五時のチャイムに懐かしく街が揺れる。  
待ち合わせの時間から三十分はとうに経っていた。  
 
待ち人は遅れている。  
きっと息せき切って私の前に現れ、しばらくハァハァと肩で息をつきながら謝るんだろう。  
もう……いつもこうなんだから。  
やっぱり私が面倒みてないと、駄目なんじゃない?  
彼女の出がけのドタバタで、私まで試合に遅れそうになったことが思い出される。  
 
家まで……行っちゃおうかな。  
彼女の家はよく知っている。  
ここから一駅行ったところにある可愛い一軒家。  
 
……でも、行き違いになったら困るしね。  
自然とため息が口をつく。  
しっかりものはいつも損をする。  
彼女みたいに、人に迷惑をかけまくって生きていくのも悪くないかもしれない。  
……勿論、私にそんなことが出来るはずはないのだが。  
 
 
「みさきちゃん!」  
「弥生!」  
そしてやっぱり待ち人は息せき切って私の前に現れ、  
しばらくハァハァと肩で息をつきながら  
 
「ほ、本当にごめんね。」  
ペコペコと弥生が頭を下げる。  
呼吸に合わせてせわしなく上下する小さな肩……  
 
訂正、小さいという印象はなぜか受けなかった。  
弥生の頭の高さは私の記憶と違ってはいないのに。  
 
弥生に会うのは何年ぶりだろうか。  
お兄ちゃんがこの町に戻ってしまって、私はお兄ちゃんのいなくなった穴を痛感せざるをえなかった。  
 
家を勘当同然に出ていったお兄ちゃんからは、一回だけ手紙が来た。  
そこでお兄ちゃんは私とお母さんに謝って、  
最後までお兄ちゃんを許さなかったお父さんを気遣って、  
それはもう孝行息子って文面で、  
あいつは大人になったなぁ、ってお父さんを嘆息させ、お母さんの目には涙を浮かべさせた。  
 
お兄ちゃんがいなくなってから、なんだか家が息苦しくなってしまって、  
それでもお通夜みたいな家の中を私一人で盛り上げなくちゃいけないって、  
随分と肩肘張って暮らしてきたけれど、  
こうして家を離れると、どれだけ自分の肩が凝っていたのか哀しいくらいに身に沁みてわかってしまう。  
……それは無邪気な十六年間を過ごしてきたこの街だからより一層、なのかもしれない。  
 
お兄ちゃんの住所は書いてなかったけれど、消印は見慣れたあの町のものだった。  
というより、お兄ちゃんがあの街に帰ることを強硬に主張したことで揉めたんだから、  
あの街以外ありえるわけもない。  
 
夕食はファミレスにした。  
弥生の料理の腕は向上したか、というのも気にならないと言ったら嘘になるけど  
興味本位でわざわざリスクを背負い込むこともないわよね。  
それに、昔家族でよく行ったレストランは、この近くだったから。  
 
此処、こんなに量が多かったかしら?  
弥生も私もそれなりに食べた後、自然と互いの近況を交換していた。  
 
弥生は今、専門学校に通ってるんだそうだ。美容師になりたいらしい。すごく弥生っぽい進路だと思う。  
 
「ねぇ、お兄ちゃんとは週にどのくらい会ってるの?」  
「えっ、やだ、みさきちゃん」  
弥生は驚いて、照れたような、ばつの悪そうな顔をした。  
お兄ちゃんは幸福者だ。弥生の表情を見たら、素直にそう思った。  
 
「みさきちゃん、私、先輩とはね……」  
 
その響きは気恥ずかしいような懐かしさを帯びてた。  
 
「ねぇ、まだあんた、『先輩』なんて呼んでるわけ?」  
 
「…う〜〜ん、なんとなくね…」  
 
弥生が居心地悪そうに小さく笑う。  
はぁ〜、びっくりした。  
 
「ま、まぁ弥生にとってはたしかに先輩に違いないけど…ね。」  
 
ツッコミ役を自認している私としては大変不本意なんだけど  
弥生の困った顔を見てたらフォローを入れてしまった。  
いかんいかん、話題を変えよう。  
 
電車の中で時間潰しに読んでた女性誌の占いを引っぱり出してみる。  
昔、この雑誌の占いが一番当たるんだって弥生は言ってた。  
 
私は魚座の恋愛運が五つ星の日に先輩に告白したんだけど、  
五つ星だろうが何だろうが振られるときは振られるもんだ。  
でも、転校前の最後の恋愛運五つ星の日に告白する、って決めなければ  
告白する勇気なん到底起きなかったかもしれない。  
 
後から思えば先輩はこれ以上無いくらい誠実だった。  
のぞみお姉ちゃんへの先輩の気持ちも痛いほどわかったし  
何より先輩がのぞみお姉ちゃんを大好きな理由が私と一緒だったから  
私は自分が告白しに来たってのに  
「わかりました、のぞみお姉ちゃんと柳沢先輩がうまくいくように応援します」  
なんて大声で言っていた。  
 
その時、「ありがとう」って言ってくれた先輩の微笑みが  
先輩ウォッチャーを自認する私が不覚にも泣き出したくなるほど  
奇跡的に綺麗な、優しい優しい笑顔だったから  
私はもう何も言えなくなってしまって  
ただ「それじゃあ」って言って駆け出した。  
 
信号で立ち止まったら自分が独りだってことが頭の中に轟くように響いて  
あぁ、私、失恋したんだなぁって思えてきて  
そしてまた先輩の綺麗な顔が網膜に浮かんできて  
いつの間にか私は川原でボロボロ泣いてた。  
 
次の私の五つ星の日、  
つまり引っ越しして最初の魚座の恋愛運五つ星の日に、  
初めて柳沢先輩から電話がかかってきた。  
先輩は私の友達たち、テニス部のみんながどれだけ寂しがってるかを話してくれて、  
私はもう先輩にはほんとに頭あがんないなーと思いつつ、  
この人を好きになってよかった、ってまた思ったりもした。  
 
先輩は「みさきちゃんに言うのは変だけどさ」と前置きして  
「俺も結局失恋しちゃったよ」って報告してくれて  
「応援してくれてありがとう、ってそれだけ言いたかった」なんて言ったりしたものだから、  
この人の誠実さは筋金入りだなーと私は呆れている部分もあったけれど  
やっぱりどうしようもなく胸の奥にジンと来てしまって、  
「先輩ならきっといい人が見つかりますよ」なんて  
励ましになってるのかどうかわからない言葉を返したりもしたものだ。  
 
 
こんなことがあったものだから、私にはこの雑誌の弥生お墨付きの占いは、  
今に至るまで少なくとも「気になる」ものではあったのである。  
 
 
「あら、弥生、今日あんた午後は寄り道しない方が良かったんじゃないの?」  
 
弥生はぷっと吹き出して  
 
「みさきちゃん、占いなんて当てにしてるの?そんなの気にしても仕方ないわよ」  
 
今度こそ私は心底驚いて  
 
「えっ、占いを気にしてたのは弥生じゃないの?」  
   
日本語として変かも、って思いながらも口に出してた。  
 
弥生は口元に笑みを浮かべながら、どこか遠いところを見るような目をして  
 
「今じゃ全然よ」  
 
その横顔に夕日が射した。  
 
そう言えば、弥生はコーヒー、ブラックで飲んでるんじゃないだろうか。  
弥生とこうしてコーヒーを飲むことなんてなかったけれど、  
私は弥生は砂糖をたくさん入れて飲むものだとばかり思っていた。  
 
夕日のせいだろうか。なんだか弥生はすごく大人っぽくなった。  
背も少し伸びたようだけど、動作の一つ一つがすごく女っぽい。  
体つきも……あの頃は幼児体型だったのにねぇ。  
相変わらずのカチューシャと髪型だったから、  
弥生は何も変わってないように思ったけれど、よく見れば全然違う。  
 
弥生は今、あの家に住んでないんだと言う。  
少し離れたところで一人暮らししてるらしい。  
せっかくだから、そこまで一緒に歩く。  
今回は弥生の家に泊まるつもりだった。  
「みさきちゃんならうちの母さん大歓迎するわよ」  
なんて言われたし、弥生の可愛いお母さんも大好きなんだけれど、  
弥生のいない弥生の家に泊まるなんてやっぱり出来るもんじゃない。  
 
それに、新しい弥生の部屋にも興味があった。  
ピンクのカーテン、大きな熊のぬいぐるみ、  
この世のありとあらゆる「可愛いもの」の祭典。  
弥生の部屋ならかくあるべき。  
 
というより、それが弥生の部屋なのだ。  
初めて入ったとき、言葉を失いましたわ。  
上から下から壁際、窓際、ずっしり並んだ暖色系の色合い。  
 
その中に鎮座まします唯一の灰色の熊。  
ところどころ禿げた毛が痛々しい。  
彼の名こそクマゴロー。  
数多の茶色や焦げ茶のテディベアとは年期が違う。  
 
「大変なのよみさきちゃん!クマゴローの腕が折れちゃったの」  
あまたあるテディベアの中でも最古参のクマゴローは弥生の最初の親友。  
 
折れた、というより取れてしまった肩を包帯で痛々しくグルグル巻きに固められたクマゴローを  
泣きじゃくる弥生から預かって、針跡が目立たないように縫合してあげたのは  
何を隠そうほかならぬ私だったりして。  
 
そう、クマゴローにも挨拶しておかなくちゃね。  
私の縫った腕は、まだくっついたままでいてくれるだろうか?  
今見たら、あの縫い目はさぞかし稚拙なものだろう。  
 
アパートの二階の一室で弥生が鍵を差し込む。  
流れるような動作でノブを回す。  
扉を開けて一足先に中に入った弥生が電気をつける。  
 
期待は完膚無きまでに打ち砕かれた。  
白と灰色と焦げ茶色を基調とした。シンプルきわまりない部屋。  
 
はぁ…  
この人は果たして、あの弥生なんだろうか。  
 
私の中の弥生は5年も前の姿で止まっているのかもしれない。  
勿論手紙は交わしたし、転校後も軽く二桁は会っている。  
それでも、この一年ちょっとの間、会っていなかったせいだろうか、  
今回はやけに違和感を感じる瞬間が多かった。  
 
それでも、ここにじっと立っていても仕方ない。  
黙って、コートを入り口のハンガーにかける。  
 
「やっぱりまだこの時間は冷えるわよね。お風呂用意してあるんだ」  
弥生は弾むような足取りで近づいてきて、囁くように  
 
「ねぇ、みさきちゃん、一緒にお風呂に入らない?」  
 
「い、良いわよ。一人で入るわ。」  
 
「…そう」  
 
弥生は本当に残念そうな顔をした。それを見るとちくっと胸が痛む。  
 
 
「じゃあみさきちゃん、先入って」  
 
弥生はにっこり微笑んでそう言った。  
 
 
……ほんと、いいお湯だった。  
「橋のない川」くらいの時代ならともかく、  
今時「お風呂用意してある」ってそんなご馳走みたいな物の言い方、  
不思議に思ったけど、たしかにこれはご馳走かも。  
普段何となく入ってるから、お風呂にここまでの力があるとは思わなかったわ。  
あのシンプルな部屋からすれば、滑稽なくらいお風呂にはお金がかかっていて、  
その何かズレてるところが、なんだか弥生らしかった。  
 
 
それにしてもあの弥生がねぇ……。  
気がつけばそればかり考えてる。  
 
一人暮らししてることだってそうだし、  
コーヒーがブラックだったこと、  
星占いを見なくなったこと、  
この部屋……それに、なんだか落ち着いたみたい。  
昔の弥生は駄々っ子みたいにじっとしてられない部分があったのに。  
 
 
まったくあの弥生がねぇ……  
そう!今日の化粧だって、ちゃんとしてたし。  
それに服がピンクじゃなかったこと、  
勿論弥生は年がら年中ピンクばかり着ていたわけじゃないけど、  
こんなシックな弥生は見たこと無かった。  
 
 
ほんとにあの弥生がねぇ……。  
私の知ってる弥生は、素直で、無邪気で、垢抜けなくて、可愛いものが大好きで、  
すぐにあたふたして一人では何もできないでいつも私の後を一生懸命走ってきて…。  
少女趣味だとかお子ちゃまだとか、随分私は言ったものだ。  
だけど今の弥生は胸なんかもそれなりにあって、  
化粧も上手くなって都会的な品の良さまで漂わせて……  
まぁ元から美人になる素質はこれでもか、というくらいあったんだけど。  
はぁ〜、なんだか我が身を省みてしまった。  
 
ひとしきりシャワーを浴びてから、再び極楽気分でお風呂に浸かる私の意識を、  
ガラス戸へのノックが現実に引き戻す。  
 
「みさきちゃん、入るわよ」  
 
なんで?  
私は一人で入る、って言ったのに。  
 
曇りガラスの向こうで弥生が服を脱いでる。  
 
「じゃ、じゃあ私、もう出るから」  
 
「え〜、一緒に入ろうよぉ」  
 
最初からそのつもりだったのかもしれない。  
シャババッと大きな音を立てて立ち上がった私の目の前で扉が開く。  
咄嗟に胸を隠した。  
弥生なのに。私ったら馬鹿みたいだ。  
 
「あ…」  
 
よもや弥生の身体に目を奪われる日が来るなんて、思いもしなかった。  
ふくよかで形の良い胸。きゅっと引きしまったウエスト。細い足首。艶やかな髪。小さな顔。  
7.5等身くらいあるんじゃないだろうか。  
私がこうだったら良いな、と思い描く条件をまさに満たした理想的な身体だった。  
私もそれなりに成長したと思ってたけど、  
悔しいけど女性としての魅力では、今の弥生に勝てているとは思えない。  
 
その身体を隠さずに弥生が一歩、また一歩近づく。  
自分が胸を隠した理由を思い知らされた気がした。  
 
「みさきちゃん、背中流すわよ」  
 
「う…うん」  
 
もうあらがえなかった。あらがわせないだけの貫禄が、今の弥生にはあった。  
 
「あらっ、みさきちゃん、肩凝ってるわねぇ…」  
 
弥生が私の肩に石鹸を泡立てた手でさわさわと触れて  
 
「苦労を一人で抱えこんじゃってるんでしょ」  
 
弥生がフフフッと笑った。  
 
「昔から、みさきちゃんはそうだったもんね……」  
 
弥生の腕が私の首に優しくかかる。  
弥生の額が私の頭にそっと当てられる。  
私は後ろから弥生に抱きしめられるような格好になりながら  
なんだか無性に悲しくなった。  
 
私は、こんな風に抱きしめられたかったのかもしれなかった。  
 
 

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