「江波さーん」
深夜二時過ぎ。
植木虫介はついさきほどできあがった書類を持って識子のラボの扉を開けた。いつもならメールに添付して送ってしまうのだが、今回は体を動かしがてら自分のラボからここまで歩いてきたのだった。
女性らしく整理整頓された――とはほど遠い江波識子捜査官のラボ内。虫介はひょいと足下の寝袋をまたぎ、書類戸棚の向こうのデスクへと向かう。またいだ股の下で寝袋がごそっと動いた気がしたのは、識子がよく連れてきている猫がくるまっているのだろうか。
「夏の白川郷あたりで用水溝に挟まった場合の死体の蠅の孵化のサイクルの書類、できたよー。……って、あれ」
いつもの紺色の制服を着た識子が、デスクに突っ伏していた。
くぅくぅという寝息が聞こえる。
「寝ちゃってる……。まあ、しょうがないか。もうこんな時間だもんね。女の子には辛い職業だよねえ……ってもう『子』ってトシでもないけど」
識子本人が聞いていたら顔を真っ赤にして文句を言うであろうことを独りつぶやく虫介。
「それじゃ、書類ここに置いとくからね。ボクはこれで上がらせてもらうねー」
軽い調子で置こうとし――虫介は彼女の腕の下に写真が挟まっているのに気づいた。
人の腐乱死体である。おびただしい数の黒い蠅が皮膚のすべてをおおいつくし、点々と見える小さく白な点はウジ虫。普通の人が見れば吐き気をもよおす写真だ。
少なくとも、普通の年頃の娘さんなら、こんな写真を頭の下に敷いたまま寝ることなどできない。
――普通、じゃないよね。
日常的に死体に接し、分析し、犯人を追う手がかりを得る――たまに直接犯人を捕まえる。それが彼女の仕事なのだ。
(それに、江波さんって江戸時代から続く警察一族だしね……)
時代劇の小道具ではない、本物の、古い十手をいつも携帯しているのはその矜持なのだろう。
たまには憧れたりしないのだろうか。
同世代の女性の華やいだ美しさに。若さをめいっぱい楽しむ若者たちに。
虫だって……、そう虫だって異性を誘うために美しく進化していくのに。
だが、まあ。
数百年続いている警察一族の女性にとっては、ブランドものでちゃらちゃらと着飾ることよりも、犯人をつきとめる瞬間のほうが華やげるのだろう。江波警視正にしてもそうだ。あれほどブレスレットより手錠のほうが似合う女性というのも珍しい。
ひょっとしたらそれは、DNAに刻まれた因果なのかもしれない。……それでも彼女たちの一族が江戸時代から続いているということは、そんな江波家の人間を好きになる一族以外の『誰か』が常にいた、という動かぬ証拠でもある。
(……職場結婚かな?)
恋愛より仕事をとる一族のものとうまくいくには、やはり同じ価値観が必要である。
(ボクは……)
犯人を捕まえようという、識子のような強い意志はない。生物のことで聞かれるから調べて答えているだけ。専門外のことはその専門家にまわしてしまえばいい。好きなことをしているという自覚はある。遊びの延長というより、ほとんど遊びである。
とはいえ、それでも識子は自分を頼りにしてくれている。
だから、せめて。
この子の努力を応援したい――。
「もうちょっとだけ、残業しよっと」
識子の穏やかな寝顔の横にそっと資料を置くと、虫介はそうっと部屋から出て行った。
(もしボクと識子ちゃんが結婚して子供ができたら、虫好きのうえに捜査好きな警察関係者になるのかな)
――そんなことを考えながら。