所長×署長注意  
 
 
 時計は二十七時を指していた。  
 部屋の中には澱んだ微熱が充満している。  
 男と女、二人分に過ぎないそれは、しかし二人にとって今、世界の全てにも等しい。  
 女は警察の制服を半分肌蹴ながらも身に纏っており、本来ならばきっちりと後ろにまとめているのだろう後ろ髪が、情事にほつれている。  
「く、ふぅ……っ、ん!」  
 その首には痛々しい包帯が巻かれており、激しい呼吸の邪魔をしている。  
 背後から覆いかぶさる男は、その様子を気遣うように項に唇を寄せるが、それでも寛げたスラックスから露出させた自分の欲望を叩きつけるのをやめない。  
 普段滅多なことでは外さない銀縁の眼鏡は、今は嬌声と同じリズムで揺れる机の上にある。  
 南東京市科学捜査研究所の所長である岩原にとって、この所長室で彼女を抱くのは決して初めてではない。  
 警視正である江波徹子にしても、初めは随分と怒りを見せたものの、いつの頃からか慣れてしまっていた。  
 科研の風紀に良くない、そう苦言を呈しそうないつもの秘書ソフトは現在、深夜メンテナンスの最中だ。少なくともあと一時間は停止している予定だと、デスクトップの表示が告げている。  
 強く抉る様な動きで打ち付ける男の身体が、自分よりも細い身体を木製のデスクに磔にする。  
 その細い身体は自分よりも大柄な重みを感じる度にデスクにしがみつく腕の力を増し、軽く吹き飛ばされてしまわれぬよう繋ぎ止めている。  
 顔は見えない。それでも、わかる。  
 彼女は今、『鉄の女』と呼び表される無表情などではなく、朱の差した頬、感じすぎると唇を噛み締める悪癖でもって、誰にも見せたがらない、美しく、蟲惑的で、魅力的な表情をしている。  
 あと少しだ。  
 あと少しで、いつもの高みへと彼女を連れて行ける。  
 己の限界もまた近いことを知り、一際強く打ち付け始めた。ここからペースを早めることを、彼女は好まない。  
 それよりは、強すぎる快楽を本能的に嫌がって身を捩るのを押さえつけ、胎内深くでひくつき始める肉莢のような場所を刺激してやる方が、悦ぶ。  
「あくっ、くはぅっ、うっ、ふ、んむっ」  
 少しだけ血を滲ませた唇を開いて啼こうとするのを、慌てて顔を上げさせ、口付けで塞ぐ。  
 そんな喘ぎ方は、まだ喉の傷に障るだろう。  
 不意に自分たちの姿を窓ガラスに見つけ、僅かに、奇妙な気分に陥る。……そうか。  
(長いこと、キスなどしていなかった。情や言葉より、こうして身体を交わすことが、当たり前になっていたのか)  
 柔らかさと温かさ。絡めた舌に感じるとろりとした唾液の中に微かに混ざる血の味。一度は失ったと絶望したその感触を愛しく思い、女の身体を強く抱きしめた。そのまま最奥で熱を吐き出す。  
 一瞬目を見開いた彼女の息が塞いだ口腔の中で弾けるのと、子宮が、胎内に受けたものと同じ程に熱い液体を、果てたばかりの肉棒へ吹きかけたのは、まったくの同時だった。  
 ――このまま、彼女が孕めば良い。  
 岩原は本気でそう思った。  
 
 腕を通した制服が肩のラインにきちんと沿う様、襟を一度だけ強く引き、身なりを整えた江波徹子はソファーに腰を下ろす。  
 逆に、ジャケットを椅子へと放り投げた岩原は、先刻に淹れたインスタントコーヒーを江波に差し出しながら自分の分を一息に呷った。  
 黒く、熱く、甘い。芳しさを売りにしている商品だけあって、香りはなかなか、悪くない。独特の酸味が、事後の気だるさを和らげてくれる。  
 江波は一口含んだだけで、カップをソーサーに置いてしまった。その様子に、呆れてしまう。  
「また強く噛んだな。いい加減その癖は直したらどうだ」  
 彼女はむっとした様子で再びカップを手にし、なんでもないことだとでも言いたげに再度コーヒーを喉に流し込んだ。  
 僅かに顔を顰める。荒れた唇に、熱い杯は痛むのだろう。  
 こくりと上下する喉。  
 岩原は、眉根を寄せてそれを見つめた。そこはまだ、痛々しい包帯に包まれている。  
 現場の惨状を思い返してしまえば、今こうして彼女が生きているのが不思議だと思う。  
 いつ、何が起きるかわからない。  
 そこが、彼女が望んで身を置いた場所だとわかってはいる。だが、しかし。  
「もう、いいんじゃないか」  
 自分が、耐えられそうにない。  
 
 彼女には、その一言で通じたようだった。  
 屹と眦を吊り上げ睨む様な視線を向けてくる。  
「所長。何を弱気になっているの?この怪我は私のミスよ。  
 警察内部の不正を正す為に行動していたのに、油断してしまった」  
 『鉄の女』の称号は、伊達ではない。今までだって何度も危ない橋を渡ってきた。それでも。  
「だがな、江波警視正。その傷は、『命を狙われた』んじゃない。実際に『死にかけた』んだ。生きていたのは偶然だ。また今度、その強運が発揮されるかどうかは、わからんぞ」  
 そう言っていつものように中指で眼鏡を直そうとして、眼鏡を外したままだったことに気が付いた。  
 微妙な気恥ずかしさを感じながら、そのまま指で眉間を揉み解す。  
「……俺は。……お前に、死んで欲しくない」  
「……岩原ちゃん」  
 困ったような声が聞こえたことに、なぜか安堵する。そのせいか、言葉は口を突いて出た。  
「本当を言えば、お前が江波の家を継がないと聞いたときも、ほっとしたんだ。これでようやく、お前も少しは安全に過ごせるようになるかもしれんとな」  
 その結果。やってきたのは江波識子で。  
 江波徹子は、それまで以上に危険になった。  
 自分の分だけでなく、姪の分まで気を付けなければならなくなったのだから。  
 深く息を吐き、静かに目を閉じる。  
「……笑っていて欲しいんだ。お前には」  
 自分の傍で。ずっと。  
 
 岩原の脳裏に、不意に先刻まで腕の中にいた彼女の姿が浮かぶ。  
 脚の付け根から垂れ落ちそうになったものを慌てて抑え、赤い顔で上目遣いに睨んできたその表情。  
 ああ、頼むから、俺の遺伝子たちよ。  
 彼女の遺伝子と溶け合ってくれないか。  
 彼女のココロは彼女だけのものだ。  
 だからせめて、それ以外の全てが欲しい。  
 ――どうしようもない独占欲。  
 
 残っていたコーヒーは、手の中ですっかり冷たくなってしまっていた。飲み干すのも億劫だ。  
 灯りの着いたままの天井を仰ぎ見る。  
 夜明けはまだ遠いだろう。  
 行為後の汗も拭かずにいた身体は冷え切って。  
「腹が減ったな」  
 自分でも意図しない呟きを、それでも彼女は耳聡く聞いていた様だった。  
「そうね、私もよ」  
 江波は髪を解き、結わえていた髪留めを軽く口にくわえながら、「でも、こんな時間に何か食べるのは、太る元ね」とどこか悔しそうに付け加えた。  
 今更気にすることでもあるまいに。お互い、若くないのだから。口にしたら間違いなく睨まれることなので、岩原はそれ以上考えないことにした。代わりに、違うことを口にする。  
「作ってくれないか」  
「は?」  
 結わえなおすために髪を纏めて持ち上げていた彼女の細い指から絹糸の如く黒が滑り落ちていくのを、呆けたように眺める。何も考えていなかった。考えるより先に言葉が滑り落ちる。  
「味噌汁だ。それと米。沢庵は朝から食いたいものじゃないな。だが、漬物はあったほうがいい。あとは焼き魚か。塩焼きなんかは最高だ。身をほぐして、ワタを白米に乗せて……」  
 目の前の女が、小さく笑った。  
「随分と、塩分の多い食事ね?」  
「うるさいな。腹が減っていると、味が濃いのが食いたくなるだろうが」  
 ムッとしながらも、自分が何を口走っていたのかにようやく気が付いて、何故だか顔がむず痒くなる。そっぽを向いて、それでも。  
「……お前の作る朝飯が、食いたいんだ」  
 
「そうね、じゃあ、今日は泊まりにでも行こうかしら?」  
 そう言い無邪気に微笑む江波の顔に見惚れて、岩原は核心を口に出来なかった。  
 今日とか明日だけじゃなくて、毎日だったらありがたいんだが。  
 やたら上機嫌で帰り支度を始める彼女の姿を見ながら、岩原は苦笑するしかなかった。  
 
 終  
 

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