「あ〜、うまいっ! 生き返る〜っ!」  
僕は五杯目のドリンクを飲み干して、辺り憚らず大きな声を出した。  
「森崎くん、ずいぶん飲むのね。もう五杯目よ」  
テーブルの向こうで、桐屋さんが微笑んでいる。ちょっと呆れたような笑顔。  
「それが、何杯飲んでも飲み足りなくて…」  
ちなみに三杯目までは水だったのだが、ファミレスの店員さんがなんだか睨み始めたので、  
これはドリンクバーに切り替えてからの二杯目だ。  
僕は今日、町外れの山並みを上り詰めるスカイライン、通称「日ノ出坂」に、無謀にも自転車でアタックを挑み、  
伴走してくれた彼女、桐屋さんの助けもあって見事登頂に成功したのだった。  
「きっと明日はすごい筋肉痛よ」  
「だろうねぇ」  
「それにしても、よく登り切ったわね」  
「…うん、そうだね…」  
 
自分でも、本当によく登り切ったと思う。その位きつい坂だった。桐屋さんのサポートがなければもちろん  
不可能だったろうが、それ以上に、僕には挫けるわけにいかない理由があった。  
…僕は桐屋さんが好きだ。  
知り合ってから一ヶ月ちょっと。最初のうちは口をきいてもらうのも大変だったけれど、打ち解けてみると  
桐屋さんは柔らかな笑顔がとても可愛い、きれいな女の子だった。  
学校ではなんとなく孤立気味で、他人とあまり接しない桐屋さんの、そんな一面を僕だけが知ってる、  
そう思うともう片時も桐屋さんの事が頭から離れない。  
だけど、凛として孤高で、強そうな桐屋さんに正面から告白するのはなんだかためらわれて…  
そこで僕は、桐屋さんですら手こずる日ノ出坂、あれのアタックに成功したら桐屋さんに想いを告げよう、  
そう決心して迎えたのが今日の日なのだった。  
 
「…ねえ」  
桐屋さんが呼びかける。僕ははっと我に帰る。  
「どうして、登ろうと思ったの?」  
…桐屋さんが好きだから。とは言える筈もなく。  
「うーん…何かが変わる気がして?とか」  
あながち嘘でもない。昇り切れれば、桐屋さんに相応しい相手になれるかも、とはちょっと思ったし。  
「ふうん…、で、どうだった?」  
「何て言うか…、勘違いかも知れないけど、自分は本当は何処にでも行ける、そんな感じがした」  
「あぁ、その気持ち、わかるわ…」  
桐屋さんが笑ってくれる。見ているこっちも嬉しくなる。  
これは何というか、イイ感じってやつだな…そんな事を思っていると、桐屋さんは意外な事を口にした。  
「わたしね、卒業したらヨーロッパへ渡ろうと思ってるの。もちろん自転車で」  
 
「……え?」  
「自転車で、世界中を旅するの。バイトはその資金稼ぎ」  
嬉しそうに話す桐屋さん。たぶん、自分の夢を他人に聞かせるなんて、初めてなんだろう。  
校則を破ってバイトしてるのは知ってた。街で見かけた事があるから。でもまさかそんな理由だなんて。  
「桐屋さん…そんな大きな夢を?」  
「ええ。ワンパターンな毎日や、ちいさな人間関係、そんなのは何もかも捨てて、自由に旅するの。  
 何処にでも行ける、ふふっ、森崎くんの言ったとおり」  
「……すごいね」  
「嬉しいな、森崎くん、解ってくれて」  
それから桐屋さんは夢の事を色々と聞かせてくれた。嬉しそうに。  
幼いころ本で読んだ土地や、写真で見た景色のことを。  
楽しそうに話し続ける桐屋さんとは反対に、僕の心は重く沈んでゆく。  
ようやく追い付けたと思った桐屋さんの背中が、また遠く霞んでゆく…そんな気がしたから。  
僕は桐屋さんの話を、曖昧な笑顔で聞き続けるしかなかった。  
 
夕暮れの自然公園を並んで歩く。  
ファミレスを出た後、散歩がてら少し寄ってみることにした。  
「日ノ出坂を登った後は、よくここに来るのよ」  
「あ、そうなんだ。ちょうど良かったね」  
「森崎くん…、ちょっと暗いわよ。さすがに疲れた?」  
「や…大丈夫」  
僕を見上げる桐屋さんの視線。桐屋さんは背が高いから、それほど見上げる訳ではないけれど。  
学校では伏し目がちだから判り辛いが、見つめられると桐屋さんの瞳はとても大きい。  
黒目がちなその瞳は、まるで吸い込まれるようで…瞳の向こうに、宇宙でも広がっているような感じだった。  
その瞳は、今は夕日の色に染められている。  
「そういえば、登り切ったんだから、ひとつ言うことを聞かなくちゃ…ね?」  
桐屋さんが訊いてくる。可愛らしく首を傾けて、その大きな瞳で僕の目を覗き込んで。  
「ああ…」  
忘れてた、というか気分が沈んで、思いつきもしなかった。桐屋さんの方に向き直る。  
「じゃあ…目を、閉じて」  
「え……?」  
桐屋さんが軽く息を呑んで、頬を染める。しばらく戸惑ったのちに、決心したようにその瞼が閉じられる。  
次に起こる事を待つ、桐屋さんの思い詰めた表情。だけどそれを見れば見るほど、僕の心は  
自虐的な気持ちで一杯になってゆく。桐屋さんに何をしてもらうっていうんだ。  
「はは…、冗談だよ、して欲しいことなんて、ないんだ」  
「え…そ、そうなの…?」  
「うん、今日付き合ってくれただけで、十分感謝してるし。ありがと」  
「ううん…それはいいんだけど、でも、いいの…?」  
「うん…」  
桐屋さんがまた僕を見つめる。でもその瞳には…何だろう、寂しさとか、不安とか、そんな色が見える。  
さっきより、もっと思い詰めた表情。僕はもういたたまれなくなって言った。  
「…帰ろうか」  
何処にでも行ける、そんな気分はもうかけらも見当たらない。  
ぼくはこの地べたから、やっぱり何処にも行けはしない…そんな気持ちだった。  
 
それでも、その日を境に僕らの距離はさらに縮まっていた。  
通学路で、学校の廊下で、屋上で。桐屋さんは僕を見つけると親しげに声をかけてきてくれた。  
僕らのそんな様子を見た連中が、ひそひそとなにか呟いていたりはするけれど、桐屋さんはお構いなしだ。  
僕も桐屋さんを見つける度、なかば必死で声をかけた。  
「桐屋さん、いま、いい?」  
「あ、森崎くん、ええ、もちろん」  
「こないだ初めて知ったんだけどさ…」  
桐屋さんの喜んでくれそうな話題を、僕は懸命に探して会話する。そうしないと、桐屋さんがさらに遠くへ  
行ってしまうように思えたから。まるで話を貢ぐように、僕は話題を探した。  
 
「なあ…誠太郎」  
「な…なんだ、血走った目で」  
「何か…何か、面白いことないか?」  
「面白いこと…、こういうのはどうだ、さっき保健室で、楠瀬が」  
「そんな他人の生理周期なんてどうでもいいよ!僕が言ってんのは、もっと一般的に、女の子が喜ぶ話題!」  
「…お、おう…」  
 
「ね、勇太、ちょっといい?」  
「んだよ…弥子か」  
「弥子かとは何よ、失礼ねー。あのさ、こないだ買ったCDがさ…」  
「あー、もういいもういい。どーせアイドルグループがなんのかんの、そんな話だろ。はいはい用無し」  
「ちょ、ちょーっと!聞いてくれたっていいじゃない!」  
「うるせーな、大体な、お前も水泳部だったら、この夏の水着の流行はね、とか、そういう有益な話題を  
 持って来いってんだ!」  
「はぁ?何言ってんの?このスケベ!」  
 
と、そんな事を公共の場で繰り返していたら、いつの間にか「森崎は何かに飢えている」という噂が立つ始末。  
かまうもんか、桐屋さんは学校では一匹狼だから、噂が耳に入ることはあるまい。  
むしろ狼同士で、おおこりゃ丁度いいや…などとほとんど捨て鉢な気持ちで、僕は話題を漁り続けた。  
 
昼休みは、桐屋さんと安定して過ごせる貴重な時間だ。  
そもそも違うクラスなのだから、いつも一緒にいる訳ではないし、家事やバイトに忙しい僕らは、  
一緒に帰れない事も多かった。  
 
夏休み近いその日も、僕は桐屋さんを昼食に誘いにB組に顔を出した。  
ざわつく教室の中に桐屋さんがひとり、所在なさげに立っているのが見える。  
「桐屋さん」  
呼びかけると桐屋さんは僕に気付いて、ちょっと早足に僕のほうへ寄って来た。  
B組生徒の冷笑じみた視線が集まる。桐屋さんは無頓着だが、僕はまだ慣れない。  
「行こか」  
促して教室を出た。  
 
屋上の手すりにもたれて、簡素な昼食会。  
僕はパンふたつ、桐屋さんはパンひとつとバナナ。それぞれ牛乳。  
「いつも思ってたんだけどさ」  
桐屋さんのメニューを見ながら、僕は素朴な疑問を口にした。  
「お昼、それだけで足りるの?」  
「足りるわよ。食事なんてこんなものでいいの」  
「でもなんていうか…桐屋さんのパワーを支えるには少なすぎるような」  
僕もバナナを常食すれば、キックマシンのパッドを破壊できるようになるだろうか。  
「…それはつまり、森崎くんはわたしを、大喰らいな馬鹿力女のはず、というふうに見てると」  
「ちち違うよ。馬鹿力女なんて、思ってないって」  
「わたし、腕力は意外と無いのよ。普通」  
ちょっと拗ねたように桐屋さんが反論する。頬がほんのり赤い。  
腕力も普通でないだろうことは容易に想像がつくが。桐屋さんの上半身の美しさを見れば。  
「…やっぱり、華奢な女の子が好み?」  
お?何か話が予想もしない方向に転がり始めたような。  
「え?えーと、そんなことない、よ」  
「今ちょっと間があった」  
「や、ホントそんな。ていうか桐屋さんだってそんな、引き締まってるじゃん」  
「…何か微妙な言い回し」  
華奢な女の子、てのが身の周りにいないから、どんな物かピンと来なかっただけなのだが。  
ルリ姉とか弥子とか、そんなんばっかりだし。  
「ふーん…、森崎くんも、細っこい女の子の方がいいんだ」  
本格的に拗ねてしまったような。僕は慌てて弁解する。  
「いや、そんな事を言いたいんじゃなくて、桐屋さん、食べ物に執着なさそうでしょ?だから、  
 朝とか夜とか、ちゃんと食べてるのかなと思って」  
桐屋さんの機嫌を直すのには、昼休み一杯かかった。  
拗ねた桐屋さんは、なんだかとても可愛くて、機嫌をとりながらも、僕は少し幸せな気分だった。  
 
その夜。夕食の片づけを終えてから僕は、ある決意とともにキッチンに立っていた。  
すると後ろで、ルリ姉が脱衣所から出てくる気配がする。風呂から上がって、麦茶でもあさりに来たんだな。  
ちょうどいい。話をつけようと、僕はルリ姉の方をふり返る。  
「あれ?勇太珍しい。明日は昼も弁当?」  
「ちょうどよかったルリ姉。明日の朝弁……わぁっ!!」  
返り見たルリ姉は、見事なパンツ一丁で、腰に手をあててパック牛乳をがぶ飲みしているところだった。  
「ちょ、ちょっとルリ姉!服ぐらい着ろよ!」  
「なーによー、これ、あんたの分だけ?私にも作ってよ」  
そう。僕は明日の昼食の弁当を作ろうと下拵えをしていたのだ。  
ルリ姉が僕の手元を覗き込む。身体を密着させて。ルリ姉の乳房とその先端がたぷたぷと僕の腕に触れる。  
「ちょ、分かった、作るから!服着てよ!恥ずかしくないのかよ!?」  
「やった、ラッキー。愛してるわよー」  
ひらひらと手を振ってルリ姉が脱衣所に戻ってゆく。僕は早くもへたり込みたい気分だった。  
 
再び脱衣所から出てきたルリ姉に、本題を切り出す。  
「ルリ姉…明日の朝弁、サンドイッチでいいよな?」  
「ふぇ?」  
朝弁、とは僕ら姉弟の間の用語で、ルリ姉が部活の朝錬を終えた後、ちょっとつまむための、いわば中間食で、  
これを作るのは僕の日課だった。お握りとかが主だが。  
「えー、やーよー。やっぱり日本人は米が」  
ここで引き下がっては駄目だ。僕は思いっきりルリ姉に顔を突きつけて言った。  
「昼弁作ってやるんだ。サンドイッチでいいよな?」  
「…わ、分かったわよ。それでいいわよ」  
気圧されたようにルリ姉が承諾する。飢えてるってのは本当だったのね…とかぶつくさ言ってるのが気になるが。  
よし。話はついた。僕は弁当(一人分増えたが)と、サンドイッチの下拵えを続けるべく向き直った。が。  
ルリ姉がまた僕の手元を見ながら、ぼそりと呟いた。  
「…ハムカツサンド」  
「へ?」  
「ハムカツサンドが入ってないなら、嫌」  
「何でハムカツ!? ハムサンドでいいだろ!? 大体ハムカツなんてカツサンドの代用食品じゃ」  
「あんたは全ッ然解ってない! ハムカツの魂というものを! そんなんでサンドイッチを作ろうなんて、  
 ちゃんちゃら可笑しいわ!!」  
「言ってる事が全然解んねェぞ!」  
 
…数分後。メニューにハムカツサンドが組み込まれる事が、シャイニングウイザード一発で決まり、  
ルリ姉は意気揚々と自室に引き揚げていった。  
うなだれて僕は、サンドイッチの準備を続行する。…ハムカツサンドかぁ。  
桐屋さんが食べてるとこ、想像できないなぁ…、そもそも揚げ物系、あまり好きそうじゃない。  
そう。  
僕は桐屋さんの明日の昼食として、僕の手作りサンドを食べてもらおうという野望を実行中なのだった。  
自分の弁当も作るのは、桐屋さんの方だけ手作りモノだと、食べて貰えないような気がするから。  
ま、いいや。ハムカツサンドはルリ姉の朝弁の方にだけ入れれば。ハムカツは手作りしなければならないが、  
昼弁に入れる予定だったメンチカツを中止して、ハムカツで統一してしまおう。それがいい。  
ハムカツ問題はそれでけりを付けて、僕は桐屋さん向けのメニュー構想に没頭する。  
…さっぱり系中心に。レタストマトサンド、タマゴサンド…、きゅうりが入った方がいいか?  
それにしても、弁当二つに、サンドイッチ二つか…、明日、一体何時に起きりゃいいんだ?  
卵を茹でたり、ツナ缶を冷やしたりしながら、そんなことを考えた。  
 
眠い。  
しかし走らなければ。桐屋さんが購買へ向かってしまう。  
翌日の昼休み、四限目が終わると僕は教室を飛び出し、桐屋さんの姿を探した。  
幸い下り階段の途中で桐屋さんを見つける。よかった、間に合った。  
「桐屋さん、待った!」  
「?」  
怪訝そうな顔で振り向く。  
「森崎くん…どうしたの?そんな大声で…」  
「はあ、はあ…、購買、ちょっと待って。昼飯作ってきたんだ」  
ぽかんとした表情。何の事を言ってるのか判ってないみたいだ。  
「桐屋さんの分。だから買うのは、飲み物だけでいいよ」  
「え……、え?」  
「さ、行こう」  
まだよく事態を飲み込んでいない桐屋さんを促して、僕は歩き出した。  
 
「さ、どうぞ。美味くなかったらごめん」  
いつもの屋上。桐屋さんは大きな瞳をぱちくりさせながら、受け取ったサンドイッチを見てる。  
「一応桐屋さん向けに、あっさり目のメニューなんだけど…、好物とか、分らなかったから」  
桐屋さんはおずおずと、レタストマトサンドを手に取り、そのきれいな唇に、はむ、と入れた。  
「どう?」  
「…………………ない。」  
「え? ご、ごめん、美味しくない?」  
桐屋さんはふるふると首を振った。  
「なんだか、わたし、立場ない」  
「そんなこと無いでしょ? 気にしないで、食べてよ」  
「…森崎くん、そのお弁当も、手作り…?」  
「え、うん。姉貴のを作るついでに」  
嘘だが。  
「すごいのね………」  
ハムチーズサンドに口をつける桐屋さん。うん、少なくとも不味い訳ではなさそうだ。  
「…どうしてそんなに見つめるの?なんだか食べにくい」  
「あ、ごめん。嫌いなものとかあったら、残して」  
「別にないわ…、森崎くん、コックにでも、なるの?」  
調理師になりたい、となんとなくは思っている。けれど、桐屋さんのとても大きな夢の前では、僕のそんな  
ぼんやりした将来はとてもちっぽけな物に思えて、口にするのがためらわれた。  
「いや…、そういうの、好きなだけで」  
「ふうん…。普通と逆ね。わたしたち」  
ちょっと桐屋さんが自嘲気味だ。僕は努めて明るく言った。  
「じゃ、桐屋さんが僕に弁当を作ってくれる、とか」  
「わたしが、料理できるように見える?」  
「はは…、見えないね」  
二日連続の失言。本気でしょげてしまった桐屋さんを励ますのは、昨日より困難を極めた。  
タマゴサンドとツナサンドは、結局食べてもらえなかった。  
 
さてその夜。  
メンチがハムカツに変わったことについては、スピニングトーホールド六回転程で概ね話がついたので、  
僕は再びサンドイッチのメニュー考案に没頭することにした。  
タマゴとツナが駄目とは…。マヨネーズ系NGってことか?そうすると幅が狭まるな…  
「あんたも良くやるわねー。相手はダレ子ちゃんよ?やっこ?それともあの猫目ちゃん?」  
後ろでファンクス姉がにやにやしながら言っている。  
「違うよ。なんで僕があいつらにそんな事を」  
レタストマトは好評だったみたいだ…、じゃあそれに何かアレンジを加える方向で。  
「はいはい、ご苦労なことで。いっそ調理師にでもなれば?」  
桐屋さんと同じ事を訊いてくる。…あれ?  
「…言ったことなかったっけ?」  
「へ?あ、マジなの?うんにゃ、初耳」  
そうだっけ。まあルリ姉の事だから忘れてるのかも。  
「まあ、まだ父さんに相談とかもしてないけど」  
「父さん、反対なんかしないわよ」  
「そうなの?」  
「そーなの。」  
何を根拠に言ってんのか判らないが、ルリ姉は断定する。  
「…それに、まだ地元にどんな学校があるのか、とかもよく知らないし」  
「別に地元限定でなくてもいいんでない?きっと父さん、県外とかでもいいって言うわよ」  
「それじゃこの家の面倒を誰が見るんだよ。ルリ姉と父さんを置いて行けないよ」  
「はぁ?あんた何言ってんの?」  
予想したとおりの反応が返って来て…だけどルリ姉の表情は、予想とすこし違っていた。  
哀れむような、少し悲しそうな顔でルリ姉は  
「バカね」  
と言った。  
 
翌日からも僕は、桐屋さん好みのサンドイッチを作る為の研究を重ねた。  
大分好みも判ってきた。マヨネーズ系は予想通りNG。例外はポテトサラダサンド。たまねぎ必須。  
タマゴサンドは駄目でも、スライスした卵をレタストマトに挟んだのは好き。ハムもその方が喜ぶ。  
ハムよりは焼いたベーコン。でも一番喜ぶのはスモークサーモン。  
既に材料費はルリ姉の弁当を遥かに上回っているが、気にしない。  
桐屋さんの好みを知ってゆく、というのは何だか野良の仔猫を餌付けしているみたいで、楽しかった。  
 
反面、僕の起床時間は加速度的に早くなっていった。暑さと寝不足が僕の体力をどんどんと奪う。  
終業式間際の僕はもう、自分の弁当を作る気力もなくて、弁当箱いっぱいに炒めた冷凍チャーハンを  
敷き詰めてる有様だった。  
それでもルリ姉の昼弁は作らねばならない…、おまけにハムカツも。  
一学期のラストスパートを、僕は死人のような顔つきで必死になって走っていた。  
 
終業式の朝。  
「…おはよ、誠太郎」  
「ああ、おはよう…って、大丈夫か?顔が土気色だぞ」  
大丈夫な訳ない。今日は半ドンだ。弁当は必要ない筈だ。それなのに今日も部活はあるんだから、とか  
言い出した奴がいて、結局今日も朝昼弁をワンセット作る羽目になったのだ。  
「ちょっと前は飢えてたと思ったら…忙しい奴だな、キミは」  
「…ほっとけ…」  
 
式典はもう、僕にとっては拷問以外の何物でもなかった。  
ようやく解放されて、教室へ戻る人波に揉まれる。…なんだか吐きそう。  
と、人の流れに、全然違う方向から、さりげなく合流しようとする女子に気付いた。桐屋さんだ。  
彼女が来た方向にあるのは保健室。という事は。  
「桐屋さん、どうしたの?」  
ぎくり、と肩をすくめる桐屋さん。僕だと解ると、ほっとしたような顔をする。  
「なんだ、森崎くんか…、ふふ、ちょっと体調が悪くて」  
悪戯っぽい笑顔。  
「またか…」  
「そんなに怒ってないで、ほら、行こう…って、大丈夫?何だか、森崎くんのほうが具合悪そう」  
「だーいじょうぶ…ちょっと夏バテなだけ」  
「もう、だらしないなぁ…、ほら、シャキっとしなさい」  
「うん…そうする」  
「森崎くん、ちゃんと食べてる?たまにはチャーハン以外の物も食べた方がいいわよ?」  
そんな会話をしながら第一校舎に辿り着く。そこにチャイムの音。次のHRの時間だ。  
「あ、始まるわ。じゃ、また後で」  
桐屋さんがB組に駆け込んで行くのを見送る。桐屋さん、走る姿もきれいだなあ…、まるで、天使みたいだ。  
「おい、森崎、どうした?」  
「森崎くん?」  
誠太郎や、周りのクラスメイトの声が遠く聞こえる。それに混じって、桐屋さんが僕に優しく囁きかける。  
「森崎くん…、夏休み中、逢えないなんて…。寂しいわ…」  
うん、そうだね。僕も寂しいよ…って、あれ?桐屋さんは今、教室に入っていって…?  
そこで僕の意識は急速に混濁してゆく。  
「森崎っ!?」  
「森崎くん!?」  
誠太郎や、そばにいた女子(ええと誰だっけ、名前忘れた)の叫ぶ声が遠のいて行って、  
僕が覚えているのはそこまでだった。  
 
目覚めたら夕暮れの保健室だった。  
ベッドに寝かされている自分に気付いて、大体の状況は飲み込めた。  
「すいません…、ご迷惑を」  
保険の先生に声をかける。  
「あら、気付いた?気分はどう?」  
「あ、大丈夫です」  
ベッドから降りて、服を整える。  
「睡眠不足?まあ貧血ね。ちゃんと寝て、ちゃんと食べること」  
「はい、すみませんでした」  
保健室を出ていこうとする。が、先生に呼び止められた。  
「さっき、お姉さんが来てね」  
「え?」  
ルリ姉が?まさか僕を心配して?  
「ええ。心配ないって言ったら、これを」  
先生は申し訳なさそうな顔で、僕に巨大なスポーツバッグを差し出した。森崎るり、とネーム入りの。  
中身は見なくても判る。辞書とか、上履きとか。夏休み中、家に持って帰る荷物達だ。  
「仲のいい姉弟なのね」  
「…美しい表現をありがとうございます」  
泣くもんか。そうさ、僕が寝てたベッドで、桐屋さんも寝てたかも知れないじゃないか。ラッキーってもんだ。  
「他にももう一人様子を見に来た女子がいたけど…ちょっと大丈夫?」  
つーんとする鼻の奥に耐える僕を見て、先生が声をかける。けれど僕はもう、何も聞こえませんモードだった。  
「…失礼します」  
保健室を出る。重い荷物を引きずって。  
 
帰り際、一応駐輪場を覗いてみる。  
けれどもう、当然桐屋さんの自転車はなくて…、僕は今なら呪いで人を殺せると思った。  
二人分の荷物を引きずるように家路を辿る。肩にストラップが食い込む。スーパーにも寄らなきゃ。  
大丈夫さ、桐屋さん。こんなの、日ノ出坂に比べたら、全然目じゃないよ。  
やり遂げても何かが変わる気は全然しないけど。  
そんな風に僕の夏休みはスタートを切った。  
 
夏休みに入って間もない夜。  
その日は日中からもの凄い暑さで、温度計の針は8時を回った今でも30℃を超えてる有様だった。  
夕飯を作るのも大変だ。きのうの残りのおでんを温めてほかに一品、などという僕のプランは、  
部活から帰ってきたルリ姉にあっさりと却下され、僕はそうめんをを茹でる羽目になった。  
 
そうめんは簡単でいいけど、茹でるのが暑いことには変わりない。僕は具を用意する意欲をすっかり失い、  
半ばやけくそに、冷やし終わった麺にみかんの缶詰をぶちまけると、めんつゆといっしょにルリ姉の前にどん!と置いた。  
「…ちょっと、具、これだけ?海老は? きゅうりは?金糸はどこいったの?」  
「…欲しけりゃ自分で用意しろよ。自分は扇風機に当たってテレビ見てただけじゃないか」  
「ほー。客に口答えとはいい度胸ね。調理師志望が聞いてあきれるわ」  
ゆらりとルリ姉が席を立ち、こちらに歩み寄ってくる。ヤバい。そう思ったときにはもうヘッドロックを決められていた。  
「いてて! 何だよ! 大体客ってなんだよ客って! ちょ、ちょっとルリ姉! いててててて!」  
ぎりぎりと締め上げられ、視界に星が飛び始める。もう駄目か、と思ったその時、不意に縛めが解かれた。  
ぺたんと床に座り込んで、荒く息をつく。と、ルリ姉の汗ばんだ匂いが鼻腔に流れ込んできた。  
腋の下にあんなに密着させられたのだから、当然といえば当然だが、濃密なルリ姉の匂いに困惑する。  
今日のルリ姉はもうシャワーを浴びた後だったから、汗臭い、とかそういうのでは無くて、それは純粋にルリ姉の汗の匂い、  
頭を痺れさせる、なんだか甘い、熟れ始めた南国の果物を思わせるような…そんな匂いだった。  
「はー、やめやめ。暑くてあんたの相手なんてしてらんないわ」  
そう言って食事を始めるルリ姉の顔を、なんだかまともに見ることができなかった。  
 
夜中になっても暑さは一向に衰えない。  
横になっても汗が流れ落ちて、シーツがぐっしょりと濡れていく。僕は早々に眠るのをあきらめ、ベッドからはね起きた。  
シャワーでも浴びるか…と思って階下に下り、バスタオルなんかを用意していると、ふと最近、誠太郎や弥子に  
聞かされた話を思い出した。  
夏休みの間は、学校で合宿を行なう部活も多いため、ほとんど毎日夜間でも学校は開放されている。  
合宿中の連中は、夜中に寝苦しいと学校のプールに勝手に入り込んで、涼をとっているという…そんな話だ。  
『先生もほとんど黙認だから…使うのはいいんだけど、市民プールかなんかと勘違いして、大暴れする人もいるみたいで。  
 翌日の練習前、片付けが大変な事もある、って先輩が言ってたよ』  
とこれは弥子の言葉だ。  
もちろんそんな事をするのは殆ど男子。誠太郎にはあまり興味のある話じゃなかったみたいだ。  
…ふむ。「黙認」なんてレベルで管理されているのなら、部活をやってない僕が一人くらい紛れ込んでも、  
先生にはバレないんじゃないかな?  
そう思い始めると、あの冷たい水をたたえた学校の広いプールが、シャワーなんかよりとても魅力的に思える。  
僕は用意したタオルに水着を追加し、手早くまとめると、夜の学校に向けて出かけた。  
 
下弦の月が顔を出し始めた夜空。  
学校へ向かう夜道を歩いている間にも、たらたらと汗が流れてくる。  
通り道のコンビニの灯りを見て、なにか飲み物を買おうかな…いやいやここはぐっと我慢したほうが  
プールに飛び込んだ時の喜びもいや増すってもんだよな…などと店の前で逡巡していると、  
「森崎くん?」  
と、店から出てきた人影に声をかけられた。  
「あ、あれ…桐屋さん。どうしたの?こんな夜更けに…」  
「そっちこそ」  
少し笑いながら聞き返してくる桐屋さんは、いつものレーサーパンツ姿で、手には今買ったらしい  
ミネラルウォーターのペットボトル。見れば店の駐輪場には、彼女の愛車が停めてあった。  
「まさか、今バイト上がり?こんな時間まで…」  
「ううん、そんな訳ないでしょ。とっくに終わったわ」  
「じゃあなんで…?」  
そう訊くと、桐屋さんは少し顔を伏せてしまい、うん…ちょっと、と言葉を濁した。  
そういえば桐屋さん、家族ともしっくりいってない、みたいなこと言ってたっけ。  
これ以上訊いちゃいけない気がして、僕は話を変えた。  
「けっこ久しぶりだよね」  
「そう? まだ終業式以来じゃない…森崎君、買い物?」  
答えてくれた桐屋さんは、まだ沈み気味ながらも、笑顔をみせてくれた。  
その少し痛々しい笑顔に、僕の鼓動がドクン、と跳ねる。あの大きな瞳が、僕を覗き込んでいる。  
深い夜の色に塗り上げられた瞳に、僕が映っている。真夜中に二人で話をしている、という事実が  
僕の混乱に拍車をかけた。なにか、なにか話さなければ。彼女が笑ってくれる、喜んでくれるなにかを。  
「い…いや、プール行こうと思ってさ!学校のプール!暑くて寝れないし。桐屋さんも一緒にどう!?」  
「え……?」  
桐屋さんが怪訝な顔をする。当たり前だ、何言ってんだ僕は、なのに口は勝手に廻り続ける。  
「誠太郎に聞いたんだ。合宿の連中たちとか、勝手に使っていいんだって! 部活やってなくても  
 バレやしないよ! 今日は暑いし、きっと気持ちいいよ!」  
「でも…わたし水着なんて持ってきてないわ」  
「大丈夫! 合宿の連中も服のまんま泳いでるんだから!気にすることないって!」  
何がないってだ、アホか僕は。桐屋さんも心底あきれて……あれ?  
「…そうかな」  
桐屋さんは口元に手を当て、ちょっと目を伏せて考え込んでいる。そのとき僕は電撃的に気付いた。  
授業はサボる。バイトはする。終業式には出ない。桐屋さんって…「ルールを破る背徳感」に  
とっても弱い女の子?  
それならば。僕はここぞとばかり、彼女の心を最も動かしたはずの言葉を、力強く繰り返した。  
「大丈夫、バレやしないって!!」  
「うん…じゃあ、付き合おうか」  
僕は心の中で、この夏最大級のガッツポーズを決めた。  
 
学校への夜道を二人で歩く。  
桐屋さんはMTBを押しながら。まるで一緒に下校するときみたいだ。  
「一緒に帰ったことは何度かあったけどさぁ」  
僕は感想をそのまま口に出した。  
「一緒に学校へ行くの初めてだよね」  
「? ふふ、そうね…しかもこんな夜中に」  
「…でも、大丈夫?良かったの?」  
自分で誘っておきながら、なんて大それた事をしでかしたのかにようやく気付いてきた僕は、そう訊いてみた。  
「…ええ。…今夜はもう、一人でいるの飽きちゃったし」  
伏し目がちにそう言う彼女。僕は顔から火が出そうで、桐屋さんの顔をまともに見ていられない。  
「…ちょっと、なに変な想像してるの?そういう意味じゃないでしょ!?」  
「ご、ごめん…判ってるんだけど」  
もう…と少し呆れた顔をした後で、桐屋さんは僕の方を見て  
「まあ、泳ぐのは好きだしね…」  
と言ってくれた。  
またあの大きな瞳が僕を見つめる。低く赤く輝く月が桐屋さんの瞳に映る。  
吸い込まれてしまいそうな瞳。僕はそれを見ると、また慌てて話題を探しはじめた。  
「夏休み入ってから何してた?」  
「うーん…ずっとバイト、かな」  
想像してたとおりの答えが返ってくる。でも、それはとてもハードな日常だ。学校の方がまだマシなんじゃ。  
「ずっと?休みなしに?」  
「休みはあるわ。休みの日は…爆睡、かな」  
「そりゃそうだよなぁ」  
休みの日に一緒に遊びに行かない?なんてとても言える状況じゃなさそうだ。でも不思議と落胆はしない。  
僕の知ってる桐屋さんなら、そういう夏休みを過ごすだろうな、と自然と納得できたからだ。  
「あなたは何してた?」  
「うーん…掃除と洗濯?あ、あと庭の草とり」  
「休みなしに?」  
「うん。休みなしに。」  
「ふふ、森崎君らしいね…」  
桐屋さんが笑う。あの瞳がやわらかに細まる。ずっと見ていたい。そう願う僕はさらに話題を繋ぐ。  
「ね、僕に会えなくて寂しかった?」  
「はぁ?何を言っているの?」  
「実は寂しくて、毎晩泣いてたりして」  
「はいはい、そういう事にしておいてあげる」  
呆れ顔で笑う彼女。その笑顔を見ることは、心の底から幸せに思える。  
ずっと見ていたい。その為なら、僕はどんな事だってできるのに。  
だけど、僕なんかが桐屋さんの為にしてあげられることは無い。  
それも判ってた。  
 
夜の学校は、思ったよりもしんと静まりかえっていた。  
時計を見れば午前1時。ここにいるのは殆どが日中激烈な練習に打ち込んだ運動部員たちだ。  
みんな泥のように眠っているのだろう。  
修学旅行の夜とか、そんなのを想像していた僕には、校舎は暗く沈んで見えた。  
校庭の隅、木立に沿ってプールを目指す。月が校庭を照らして、真ん中を横切るのはなんだか躊躇する。  
月明かりに浮かび上がるプールは、校庭の端に黒々と横たわっていた。  
「大丈夫かな?」  
桐屋さんが訊いてくる。目指すプールはすぐそこだ。幸い人の気配もしない。  
「大丈夫だと思うよ…どうやら貸し切りみたいだ」  
 
プールは入り口も施錠されていなかった。ひたひたと、プールサイドに上がり込む。遅れて桐屋さんがついてくる。  
プールサイドは無人だったけれど、つい先刻まで誰かが使っていたのだろう。そこかしこが濡れていた。  
「誰もいないわね…」  
「好都合じゃん。さ、泳ごうよ」  
プールサイドの乾いた一画に荷物と脱いだスニーカーを置く。そうしておいてから、僕は一気にTシャツを脱いだ。  
さて、と思って見れば、桐屋さんはなんだか気恥ずかしそうに視線を逸らして俯いている。その時初めて僕は  
上半身だけとはいえ桐屋さんに裸を見られている、ということに気付いて、急に頬が熱くなった。  
ごまかすようにストレッチなどしてみたり。桐屋さんは小走り気味に僕から少し離れて、プールの縁に腰掛け、  
靴を脱いだ白い素足をちゃぽん、と水に漬けた。  
少し気まずい。照れ隠しに飛び込んでしまえ、と今まさに助走をつけようとする僕に桐屋さんは  
「森崎くん、水着、着ないの?」  
と訊いてきた。  
僕はといえばカーゴパンツ姿のままだ。荷物の中に水着はあったが、この上桐屋さんに着替えを見られるのはちょっと。  
「ああ…別にこのままでいいよ。だって桐屋さんもそのまま泳ぐんでしょ?」  
「わたしはここでいいわ…ここで十分涼しいもの」  
え。そんな。…濡れ髪とか、透けブラとかは?  
「だって、着替えもタオルもないのよ。それにこの服じゃ透けちゃうわ」  
間髪入れず桐屋さんが言葉を継ぐ。やばい、顔に出たか?  
「あはは…そう…だよね」  
これ以上食い下がることもできず、僕は独り、月を映す鏡のような水面に飛び込んだ。  
 
プールサイドから見た時は、黒い鏡面に見えた水面も、中に入ってみると意外と明るい。  
青みがかり始めた月の光がプールの底を浮かびあがらせる。斜めに差し込む月光が幾重にも光の筋を作る。  
水面に顔を出す。水滴に霞む視界に、桐屋さんが手を振っているのが見えた。  
そのまま、桐屋さんがいる側の端をクロールでゆっくりと流す。何往復目かの途中で彼女の傍に顔を出した。  
「あなたって、結構泳ぎうまいのね」  
「そうかな?でもタイムは全然なんだけど…桐屋さん、速そうだよね」  
「泳ぐのは好きだけど…タイムとかには興味ないわ」  
僕のすぐ側で桐屋さんの素足が揺れている。濡れたふくらはぎが月光に光って、とてもきれいだった。  
「そうなんだ…、ね、競争しない?一緒に泳ごうよ」  
「わたしはいいわよ…また今度、そのうちね」  
また今度なんて、いつ来るのかも判らない。僕はなおも食い下がってみる。  
「ね、やろうよ。負けた方が言うことをひとつ聞くんだ」  
「もう…この間もそんなこと言って、結局なにもさせなかったじゃない」  
この間のこと。それを思い出して少し胸が詰まる。そう、桐屋さんに何をしてもらうっていうんだ?  
僕は彼女に何もしてあげられないのに。  
「森崎くん?どうし…」  
俯いた僕を桐屋さんが覗き込む。見られたくない。こんな顔は。僕はとっさに桐屋さんの手をとり、  
そのまま水中でプールの側壁を思い切り蹴った。  
「? きゃっ!?」  
派手な水音。気泡で視界が奪われる。勢いで桐屋さんの体が水底近くまで沈む。僕は手を離して、  
桐屋さんから少し距離をとって水面に顔を出した。遅れて桐屋さんも。彼女は頭を振って目にかかる前髪を払う。  
「あは、あはは、あははははは…」  
笑いが込み上げてくる。可笑しいだけじゃなくて、泣き笑いだ。いまの僕には本当にぴったりだ。  
「こらぁっ! やったなぁーーーっ!」  
桐屋さんは僕に騙されたと思ったのか、本気泳ぎで追いかけてくる。僕も逃げる。でも桐屋さんの方が少し速い。  
僕は何度も捉まりそうになった。  
急な方向転換、急な潜水。桐屋さんの手が僕の足に届く寸前になるたび僕はトリッキーな動きを繰り返し、  
桐屋さんから逃れ続けた。  
「もう! 待てぇーーーーーーーっ!」  
後ろから少しはしゃいだ感じの桐屋さんの声。思いっきり泳げば泳ぐほど、反対に気持ちは穏やかになってゆく。  
泣きたい気持ちはいつの間にか消えていた。  
 
どのくらい追いかけっこが続いたのか。ちょっと息も上がってきた。僕はなんとかプールサイドにたどり着き、  
飛びつくように陸に上がった。  
遅れて桐屋さんもたどり着く。そのままプールの縁に頭を預け、俯いたまま荒い息を弾ませていた。  
「はぁ、はぁ…、桐屋さん、やっぱり速いね、さすが」  
まだ水の中にいる桐屋さんに手を貸そうと伸ばした手を、桐屋さんが掴む。そのまま引き上げようと  
力を込める。だけど軽い抵抗の感触があって、桐屋さんは上がってこなかった。  
「はぁ、はぁ…。森崎、くん…」  
俯いた顔から、低い口調。あれ、怒らせちゃったかな…。桐屋さんは荒い息で続ける。  
「森崎くん…、して欲しい事なんてない、て、言った、よね」  
「え?」  
桐屋さんが顔を上げる。  
「わたしは……、あるわ…」  
濡れた前髪の向こう、桐屋さんの瞳が僕を射すくめる。潤んだ瞳。泳いだ後だから…いや、なにか違う。  
夜の闇。銀色の月光。揺れる水面。全てを映して妖しくゆらめく桐屋さんの大きな瞳。全身がぞくりと総毛立つ。  
冷たく、でもなにか艶めいた熱を帯びたその目から、もう視線を逸らすことができなかった。  
「してほしいこと…あるわ…」  
ざぶり、と桐屋さんが水から上がる。思いの他僕の近く、ほとんど密着した位置に。まるで僕にのしかかる様に。  
彼女の髪や顎からしたたる水滴が、僕をまた濡らしてゆく。  
「あなたは不思議なひと…。いつもわたしが本当に欲しいものをくれる。でも…」  
桐屋さんがさらに近づく。四つん這い、獲物に迫る豹のように、しなやかな動きで。僕はもう身動きひとつできない。  
彼女の片手が僕の背中に廻される。濡れた唇が、僕の胸元にやわらかく押し当てられた。  
「いちばん欲しいもの…。まだ貰ってないわ…」  
僕の肌の上で桐屋さんの唇が囁く。その感覚に、思わず声を上げそうになる。  
桐屋さんは唇をゆっくりと、ほんとうにゆっくりと這い下ろしてゆく。時々、舌や歯で僕の身体をくすぐりながら。  
冷たかった唇が、じんわりと熱を帯びてくるのが判る。カルキ臭に混じって、桐屋さんの身体から  
違う匂いが立ち昇る。  
唇の動きと共に、濡れたシャツと下着越しの、柔らかく豊かな桐屋さんの胸が、僕の上を滑ってゆく。  
やがて桐屋さんの唇は僕の上を下り終え、カーゴパンツのボタンの辺りに辿り着いた。  
ぷちん、とボタンを外される。桐屋さんの指が、ジッパーをゆっくり引き下ろしてゆく。  
桐屋さんの指がトランクスをつまみ、既にはち切れんばかりに膨張した僕自身が彼女の眼前に曝された。  
鈴口に光る雫に、ちゅ、と桐屋さんが口をつける。僕の身体がびくん、と跳ねる。  
「じっとしてて…してあげる」  
白く形の良い指が、僕のものを包む。ゆっくりと一度、しごき上げられる。それだけで呻きが洩れる。  
「男の子でしょ…我慢強いとこ、見せてね…」  
桐屋さんは少し首を傾け、僕の茎に甘く歯を立てた。  
この、目の前の女の子は、本当にあの桐屋さんなのだろうか。  
上目遣いに僕を見た瞳は、まるで魔性のものだった。  
 
信じられないものを見ている。  
なかば麻痺した頭で、そんなことを考える。これは…悪い夢だ。  
桐屋さんはうっとりと目を閉じ、その両の手で僕のものを捧げ持つように支え、ゆっくりとしごき立てる。  
時折その唇が、スジやくびれの部分を、ちゅ、ちゅ、と音を立てて、柔らかく…時に強く、吸う。  
その度に、僕の先端から泡立つ淫液が桐屋さんの頬を、唇を汚してゆく。  
やがて桐屋さんの美しい唇から、舌が顔を出し…その舌が僕の肉茎の上を這い回る。  
ほんのりと上気した表情、唾液と淫液の糸を引く桜色の舌…とてもきれいだった。  
「…きもち、いい?」  
「…………うん…」  
「じゃあ…、こんなのは…?」  
ぴちゃり、と音をさせて桐屋さんは僕の先端を自らの舌の上に載せる。そのままゆるゆると口を開けて、  
僕を口腔のなかに埋めてゆく。  
「う……!」  
「ん…んふ……ぅん…」  
僕は思わず呻きを洩らす。桐屋さんの鼻から漏れる呼気が、くぐもった音となって僕の下腹部をくすぐる。  
あたたかく湿った桐屋さんの粘膜が僕を包む。その感触に僕のものがびくびくと跳ねた。  
そんな僕の様子に桐屋さんは目を開けて、妖艶な瞳を僕に向ける。嗤っている、ように、見える。  
ずるり、と引き抜かれる。桐屋さんの唇と僕の先端が糸をひく。  
「まだ駄目よ…もっと我慢して」  
弾んだ息で、桐屋さんは僕に言う。そしてまた僕を口内に納めてゆく。ゆっくりと、桐屋さんの頭が動き始める。  
ざらりとした、熱い舌の感触。ねっとりと絡みつく粘膜。時折、意地悪に立てられる歯。  
だんだんと桐屋さんの動きが速く、リズミカルになってゆく。ちゅぽん、ちゅぽん、と粘膜同士が音を立てる。  
「う…うぁ……ぁああ……」  
「ん…ぅふぅ……ぅん…んん…」  
呻きと吐息が、切迫したものになってゆく。見れば、桐屋さんの片手は、自らの秘部をまさぐっている。  
もう限界だ。僕は桐屋さんの頭に両手を添える。このまま桐屋さんの口中を思うさま犯してしまいたい、  
そんな衝動をかろうじて振り切って、桐屋さんを引き剥がそうとする。  
「桐屋さん…っ、ごめん、もう…!」  
このままでは桐屋さんの喉を汚してしまう。そう思ったのに、桐屋さんは離してくれなかった。空いた方の手を  
僕の腰に廻し、離れるものか、とばかり強く掴む。桐屋さんがひときわ深く僕を呑み込む。  
その瞬間僕は爆発させた。  
「あ、あ、ぁああああああっ…!」  
「………!!」  
桐屋さんの喉の奥深く、ありったけをぶち撒ける。刹那、見開かれた桐屋さんの瞳は、すぐに陶然と閉じられた。  
こくん、こくん、こくん。  
喉の律動が肉茎に伝わる。桐屋さんは可愛らしく鼻を鳴らしながら、すべてを飲み下してゆく。  
僕の脈動が終わってからも、桐屋さんは吸い続ける。貪欲に、体内に残った最後の一滴まで  
奪い取ろうとするように。  
「はぁ…ぁ」  
呆けたような吐息とともに、桐屋さんが僕を解放する。唇から溢れた精液を、桐屋さんの舌が舐め取ってゆく。  
「いっぱい…出たね」  
自らを苛んでいた方の指を、うっとりと口に含みながら、桐屋さんが呟いた。  
 
一度出したのに僕の疼きは収まらない。  
桐屋さんが濡れたシャツを脱ぎ捨てる。白い下着が月光に眩しい。だけど。  
ハーフカップの下着、そこに露わになっている桐屋さんの乳房の上半分。それは下着よりも遥かに  
透き通って白く見えた。  
桐屋さんが両の手をゆっくりと僕の方に伸ばす。その手は僕の首に絡みつくように廻される。そのまま彼女は  
僕を身体ごと引き込むようにプールサイドに横たわった。桐屋さんが僕をじっと見上げる。  
桐屋さんの瞳に下弦の月が映っている。青白い炎がゆらめく様に。目を逸らせない。桐屋さんの唇が囁く。  
「森崎くん…。いいよ。奪って…」  
湿った、吐息のような囁き。僕の中でかちゃり、と何かが外れた。  
「わたしに、疵を、つけて…」  
まるでその言葉を引き金にしたように、僕は、一匹のけものとなって文字通り桐屋さんに襲いかかった。  
 
ブラを乱暴にたくし上げる。外し方くらい知ってる。ルリ姉のを毎日洗濯してるから。だけど今の僕には、  
そんなことも思いつかない。  
「っつっ…あ、や…」  
強引に下着をずらされ、痛みを感じたのか桐屋さんの眉にわずかに苦痛の色が浮かぶ。僕はそんな事  
おかまいなしに、露わになった乳房をわし掴んだ。強く、深く揉みしだいてゆく。  
「あぁあ…、ぃ、いた、あ、うぅん…ふ…」  
桐屋さんが痛みを訴えかける。それより早く僕は、キスで桐屋さんの唇を塞いでしまう。舌を割り入れる。  
鼻を鳴らして、ためらいがちに桐屋さんが舌を絡めてくる。  
桐屋さんの乳房が柔らかく僕の指を呑み込む。かと思えば時折、その最深部にある硬い核がこりこりと  
指に当たる。指の隙間からこぼれた桜色の突起が、硬い尖りとなってゆくのが感じられる。  
僕はキスをやめて、その乳首をまじまじと見つめる。これ以上ない位に隆起した、その蕾の先端に  
水滴が光っている。僕はそれをざらり、と舐めとった。  
「ふぁあ……っ!」  
プールのカルキ臭に混じる、なま物の味。堪らなくなった僕は、夢中で舐め廻す。がきがきと、  
桐屋さんの乳首に歯を立てる。  
「あぁぁ…だめ、かんじゃ…あ、あ、あ」  
歯を、舌を、桐屋さんの肌の至る所に這い廻らせる。胸に、わき腹に、浮き上がる腰骨に。  
僕が吸った所はそのまま、赤い痣となって残った。  
 

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