2/13 pm:18:28  
 
チョコレート色の下着は、ピンクのリボンがあしらわれていてとても可愛らしく見えた。  
おねだん:いちまんはっせんえん(上下セット)。  
江波識子は人知れず、財布と相談を始める。  
今日、帰宅した識子が最初に見たのは玄関から寝室から散らかりまくる下着だった物の残骸たち。どれもコレも、鋭いナニカで引き裂かれたものだった。  
一瞬いつかのストーカー騒ぎを思い出し、小さく身震いするものの、現場に居合わせた第一発見者、月島のおばさんの証言はこうだ。  
『あのねぇ、識子ちゃん。おばさん、肉ジャガ作ったから持ってきたんだけど、その時にね。お台所で黒光りするアレを見かけたのよー。  
びっくりするでしょ?それで、新聞持って追いかけたんだけど。タンスの裏に入り込んじゃってね?それで、タンスを動かしたら、おばさん、うっかりタンスを倒しちゃって。あ、黒光りするアレはその時退治できたのよ?  
ああ、そういえばその後、部屋に猫が入るのを見たわねぇ』  
以上、捜査終了。か・ん・ぺ・き!  
識子は頭を抱えながら、まだ一度も目を通してない今日の新聞、お気に入りだったがもう着れそうにない下着等をゴミ箱に突っ込んだ。ついでに猫又も放り込んで漬物石で蓋に重石。どうせ自分で出てこれるだろう。  
そのまま制服を着替えもせずにふらふらと近くの百貨店まで出かけ、今に至っている。  
 
同日 pm:19:00  
 
財布との交渉終了。  
結論:無理。  
 
こんなのどこからどう見てもバレンタイン専用装備、いわゆる勝負下着というやつだ。コレを着て、恋人の前で優しく言うのだろう。  
『私を食・べ・て(はーとまーく)』  
識子は想像だけで身震いした。しかもストーカーへの恐怖より大きく。  
可愛いのは確かに可愛い。だがしかし、こんな年一回限定、滑ったら目も当てられないギャグのためにいちまんはっせんえんはない。しかも。  
(相手もいないよ……)  
 なんだかトホホな気分に包まれて識子はその場を立ち去ろうとして、振り返ったはずみに何かにぶつかった。  
「いたた……」  
「おや、すまない」  
 識子は痛む鼻を押さえながら、謝罪を返してきた障害物に目をやる。そこにいたのは古畑だった。  
「ふ……古畑博士。なんでこんなところに?」  
「いや、シャツを買いに来たんだが」  
「紳士服売り場はこの階じゃなかったと思うんですが……」  
「その通り。この上のフロアだ。とはいえ、エスカレーターから見覚えのある姿が見えたものでね。ここはひとつ、うら若き女性の貴重な意見に耳を傾けようと思ったんだ」  
 自分で選ぶといつも同じ服になってしまうものだからね。そう言ってからからと笑う古畑を見て、識子は妙に脱力した。  
(つまり、私を見かけたというだけの理由で、平気な顔して婦人服フロア、それも下着がメインのフロアをうろついていたのか、このオジサマは)  
 古畑は識子の様子に気づいたのか気づいていないのか、なおも言葉を続ける。  
「ああ、そんな顔をしないでくれ。このフロアをうろついていたわけじゃない。ただ、10分くらい君の後ろにいただけで」  
 識子はめまいがするのを感じた。  
「ところで江波くん、さっきからずっとこのマネキンの前で何を唸っていたんだ?」  
 古畑はそう言うと、答えを待たずにひょいと識子の前を覗きこんだ。  
「あ、ちょっと博士!」  
「ほう、可愛らしいじゃないか」  
 慌てた識子の制止は間に合わず、古畑はチョコレート色の上下をまじまじと観察する。と、不意に識子を――寧ろその体型部分を――しげしげと見つめた。  
「ふ、古畑博士。なんというかその視線は、『せくはら』っぽいです」  
 視線に気が付いた識子が慌てて腕で体を隠す。古畑は顎鬚を撫でるような仕草をしながら、それでも動じずにいたかと思うと突然、悪戯を思いついた子供のように晴れやかな笑顔を浮かべた。  
 
同日 pm:19:15  
 
 識子は盛大な溜息を吐いた。  
 腕に下げた紙袋には例の下着(いちまんはっせんえん)が入っている。  
 識子としてもさすがに断ろうとしたのだが、古畑は「なに、これはお礼の前払いだ」と言ってにっこりと笑って見せ、そのまま引きずる様にして識子を4階紳士服売り場へと連れて来た。  
 今、識子の眼前には様々な色柄の生地がずらりと並んでいる。  
(シャツを買う……って、オーダーメイド!?もっと気楽な既製品かと思ったのに……)  
「仕事用のものではないから、適当に選んでくれたまえ」  
 古畑は、サイズが変わったかもしれないからと採寸を受けながら、実に気楽に言ってのける。識子の苦悩など、知る由もない。  
 布地を前に頭を抱える識子に、若い男性店員が小さく声をかけた。  
「お悩みですか?旦那様でしたら、体格もわりとがっしりされてますし、はっきりした色の方がお似合いかと思いますが」  
「だ、だ……っ!?」  
 思わず声が裏返る。店員は少し不思議そうな顔をしたが、識子と古畑の年齢差をふと思い浮かべたのか、訳知り顔で頷いて見せた。その顔は、父娘と思ったわけでもなく、援助交際的な何かと思ったわけでもなく。強いて言うなら、そう。  
 新妻、かつ若奥様。初々しいなあ。  
識子にはもう、訂正する気力もなかった。  
「あは、あはははは……」  
 乾いた笑いを浮かべる識子の視界の端に、どこか見覚えのある色が飛び込んできた。  
 バックヤードに持って行こうとしていたさっきの店員(寧ろ、その途中で識子に声をかけたらしかった)を捕まえ、聞いてみる。  
「あ……その生地は?」  
「これですか?バレンタイン向けの商品だったんですが……今からでは、明日には間に合いませんよ?」  
 識子は一瞬だけ逡巡し、すぐに思い直した。  
「かまいません」  
 柔らかい笑顔を浮かべていたことに、識子自身は気が付いていただろうか。  
 残念ながらその笑顔も、さらに細かいステッチの指定やらボタンの縫い付け方やらの指定を考えているうち、秒速で曇っていったわけだが。  
 
同日 pm:20:05  
 
 識子と古畑はショッピングフロアが閉まるのに併せ百貨店を出た。  
 古畑は何故か不機嫌そうな表情をしていたが、識子はあまり気にしないことにしたそれより気がかりなことがあったからだ。  
(あああああ。殆どボロボロにされてたのに、結局これ一着……明日から、どうしよう)  
 いっそのこと、今日着ているのを明日もそのまま着けようかとすら考え始めた識子に、古畑が声をかけた。  
「さて、江波くんの自宅はどこだったかな」  
「え?」  
「自宅まで送ろう」  
 識子は慌てて首を振る。  
「そんな、大丈夫ですよ。この時間ならまだバスもありますし」  
「安全やバスの問題ではないよ。私にエスコートさせてくれないか?」  
 妙に気障に言う古畑に、識子は思わず「芦茂さんみたいなこと、言いますね」と吹き出してしまった。  
それを聞いた古畑が憮然とするのがなんだか少し可笑しく見えて、一層笑いがこみ上げたが、それを笑えば今度はヘソを曲げかねない。そう思い、識子はわざと偉そうな咳払いをひとつして答えた。  
「わかりました、博士。エスコート、お願いしますね」  
 
同日 pm:20:30  
 
識子の自宅を見て、古畑は感心した様な声を上げた。  
「懐かしいな。私が子供の頃は、こんな家屋が随分残っていたものだが」  
「あはは……古臭い家で。お恥ずかしい」  
 識子は背後で『識子どの、古臭いとは何事ですか!』と喚いている幽霊を黙殺した。  
「安心したまえ、褒めているんだよ」  
『ほら見たこと、やはり古畑どのは物を見る目があられる』  
 小さく苦笑し(そうでもして誤魔化さないと、どちらに対して答えたものか自分でもわからなくなりそうだったのだ)、識子は引き戸に手をかける。  
小さく隙間を開けてみた所、中には猫又も含め誰もいないようだった。  
「博士。今日、は……?」  
古畑に礼を言おうと、くるりと振り返ろうとした識子を、後ろからふわりと回された腕が留めた。  
「……江波くん。君はまさか、家に鍵をかけていないのか!?」  
 身長差のある頭上から古畑の強張った声が降って来るのを、識子は不思議な気持ちで聞いていた。  
「ええ、そうですけど……」  
 抱き締める腕の力が強くなる。それを識子は心地よく感じた。  
 嫌だと思わない自分が不思議だった。  
「無用心な……。あんな騒ぎもあったというのに。危険だと思わないのか?」  
 危険といえば、今の状況の方が、いろんな意味で危険な気がするんですけど。識子は胸の中でそう呟く。どこかで、信号が黄色く明滅しているような気がした。  
 識子は自分を抱き寄せる大きな掌に、自分の掌を重ねる。その腕が小さく震えていたが、それが、今にも雪がちらつきそうな夜の寒さに寄るものなのかどうか、そしてどちらの震えなのかどうかも、誰にも判りそうになかった。  
「……私は、君のことが心配でならないよ」  
 長く伸びた識子の髪に顔を埋め、古畑が呟く。  
 それが少しだけこそばゆくて、識子は目を閉じ、小さく息を洩らした。  
 その息が白さを失う頃、古畑は識子の肩を抱くようにして、自分の方へと向き直させる。  
 識子が目を開けると、古畑と目が合った。  
 ああ、赤信号だ。  
 識子はそんなことを思った。  
「江波くん。君は、誰に対しても、もう少し警戒心を持ったほうがいい」  
「……博士にもですか?」  
「……そうだ」  
 何かを堪えるような表情をして、肯定する古畑。識子は小さく背伸びをして、その頬に唇を寄せた。  
「まったく、君は……いとおしい……」  
 古畑は目を閉じて唸るように呟くと、識子を力強く抱き締めてキスをした。  
 その後ろでは幽霊が、顔を赤くして慌てていた。  
 
同日 pm:20:35  
 
 キスを交わし、コタツになっている卓袱台を足でどかせながら、二人して倒れ込むように居間へと縺れこんだ。  
 識子の服を肌蹴させ、少しずつ露になる肌に何度となく吸い付きながら、古畑は小さく謝る。  
「すまない。年甲斐もない話だと思う。許してくれとは言わない。  
 ……君が欲しい。欲しくて、たまらない」  
 識子は何も答えず、古畑の髪を指で梳く。言葉が必要だとは思わなかった。  
 やがて、古畑が識子に押し入ろうとしたときに初めて、識子は声を上げた。  
「あ、ぅくっ……」  
 それが苦痛によるものだと気が付いた古畑は、識子の髪を撫でて、困ったような笑顔を浮かべた。  
「悪いが、止められそうにない」  
 堪えてくれ――古畑はそう呟くと識子の唇を塞ぎ、一息に貫いた。  
「〜〜〜〜っ!!!」  
 古畑の背に識子の爪が食い込む。  
 識子の痛みが治まるまで、古畑はキスをやめなかった。  
 
2/13 pm:23:12  
 
「識子くん。識子くん?」  
 身支度を済ませ、古畑は識子の頬を撫でた。  
 識子はうとうとしながら、その掌に顔を摺り寄せる。  
 小さく笑うと、古畑はその額にくちづけを落とした。  
「明日は朝から他所で、抜けられない会議だ。残念だが、お暇させてもらうよ」  
「……?」  
 識子は目を擦りながら、何を言われたのかもう一度反芻していたが、やがて思考がはっきりしてきたのか、慌てたように裸の胸を隠そうとコタツに深く潜り込む。  
その様子はさながらつつかれたカタツムリのようだった。古畑は笑いながら識子の頭を撫でると、思い出したように識子の耳に囁いた。  
「君はチョコより甘いようだ。  
できれば、明日のバレンタインは今日買ったアレを着ていてくれないか?  
 帰ってきたらいの一番に確認しに来るから」  
 識子は顔を真っ赤にしてコタツの中に頭まですっぽり隠れてしまった。  
 それを見て古畑は、声を上げて笑った。  
 
2/20 pm:18:15  
 
 例の紳士服売り場に、古畑と識子は二人して訪れた。  
「お預かりした商品はこちらです」  
 先週と同じ男性店員がにこやかに紙袋を差し出してくる。  
 受け取ろうとする識子を押し留めて、古畑はにっと笑って見せた。  
「今、袖を通させてもらってもかまわないかな?」  
「え!?あの、ほら、それは帰ってからゆっくり見ればいいじゃないですか!」  
 妙に慌てる識子を無視して、古畑はひょいと試着室に滑り込むと、ややあってから満面の笑みを浮かべて現れた。  
「道理で、頑としてチョコをくれなかったわけだ!」  
「そんなこと大声で言わなくていいじゃないですか!」  
 照れてしまった自分の方がよほど大きな声を出していることに気づいて、識子は恥ずかしさのあまり顔を両手で覆ってそっぽを向いてしまう。  
 古畑は、傍にいる男性店員(ああ、若いって良いなあ、みたいな表情を浮かべていた)に上機嫌で話しかけた。  
「いいだろう。私の嫁だ」  
 その声が耳に入って初めて、識子は古畑が先週の帰り際に見せた不機嫌の理由に思い当たった。その袖を小さく引っ張って、確認してみる。  
「……もしかして。あの店員さんに嫉妬してたんですか?」  
「その通りだ。君があんなに嬉しそうに微笑んでいたからね」  
 子供のように思いっきり肯定して見せた男のシャツは、ビターチョコレートの色だった。  
 
 
 
【END】  
 
 

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