夏の夕べは日の入りが遅い。  
午後6時過ぎ。  
溶けたガラスのように、真っ赤に焼けた空を映して、海もまた、眩しいくらいに輝いている。  
寄せる波にあわせて、スマートな船体が穏やかに揺れる。  
朱の渚に、白い小船が並んで船体を休ませている様子は、白鳥の群れが静かに一日の終わりを待って  
いるようにも見えた。  
「ヨットハーバーか。こんな所に連中の目があると思うか?」  
「さあね。でも人がみんな帰っちゃった海水浴場をウロウロしてても、しょーがないっしょ」  
Tシャツ短パンの軽装で桟橋を歩く浜面の隣では、水着の上から青のパーカーを引っ掛けた麦野が、  
カコカコとサンダルを鳴らしている。  
時刻の関係か、風はごく微風。  
しかし開けた海辺では、流れを遮るものは無い。  
潮の香りを含んだ穏やかな流れが、額から剥き出しの足首までを、満遍なくさらってゆく。  
日の傾きとともに暑さも退いて、弱い風でも十分に涼しかった。  
「いやぁー、気持ちいいね。やっぱ本物の海は違うわ」  
言って、麦野はぐっと伸びをする。パーカーのビニール地が、ふくよかな膨らみに押し上げられて張  
るのから、浜面は慌てて目を逸らす。  
「プールじゃ味わえないなぁ。どんなにでっかいマンモスサイズでも、潮風とか水平線の眺めなんて  
、再現できないし」  
「外に出るにも、いちいち許可が要るし?」  
「だから有難みも大きくなるってね。ま、嬉しい事じゃないけど」  
飄々と言い放つ麦野の横顔に、ふと、彼女が以前に海を見たのはいつの事だったのだろうかと、浜面  
は思った。  
足の下で、静かにさざ波が揺れる。風の静まる凪の時間、今ばかりは海鳥の声も絶えて、海の輝きだ  
けがただ眩しい。  
周囲で目に付くのは、ヨットマンなのか、日に焼けたドライスーツの人々。そして男女のアベック―  
―今の浜面たちも、彼らの一組に思われているのだろうか。  
なんとなく、今同じ場所にいる彼らが、今日どこからここへ来て、これからどこへいくのか――そん  
な疑問が頭をもたげた。  
マストの林の向こうに視線を転じれば、空と海の境へと消えていく茜雲。  
まるで、世界の壁が大きく広がったようにも思える。空がどこまでも続き、太陽と夜を追って、どこ  
までも旅して行けそうだった。  
(……アホくさ。俺は12のガキか何かか?)  
「遠いね」  
「っ」  
感情の読めない囁きが、浜面の思考をかき乱す。  
振り向けば、麦野もじっと、海の彼方を見つめている。細められた目は、暮れの水平線を映して仄暗  
い。  
「見れないよね。あの街にいたんじゃ」  
「……」  
 
なんと答えるべきか、逡巡する。  
分からない。麦野が今、本当は何を見ているのか。そして、その先に何を望んでいるのか。  
――分からないから、答えようが無い。その事実は、浜面には今更ながら、少しショックだった。  
「訊いていい? レベル0って、どんな気持ち?」  
「な、に?」  
唐突な質問に面食らう。  
意図を計りかねて、浜面の答えはぎこちない。  
「スキルアウトがどんなものかなんて……想像付くだろ?」  
目を逸らす。  
足を止め、ちょうど目の前に泊められていたヨットに、勝手に飛び乗る。  
ゴンッという振動が船体を揺らし、浜面は船板越しに、海を踏みしめた。  
あまり正面に向き合って話したい事ではなかった。  
「最初の学校じゃ、周りから無視された。生徒だけじゃねえ、センコー連中も、まるで空気みたいに  
素通りしていきやがった。朝の挨拶、授業中の指名なんかはもとより、生活指導もだ。課題を提出し  
なくても、怒りもしなけりゃ注意もしねえ。一度頭にきて、校庭で堂々とタバコを吸ってみたら、や  
っぱり何も言われなかった。風紀委員の方が構ってくれた位だ」  
舳先まで歩き、赤黒い海面を覗き込む。  
波間に映る自分の表情は、照り返しでシルエットになり、見えなかった。  
「で、程なく転校だ。『能力、品行、本人の志望等を考慮した結果、最適と判断された環境への移行  
』とかなんとか言ってたが、要は『ウチで飼っておく価値が無いから、とっとと出てけ』ってこった  
」  
ゴトンッと再び振動が走って、浜面の足元が上下に大きく揺れた。麦野もこちらに飛び乗ってきたの  
だろう。  
あえて目を向けず、苦い記憶を喉から吐く。  
「転校した先は、まあ、すぐに辞めた。んで、スキルアウトに入った。おわり」  
「そんなこんなで、はまづらクンの人生は裏街道まっしっぐらってわけ? あんた、案外根性無いね  
」  
どことなくワザとらしい声で、麦野はうそぶく。  
しばし沈黙。  
二人、並んで海を見る。  
高く声を張り上げて、カモメが一羽、頭の上を飛んでいく。ややあって、後に続くように、2,3羽  
が空に飛び出す。  
戻り始めた風に、明るい茶の髪が流れて、浜面の鼻先をかすめた。  
――そのあたりで、浜面は観念した。  
「……分かった。分かったよ」  
「へたれ野郎」  
「ぐっ。……転校先は、まあ、クソみたいなところだった。聞いた話じゃ、下位ランクの学校っつっ  
ても、色々あるらしいが、俺の行った先はどうしようもねぇ吹き溜まりだった」  
「チンピラの集まりとか」  
「俺に言わせりゃ、そっちの方が万倍マシだったな」  
 
そこは低ランクなりに、成果を出そうと、熱心で懸命な教育を行っている学校だった。ある意味では  
学園都市の学校として、模範的な指導方針ではあったろう。  
しかしその専心ぶりは随所に歪んだ形で現れ、それは生徒達にも伝染していた。  
低ランクの学校だけあって、集まってくるのは強度の弱い能力者ばかり。  
元々『出来がよくない』生徒達は、執拗な能力開発にさらされ、多くの者がコンプレックスを醸造さ  
れる。  
その先にあるのは、弱者同士の蹴落としあいだった。  
卑屈な劣等感、その裏返しの優越感。  
それらが評価され、順位付けをされる環境。  
今思えば、どうしようもなく下らない所だったが、あの時、渦中にいた浜面には、そんな環境をどう  
こうする余裕などなかった。  
レベル2の念動力者――ベッドに寝転がったまま、テレビのリモコンを取れる程度の生徒が、やたら  
と幅を利かし、他の学生達が一様に羨望の眼差しで見つめる。  
まるで全国模試の上位入選者でもみるような、尊敬、憧れ、そして嫉妬の入り混じった視線。  
――そしてそれを鷹揚に浴びる、あいつの顔。  
王様みたいに振舞う、その生徒への反抗を見せた日から、無視される日々が再び始まった。  
同じクラスにいたのは、ブックカバー越しに本のタイトルが読めるというレベル1。  
古典マンガの番長みたいにふんぞり返り、レベル0をパシリに使っていた。  
――拒めば、何故かクラス全員が敵意を剥き出しにした。1対38。従わないわけにはいかなかった。  
レベル0どうしでも、1分ほどウンウン唸って本のページ1枚を念力でめくれるヤツと、5分頑張っ  
ても何も起こせないヤツでは、決定的な上下の階級に分けられる。  
――何も起こせなかった浜面は、執拗なイビリに遭った。  
共同体というよりも、1つのシステムという表現が適当だ。何故そうなのかも分からない。誰も満足  
していないのに、誰も良くしようと思わない。ただ、周りがそうだから、皆それに従っているだけ。  
 
転校して1ヶ月経ったある日、例のレベル2が、当時浜面が愛用していたバイクを奪い取り、挙句、  
壊した。  
キれた浜面がバイクのメットで殴り倒すと、ヤツは白目を剥いて昏倒した。自慢の念動力は、どうや  
ら喧嘩に使える程の物でもなかったらしい。  
 
全てがバカバカしくなった浜面は学校を辞め、ほどなくスキルアウトに入った。  
 
「確かに、根性は無かったかもな」  
そう言って、浜面は話をしめくくった。  
「つまんない話」  
「……だわな」  
「バッカみたいだね。学校も、教師も、学生も、ついでにあんたも。――ソイツらみんな、頭が湧い  
てたんじゃない?」  
赤々と燃えていた海は、いつしかくすんだ鏡のように、光を失いかけている。  
黄昏時の影の中で聞く麦野の声は、不思議と透明に響き、感情が掴みづらい。  
「カスみたいな能力を身につけて、それで自分が王様にでもなったみたいに勘違いしてさ。精々が手  
品の種なのにね」  
――以前、あの独立記念日の事件で、浜面は、暴走する麦野と敵対した。  
浜面が暴いた麦野の傲慢。レベル0の下っ端も、レベル4の仲間も、等しく使い捨ての道具だという  
考え方。  
そこに潜む矛盾を指摘された時、彼女は脆かった。  
レベル5を鼻にかけ、傲岸だった麦野。  
その実、本心では彼女は、能力中心の風習に、ずっと違和感を覚えていたのかもしれない。レベル5  
は誰よりも、学園都市の剥き出しの野心と欲望に近い場所に居るのだから。  
「あんたさ、この先どうするつもり?」  
「え?」  
「学園都市には、いつまでも居られるってワケじゃない。卒業生は然るべき手続きの後、外に出てい  
く。まあ、学校辞めてスキルアウトやってた奴に言っても説得力無いけどさ」  
実際、学園都市側でも、全ての人間を管理しているとは言い難い。そんな事なら、そもそもスキルア  
ウト等の犯罪集団は生まれないだろうし、『アイテム』を初めとした秘密組織が必要とされる事もな  
いはずだ。  
「でもこの先ずっと、卒業の歳を過ぎても、『アイテム』の下働きでもやってく気? それとも、ス  
キルアウトに戻るとか?」  
「……考えてねえ」  
お前こそどうなんだよ、と訊こうとして、浜面は言葉を引っ込めた。  
たとえ第四位といえど、麦野はレベル5だ。普通の学生のように、在籍年次が終わったので出て行き  
ます、とは行かないだろう。  
まして『アイテム』なんていう学園都市の暗部に関わる組織にいるのだ。この先、街の外に出る機会  
があるのかどうか。麦野だけではない。フレンダ、絹旗、滝壺も事情は同じだ。  
(……そして俺も、か)  
レベル0の浜面には、サンプルとしての価値は無い。脳を切り刻まれる心配は無いだろうが、電話の  
女のような関係者からすれば、敢えて生かしておく必要もないということになる。  
さすがに、いきなり殺されるとまでは考えにくいが、外に出たいといって、すんなり出してくれる筈  
もないだろう。  
――麦野だって、そんな事が分からない筈がないのに。  
だから浜面は、  
「多分、お前と同じだな」  
そう、なんでもないように答える。  
 
返事は無い。  
 
笑うでもなく、麦野はぼんやりと、水平線を見続ける。  
結局、それっきり、戻るまで会話は無かった。  
 
***  
 
もとが密輸組織なだけあって、アジトの一区画は『地上部分』の続きのように、広い倉庫になってい  
る。  
収められている品は様々だ。大半は学園都市から流されてきた未来の産物だが、それもどういう基準  
で選別したのか分からないような、無秩序な揃えとなっている。  
通路の脇に場を占めた、パイプオルガンのような機械や、車椅子のようなキャスター付きの装置。  
ナノマシンを使った極小工作機械やら、多目的空気分析器やら、まず大学の研究室でしか見られない  
物が、ずらりと並んでいる。  
しかしその一方、明らかに科学とは関係がない、骨董品のようなものや、何故この場に存在するのか  
分からないようなものもあった。  
横長のガラスケースの中に並べられた品々。  
人の顔をデフォルメした石仮面、貴石の鏡、動物の骨で作られた笛。  
一見すると、どこかの博物館から持ち出した盗品かと見間違う。あるいは本当に盗品も紛れているの  
かもしれないが。  
そして、ペットショップに置いてありそうな、長さ1メートル近い、巨大な飼育ケース。  
黒いシェードを貼り付けられ、中は見えなくなっている。  
そのケースの前に、見知った顔を見つけて、彼女は足を止めた。  
「ここにいたか、ケンイチ」  
「…イスカリさん」  
緊張した顔で向きなおる健一は、彼女を見て、唾を飲み込む。  
「恐れているようだな?」  
「まあ、ちっとは」  
強張った健一に対し、彼女は特に優しい言葉をかけるでも、厳しく叱咤するでもなく、淡々とした口  
調で告げる。  
「教えられた技とは、実戦で使ってみてこそ、初めて本当の意味で身に付くもの。お前が自らの力の  
主人になりたいのなら、戦いは避けて通れない」  
「…はい」  
どこか幼さを残した、不安の残る少年の顔に、彼女は正面から目を合わせる。  
「力は求める者にこそ与えられる。お前には力は無かった。だが私は、お前の心を買った。その心は  
力を得るに相応しいと判断したから」  
「はい」  
「証明して見せろ。お前が力を得るに相応しい者だと。疑いようの無い、強者であると」  
「…分かってます」  
 
言うだけ言ってしまうと、彼女はそのまま背を向ける。  
いつもと同じ。いや、今回はまだ言葉が多かった方だ。  
無言で背中を見つめる健一に抗議するように、キィ、とシェードケースから鳴き声が漏れる。  
鳴き声に気を取られ、健一はケースのほうに向き直ろうとした。  
その時だった。  
布に包んだ荷物を落としたような響きが、コンクリートの床を打った。  
飛び上がった健一が振り返った先。立ち去りかけていたイスカリが、床に倒れこむ姿。  
「イスカリさん!」  
駆け寄り、抱き起こした少女の顔は、目がきつく閉じられ、真っ青に歪んでいた。  
手を握り、ぞっとする。  
海の中から引き上げられたかのように、冷たい。  
「イスカリさんっ――薬か!」  
聞かされていた話を早回しに思い返す。たしか、腰の袋――!  
紐でくくられた袋を探ると、すぐに銀色のピルケースが見つかった。  
フィルムを破き、2、3粒取り出すと、急いで口に含ませる。  
ふはっ、と水中から飛び出したように、少女は大きく息をつき、力を抜いて横たわった。  
「だい、じょうぶですか?」  
「――へいき、だ。すまない、な……」  
顔色はまだ青い。  
だが呼吸は落ち着いてきたようだ。じきに血行も回復するだろう。  
安堵した健一は、自分がまだ彼女を抱えていることに気付き、赤面した。  
手を離すべきだろうか、それとも――  
「すまないが、少し支えていてくれ。じきに立ち上がれる」  
「は、はい」  
心臓の音が聞こえそうな緊張。自分の呼吸音が気になって仕方が無い。  
強張った空間に、ぽつりと、ささやきが落ちる。  
「…臆したか?」  
「え?」  
「私にとっての力の代償が、これだ。お前の場合も、決して軽いものではないだろう」  
「……」  
「逃げるなら、今のうちかもしれん」  
「――な!?」  
「私は追わない。お前のボスはどうか知らんが」  
先ほどの言葉を翻すかのような言が、青い息の下から発せられる。  
試しているのか、本気なのか。  
苦痛の余韻が残る顔の中、見上げてくるイスカリの目は――透明だった。  
冷たくも無ければ、温かくも無い。  
迷いに目を伏せて、しかしそれでも、健一は答える。  
「俺は――逃げません」  
「……そうか」  
それだけだった。  
やはり、それ以上の言葉は無い。師である彼女は、健一を誉めた事もなければ、怒った事もなかった  
。  
自分から進んでその世界に触れておきながら、彼には未だに、魔術師という人種がよく分からない。  
――だが、確かな事は、これは間違いなく力だという事。  
そしてイスカリは、自分にそれを与えてくれた恩人であるという事。  
それだけが、今の彼にとっての全てだった。  
キィ、とシェードケースから鳴き声が漏れる。  
握った手に熱が戻るのを、健一はただ待ち続けた。  
 
***  
 

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