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あまりにも穏やかすぎる春の日だった。
気温自体はまだ12度とかそこそこなのだが、
窓で外気と遮断されているために、ガラス越しに降り注ぐ陽の光が暖かすぎる。
窓際前から5列目の俺の席では、授業を受けるのに支障が出るくらいに。
ふぁぁぁっ。
窓の外を見ながらする欠伸は何度目だろうか。
駄目だ。眠すぎる。
二限目にして、俺は今日一日睡魔と戦う覚悟をした。
「というわけで、この公式を応用すると……」
「チャートの○○ページを開いて……」
途切れ途切れに聞こえる先生の説明を
意識がある時だけノートに写す。
頭が重い。
シャーペンを握る腕も重い。
後で見たら、きっと意味不明な図形と判別できない文字の羅列だろうなぁ。
ま、いいや。後でかすみか中里さんに写させてもらおう。
「この単元では、ここがポイントになるからな」
先生の声が右耳から入っては左耳から出ていく。
どうしてこの人はこう淡々としか喋れないかなぁ。
眠気が、止まらないじゃないかぁ。
頭が前後に揺れる。
ガクッガクッとそれこそ振り子のように。
まだこの授業、終わらないのかなぁ……。
時計を見ようと視線を上げる。
でもそれ以上に瞼が重い……。
と、俺の右の脇腹が、つんつんとつつかれる。
「ん、何?」
声の中に潜む眠気をごまかしきれないことを自覚させられながら
俺は寝ぼけた眼を細めて、右斜め後ろの女の子を見やる。
「ずいぶんと眠そうね」
俺をつついた濃いピンクと白のシャーペンを左手で逆さに持ったまま、
日差しが眩しかったのか右手を額にかざすと
手が作った影が彼女の顔を白と黒の二色に分けた。
沢田さんだ。
沢田さんはもうすっかりこのクラスに馴染んだ。
というか、馴染みすぎて今じゃもう一学期の彼女のことなんて
あの白と青の制服のこと以外、殆どの人の記憶に残ってないんじゃないか、なんて思う。
「おはよう、沢田さん」
「うん、おはよう!小笠原君」
返ってきたのは元気のいい、だけど小声の挨拶。
何が面白かったのか、くくっと声を殺しながら、実に楽しそうな顔で笑う。
そんな顔されたら、何だかこっちまで嬉しくなっちゃうよ。
本当に、かたくなに突っ張ってたあの沢田さんは何処に行っちゃったんだろう。
沢田さんはふと真顔になって
「ねぇ、小笠原君。次の次、あなた、当たるわよ」
頭が急激に覚醒する。今やってる問題の次の次か。
俺は授業の最初に開いたページで止まっていた教科書をめくる。
ど、何処だ?
「チャートぉ」
沢田さんの呆れたような小さな声。
俺は、教科書よりも少し使い慣れた、学校推奨の青い参考書を開く。
「287ページ」
あ、ここが今やってるところだな。
ってことは、次の次はこの問題か。
ここ、どうやって解くんだっけ?
前のページの例題を見返す。
あぁ、そっか、あれとあれの組み合わせかぁ。
・
・
・
ふぅ、やっと解けた。
これで何時当ててくれてもいいぜぃっ!!
「それでは、今日はここまで」
先生の声が響く。
はぁっ?
・
・
・
脱力……。
珍しくチャイムが鳴る前に終わらせてくれたのは良いんだが、
正直ちょっと肩すかし食らったかも……。
「さんきゅ、沢田さん」
「どういたしまして。それにしてもどんな生活してるの?
授業中寝ちゃうなんて、相当無理してるんじゃない?」
いや、そんなことしてないんだけどなぁ……。
眠くなることのない人に、授業中眠くなることを説明するのは厄介だ。
沢田さんみたいに好意的に解釈してくれようとする人にほど
適当に誤魔化すと罪悪感が募るし。
「夜更かしして何してるの?少なくとも勉強ではないわよね。」
沢田さんがウ〜ンと首を捻る。
「小笠原君、あんまり生産的なことはしてないっぽいし……」
訂正、沢田さんの解釈はあんまり好意的じゃないみたいだ。
頬をぷうっと膨らませて反論準備ありと意志表示をしてみる。
沢田さんの目元は笑っているから、俺は心地よく会話に身を委ねられる。
本当に他愛もない言葉のやりとり。
数えられないほど過ごしているこんな時間が、
この何気ない日常の一コマこそが、
学校行事や各種イベント以上に、
転校したら懐かしく思うものだという気がしてならなかった。
「楽しそうね、何のお話?」
後ろから俺と沢田さんの会話に割り込む声。
中里さんだ。
たぶん二、三ヶ月前なら、中里さんは自分から
他人の会話に割り込んだりなんて、殆どしなかったと思う。
でも今はきっと、割り込むことにつきまとっているだろう
ちょっとした罪悪感や気恥ずかしさよりも
俺たちの話なら、割り込んでも絶対に受け容れられるっていう安心感と
会話から得られる喜びの方が先に立ってるんじゃないかな、なんて思ったり。
中里さんとは文化祭をきっかけに親しくなった。
それまでは正直、中里さんか里中さんかすらあやふやなくらい
交流のないただのクラスメイトに過ぎなかった。
だけど彼女があんな小さな身体で文化祭実行委員として前に立って、
誰よりも早く学校に来て(きっと誰よりも後まで残って)
倒れるまで仕事をしてたってことには、
何か心揺さぶられるものがあったんだ。
俺もあんな風に何かに一生懸命になれるだろうか。
そんなことを思ったら、自然と彼女のことを手伝っていた。
文化祭が無事終わったとき、中里さんは俺のことをまっすぐ見つめて
「文化祭が成功したのは、あなたのおかげよ」
って言ってくれた。
過分な誉め言葉だと思ったけど、今思い出しても俺はその時、
中里さんの力になれたことがすごく、本当にすごく嬉しかったんだ。
「小笠原君、また寝てたから、どんな生活してるのかな、って」
「小笠原君、また寝てたんだぁ」
驚くようなことなのかなぁ。いつものことじゃないか。
だけど中里さんがその瞳をいっぱいに見開いて驚くさまは
毎度見ていて悪い気はしない。
「これで勉強が出来るってんだからねぇ……」
やってられない、という仕草の沢田さん。
沢田さんって実は結構アクティブな人で
手や身体を頻繁に動かしながら喋る。
まったく、よくあんな風に化けてられたものだと思う。
地の彼女は、クールビューティなんてとんでもない、
茶目っ気たっぷりで、自分で話題を振っては
口八丁手八丁で他の人を巻き込む女の子だったんだ。
「はぁっ、私も佳織ちゃんのノートを借りようかしら」
「いくらでも、どうぞ」
中里さんは、邪気の欠片もないみたいにニコニコしてる。
自分のノートを使って、他人が〜〜たとえ友達にせよ〜〜
自分より良い点取るのって、
俺なら結構複雑なところだと思うのだけど
中里さんは嫉妬とかそういうものを微塵も感じさせない。
そういうのが無い人なんじゃないか、って思う。
世界が中里さんで出来ていたら、戦争なんか起こりっこない、きっと。
こうやって沢田さんと中里さんと三人で話してると……
・
・
・
「よぉ、私も入れてくれよ」
やっぱりな。
こいつが来ない理由を探す方が大変だ。
勿論俺に声をかけてきたのは波多野葵。
中学からの腐れ縁で、俺の幼なじみ、七瀬かすみの親友。
たしか、かすみ経由で知り合ったんだっけかな?
普通、女子はクラスの中で幾つかのグループに分かれるが
うちのクラスの女子があまり明確なグループを形成しないのは
波多野あってのことだろう、と俺は睨んでいる。
誰にでも気軽に声をかける性分だし、
義侠心が強くて人の世話を焼くのが好きな性質(たち)だから
誰かが困った顔を見せようものなら
すぐさま波多野が参上する、ということになる。
そしてすっきりさっぱり、きっかりしゃっきりと問題を解決するのは
そんじょそこらのTVの中のヒーローなんかよりも
よっぽど鮮やかな手並なわけで
そりゃ人望が厚いのもわかろうというものだ。
波多野と俺の関係をあえて一言で言ってみるなら、
ケンカ友達といったところだろうか。
実は付き合いが長いかすみや君子以上に、
思ったことをポンポン言い合えるのが波多野だったりする。
「いやぁ、退屈な授業だったなぁ」
ふぁぁ、と欠伸しながら伸びをする波多野。おおぅ、同志よ。
「あんまりにも眠いからさ、なんか面白いものでもないか、って探してたら
小笠原、大爆睡してただろ。お前の寝顔見てるうちに、
あたしの眠気なんて、吹っ飛んじまったよ。」
「俺の寝顔……!?
お前、前から相当暇人だと思ってたけど、そんなもん面白いのか」
「うん、なかなかラブリーな寝顔だったぞ」
俺のジャブを軽く受け流して
ニヤニヤともヘラヘラともつかない(ニヘラッ、と言うべきか?)
笑いを浮かべると、波多野の眼が、「ヘ」の字になる。
くぅぅっ!おのれぇっ、じゃあ今度はお前の寝顔を拝んでやるぜぃっ、
と俺は心に誓うのだった。
その強烈な敵愾心をおくびにも出さずに、俺はさりげなく話題を変える。
「ところで波多野、お前昨日制服で鉄棒に座ってたろ」
俺はなるべく残酷に見えるように意識した笑みを浮かべる。
「う……それが、どうした?」
俺の表情の変化を読み取って、波多野のトーンが変わる。
「お前は気付かなかったかもしれんが、見えてたぞ」
「う……」
波多野の表情が変わる……
が、それ以上に中里さんの表情が曇ってしまって
俺は自分の浅はかさを呪った。
仕方ない、中途半端だが落ちをつけるか。
「太ももが」
「……はい?」
波多野の声が裏返った。
中里さんの緊張してた表情が弛緩する。
一方で沢田さんは「やれやれ」とでも言いたげな表情を浮かべた。
ま、いつものことだ。
それが「いつものこと」じゃなくなる日が目の前に迫っていても。
「お前って、ほんとにからかいがいがある奴だな」
波多野の髪をくしゃくしゃっと撫でる。
ムッとした顔を俺に向ける波多野だが、
今更こんなことの一つや二つで互いに本気で怒ったりはしない。
これで一勝一敗。
多分波多野も同じことを考えているはずだ。
波多野との付き合いはかれこれ5年近くなるが
こいつの考えることは、最初から何となくわかっていた。
そして、波多野も俺の考えていることをわかってくれてる、
すぐにそのことに気がついた。
波多野のことを一言で表すなら、漢らしい女。
いや、誉めてるんだって。
ボーイッシュとかそういう言葉では外れてるとか言うつもりは毛頭ないが
こいつに関しては一番似合う言葉は「漢」だと思う。
漢なんて言ってるとちょっと誤解を招きそうだが、
俺が波多野のことを女性として見ていない、なんてことはない。
むしろ波多野が女だからこそ俺たちの関係は成り立っている、
少なくとも俺はそんな風に思ってる。
年の近い異性の兄妹が波多野にもいるせいなのか、
なんとなく男と女、それぞれの役割について、
言葉にしにくい部分で相当近いのだ。
だから、波多野と君子が仲が良い、ってのは、
俺からしたらそれはもう必然だ。
その辺、かすみは違う。
元から夢見がちなところがあるかすみだが
男性に対する幻想は、激しいの一言で表される。
言葉にすれば
「優しくて…私をひっぱってくれる人かな」とか
ありふれた言葉になってしまうが、
幼い頃から夢とも妄想ともつかない話を聞かされ続けた俺には
その中身がいかに実現困難な妄想なのか、よくわかる。
かすみの理想の中の男性は、それこそ白馬の王子様なのだ。
もっと周りの男っていう生き物を見た方が良い……と思うのだが
波多野に言わせれば、かすみの男性観自体には
「付ける薬が無い」
そして
「でも大丈夫。お前なら出来る」
らしい。
いや、そうやって周りを自分の夢に巻き込んで生きていく、ってのも
勿論ありなんだろうけどさ、
でも周りの人が「夢につきあってあげる」のだとしたら
俺はそれは違うと思う。
たとえば「同じ夢が見られる」のなら、
一緒にいることも苦痛じゃないだろうけど
「夢につきあってあげているだけ」って意識してしまったら
「なんで俺があいつのために」って思う瞬間が、いつかきっと来る。
俺だってそんなに現実を知っているわけじゃないし
俺に出来ることなんて限られていると思うけど
「夢が叶わない」ことをどの時点で知れば
一番傷は小さく済ませられるのだろうか。
なんてことを考えさせられることも、往々にしてあるのだった。
実際、かすみが誰かと付き合ったらそいつは苦労すると思う。
かすみは粘り強く努力するが、忍耐力があるというより
自分が嫌いじゃないことは飽きないだけだから、
事と次第によっては、かすみは我慢をしない。
妥協出来るところは何処までも妥協するのだが
妥協できないところは欠片ほども妥協しないのがかすみなのだ。
まぁ、かすみがああいう性格だけに
波多野みたいな友人が出来てくれて、俺は少しホッとした。
波多野は手際がいいし、
俺の見たところ相当常識を持ち合わせているから
かすみ一人では危なっかしいところでも
安心して見ていることが出来たのだった。
俺が女性に無意識下で期待してしまう役割を
自然にこなすことが出来るのが波多野であり
波多野が無意識のうちに男性一般に対して持っている期待に
俺の行動はきっとそれなりに合致してるのだろう。
だから、波多野とはウマが合う
違う言葉で表現するなら「もどかしさを感じない」
まぁそれは何事にも手の早い波多野の性格あってのことなのだが……。
それにしても、どうして気の強い女性を鉄火肌、とか言うんだろう。
寿司屋の娘だけに妙にハマりすぎてて、困る。
そうそう、言い忘れていたが
こいつはこいつで今や学年の有名人だったりする。
入学以来波多野は演劇部で花形の男役で
一部で「月組」とか「花組」などと、
別に悪口ともなく言われていたのだが
昨年秋にあった市内の演劇部の大会では
波多野が主役の王女を演じて優秀賞の原動力になった。
その日はこれといった用事もなかったので、
俺もかすみと君子と三人で見に行ったのだが
たしかに波多野はインパクトがあった。
素人の評価だと聞き流してくれればいいんだが
つま先から髪の毛の先まで、一つ一つの動きが制御されていて
なおかつそれが自然だった。
かすみは俺の右側で「葵すごい葵すごい」って言いっぱなしだし
君子は俺の左で「凄いね、びっくりだね」を繰り返す。
俺は俺で、自分が何て言っていたかわからない。
波多野の存在感があまりに凄すぎて、
波多野以外の印象が殆ど残らないのがグランプリを逃した理由だと
俺は今でも思っている。
その時の写真が校内に張り出されたんだが
これがまぁなんとも凄い反響で、その日の休み時間には
他のクラスの男共が来ては波多野を遠巻きにして眺めていた。
一方、うちのクラスの連中は、総じて狐につままれたような顔をしてた。
「青葉台高校の二年に波多野って、一人しかいないよな……」
「どこをどうやればいったい……」
「女って、化けるんだなぁ……」
ぼやくもの多数。
実に、波多野を知る人ほどこの現実は受け入れがたかったようである。
しかし、こんなものはまだ序の口だった。
男子生徒の反応より遙かに凄かったのは、下級生女子だ。
男のそれが驚愕なら、下級生女子のそれは熱狂だった。
「今回は女役だからやっとあいつらから解放されるよ」
なんて言って波多野は事前に笑っていたが、
その見通しはどうやら甘過ぎたようだった。
厄介というか考えてみれば当然というか、
波多野には大きく分けて二種類のファン層がついている。
一方は波多野が女性であることを理解して(当たり前だ)
男の扮装に「理想の男性像」を見いだして興奮するファン、
まぁこれはわからなくはないのだが、もう一種は
頭では波多野を女だと理解していても
(頭では理解してる、とせめて思いたい)
初めて見た時そうだったろう「男」と思いこんで、
女子高生の姿を「世を忍ぶ仮の姿」的に捉えているファンだ。
たとえば、
宝塚は、お約束の世界である。
どんなに格好のいい男役でも、実は女性であることは誰もが知っている。
その上で、観客は男役に恋をする。
それが、ヅカの約束だ。
しかし、頭でいくらわかっていても
どうしても駄目なこと、というのもある。
実際にそこにいるのが女性だとしても
お約束の空間にたしかに存在する「男性」と
激しい恋に落ちてしまった彼女らは
彼らが「男」以外であることを心の何処かで許せていない。
その子たちは「波多野先輩って実は男で、私の王子様で……」
くらいのことを毎日考えてるらしい。
俺の下の代になって、青葉台、レベル下がったのだろうか。
そして、だ。
古代中国のある皇帝は、お付きの女官を男装させて
はべらすのが最高の喜びだったと聞く。
絶対数はそれより少ないと俺は予想するのだが、
美少年を女装させるマニアも同じように存在するのだろう。
波多野の王女姿は、そんなマニアやマニア予備軍の心を
そりゃもう劇的に刺激してしまったらしい。
で、今じゃ波多野が普通に制服着ているだけでも、
彼女たちには「王子様の女子高生制服コスプレ」らしく
黄色い声を伴って上げられる熱は
日を追うごとに果てしなく加速していくのだった。
波多野、責任とってやれよ、な。
いたいけな女子高生の夢を壊すのはいかんぞ。
ポカッ。
おいおい、グーで殴るなよ。
親父にも殴られたことないのに。
「だから甘ったれだと言うんだ」
小声ながらも語気の荒さを隠さない波多野の言葉に
沢田さんが眉をぴくっと動かし
中里さんが俺と波多野をちらちらと見比べる。
やるなぁ。
さすがに男兄弟がいるだけあって、
波多野はカバーしてる領域が広いぜ。
なんだかんだ言って、このクラスで一番親しい友達って
もしかしてこいつじゃないか、と時々思う。
「ところで皆、今日の放課後ボーリングに行かないか?」
波多野がポケットからぴらっと何やらチケットを取り出す。
皆って、中里さんと沢田さんと、か?
う〜〜ん、沢田さんはどうかわからないけど
中里さんはボーリング、あんまり上手くは無さそうな気がする。
「オヤジから招待券もらったんだけど、明後日が期限でさ」
さすが家が自営業だけあって、波多野はいろんなものを手に入れてくる。
親のつてで入手したものをどう使うかというと
「小笠原、二ゲームの合計スコアで、勝負な」
という風に、なんだかんだと
俺もその恩恵の三分の一くらいには預かってるかもしれない。
波多野と俺との対決は、特に球技では分が悪い。
波多野は女にしておくのが勿体なくなるほどのスポーツ万能だが
特に球技はその反射神経と動体視力が最大限に発揮される。
ソフトボールならエースで四番、
サッカーならゲームメイカー兼ストライカー、
(ちなみにPK戦ではキーパー)
バスケならトリプルダブルの常連、
バレー、卓球、何でもござれ。
波多野葵は、そういう星の元に生まれた奴なのだ。
美形の男役ってだけで波多野に参ってる女の子がいるのに、
これにスポーツ万能なんだからもうたまらない。
波多野の犠牲者〜「理想の王子様」像を重ねてる下級生〜は
おかげで増える一方のようだ。
「あたし、少し運動、手抜こうかな」
身体を動かすのと真剣勝負が何より好きな波多野本人から
深刻な顔でそんなこと相談された時は
あんまりにもしおらしかったから
「似合わんこと言うなよ、波多野」と吹き出しちまったのだが、
それを君子に話したら
俺の予想とは裏腹に全然驚いてくれないで
「うん、うちのクラスにも波多野さんのファン、結構いるよぉ」
なんて、軽く言われてしまった。
波多野と君子は親しいから、ファンレターの渡し役をよく頼まれるらしい。
それどころか「波多野先輩を独占しないで!」と
カミソリを送られたこともあるという。
結局その時は波多野が片をつけ、丸く収まったなんて
俺は全然知らなかったぞ。
ま、それを話す時の君子の何とも言えない表情で、
俺は病根の深さを初めて知ったというわけだ。
しかし君子よ、そういう時にはまず兄に言うのだぞ、この兄に。
(波多野には後日きちんと謝っておいた)
波多野に関するもはや伝説化したエピソードは幾つもあるが、
見知らぬ下級生の女の子に「おはようございます」と声をかけられたから
「おはよう」って普通に返したらその子が卒倒しちゃって、
それを波多野が保健室までおぶって運んでいったんだが
保健室で目を覚ましたその子が、
「付き添ってた波多野を見たらまた卒倒した」
ってのは殆ど全盛期のビートルズとか
マイケル・ジャクソンばりのエピソードだと思ったりする。
本人は何も悪いことしてない、ってのに
周りが勝手に事件を起こしてくれるとは、いやはや、有名人は大変だ。
(君子へのカミソリ含め、洒落にならないものも残念ながら幾つかあり
それが波多野にアプローチする人数に影響していると情報通は言う)
さて、そんな波多野だが、格ゲーをやらせれば10戦で7回は俺が勝つ。
ビリヤードも俺に一日の長がある。
球技とゲームの狭間にあるボーリングこそ、俺と波多野の勝負に相応しい。
波多野も、勿論そのことを重々承知の上で
戦いの舞台をセッティングした、と考えてしかるべきだろう。
まぁ……断る理由も、ないよな。
もうじき俺は遠いところに転校するのだから
この勝負が俺と波多野の最後の勝負になるかもしれない。
どちらが勝つか予測がつきそうな勝負でも
俺と波多野は互いに熱くなれたのだが
これが最後かもしれないと思うと
勝敗が読めない種目での勝負こそ望ましかった。
ボーリングは、見事にその要件を満たしている。
「よっしゃ、受けて立つぜ」
波多野がニヤッと笑う。
「お互い、ベストを尽くそうな」
俺は波多野のこういうところが、すごく気に入っていた。