溜め息が出る。
男であるからにはいちいち気を遣わずにはいられない女子寮での生活。
ここに来てからというもの、何故かどこへ行くにも傍に誰か見知った女子が居て、まるで監視されているようで落ち着かなかった。
だから夕刻、風呂の準備ができたという報告を聞いた時にはすぐに飛びついた。
ごしごしと、女の子の使いそうな甘い香りのシャンプーで頭をかき回し、泡立ってからシャワーを浴びて流す。
体はさっき洗ったから、これで全て終わり。あとは……と、上条は振り返った。
「しっかし、イギリスにこんなでかい風呂なんてあるのかね。何か雰囲気が思いっきり日本なんだけど」
上条が手拭い片手に独り言をこぼす先には、この大浴場の面積の大半を占める巨大な風呂があった。
「ま、こっちとしては願ってもない事だけどな」
そっと足を湯につけてみる。やや熱めだが、疲労を溜めた上条にはその刺激が心地良かった。
腰を下ろし、肩まで湯に浸かる。
「うはぁぁ…………」
カポーン、と誰もいないのにお馴染みの音が反響したような気がした。
手拭いを頭に乗せて目を閉じると、意識しなければそのまま眠ってしまいそうである。それほどの開放感だった。
(ふあぁ……これは、遂に不幸の反対がきましたよ……)
男なら一度は誰もが羨むフラグ体質の少年、上条当麻。
だが、風呂に浸かっただけでここまで至福を味わえる彼の気苦労もどうか察してやってほしい。
「急ぎましょう。男の人はこういうこと大ざっぱなもんですし、早くしないと上がっちまいますよ」
「しょ、正気なのですかシスター・ア二ェーゼ!? あなたは神に非ざる者、それも男子にその……み、見せることになるのですよ!?」
「隣でバスタオルとお着替え抱えていまさらそんなこと言わないでくださいよシスター・ルチぁぐひはッ!?」
「い、一度もう見られてしまいましたし、ですから今更隠す意味なんてないですし、ですから、ですから何を躊躇うことが……ぁぅ」
「そ、そんなの私だって! み、見られたのは私のほうが先だし、私はいつもとうまと同じ……ぉ、同じ石鹸使ってるんだもん!」
「あらあらあら、それにしてもこの顔触れでお揃いというのも久しき事でございますね」
脱力しきった頭で遠くに聞こえる女子の喧騒を右から左に聞き流していた上条当麻は、そういえばここって女子寮なんだよなと改めて認識する。
もちろん内容までは聞こえないが、全て知り合いの誰かの声かということまでは察することができた。
……ん? 女子の声?
(やばっ、長風呂しちまったか!?)
思い立った瞬間、恍惚として呆けていた頭が覚醒する。
(うわ、つい自分家の風呂に入ってる気になってた! 何で気付かなかった、ここ女子寮なんだから風呂1つしかなくて当然だろ!)
今の声は、脱衣所前の戸口で退屈凌ぎに談話している順番待ちの女子たちに違いない。
実際それ程時間は経っていないのだが、大浴場内部では時計までは備えられていないため、上条は一人早合点したまま慌てる。
「と、とりあえずまずは上がって速攻で着替えて脱衣所出たら待っていた皆に謝る!」
早口で自分に言い聞かせるように呟くと、上条は体を浴場の出入り口に向けようとして……。
「とうまー?」
その瞬間、突然聞きなれた白いシスターの声が自分を呼んでいるのが耳に届いた。
幾分大きく聞こえた声に上条は動揺する。
「い、いんでっくす!?」
動揺のあまり思わず口調が幼児になっているが、本人に自覚は無い。
待ちかねてとうとう催促を始めたのだろうか、と上条は想像した。だとすれば、このままでは怒った彼女に噛み付かれる可能性が高い。
「わ、え、えっとあ、ごめん、待たせてすまん!」
飛び跳ねるように湯船から立ち上がると、上条は浴槽の縁に足を乗せて一気に体を湯船から抜き去る。
「すぐ着替えて出て行くか…………らっ?」
このまま駆け足で出入り口に向かおうとした。
しかし、上条は途中でギクリと足を止めた。
擦りガラスの向こうに、人影が見えたからだった。
(……あ、え?)
足音も聞こえるし、幻覚や気のせいではないようだ。
よし、落ち着け。
考えてみよう。ここは女子寮であり、男子として紛れ込んでいる上条当麻はこの中でただ一人の異端であり例外である。
すなわち、ガラスの向こうの脱衣所に居る人影は男ではないことはほぼ確定。そして、脱衣所とは風呂に入るため以外の用途はない。
つまり、あの人影は女子であり、脱衣所に居るってことは今から風呂に入ろうと上着を脱ぎ下も脱ぎ一糸纏わn
そこまで考えて上条の思考が再び冷静さを失った。
(……え、な、何だコレ? っま、まさかのまさかだよな、いやありえないから。それとも、そうか俺が入ってるって知らないんじゃ……」
動揺の末に辿り着いた結論、こうとしか考えられない。さっきの言い訳じみた喋りのおかげで誰か居ることぐらい判るだろうという妥協までできる余裕は無かった。
だったら知らせなければ。かといって扉を開けてはいつか掘ったような掘ってないような墓穴である。
せっかく休むためのお風呂場で、またも体を張って女難を受け止めるような事態はゴメンだ。
「……ちょっ……あ、あのっ……すいませーん、そこに居る人ーっ!?」
声を張り上げる純情ヘタレチキンボーイ、もとい上条当麻。
すると、人影はピタリと動きを止めた。
「……? とうま?」
「……へ?」
たった今疑問系で聞こえた声の持ち主であり、ガラスの向こうに居た人影。それはまたも白い修道女であったようだ。
(何だ、インデックスかー。……って何ほっとしてんの俺ッ!!?)
が、それは上条にとってハイそうですかで片付けられる事態ではない。
自宅の棚の二重底に隠した青ピ発の官能小説、上条の脳内にて既にその前半部分のお風呂場系シチュエーションが生々しく再生され始めていた。
(……え? 嘘? 少なくともインデックスは上条さんがマッパで入浴中って知ってるはずだよね?
まさか意外に大胆? いやちょっとまて仮にも修道女の女の子が俺なんかにそんなことするわけでもやっぱりそうとしか考えr)
混乱がますます加速し始めた。
『こちら脳! 緊急指令!! 妄想が尾ひれを装着して拡大、このままでは封じ込められた本能が顕現してしまう! ただちに抹消せよ!』
『駄目です! この場に在る理性だけではとても止まりません!』
『ええい、事態は緊急を要するのだぞ! 萎える話でも空しい話でもこの脳内から引き出せ! 決して封印を解いてはならんぞぉぉぉぉ!』
……とまあ、脳内の葛藤は眼に浮かぶほどにまでなっていた。
口を引き攣らせて、上条は扉から一歩後ずさりながら、裏返りかけの間抜けな声で問いかける。
「……えーと、いんでっくすサン、だよね? 一体、ここに何を……?」
「??? 何か随分慌てているみたいだったけど、私はお湯加減大丈夫かなって聞きにきただけだよ?」
風呂上りを決行しようとしてから、ここまでのやり取り約一分。
短い時間を濃密にテンパった一人の少年は、ようやく解けた緊張によってヘナヘナと膝から落ちた。
(何だ、そうだったのかー……。いや、決して残念なわけではっ)
僅かな落胆を脳髄の奥に押し入れると、ここにきてようやく一息つくことができた。
「ねえ、熱すぎたりしないよね?」
同居人の少女の声に、やや不安げな色が混じる。
今日一日振り回され疲れ果てていた自分に気付いて、彼女なりに少しでも気遣ってくれているのかもしれない。
……なら、それには答えるべきだろう。無意識に穏やかな微笑が浮かんだ。
「ああ、すっげー気持ち良かったぞ。ありがとうな」
「……!」
扉の向こうでは、何故か声を詰まらせているようだった。
何となく、子供をあやすように語りかけていた気がしないでもないが、上条は気付かなかった。
ガラスの向こうで、少女が頬をほんのり朱に染めていたことも。
「……そっか」
少しの間があって、インデックスはそれだけ言った。
「……じゃあ、大丈夫だよね」
「?」
続いて、理解しがたいことを言った。
ふと気がつくと、ガラスの向こうの人影が増えている。
それも、扉の前に並ぶようにして。
「え?」
ガチャリ、とドアノブの捻られる音。
「え?…………ちょっ、ぇえ゛ええええええええええっ!?」