はさらに慌てる。  
「手は洗ってるよ!?」  
 追求しても意味はない。そう思い、識子はもう一度ハンカチを見た。やたらリアルなポリゴンで描かれたカブトムシと目が合う。  
「それ、よくできてるでしょ?映画館で買ったんだ」  
 ええ、とても良く出来てます。小さい子供が思わず泣きだすんじゃないかってほど。  
「同時上映が女の子向けだったから、泣き出す子とかいたなあ……」  
 本当にいたのかよ。いやむしろ。  
「見に行ったんですか……」  
「うん」  
 即答する。  
「なかなか面白かったよ。またやってくれないかなー。そうだ、その時には江波さんも一緒に行こ!」  
「遠慮しときます……」  
 子供向け映画を植木と観ている様を想像してしまい、識子は軽い頭痛を覚えて頭を抱える。  
 その様子に、植木は今度こそ本気で慌てて識子の傍に寄った。  
「大丈夫!?まだ痛むの?」  
 ハンカチを当てていた額にそっと手を当て、心配そうに覗き込むその顔に、さっきのキスを思い出して識子は思わずうつむいた。  
「こぶになっちゃってるね。しばらくは痛むかもしれないな」  
 植木は識子の額をまじまじと見つめ、呟く。そして、うつむいて視線を逸らす識子に気が付くと、小さく微笑んだ。  
「痛いの痛いの、とんでいけー……」  
 そう言って、赤く腫れたこぶに優しくキスをした。  
 口付けを受けた識子の目に、再び涙が浮かぶ。  
「なに、するんですか。植木さん」  
 
「なにって。おまじない」  
 非難がましい視線で睨まれ、植木は僅かにひるんだ。  
「植木さん、誰にでもそういうことするんですか」  
「……キス魔の江波さんに、言われたくないな」  
 行き交う言葉がとげとげしさを増す。  
「誰がキス魔ですか」  
「自分で言ったでしょ」  
 真正面から、にらみ合う。  
「嘘に決まってるじゃないですか!」  
「じゃあなんであんなことするのさ!」  
 眉根を寄せて、怒鳴りあって。  
「そっちこそ!『もういいの?』なんて!」  
「あー!ちゃんと覚えてるじゃない!」  
 植木、1ポイント先取。  
「う。それは……。けど、植木さんだって」  
「ボクが何なの」  
「嫌がらなかったじゃないですか!」  
「あ……」  
 ドロー。  
 互いに少しだけ冷静さを取り戻し、すぐに気まずくなって視線を逸らす。  
 先に沈黙に耐えられなくなったのは、識子だった。ベッドの上でひざを抱えこんで、ポツリと呟く。  
「植木さんの、せいです」  
「……。」  
 植木はまだヘソを曲げているようだった。  
「植木さんが、榎田さんのこと。好きとか言うから」  
「そりゃ、好きなんだから……」  
 むすっとした様子で、それでも返事はする男。  
「綺麗な人、ですもんね」  
「なんなのさ、もー」  
 植木はまたベッドにごろんと横になってしまった。  
「ああいう人が好みなんですか」  
 識子の発言に、横になったばかりの植木が飛び起きる。  
「なんでそうなるの!?」  
「どこの欽ちゃんですか」  
 識子は直前まで植木が寝転んでいたスペースに、いまだとばかりに飛び込んだ。  
 すっきりとしない湿気を含んだ布団に、植木の体温が移っている。  
 ちらりと植木を盗み見れば、呆気に取られた顔をしている。識子は「べー」と、声に出して舌を突き出す。  
「布団、とっちゃいました」  
「……いいけどさ」  
 植木は突然、明後日の方を向いて、毒気を抜かれたような顔で頭をぽりぽりとかいた。その態度の変化に識子は戸惑ったが、小首を傾げただけで、気にしないことにした。  
 横に転がっていた枕を抱えて、ごろごろとまどろむ。  
 それにつれ、識子の髪が布団の中で広がっていく。髪留めは場所を奪った拍子に外れていた。  
「江波さんってさ。無防備すぎるって言われたことない……?」  
 そっぽを向いたままの植木の耳元が赤いのを見つけ、その言葉を聞き、識子は理解した。  
この男は、今。欲情している。  
「……わかってるんでしょ」  
 泣くことなら、いつでもできる。  
「誘ってるんです」  
 後悔も、懺悔も、今は必要ない。  
「ねえ、植木さん」  
 身を起こし、その首に絡みつく。子供のように。蛇のように。  
首筋を指でたどり、青いシャツのスキマから鎖骨に触れる。  
 識子には確信があった。  
 今は、拒絶されないという確信。  
 処女だとしても、それは生命のすべからく持つ本能。  
「抱いてください。今、ここで」  
 僅かな恐怖を押し殺して識子はそう囁き、弾かれたようにこっちを見た植木の頬に指を沿えて再度その唇を奪った。  
 植木は、それでも抵抗しなかった。  
 
 唇を擦り合わせ、軽く食んで、舌先で触れる。識子の動作に迷いはなかった。戸惑うばかりの植木の唇も、やがて識子のそれに応え始める。  
 ぎこちなく、優しく、怯えるような、それでいて決して拒絶しない唇。  
 それを堪能しながら、識子は植木の手を取り、己の左胸にそっと重ねた。触れた瞬間、熱い物に触れたかのように跳ねる植木の掌を押さえつけて。  
 はしたないと思う。  
 それよりも、触れて欲しいとも。  
 掌の下で刻まれている早すぎる鼓動がその思いを伝えたのか、識子が手を下ろした時、その手は植木自身の意思でその場所を離れなかった。  
 識子はキスをやめないまま、植木のネクタイに手をかける。  
「ぐえ」  
 慌てて手を離し、距離を取ると、絞まりすぎたネクタイを緩める植木と目が合った。  
「ご、ごめんなさい。他の人のネクタイなんて、解いたことなくて」  
「いや、解きなれてるって言われても困るけどさ……えっと……自分で脱いで、良いかな」  
 一瞬識子の思考が停止する。何故だろうか、コトを仕掛けておきながら、脱ぐということに考えが至っていなかった。沈黙を肯定と受け取ったのか、植木は片手でネクタイを解く。  
 しゅる、と音を立てて緑の布がベッドへと落とされる。白衣を脱ぎ、床へと投げた。青のシャツに濃紺のスラックスという出で立ちはいつものとおりだというのに、白衣がないというだけで何故こうも印象が変わるのだろうか。  
「……もっと脱ぐ?」  
 いつの間にか凝視するようなものになっていた識子の視線に苦笑し、自分でシャツのボタンに手をかける。何故だか息を詰めて見つめている識子によく見えるように、片手で、ひとつずつ。  
 手の動きにつられて下腹部まで視線を持っていってから、識子は慌てて目を逸らした。  
 下腹部より更に下、スラックスの一部は、随分とこう、盛り上がっていて。女性と男性の身体的違い(性的な意味で)をこうも意識したのは、識子には初めてかもしれない。  
 識子が目を逸らしたことにも、その理由にも気が付いた植木は、ベルトのバックルを緩めながら唇を尖らせた。  
「そりゃ、ボクだって男の子なんだから……」  
「え、あ、や、お!?」  
 識子が目を逸らしている間に、植木はトランクス(やはり、某子供向け映画のだった)だけの姿になってしまっていた。靴下はどーした。そう思って一瞬視線を走らせると、スラックスの中に丸まっているのがちらりと見えた。一緒に脱いでしまったらしい。  
「さて。江波さんは?ボクが脱がす?」  
「じ、自分で脱ぎます!」  
 慌てて上着から袖を抜き、脱ぎ捨てようとして。ふと、識子は自分をじーっと見ている視線に気が付いた。植木が凄く楽しそうに識子を見ている。今更に、顔が赤くなる。  
「み、見ないでください……」  
「えー。江波さんはすっごい見てたのに?」  
「それでもダメ!」  
 識子は植木の目を慌てて両手で覆い、何かないかと辺りを見る。すぐにベッドの上でさっき植木が脱ぎ捨てたネクタイを見つけて、ぱっと取り上げた。  
「あ。なんか、ヤな予感」  
「そういうのは得てして当たるものです」  
 
 植木はさて、どうやったらこのネクタイのしわがとれるだろうかと考えていた。  
 自分の視界を覆い隠す、いつものネクタイ。識子が変な結び方をしたのか、頭の後ろの結び目は軽く引っ張った程度ではほどけそうになかった。ただ待っているだけもつまらない。  
 そう思うと耳を澄まして、識子の立てる衣擦れの音が奇妙に自分を高揚させるのを感じていた。  
 識子は思い切って下着も何もかもを脱ぎ捨てると、急に感じた肌寒さに身を震わせた。植木の白衣を肌の上に直に羽織ると、植木の匂いがする。僅かに混じる土の匂いは、多分ヒラタのニオイなのだろう。  
 衣擦れの音が止んだのを理解して、植木が識子の方へと顔を向けた。  
「……識子ちゃん?」  
 そういえば、以前はそう呼ばれていたような気がする。そんなことを考えながら、植木の目前まで来て。識子は植木のネクタイ越しの瞼に軽くキスをして、そっと上半身を撫でた。  
  普段はひょろりとした印象を受ける男なのに、胸板や腹筋は、はっきり言って似つかわしくないくらいにがっしりしている。鎖骨に口付けたり、腕の筋肉に掌を這わせたりしていると、時折、植木の体が小さく震える。  
「寒いんですか?」  
 識子がそう声をかけると、小さく首を横に振った。  
「いや……そうじゃないよ」  
 何かを押し殺した、低く震えるような声は、今の識子には酷く、心地よいものだった。  
 今は、自分のことだけを。  
 心からそう願い、植木の指へと口づける。汗ばんだ掌に舌を這わせると、植木が小さく声を洩らした。  
「あ……識子、ちゃん……?」  
「どうしました?」  
「ん……いや、なんでもない」  
 見え透いた嘘をつく男を見つめながら、識子は小さく笑った。そのままぱくりと指を咥える。甘く噛みつき、舌を絡めるように指に沿わせれば、植木は大きく息を飲み込んだ。  
 植木の自由な方の手が何かを求めて虚空をさまよう。視界の端にそれを見つけて、識子はその手を捕まえようと腕を伸ばした。  
 触れた手の感触をたどり、腕を、肩を経由して、識子の首筋まで――途中、白衣に気づいて怪訝な表情を浮かべたものの、照れたような声で識子が呟いた、寒かったから、という理由に僅かな苦笑を零した――  
 植木の指がつたって行く。それが乳房に触れたとき、識子は何故か深く安心するような心地よさを覚えた。  
「ん、ぁふ……」  
ようやく開放された指先、絡みついた識子の唾液を、植木は識子に見せ付けるような仕草で舐め取る。  
「……仕返し、するよ」  
 そう言うと、識子の胸に唇を寄せた。  
「あ……」  
 視界の奪われた植木の触れた場所は、見当違いな脇腹から、やがて触感を頼りにしてか、精確さを増していく。  
 やがて見つけた頂に、すぐさま吸い付くようなことはせずに、舌先で軽くつついて見せた。反対の胸は、柔らかく揉みしだかれて、硬く張り詰めている。  
「や、ぅ……うえき、さぁん……」  
 焦らされている。それは解かるのに。  
 どうすれば、この甘い責め苦から抜け出せるのだろうか。  
 喉を逸らして喘ぐ声は、もう、自分でも聞いたことのないほどの高さで響いていた。  
 思考回路は焼け爛れてしまったかのように、ひとつのことを考え続けている。  
 もっと。もっと欲しい。  
 触れて欲しい、そんなんじゃない。  
 自分のナカ、奥底、中心に。  
 このヒトが、欲しい。  
 
 識子はベッドの上で、植木の肩を押さえつける。されるがままの植木だったが、識子がトランクスに手をかけた時には、無理に降ろされるのを嫌ってか手だけで識子を制止し、自分でそれを脱いだ。  
「あのさ。もうコレ、外してもいい?」  
「ダメです、ダメ!」  
 そう言って、目隠しのネクタイに手をかけようとするのを識子は押しとどめる。  
 そうでなくても恥ずかしくてたまらないのに。  
 見られていないという思いが自分を大胆にしていることに、識子は自覚を持っていた。  
 植木の、肉親意外では初めて見た男のヒトの、ソレ。硬くなって脈打っている、反り返ったソレに恐る恐る触れると、植木が呻いた。その様子を見て、識子はそっと自分自身を確認する。  
 そこは、自分でも驚くほどに濡れていた。  
(これなら、自分でも……難しくないかも、しれない)  
 意を決して、深呼吸。植木のモノを掴み、自分の入り口へと宛がう。  
 僅かに、心残りがあるとすれば。  
「あの、植木さん……」  
「どうしたの……?」  
「なんでも、ないです」  
 見え透いた嘘に、識子の目から涙が溢れそうになる。  
 想いが通じ合えていたら、幸せだったのに。  
 涙を痛みのせいにしたくて、識子はゆっくりと腰を落とした。楔の食い込む感触は徐々に、植木に快楽を、識子に痛みをもたらし始める。  
 植木は識子の腰に手をやる。それは介添えにも、ためらいにも感じられた。その手を握り締めて、識子は腰を進めた。  
「ん――ッ!」  
 そして全てが収まった時、二人同時に、理由は違えど同じような息を洩らす。  
 識子は植木の胸板に、崩折れる様に身を預けた。涙はもう、痛みなのか、悲しみなのかわからない。ただひたすらに嗚咽を堪えて、繋がる男の胸にすがりついた。  
 植木は識子の様子に驚いたのか、肩を抱いて、背中をさする。  
「識子ちゃん?大丈夫、大丈夫だよ……?」  
あやすようなその仕草に、いつもと逆だ、と識子は思った。痛みを堪えて、呟く。  
「……植木さんの、せいです」  
「……ボク?」  
「そうです。植木さんの、せい」  
 顔を近づけてキスをねだる識子に、植木は応える。そうしてようやく、これが初めての、おまじないでも『奪われる』形でもないキスだと、植木自身が気がついた。  
 上体を起こし、識子の背筋を正し、何度も何度も擦りながら、今度は自分から口付ける。  
 髪を撫で、落ち着いてきた様子を見せる識子の肩を抱く。識子の中で熱く包まれた自分がケモノのような、我慢ならないほどの衝動を脳髄に突きつけてくるのを抑え込んで、優しい男のフリをした。  
 
「教えて?どうして、ボクなの」  
「榎田さんのこと、好き、なんでしょう?」  
「…………」  
 識子の返答に、全てを――物理的に――投げ出して、植木はばたりとベッドに倒れこんだ。  
「何ソレ!?  
ボク、江波さんにどう思われてたの?」  
 脱力した声が、エクトプラズムでも吐いてそうな植木の口から漏れる。  
「どうって……」  
 識子の中から、まだ植木自身は抜け出ていない。倒れこんだ拍子に、さらに深く突き入れられたようにすら感じるその存在感に、植木が『萎えた』わけではないことだけは解かっていた。  
「つまり、ボクは。女のヒトなら誰でもいいような男なんだーと」  
「え、いや、なんで」  
「江波さんに。そう思われてたんだ?」  
「そんなこと言ってないじゃないですか!」  
「あー、ショックだー。選りにも選って、江波さんにそんなふうに思われてたなんてー」  
 植木は両手足を投げ出し、ばたばたと暴れる。  
「ちょっと、植木さん!?」  
 その体にしがみつく様にして、識子は声を張り上げた。  
「その、まだ、中に……」  
「あ。ごめん」  
 恥ずかしそうに言う識子の言葉に駄々をこねるのをぴたりとやめて、植木は素直に謝る。そのまま、大きく溜息をついてぼそりと零した。  
「でも本当に、ちょっとショックだよ。好きな女の子にだけは、言われたくない言葉だよね、ソレ」  
「……はい?」  
 今度は識子が、聞き返す番だった。  
「だってそうだよね?江波さんはボクが、女のヒトとして榎田さんを好きだと思ってたのに、誘ったりしたんでしょ?初めてだってのに無理しちゃってさ」  
「え、なんで判っ……」  
「いくらボクも初めてでも、わかるよ、さすがに」  
「い!?」  
 識子としては、とにかく植木の返す言葉のいちいちに驚くしかない。  
 そんなこと初めてなのにわからないでくださいとか、いやそもそもあなた初めてってとか、じゃあ榎田さんへのコメントってどういう意味ですかとか、好きな女の子って誰のことですかとか。  
(さてどれを聞こう?選択肢は4つです……とかやってる場合じゃなくて)  
 とりあえず一番重要な質問を消化するべきだろうと判断し、識子は植木の鼻先に指を突きつける。  
 目隠しはしたままでも、触れるか触れないかの位置に何かが突きつけられたことはわかったようで、植木が一瞬ひるむ。  
「……好きな、女の子って。誰のことですか」  
「……え。ボクそんなこと言った?」  
 最初から視線なんて合っていないのに、その上でそっぽを向いても、何の意味もない。識子は犯人を追い詰めるときのような気分だった。  
「じゃあ、植木さんは。好きでもなんでもない女のヒトに誘われただけでも、ほいほいついていっちゃうようなヒトなんですね?」  
「……う〜。江波さんのイジワル」  
 実に消極的ながらも肯定を見せた植木に、識子はそのまま続ける。  
「次。榎田さんのこと、好きなんじゃないんですか」  
「待って、榎田さんのこと好きだって言ったのは確かだけど、なんか誤解あると思う」  
 植木は少し唸るような口調で返す。  
「ボク、榎田さんが女性だって今日初めて知ったんだよ?」  
「あ……」  
 まったくもってそのとおりである。考えてみれば、植木は識子に食って掛かった『冬月』にもまったく普通の対応を見せていた。  
 逆に言えば、この男にとって、興味を示す対象ではなかったということだ。『榎田』のことを、恋愛感情的な意味で好きだと言っていたのであれば。  
「それは、ちょっと怖い……」  
「やめてお願い想像しないでー!?」  
 植木はまたじたばたと暴れた。  
 
 植木が暴れるたびに、識子の中で主張しているモノがのた打ち回る。もう痛みはなかったが、違和感が消えたわけではなかった。  
 識子は再び、植木の胸にしがみつくような形で大きく溜息をついた。  
「……なんか、こんな状況で話すことじゃなかったような気がします」  
「あ、ボクも。そう思ってた」  
 植木が、下から腰を突き上げる。  
「きゃう!?」  
「……まだ、ひとつだけ。解消できてない疑問があるんだけど」  
 時折腰を突き上げながら、植木は識子に声をかける。  
「なぁ……んっ、なんですか……っ」  
「江波さんは、ボクのこと好きなの?」  
「あ……」  
 一度も明確な言葉に出来ていない想いを指摘されて、答えに詰まる、識子。  
「う、うえきさん、こそ……」  
 時折揺さぶられる身体で、なんとか言い逃れる術を探そうとしても。  
「……好き、だよ。人間の中で、一番好き」  
 すぐに返されてしまうのは、もう、どうしようもないことなのかも知れなかった。  
「目を、見ないで、なんて。誰でも、言えます……っ」  
「じゃあ、外してもいいよね?」  
 植木はそう言うと、識子の答えを待たずに目隠しにしていたネクタイをむしりとった。  
 慌てて、識子は自分の身体を両腕で隠し、腕の中に顔を隠さんばかりに俯いてしまった。  
「あ、やだっ……」  
「……どうして隠すの?」  
 識子の両腕を掴んでゆっくりと開かせる植木の目は、露になり行く識子の裸体を見ていない。じっと、ただその顔を見つめていた。  
それなのに。  
「あ……なんか、大きく……?」  
「うん。ボク、すごくドキドキしてる。識子ちゃんの、顔が、見たいから」  
 そういう植木の声は酷く真剣だった。識子が緩慢な動作で顔を上げると、じっと、真摯な目つきで見つめていた植木と目が合う。  
「愛してる」  
 目を見て言われたその言葉に、識子は顔だけでなく全身が熱くなるのを感じた。  
 胸の奥に宿る痛みは、片思いだと思っていたときよりも鋭く、そのくせ、ひどく愛おしい。  
「愛して、います……」  
 言葉は、一粒の涙と共に滑り落ちた。  
 植木は識子にキスをした。  
「ありがとう、識子ちゃん」  
 そのまま植木は腰を突き上げ、欲望のままに動き出した。識子もまた、それに応えようと植木の首にしがみつき、何度も何度も、くちづけを繰り返す。  
 同じリズムの律動の中、彼我の境界が薄れていくような錯覚に目が眩む。  
 そこにいるのは最早、江波識子と植木虫介ではなく、男の背中に爪を立てて高い声を上げる女と、女の一番深いところを目指す余りに縋りつくような姿の男、ただ一組のつがい。  
 互いが互いのために存在するかのような行為の中で、初めて互いの生まれた意味を、出会った意味を知るような感覚の中で。  
 そして二人は、固く手足を絡ませたまま、同時に快楽の頂点を迎えた。  
 
「ねえ、植木さん?」  
「ん?どしたの」  
「どうして、急に『識子ちゃん』なんですか?」  
「あー……、うん。前に、そう呼んでたこと、あったよね」  
「えっと……そうですね、新人のときとか」  
「そのころはね。サナギだなーって思ってたんだ」  
「さなぎ……」  
「でもね、羽化したら、凄く綺麗な蝶だった」  
「えーっと……つまり」  
「んー……好きになった子のことを、名前で呼ぶのが照れくさくなった、だけなんだけどね」  
 
「……この、がきんちょ。」  
 
 

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