「ふぅ……」  
 
リウマチの痛む足を引きずるようにして狭い小屋へと帰るとベンウェザースタッフはどさりと荷物を置いた。  
年嵩の身体に冬の寒さが堪える。  
ストーヴに火を熾しスープを温めると質素な夕食の準備を始めた。  
屋敷から貰ってきたパンを袋から出すと美味しくも無さそうに黙って食べる。  
塩辛いだけのスープで流し込むようにしてパンを呑み下す。  
中々部屋が暖まらないのでストーブの近くにぴったりと寄った。  
壁に掛かった鏡を見ると自分の顔がギョッとするほど老けて見えた。  
疎らな髭を撫でると皮膚が弛んで指に引っ張られた。  
不機嫌な顔のまま棚から出してジンをコップに注ぐと苦そうに呑んだ。  
強いアルコールが胃に染みると欠伸が出た。  
夜具を調えに行くとベッドサイドの窓から厚い雲が勢い良く動いてゆくのが見えた。  
「こりゃ降るな」  
呟くとまるで声だけが部屋の中に居るようでぞっとした。  
素早く寝る仕度を整えると耳まで布団を引っかぶり目を閉じた。  
窓の硝子が立てる音が徐々に遠ざかった。  
 
「雨が降ってきましたわ」  
「へぇ」  
「一雨毎に暖かくなりますね、もうじき春が来るわ」  
「本当に」  
 
あの頃、雨は優しく降っていた。  
春先に降る雨のたび、庭仕事の手を休めては花園の持ち主と交わした言葉。  
種が芽吹くように、年毎に女性のたおやかな美しさを身に付けてきたクレイヴン夫人は  
まだどこかで若菜のような初々しさを残し、人好きのしない庭師にさえ憧れを植え付けた。  
 
春先の湿った午後のある日。  
蔦の合間から漏れる日光が池に映り柳の新芽が柔らかな緑に透ける。  
咲き誇る沈丁花の馥郁とした香りは花園に充ち溢れていた。  
10年、彼は若かった。  
作業の手を休めると空を仰いだ。  
 
「ベン、こちら手伝って下さいな」  
 
声に振り返ると絡まる蔓薔薇の合間からクレイヴン夫人が見えた。  
笑みがその身体に満ち溢れているようだった。  
少女めいた女性、ウェザースタッフは彼女の前では無愛想ではなかった。  
ベンが近付くと高いところで蔓薔薇が伸びてしまっているのをそろえて欲しいと言う事だった。  
彼はだまって剪定鋏で伸びすぎた蔓を整え、脇に咲く沈丁花の枝を一つ折り取った。  
足許では夫人がしゃがんで水仙の雑草を抜いていた。  
まるで少女のように膨らんだスカートは菫のように淡い紫色だった。  
腕まくりをして手袋を嵌め、楽しそうに作業をする傾いた帽子にその花を飾った。  
彼を見上げる瑪瑙のような大きな瞳はキラキラと輝いていた。  
吸い込まれそうになりながらベンはぎこちなく笑った。  
 
何か言おうとする前口元が笑ったように上がる少女めいた腕がふっくらとしている。  
少し解れた後れ毛が陽に透けて輝き、ベンは眩しさに目を細めた。  
そのとき、あずまやの向こう、大きく曲がった木のある方からクレイヴン氏の呼び声が聞こえた。  
 
「あら、わたし行かなくては」  
 
ぱっと表情が変わり一段と明るくなった笑顔を残し彼女は走り出す。  
彼女を何故止めなかったのか?  
自分にはこの人にこの笑顔を与えれない。  
しかし今は背を向けて走り出す彼女を止めなくてはいけない。  
 
「待ってくだせぇ、待って!」  
 
追い縋るベンの身体は一足毎に年老い、油の切れた機械のようにぎこちない動きになった。  
足が縺れる、声が涸れる。  
行かないで、行かないで下さい。  
しかし何故止められよう?  
振り返りもせず真直ぐに駆けて行く先では彼女の愛する夫が待っている。  
夢の中では何度も叫び、手を伸ばしても決して届かない。  
彼女に触れることの出来ない腕が虚しく中を泳ぐ。  
にっこり笑い夫の腕に飛び込む彼女。  
まるで大輪の花が咲いたようだった。  
ベンの事なぞ頭の片鱗にも残っていないようにただ幸せそうに笑っている。  
 
帽子から落ちた花がベンの足許で枯れた。  
 
木からあの人が落ちた時、その時、初めて身体に触れた。  
それから忘れられない。  
 
真夜中過ぎに目を覚ますと先ほどまでの夢が幾度と無く見る夢だと気が付いた。  
もう一度眠れば忘れてしまう、そう言うたぐいの夢だった。  
呑みかけのジンのコップを呷ると引き出しを開けた。  
中にある少し土の着いた手袋をみると彼の咽喉の奥から軽い呻き声のような声が漏れた。  
窓にはいつのまにか幾筋もの水滴が流れていた。  
恋しても恋してもけして叶えられない恋。  
そして越えられぬ身分の違い。  
彼女は世界を全て愛していた、そして屋敷の主人を心から。  
朝になったら手袋は燃やしてしまおう。  
夢を見ると何時もベンはそう思った。  
 
手に入らない花ならば、燃やしてしまえ。  
 
嫉妬、ベンの想いが彼女を殺した。  
少なくとも彼の中では。  
事故の瞬間、後悔より先に彼には安心感を感じた。  
もう人の手の中咲く花は見ない。  
強い酒に咽喉を焼かれたように感じて溜飲を下げた。  
荒地には冷たい雨が降り続いた。  
 
「リリアス!ベン、助けて!早く来てくれ」  
 
クレイヴン氏の叫び声で駆けつけたベンは、額から血を流している夫人を見た。  
ぐったりした体を抱えると、ぐにゃりと垂れ下がった腕から手袋が落ちた。  
屋敷に駆け戻る途中クレイヴン氏は何度も妻の名前を呼んだがベンの腕の中、反応を返す事は無かった。  
むっとする様な血の匂いと混じるように甘い花の匂いが鼻を刺す。  
柔かく肉感的な身体は母親になったばかりの女性の生命の感触だった。  
髪は解け、走るたびにベンの鼻をくすぐる。  
いろいろな物が混ぜこぜになった匂いをを吸い込みクレイヴン氏より速く走る。  
ベンは夫人を夫から奪うような錯覚を覚えた。  
このまま、何処か、何処か、でも一体何処へ?  
屋敷ではクレイヴン医師が来て怪我人の手当てをする。  
血が止まると夫人はただ眠っているように見えた。  
真っ青になって妻のベッドから離れられないクレイヴン氏の方が今にも死にそうに見えた。  
ベンは他の人と共に隣の部屋でまんじりともせず様子を窺っていた。  
もし、もしも……。  
あの女性を奪う事が出来るなら、あの女性が自分にだけ微笑んでくれるなら、  
世界中を敵に回しても主人がどれだけ悲しむ事だって厭わない。  
手に残る夫人の肉体の記憶がベンを狂わせていた。  
……もしも、自分の腕にもう一度抱かれる事がなければ……死んでしまえばいい。  
真夜中過ぎ、皆眠くなる事すら忘れて夫人の安否を気遣っていた。  
病室の隣室のベンは静まり返る屋敷の中、赤ん坊の泣き声を聞いた。  
屋敷の奥深くのその声は不安と寂しさに凍りつくような響きをたてた。  
はっとして室内の者が目を合わせると病室から幽かな話し声が聞こえた。  
「――あな…た――あいしています・・・から―さようなら……」  
ふっとベンの中で何か火が消えたように感じて思わず腰が抜けたようにどさりとソファに腰掛けた。  
看護婦やメドロック夫人が慌てて病室に駆け込むと、夫人は最愛の夫に抱かれたまま息絶えていた。  
彼女は夫を愛してたのに!  
 
朝になると雨は上がり薄っすらと荒地に靄がかかった。  
畑には行かずまっすぐ花園へと足を運ぶ。  
再生した花園はあの時と変わぬ春の訪れと輝きを取り戻していた。  
しかし昔の醜い嫉妬心と苦い後悔とに潰された時間は決して戻らない。  
ふと、人の気配を感じて沈丁花の茂みに近付くとディコンと屋敷のメアリーが居た。  
 
「誰が殺した駒鳥を」  
「わたしがやった、と雀が言った  
 わたしが弓矢で殺したの」  
「誰が見ていた駒鳥を」  
「私が見てたとハエが言った  
 わたしが死ぬのを見届けた」  
「誰がその血を受けたのか」  
「わしが……受けた」  
「おや、ベンおはよう」  
「駒鳥、死んでしまったの。哀しいわ」  
「死んじまった……哀れな、駒鳥の為、鐘が鳴ります  
 空の小鳥は溜息ついて一羽残らずすすり泣く」  
 
2人の子ども達はしょんぼりと小さな駒鳥の為に小さな小さな墓を作った。  
ベンは帽子を取って跪くと頭を垂れた。  
「わたしがやった、わしが弓と矢で……」  
「はい、これ」  
メアリーは沈丁花の枝を切り取ると供えるようにベンに渡した。  
「わしが……」  
崩れるようにベンが言うと2人の子どもは吃驚した。  
あのベンウェザースタッフが人前で泣くなんて。  
「ベン……?」  
 
空の小鳥は一羽残らずすすり泣く。  
 

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