: 160%">
「あら、波多野、私とは勝負してくれないってのに
そんな弱っちい相手とは勝負するわけ?」
もう一人忘れて……るふりをしてた。
音もなく波多野の背後に忍び寄った影。
波多野と向き合っていた俺には
近づいてきたのは丸わかりだったけど。
「安藤、あんたいったい何時から……」
波多野は毎度のことに驚きもせず、やれやれ、と頭を掻く。
そう、それはまさに「毎度のこと」以外の何物でもなかったから。
安藤桃子。略して安桃。
ややキツめの印象を与えるものの、
これが美人でないなら誰が美人なのか、なんて言ったとしても
おそらく過言ではないだろう正統派の美人だ。
彫りが深く整った顔立ち、
悪戯っぽい光を宿す切れ長の瞳、
文句ある?といわんばかりに通ってる鼻筋、
その下にあるちょっと薄めの唇から
線の細いソプラノで
時に挑発的な、時に気怠すぎる言葉を繰り出すのも
妙に官能的ではある。
安桃を語る上では欠かせない
茶色がかった柔らかそうなロングの髪は
(ちなみに地毛だそうだ)
他の誰とも似ていない喋り方とも相まって
何処にいても安桃を一般大衆から際立たせる。
そして、そして何よりも魅惑の数字
『87-56-86』
同性からの羨望を一身に集めるそのプロポーションは
健全な男子生徒にとってはもはや凶器の部類だ。
水着のシーズンは安桃の季節でもある。
そのはち切れんばかりのたわわな胸に
ひときわくびれた腰に
優美な曲線を描く形のいい尻に
肉のつきすぎていないすらりとした脚に
合同授業で、プールに面した窓際で、
前屈みになる男子生徒が続出する。
それでもスクール水着は、まだ良いらしい。
最終兵器(りーさる・うぇぽん)。
白ビキニの安藤
そこには迅速かつ確実な死が約束されている、という。
天国を垣間見た者は語る。
「反則、あれは反則」
「一週間、寝ても覚めてもあいつばかりが浮かんできやがる」
「透けてるよ、浮き出てるよ」
「…天使が安桃の周りを飛んでるのが見えたよ…」
「身体もアソコも硬直しました」
「………あいつ、刺激、強すぎ……」
「あと三秒見ていたら、俺は今頃檻の中にいるだろうよ」
「こうなったら安桃に一生ついていきます」
「裸よりエロい、絶対エロい」
「今日も使わせていただきました」
体験せずにこれらを戯言と言うなかれ。
安藤桃子こそはまさに夏のヒットマン。
彼女の視線が男をとろかせ
ヒトをヒトたらしめるところの理性やら
そういったものをいっしょくたに押し流してしまう。
女の魔性。
男という生物の理性と肉体のバランスの脆さ。
そういったことをリアルに気づかせてくれる存在でもある、安桃は。
何はともあれ、安藤の外見について
文句を付けるなんて、高望みが過ぎるってもんだ。
安藤は勉強もこれまたよく出来る。
いや、「よく」なんてもんじゃない。
学年順位一桁〜女子だけで見れば
いつも一、二番どちらかにいるんじゃないだろうか。
さらにさらに、安藤の家は相当に富裕らしい。
安藤と同じ中学の奴が言ってたのだから
多分間違いないだろう。
勉強もルックスも(異論の余地はあるだろうが)学年女子で一、二を争う上
彼氏がいないこともわかっているのだから
本気になる奴がもう少しばかりいても良いと思うのだが
俺たちの学年では思いのほか安藤に本気になる奴は少ない。
あ、余談だが一昨年の体育祭シーズンは
それなりの数の三年生が一年生の安藤に告白したらしいが
安藤ときたらまったく歯牙にかけなかったらしい。
ま、一部に対してを除いては
最低限の礼儀は一応保っていたようだが。
今年は今年で森下さんも安藤もそんな具合だったから
三年三組は体育祭後に
: 110%">
||
∧||∧
( / ⌒ヽ
| | | ウツダシノウ
∪ / ノ
| ||
∪∪
;
-━━-
という光景が至るところで繰り広げられたらしい。
それを悔しさやさっぱりとした諦めに変えて
未練なく受験に取り組むことが出来る人ばかりだと良いのだが
実際はそうもいかないんだろうな。
まぁ誰かが森下さんや安藤と付き合い始めるより
全員振られた方が、まだ悔しさは沸かない気もするけど。
この辺、微妙だな。
さて、俺たちの学年の男子の殆どが安藤に手を出そうと考えないのは
もしくは手を出すのに二の足を踏む羽目に陥ってるのは
俺が推測するには
見過ごすには若干大きすぎる問題が安藤の存在と性格にあるからだ。
ぶっちゃけて言えば、基本的に安藤は一匹狼なんである。
別に端から見て孤独ってわけじゃない。
お弁当を食べるのが一人とかそういうことはないし
安藤が誰かに爪弾きにされるなんてことはそもそもありえない。
ただ安藤は存在そのものが孤高でありまた単独なのだ。
普通新しく誰かと知り合ったときは
「○○の友達」とか「○○部の人」とか
自分の知る人や何らかのものと従来ある関係を派生させて
新しい人を当てはめる。
しかし安藤はそんな「ごく普通のこと」を許さない。
誰の知人でも友人でもなく、最初からただ「安藤」として認識される。
安藤は一個の確たる存在として世界の最初からいて、
安藤から世界が派生することはあれど
誰か、何かとの関係において安藤が世界に存在してるのではないなんて
こんな妙なことまで思ってしまったりして。
そう、こんなあまりにも当たり前のことを
平気な顔でひっくり返してしまうのが安藤桃子、略して安桃なのだ。
安藤桃子は
何処で買ったのか想像もできない(しかし相当ものは良さそうな)鞄を持ち
俺たちが知るよしもない香りを身にまとい
見たこともないブランドのラケットを使い
誰も知らないような本を読む。
しかもそれがことごとく似合う、というか
俺に言わせれば格好いい。
私服もきっと凄くて
周囲の注目を集めまくってるんだろうけど
制服を着ていたって、安藤は青葉台に染まりきらない。
俺が何を言いたいのかというと、
服や鞄が凄いんじゃなくて安藤が凄いんだ、ってこと。
それはただ美人だからとか颯爽としてるからじゃなくて
安藤がほかの世界を知っているからじゃないかと
俺は思ってる。
だから安藤は一人浮いた存在で
ついでにこの街から出て行かなくてはならない俺も
根っこがなくなってしまったようで
今は何となく、安藤と話すのが以前より楽だったりする。
集に交わってもなお一人それに依拠せずに自分たれる安藤、
普通の人間ならば、
その存在に気圧されるのが自然かもしれない。
だけど今の俺には、世界に自分だけの絶対座標を持っているような
そんな安藤の存在が、立ち居振る舞いが、
この街を好きで、この街から離れることなんて考えもしないだろう
かすみや波多野よりありがたい時がある。
転校を繰り返してきた沢田さんに
安藤と似たものを感じる時もあるんだけど
沢田さんが青葉台をどんどん好きになってくれてるのがわかるから
沢田さんに故郷のようなものが出来るとしたらそれは嬉しいことだから
以前の沢田さんを要求するなんて、それは俺のつまらないエゴだから
俺は沢田さんにはどうも前ほどは気軽には話しかけられなかった。
勿論友達だし、普通に話はするけど、
今は意識してワンテンポ置いている。
初めは波多野も沢田さんも
「あれ、なんか小笠原おとなしいぞ」って顔してたけど
それも段々普通のことになってきたと思う。
俺と安藤が話している時、
たまたま教科書でも借りに来たのだろう三組の奴の視線が
ちくちく刺さって痛いことがある。
注目の理由は、木地本いわく
「安藤とあんなに楽しそうに喋れる男はお前だけ」らしい。
そう、安藤は基本的にすごく喋りにくい奴である。
人の名前はあまり覚えないし
覚えるのは安藤が多少なりとも気に入った相手と
どうしようもなく虫が好かない相手だけ。
更に言えば、どうやら後者の方が圧倒的に多い。
たとえば、同じく1組に来ることの多いかすみである。
安藤は、かすみのことが相当苦手なタイプみたいなんである。
「いつもオドオド、ビクビクしてるところが本当にイヤ」
「弱者気取りのところがイヤ」
「あんなのに掴まったら人としてダメよ」
らしい。
安藤がかすみのことを良く思っていないのは一目でわかる。
言ってしまえば「眼中にない」って態度を崩さないのだ。
かすみもさすがに察してるのか自分から安藤に話を振ることはない。
しかしかすみの幼なじみとして、突然安藤みたいな奴に
そんなことポンポン言われたら頭が真っ白になるし
「おまえ何様?」って反感だって湧くってもんだ。
ま、ムキになって反論とか、いちいちしないけど。
正直安藤相手にそんなことやっても、体力がもたん。
ただ、それを聞いて以来
かすみが俺のクラスにいる時に安藤が来ると
かすみが俺に用があるときは波多野が
かすみが波多野に用があるときは俺が
安藤の相手をすることになった。
今のところこれはこれでうまく回っている。
……だけど、俺が転校してしまったら
いったいどうなってしまうのだろう?
「殆どの奴は眼中にない」
「他者に注がれる視線が冷たい」
そしてもう一つ
「反論できない」
ってのが安藤の話しにくさの正体である。
上を知らなくては、何が下であるか、わからない。
そして、勉強、ルックス、運動能力、センス、財力、その他
安藤は圧倒的なパフォーマンスを発揮して常に高く聳えているものだから
それらについて〜それらを総合した人間というものまでも〜
評価する資格があるのだと思わせられてしまう。
安藤は、また反論できない痛いところばかり突いてくる。
一時期流行った物まね選手権の淡谷のり子のようなものだ。
本当に歌が上手い人だからこそ、他人の歌を評価することが出来る。
そしてその評価には、もはや誰も文句をつけることは出来ない。
淡谷のり子が10点をつけるのなら
こと歌を本物並に歌えるという点では
評価しなくてはならないんだろう、と思うわけで
安藤が評価する、ってこともつまりはそれと同じである。
木地本いわく
「うちのクラスの男たちは最初こそ同じクラスで色めきたったけど
すぐに眼中にないって強制的に理解させられて戦意喪失した」
「まぁ反論しにくいって言われれば、確かにな、って思うよ。
だけどそれ以前に喋ることがないからな……安藤とは」
とのこと。
木地本にしても苦手意識は否めないようだ。
ちなみに安藤の木地本評は
(とりあえず覚えられてはいたらしい)
「暑苦しい」
とのこと。それはあの髪のことなのか性格のことか
俺にはちょっとわからなかったけど。
安藤は、今は一応俺のことを友人として認めてくれているようで
だから何とか話せるのだけれど
それでも安藤と日常会話を成立させることは
独特の緊張感がある。
安藤のキツい物言いを
聞き流す印象を与えないように流し
安藤が言い過ぎだと感じたら
安藤の譲歩できるような方法で反論する。
だけど俺は、その緊張感が決して嫌いじゃなかった。
安藤は、頭の回転が速い。
だから安藤と話してると、
それまでにない自分が引き出される感じがするのだ。
波多野に言わせれば、
「安藤と小笠原がモードに入ったら止められない」
らしい。
神経戦だからな、他の人を巻き込むわけにもいくまい。
……神経戦を伴う安藤との会話に、
波多野とのお喋りとは違った楽しさがあるのもまた事実だ。
それを認めるのはやぶさかではない
とはいえ、安藤と一緒に下校するとしたら
駄目もとで声かけたらなぜか一緒に帰れちゃった三日目ののぞみ並に
家までを長く感じるんじゃなかろうか。
…………っておい、のぞみって誰だよ。
安藤の性格について俺なりにまとめれば
男子一般には非常に微妙な評価が下されている。
というか、正直あまりいい話を聞かない。
「高嶺の花」
とか言って遠くから見ていれば満足な奴もいれば
「お高くとまりやがって」
なんて言う奴だって決して少なくはない。
ひどいものになると
「ああいう女をヒィヒィ言わせて溜飲を下げたいものだ」
とか
「箱がいいから中身はどうでも(・∀・)イイ!!」
とか、青葉台にもやっぱりそういう奴もいるわけで。
そういうこと言ってる奴らの気持ちもわからなくはないんだが
俺から見ると、安藤は猫科というか、
ただ単に凄く気まぐれで、やりたいことしかやらないだけに見える。
というより、俺にはそういう風にしか見えない。
普通なら、「マイペース」という言葉が表すイメージは
「おっとり」とか「のんびり」だが
もしかしたら、他人の言動に左右されないってことでは
あれはあれでマイペース人間の一種なのかもしれないな。
…………相当に変種ではあるが。
「ああいう風に生きてみたいよ」
皮肉だったり愚痴だったり賛嘆だったり羨望だったり
そのシチュエーションや発言者でニュアンスは変わるけれど
安藤のことを語る際のお決まりのフレーズである。
そんな言葉が聞こえてくるたびに
安藤みたいに生きるのは相当楽じゃないぞと
口にこそ出さねど、俺は思う。
皆は、安藤みたいに生きられないんじゃなくて
安藤みたいに生きないことを
それぞれの理由から選択してるんだろうって
そんな風に俺は考えてるから。
安藤がひとたび敗北を喫した時に受ける傷は、
波多野への執着を見る限り、きわめて深いに違いない。
敗北する度に負う傷の大きさ、深さが、俺に
「皆が安藤みたいに生きないことを選択してる」
なんて考えさせしめる大きな理由だ。
人の生き方について色々と言えるほどの人生経験が
俺にあるわけじゃないけど
実際、ほかの奴がこんな生き方をしたら、
身が持たないんじゃないだろうか。
そう感じずにはいられない時もある。
もしかして安藤は、
いや……きっと、多分、間違いなく安藤は、
波多野を追いかけてこの学校に来た。
たった一度の敗北のために。
安藤の成績なら、どこの私立でも楽勝だったろう。
それなのに何故青葉台一本だったのか、
そこに波多野の存在は介在していなかったのか?
小一時間問い詰め……たことはないけれど、
似たようなことは無いわけでもなかった。
あれは一年の晩秋だったろうか
夕暮れも早くなった二階の廊下
図書室帰りの俺は
帰りがけの安藤を見かけた。
ラケットやウェアが入ってるんだろう大きなバッグを持った安藤が
10メートル
鞄の重みで身体をこころもち斜めにしながら
7メートル
練習の後の厳しさを顔に張り付かせて
5メートル
近づいてくる。
3メートル
目があった、
1メートル
そんな気がした。
30センチ
「小笠原、ちょっと時間ある?」
0センチ
上がりかかった俺の足が止まった。
安藤に声をかけられたこと自体が驚きだったけど
それ以上に、人の名前を覚えないことで知られている安藤に
名前を覚えられていたってことに驚いたりしたっけ。
Uターンする安藤と一緒に俺は、どこかぎこちなく廊下を歩いて、
誰もいない安藤の教室に入った。
安藤は窓際に立って
すっかり寂しくなった校庭の、葉の落ちた銀杏の木に視線を投げる。
俺は、知らない誰かの机に寄りかかる。
数秒間の沈黙。
普段なら沈黙とも思わない時間さえ、この時ばかりは重かった。
俺から話しかけようか……でも、何を?
そこで俺の思考はループする。
答えは出ない。
答えなんて、出っこない。
何十周目かのループに入っている時、
不意に投げつけられたのが、冒頭の問いだった。
「ねぇ、小笠原は敗北感って味わったこと、ある?」
そんなこと当たり前じゃないか、と思った、
「何か」基準を置いた時、トップに立ってる人間以外は、
何らかの敗北感を味わうことになる。
よしんば勉強でトップの座を堅持していても
運動、芸術的センス、果てはルックスや人望まで
全ての面で常にトップというわけにはいくまい。
だから
「敗北感を味わったことの無い人間なんて、いるはずないだろ」
って俺は言った。
少しぶっきらぼうな口調になったという自覚があった。
それは明らかに安藤の予測していた範囲の言葉だったようで
安藤は窓の外を見ながら、ゆっくりとかぶりを横に振った。
何か興味が惹かれるものが視界に入ったのだろうか
安藤はさっきまでよりも遠くを見つめ、
それから一つのびをした。
安藤の背中が描いたアーチは、しなやかだった。
吐息。
極限まで引き絞られた弓が放たれるイメージ。
安藤の背中から腕にかけてのテンションが解放される。
安藤がゆっくりと振り返る。
今更ながら安藤をまじまじと見ていたことに気付いて、
俺は何となく目をそらす。
視界の隅でとらえる安藤の表情は、特に変わっていなかった。
美人ではあるが、険のある、人を寄せ付けないいつもの表情。
けれど
「う〜〜ん、そうじゃないんだなぁ」
言葉にこもっていたのは俺の予期していた失望ではなく、
ちょっと困ったようなニュアンス。
俺はそれを意外に思う。
こういう反応をされるとは、思わなかったから。
俺の戸惑いを感じ取ったのだろうだろうか。
安藤は切れ長の瞳を悪戯っぽく輝かせる。
安藤はついっと窓際から離れて、
俺の腰掛けていた机から見て
(桂馬の動き先とでも言えばいいだろうか)
一つ左、二つ前の席に横向きに腰掛ける。
俺と安藤の距離自体はさっきまでと殆ど変わっていない。
さっきまでとの違いといえば、安藤の顔の角度くらいだ。
安藤の頬は夕陽を跳ね返して、オレンジ色をしている。
栗色の髪の毛まで、少しオレンジがかって見えた。
ふぅっ。
一つ、深く息をついて、安藤が話し始める。
俺が今までに聞いたことのない、穏やかな口調で。
「たとえばね、小笠原は世界一のお金持ちじゃないでしょ。
でも、だからと言って小笠原は敗北感を覚えるかしら」
「無意識下では、敗北感覚えてるんじゃないかな」
俺は言ってみた。
「ビル・ゲイツとかポール・アレンとか、
金持ちはひがみの対象として無条件に認められてるみたいだしな」
安藤は、ちょっとだけ笑った。
「うん、そういうところもたしかにあるかもね。
でも、小笠原は、世界一のお金持ちじゃないからといって、
悔し泣きしたこととか、ある?」
「いや、そんなことで泣いてたら、相当変な奴だろ」
「そうよね、そんなことで泣いてたら、相当変な人よね」
最初横向きだった安藤は、次第に俺の方に向き直りながら、
でも視線は合わせないまま
俺の言ったことを、ゆっくり繰り返した。
……やっぱり、美人、だよな。
いつの間にか俺は見とれてた、安藤に。
いつも波多野といがみ合ってる姿ばかり見ていたから
そんなこと思わなかったけど、こいつって……
「ねぇ小笠原、私はね、『そんなこと』じゃ済ませられない敗北感のこと、
そう、人生を変えるくらいの、敗北感の話をしているんだ」
安藤は妙に一語一語、区切るように喋った。
俺は、何も口を挟めなかったから、
こいつがいつになく
〜躊躇いがちに、なんてフレーズさえ浮かぶほど〜
ゆっくり喋るのを黙って聞いていた。
「ね、小笠原は高林にテストで勝てなくて、泣いたりする?」
これがどのくらい真剣な問い掛けだったのか、
俺にはその時にはわからなかったのだが。
「いや……彼奴の頭は特別製の計算機だからな、
ミス無し競争だからテストで勝てる時もあるけれど、
実際はとてもかなわんよ。」
安藤がホッと息をついたのが聞こえる。
いや、耳で聞いたわけじゃない、俺は感じたんだ。
高林勇次。
俺の上にある名前。
顔は知らなくても、別に良いと思ってる。
最初は、漠然と、勝ちたかった。
上にあった名前が一つだけなら、その名前に注目し
その名前より上に自分の名前を置きたいと思うのは自然なことだろう?
実際一学期の期末では俺の方が点数は上だった。
けど、奴の夏休みの宿題とやらを見れば
俺なんかとは頭の出来が違うのは一目瞭然なのだ。
俺だからこそ、余計にわかってしまう。
そこにある差がいかに圧倒的なものなのかを。
高林の宿題とやらを見て以降、もう高林に勝とう、なんて
そんな考えは起こらなかった。
実際二学期一発目の課題テストも
二学期中間も、俺は奴の後塵を拝した。
そこに悔しさは、なかった。
「小笠原……」
安藤は、真顔だった。
「私も。高林や小笠原に試験で勝てなくても、何とも思わない」
そうだ、俺は不思議だったんだ。
波多野への執着を見る限り、安藤は自らの敗北をとことん許さない奴だ。
だから、初めのテストで俺の名前の真下に安藤の名があったときは
何というかもう「しまった」と思った。
これじゃ俺までわけのわからん絡み方をされそうだぞ、って。
でも、実際には、そんなことはなくて……
俺は九割九分は安心、ホッとしたとしか言い様のない心境だったけど
もしかしたら残りの1%かそれより少ないかもしれないが厳然と、
寂しさによく似た気持ちを覚えていたのだった。
「ん……」
何かを言いかけて、安藤の唇が震えた。
安藤に注意が引き戻される。
数秒間、緊張が場を支配した。
安藤が何か言いかけたまま、止めたりするから。
俺は安藤が何を言いたいのかわからなくて
でも、これから先に言うことは、大事なことだという気が強くして。
だから、安藤が口を開くのを、ただ待つ。
安藤が、鋭く、そして苦々しげな視線を俺に向けた。
何でそんな眼で見られなくちゃならないのか、俺はわからない。
……いや、違う。
俺を見ているのではなく、安藤がこれから話そうとするものを、
安藤がその視線の先に感じているのではないか。
だとしたら、それはきっとその視線が表すとおりの苦々しいもので、
どうして赤の他人に近い俺がそれを聞かなくちゃならないのだろうか、なんて
漠然とした不安が俺の胸を掻き回す。
安藤が、大きく、息を、吸った。
「私が、悔しくて泣いたのは、一度だけ」
「知ってる」
間髪入れずに口を挟んだ。
早くこの空気を変えたくて。
このまま、この空気が続いたら、安藤が壊れてしまうような気がして。
「うん、小笠原が知ってるってこと、私は知ってるよ」
安藤の笑いは、弱々しくて。
「だから、こうやって話してるんじゃない」
本人はさもおかしいと笑ったつもりなのだろう。
でも俺には、安藤はむしろ苦しそうにしか見えなくて。
どうしてこんなに苦しそうにしながら、
安藤は俺なんかにこんなことを喋ってるんだろう。
それが俺には見当もつかなくて。
「私ね、あの時、本当に、本当に勝ちたかったんだ。
安藤の
声が
震えてた。
俺は
気づいてないふりを
装った。
「……あの日、パパとママが来てたんだ」
次に安藤が口を開いたのは、
前の言葉を発してから一分半を少し回ったくらい後で、
その声のトーンはもう平静で、先程の感情の高ぶりは、
もうすっかり去っているようだった。
「あの頃、パパとママはお仕事が本当に忙しくて、
私はせいぜい一ヶ月に一回、パパかママのどっちかと
一緒に食事できるかどうか、ってところだった。
あ、今はそんなこと、ないんだけどね」
安藤は、家族が大好きなんだな……。
珍しく照れくさそうな顔を浮かべる安藤を見て、そう思う。
良いことじゃないか。
「それが、大会の日は
午後からだけどパパとママが一緒に見に来てくれるって。」
「忙しい合間をぬって、パパとママが来てくれる。
だから、私は、何としてでも優勝、したかった。」
安藤はその薄い唇を、何かに耐えるかのように曲げた。
「ううん、優勝じゃなくても良かった。
でも、せめて表彰台に昇って、
パパとママに、私もこんなに頑張ってるんだ、って見せて
喜んでほしかった」
安藤は、前年の新人戦で二位。
重いサーブもさることながら、華麗なテクニックは波多野以上だった。
波多野も、あの日、「次は強敵だから」って緊張感露わにして言ってたな。
波多野が勝ったのは、運動量で僅かに勝ったのと、
いちかばちかのヤマカンが当たりまくったからだ。
……それと、もしかしたら俺のエールが届いたのかもしれない。
…………そのことを思い出すと、恥ずかしい。
「それが、初戦で負けるなんて、
パパとママがせっかく来てくれたのに
試合してるところも見せられない、なんて」
安藤の声が、今度は怒りで震えた。
「『そんな時もあるよ』って
パパとママは私を慰めてくれたけど、
でも、私は、やっぱり自分を許せなかった」
安藤が泣きじゃくってたのは、見ていた。
俺は波多野と抱き上げて祝福しながら、
(後で「重かったぞ」って言ったらグーで殴られた)
そんな安藤を痛々しいと思っていたから。
「今でも、あの時私はテニスで勝つためのあらゆる面で、
波多野より上だったと思ってる」
なんでそんなこと、言うんだろう。
「でも、負けた」
瞬間、余計な口を挟んだ、と思う。
「ええ、わかってるわ」
苛立たしげに答える安藤。
沈みかけの夕陽を浴びて赤く染まった顔が怒気をはらむと
俺は嫌でも赤鬼を連想してしまう。
赤鬼が、また一つ息をついた。
「一言で言えばね、わからなくなっちゃったんだ。
頑張ることの意味が。」
安藤が切れなくて、本当に良かったと思う。
今切れられたら、俺じゃ収拾のつけようがないから。
安藤は、ポツポツと喋った。
さっきのこともあって、俺は何も口を挟むことが出来なかった。
「今まで、私は勝つために努力してきた。
努力したら、必ず結果はついてきていた。
結果がついてきたから、私は頑張れたんだと思う」
「波多野は、決して私が負けるような相手じゃなかった。
そりゃ決して弱くはなかったけど、
その時の私からすれば、苦戦するような相手でもなかった」
「原因もわからないまま、私は負けた。
今までで一番不可解な敗北だった。
私だけじゃない。コーチも男子部の生徒も、皆一様に首を捻ってた」
「それでね……」
安藤はそこで、小さく笑った。
「なんか、私、それ以来、いまいち本気で頑張れなくなっちゃった」
安藤は、また「フゥ」と息をついた。
「頑張らなくちゃ、って思う度に、またあんな思いをしたら……って
あの試合のことが浮かんでくるんだ」
安藤は、遠い目をした。
俺は、なんで安藤は俺にこんなこと話すんだろ、って
何度目かの問いを投げながら、黙って話を聞いていた。
「今まで頑張ってこれたのが、逆に、
どうしてあんなに頑張れたのかな、って思うようになっちゃって……」
安藤の苦笑。
普段殆ど見ることの出来ないものを
今日はやけに沢山見せてもらった気がする。
でも正直、もうお腹いっぱいで、胸焼けを起こし始めていた。
だけど安藤が切れたらやばいと思うから
きっと今日の安藤を切らせたら取り返しがつかないと思ったから
俺は黙って、それに耐える。
「多分ね、波多野と戦って勝つこと自体には、意味はないんだ。
なんていうか、けじめなのよ。
もう一度、前を向いて頑張っていくための。」
それで敗北の記憶を本当にすり替えることが出来るのか、俺にはわからない。
でも、安藤の話を聞く限り、安藤が波多野との再戦をこうまで望むのも
わかる気はしてきた。
すり替えられるのなら、それも良いんじゃないか。
そう素直に、思えた。
キーンコーンカーンコーン
最終下校時刻を知らせる鐘が鳴った。
「ハァ……なんでこんなこと、小笠原に話しちゃったんだろ」
安藤は、もういつもの安藤だった。
ともすれば傍若無人、傲岸不遜にも見える安藤。
どこまでも勝ち気に突っ張ってる安藤。
だけど、もう俺は、おまえが本当はどんな奴かわかったからさ。
終わってみれば、貴重な体験だったと思う。
安藤は思ったより、ずっと話せる奴だったし。
途中何度も緊張感に押し潰されそうだったけど、
終わってみればまぁそれはそれ。
「もしかしたら、小笠原は幸せな人間かもね。
そういう悔しさを知らないんだから。」
「なんかそれって、子供だって言われたような気がするな」
「フフッ、そうかもね。」
そういう安藤の笑いこそ、子供めいているじゃないか。
安藤がつい、と立ち上がって鞄を肩に掛ける。
「行くわよ、締め出されたくないでしょ」
「ん、あぁ」
俺は生返事で後に続く。
安藤の家は俺の家とまるっきり逆側だから
俺と安藤は正門を出たら別々の方向に歩くことになる。
別れ際、安藤は
「聞いてくれて、ありがとう」
って言った。
俺は、安藤から聞いた「ありがとう」という言葉に
そんな何げないはずの響きに妙に動揺していた。
何を言えば良いのか、わからなかった。
安藤がニコッと笑う。
「じゃあね」
明るい声。
「じゃあな」
それだけ返すのが、俺には本当にやっとのこと。
安藤がいなくなって、途端に「寒い」と思った。
さっきまでは何ともなかったのに。
振り返る。
安藤の後ろ姿は小さかった。
と、俺が振り向いてから二秒ぐらいして、安藤もこっちを振り返った。
俺は大きく右手を振る。
安藤は、小さく左手を挙げた。
あるいはそれが、決定的な一つの現れだったのかもしれない。
外はもう暗くて
やっぱり空気は冷たかったけど
「これで良かった」という満足感が
俺の身体の中で煌々と灯っていた。
それ以来だろうか、少なくとも俺は安藤を
どうも風評どおりには見られない。
別に惚れたはれた、ってことではないと思う。
ただ、波多野と話している時安藤が不意に話に入ってきても
そのことで居心地の悪さとかを覚えることはなくなった。
そのあたりから次第に、
波多野と安藤の空間での俺の居場所が出来た気がする。
調停者、判事としての立場が。
「わかったわかった、それじゃ5人で行くよ、今日の放課後ね」
波多野の諦めたような声。
ま、5人ならぴったり一レーンで収まるしな。
「波多野、首を洗って待ってなさいよ」
「はいはい」
うんざりしたような波多野の声。
(安藤さん、来るんだ)
中里さんの囁き。
かすみへの態度とは裏腹に、
安藤は中里さんのことは結構気に入っているようで
一度など、何があったか安藤が中里さんに数学を教えていたことがあった。
その教え方の丁寧さと姉が妹を見るような安藤の眼差しに
俺は少なからず驚かされたものだった。
安藤から示される積極的な好意に
中里さんも決して悪い気はしていないようで
波多野があんまり安藤に理不尽な態度をとると
中里さんからも何か言いたげな視線が
控えめながら飛んでくるようになっていたのだった。