今日は、現場での仕事がまた多かった。  
 湿気の強い、すっきりしないのにじめじめとして、ひたすら蒸し暑い日。  
 何箇所もの現場を回り、ようやく一息吐けた頃には既に20:00。  
 これから書かなければならない報告書の概要を頭の中でまとめながら、識子は思う。  
 充実している、なのに。  
 なんだろう。この孤独感は。  
 パソコンの駆動音は、BGMにするには無機質すぎる。  
 鼻歌でも歌おうかと思って、やめた。  
 最近の歌なんて、知らない。  
 それに。  
 
「そんな時に誰か入ってきたら、恥ずかしいわよ」  
 
 声にしてみる。  
 反響した自分の声の残滓が、僅かに耳に届く。  
 孤独が、識子の心に強く染み渡っていく。  
 最初の一年に比べれば、報告書の内容で怒られることも随分減った。  
 カタカタとキーボードに指を走らせながら、思い出に耽る。  
 最初の頃は何を書いて怒られたのか、何を書かずに怒鳴られたのかがわからなかった。  
 よく、かんこさんに目を通してもらったりしたものだ……そこまで思い、ふと気付く。  
 
「かんこさん」  
 
 ぴろり、と軽快な音を立て、画面内に極端にディフォルメされた女性像が現れた。  
 
『どうかされましたか〜?』  
 
 識子はそのアイコンを見て僅かに絶句する。  
 かんこさんは、織姫の扮装をしていた。  
 
「かんこさん、どうしたの?その服……」  
『今日は7月7日、七夕を意識して見ました〜』  
「な、なるほど……」  
 
 考えてみれば、かんこさんの通常業務には来訪した部外者の案内なども含まれている。  
 中には依頼しにきた一般人も少なくないだろう。  
 そうした人たちに安心感を与えるためのサービスだと思えば、そこまでおかしくはない。  
 ……だが。  
 
「もう、来客とかないんじゃないの?」  
『そうですね〜。ついでに、現在科研内にいるのも、ごく僅かな関係者のみです』  
「じゃあ、今日一日はその格好で?」  
『もう戻してもいいかとは思っていますが、江波さんにお見せできていなかったもので』  
 
 ディスプレイの文字に、微かに苦笑する。  
 
「似合ってるわ、すごく」  
『そう言っていただけると、トテモトテーモ、嬉しいですね〜』  
 
 かんこさんは警察関係の擬人内で流行っているのだ、と、嬉しそうにそう言った。  
 
 書き上げた報告書に目を通す。とりあえず問題があるようには思わない。  
 それでも、一度気持ちを切り替えてもう一度見直そうと思い、識子は席を立った。  
 いつもの癖で、足は自然に屋上へと向かう。  
 識子は休憩室よりも、屋上の方が好きだ。  
 煙草の臭いは好きじゃないし、いつでも誰かがいるような気がする。  
 誰とも会わない場所の方が、不思議と落ち着くのだ。  
 屋上の扉を開く。  
 そこには、見知らぬ背中があった。  
 
「……誰?」  
 
 識子の喉から、思わず剣呑な声が出る。  
 少しよれたシャツの男はゆっくりと振り向くと、銜えていた煙草を手にした。  
 
「やあ。キミこそ」  
「私はここの所員よ」  
 
 やけに落ち着いた様子の男に苛立つ。  
 煙草を吸っていることにも苛立つし、何よりこの場所に居たことが気に食わない。  
 
「そうか……ぼくは、そうだなあ。牽牛とでも名乗っておこうか。  
 キミは江波さん、だろう?よく警視正からキミの話を聞いているよ」  
 
 眉を顰めた識子に、軽く笑って男は続けた。  
 織るとかいてシキコ、だから、ぼくは牽牛でもいいんじゃないかと思ってね。  
 識子は心底呆れた視線を投げる。  
 
「知識のシキ、です」  
 
 慌てて目を逸らした男の背中を、識子はよほど蹴ってやりたくなった。  
 自分のことを探偵だ、という男には初めて会ったが、なんて胡散臭い職種だろう。  
 識子はそう鼻白む。  
 ライセンス制のことも知っているし、その男のことも確かにおばから聞いたことがあった。  
 擬人の秘書と所員(所猫?)を抱えて、滅多に事務所から出ないとまで言われる探偵。  
 腕は立つ。  
 探偵事務所の近くにあるラーメン屋の店主ピラニア仮面からもそう聞いていたが。  
 
「……胡散臭い……」  
「え。おっさん臭い?」  
 
 慌ててシャツの臭いを嗅ぐ姿からは、とてもそうは見えなかった。  
 
「で、その探偵さんが、科研に何の用事ですか」  
「七夕の牽牛って言ったら、決まってるじゃないか」  
「織女でも探してるんですか」  
「そんなところかな」  
 
 じり、と後ろに下がり距離を取った識子に、慌てて、あ、キミのことじゃないから、と続ける探偵。  
 識子としては睨むほかない。  
 
「まあ、変な話をしたことはぼくが全面的に悪かった。  
 だから、そこまで警戒しないでくれるかな」  
 
 男は苦笑いをしながら、残り少なくなった煙草を携帯灰皿に捨てる。  
 
「長年、実らない片思いをしてるせいかな。女性との会話ってのが得意じゃなくてね」  
 
 彦星がうらやましい。一年に一度でも、愛する女に会うことが出来るのだから。  
 そう言って空を見る男の顔は、嘘を言っているようには見えなかった。  
 識子は少し距離を取って、手すりにもたれかかる。  
 夏を迎える街の灯は、どこか滲んでいるようにも見える。  
 男は新しい煙草に火を点けた。  
 紫煙が風に乗る。  
 車のライトが流れる町並みを漂うそれは、薄曇の空に掛かるきざはしのようにも見えた。  
 
「片思いなら、いいんじゃないですか?いつか実るかも」  
「まあ、そう思いたいものだよね」  
 
 そう言って軽く笑う男の目は、柔らかい。  
 何故だかその瞳の奥に吸い込まれるような気がして、識子は顔を背ける。  
 こんな男は、好みじゃない。  
 
「雨が降りそうだな……」  
 
 呟いた男の声に、つられて空を見上げる。天の川は見えなかった。  
 不意に識子は、空を見上げたのは随分久しぶりのように感じた。  
 いつも、屋上に来ては街並みを見下ろし、この街の治安に自分も貢献しているのだと感じていた。  
 それだけでも、自分の仕事に誇りが持てていた。  
 それなのに。  
 なぜ、こんなにも空は広いのか。  
 まだまだ、自分の力が及ばない世界があるのだと突きつけられたような気がして。  
 識子の目から、涙が溢れた。  
 
「泣いてるの?」  
 
 男の、戸惑った声が聞こえて。  
 いいえ、雨ですよ。識子はそう答えた。  
 どこからか、賑やかな音楽が流れ聞こえてくる。  
 ――ささのは さらさら のきばに ゆれる――  
 
「お星さま きらきら、金銀砂子……」  
 
 節をつけて口ずさみ、男は手を伸ばす。地上の灯りへと。  
 柔らかい声をしていると、識子はそう思った。  
 
「今の世の中じゃ、人の暮らしが、これだけ明るくなってしまったからね。  
 星はあんまり見えないけれど。  
 こうして灯りを見てると、その灯りの数だけ人が居るんだと思うと。  
 ぼくたちもこうして、多くの人の中で生きてるんだって思える」  
 
 手の届かない灯りに触れようと宙をかいていた手を引き戻すと、男は識子へと視線を向けた。  
 心配するでもなく、無理に媚びたものでもない、自然な笑顔で。  
 
「だからまあ、キミも、あまり肩肘張らないで。  
 悩み事があるなら、相談に乗るよ。  
 こんなオジサンで良ければ、だけどね」  
 
 識子は男の顔を、しっかりと見つめ返した。  
 さっきまでは、そんな勇気も持てなかったというのに。  
 些細なことで、こんなにもこころが軽くなるものなのかと実感する。  
 
「ありがとう、彦星さん。  
 心配してくれて、私、トテモトテーモ、嬉しいです」  
 
 探偵はそれを聞いて、何故か盛大にむせかえった。  
 
 END  
 

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