『――電子を操作する能力か。確かにユニークだな』
初老の男の声。
最後に聞いたのは、いつだったろう。
今では生きているのかどうかも分からない。まるっきり音沙汰がないからだ。
――せいぜいロクな死に方しなけりゃいいのに。
『物理的には存在しない、曖昧な電子を操る。これは間違いなく、レベル5にふさわしいものですよ』
『だが、つまらん能力だ。単なる破壊にしか使えんのでは』
『技術応用は比較的――』
『能力自体に発展性が無いと言っておるんだ。レールガンが上位なのも頷ける。どんなにユニークな能力だろうと、使い出がないのではな』
男はメガネの奥からこちらを見る。
外れた宝クジでも見るような、心底つまらなそうな顔。
『研究は君らで適当に進めてくれ。私は時折様子を身に来る』
実際にこいつが姿を現すのは、年に数えるほどしかなかった。
『ねえ、 は?』
聞き覚えのある声。
ある筈だ。これは私の声。
『 は、どこに行ったの?』
若い研究員は、私から気まずそうに目を逸らす。
食い下がる私に、女の研究員が横から口を出す。
『 は、実験の事故で怪我をしたのよ』
事故、と聞いて、私の顔は不安に塗りつぶされる。
――滑稽だ。今なら、今だからこそ、本心からそう思える。
『大丈夫。命に別状はないから。でもこことは別の施設に移されたから、会えるかどうか分からないわ』
肩を落としながらも、私は生きてるのなら、と気を持ち直す。
例の『袋』に入れられたのだと知るのは、2年ほど後の事だ。
携帯の着信に、顔を上げる。
大学の図書館。周囲から厳しい視線が飛んでくるが、無視する。
あくびをしながら、携帯を取る。
どうやらいつの間にか、うたた寝をしていたらしい。
相手を確認し、舌打ちしながら出た。
「――もしもし、今日の午前中は電話すんなって言ったと思ったけど」
『っ! 申し訳ありません。緊急の連絡がありまして』
「なに?」
『統括理事会の親船理事が狙われました』
「……へえ」
一通り話を聞いてから、電話を切る。
ついで私は、その場で電話帳を検索する。
もちろん、仲間に連絡するため。
周りの視線は、やっぱり無視だ。
(承前)
――持ち上げたバッグの取っ手が、ギチリと手の平に食い込む。
意外な重さに驚きながら、浜面仕上は左手に下げたバッグに目を落とした。
(まだ、こんなに重いのか)
真っ先に浮かんだのは、そんな感想だった。
動悸を落ち着け、浅く呼気を吐く。
入れ替えに吸い込む空気は何故か、やけに辛く、乾いているように感じられた。
(間抜けな感想だぜ。”こんな風”になっちまったら、重いか軽いかなんて関係ねえのに)
質量の塊を抱えて歩き出し、部屋を出る。
通路を折れて、階段へ。
下りはじめる時に、少しよろける。
危なげにたたらを踏んで、浜面は右手で手すりを掴んだ。
(っと! ……やっぱり、重い)
もう一度、目線を落とす。
ナイロン製の布地の、奥に納められたモノ。
水分を飛ばし、粉末状に分解されてもなお、ソレは重かった。
まるで、ソレが元々は”何”であったのかを、最後まで無言で訴え続けているようだ。
胸の奥に、いがらっぽい感触が生まれてくる。
唾を飲み込もうとして、浜面はただ虚しく、喉を上下させた。
口の中は、完全に干上がっていた。
ビルを出たところで、玄関前の植え込みの縁に腰掛けていた女と、目が合う。
気だるげに足をブラブラさせていた女は、一瞬、浜面と視線を合わせて、「よっ」と軽い調子で声をかけた。
明るいベ−ジュのハーフコートに、少し赤味の濃い茶髪。
自身も髪の色をイジッているくせに、浜面は内心では、髪を染めた女があまり好きではなかった。
なんとなく、スタイルやポリシーというより、単にノリが軽いだけのような気がして、魅力を感じる事が少なかったのだ。
しかし、この女については、ムカつくが認めないわけにはいかない。
身長は自分と同程度。女にしては長身な体には、長い琥珀色の髪はよく似合った。
顔もまた、茶髪によく合う顔、とでも言うべきか。
大きく、くっきりと浮き出た目元に、熱帯の蝶のような、鮮烈に紅い唇。
我が強そうな、派手目の美人顔。
予想を裏切らず、性格も見た目の通りなのは、本人にも周囲にも、きっと不幸な事だったろう。
わざわざ立ち上がるような事もなく、缶ジュースに口を付けながら、女はぞんざいな言葉を吐いた。
「ごくろーさん。終わったんなら、次の仕事頼みたいんだけど」
腹立たしいその物言いにも、今は反発を覚える事はなかった。
「悪りぃ。まだ終わってねえんだ」
「は? 何言ってんの? 終わってないんなら、フラフラとどこへ行こうとしてるのよ」
怪訝な表情を浮かべる女――麦野沈利の顔から目を逸らして、浜面はボソボソと続ける。
「だから、仕事の途中だよ」
「あんたの仕事なんて、スイッチ押して、その後の”残り”をリサイクルボックスに突っ込むだけでしょ。ホントに何言ってるわけ?」
立ち上がって、つかつかと麦野が近づいてくる。
が、浜面が手に提げたバッグに気が付くと、眉をひそめて問いかけてきた。
「浜面、なに、ソレ」
気付くなよ、と心中で一人ごちる。
肝心な時にはこちらを放っておくくせに、構って欲しくない時には、やたらとこの女は絡んでくる気がする。
「……だから、仕事の途中だよ」
どうにもいたたまれない気持ちで、浜面は答えた。
麦野がどんな反応を返してくるか、大方の予想がついていたからだ。
案の定、浜面の返事を数秒かけて飲み込んだ麦野は、はっきりと呆れ返った表情を浮かべて、浜面を切り捨てた。
「どうしようもないバカだね。袋の――ソレの中身については、考えない方がいいって忠告した筈だよ」
「分かってるさ」
浜面自身、空々しいと思える声で、返事を返す。
――ちっとも分かってなんかいない。
そんな事は、自分自身が百も承知だった。
「なら、ソレはさっさとその辺のボックスに捨ててきなよ。まさか犬猫の墓みたいなのを作りに行こうって訳じゃないでしょ」
言って、一歩近づいてくる麦野に、浜面は一歩後ずさる。
ビルの入り口に戻される形になっている事に気付いて、浜面は助けでも求めるみたいに、視線をさ迷わせた。
辺りには、誰の姿も無い。
しかし仮に誰かいたところで、きっと何にもなりはしないだろう。
『アイテム』のメンバーなら、大半の人間は麦野と同じような考えだろうし、たとえそうでない奴でも、麦野には逆らわない。間違ってはいないからだ。
危険任務に携わる組織のリーダーとして、麦野は至極まっとうな事を言っているに過ぎない。
「浜面、この際はっきり言っとくけど、死体は死体だよ。生前は誰だったかなんて、関係ない。もう生きて無いんだからね。言ってしまえば、ただの残骸だよ」
「……分かってる」
以前の生活で、そしてここ2ヶ月ほどの暮らしで、そんな事は十分に教えられた。
――分かったつもりに、なっていた。
だが。
「……別に、いいだろ。手間をかけるのはあんたじゃなくて、俺だ」
「買い物に行きたいから、運転頼みたいの。荷物持ちも。あんたに余計な時間を取られると、遅くなるでしょ」
買い物。運転。荷物持ち――。
耳に流れ込む麦野の言葉を、たどたどしく拾い上げる。
――その程度の。
麦野沈利にとっては、人の死も、その死体の処分も、買い物のアシと同じ程度の事でしかないのだろう。
疲労感に包まれながら、浜面は静かにかぶりを振る。
「そこまでいちいち俺に振るなよ。市電でも使って行ってくれ」
言ってしまってから、怒らせたかと思った。
しかし麦野は怒るでもなく、顔をしかめ、「あっそ」とだけ言って、きびすを返した。
折れたとか、そういう雰囲気ではなかった。
ただ本当に、浜面の相手をするのが、時間の無駄に感じられただけなのだろう。
それならそれで、いい。
麦野が、切れた時に周りに当り散らすような手合いでない事は、不幸中の幸いと言えるかもしれない。
この女の場合は、思い通りに行かない対象には、すぐに見切りをつける。
今は、幸いだ。
冷たく遠ざかっていく背中を見送って――
何故、そんな事を口にしたのか。
「中身、知ってたのか」
振り返った麦野の顔は、部屋の隅にじっとしているクモでも見つけた時みたいに、苦くて、少し殺気だっていた。
「バカだバカだと思ってたけど、日本語が分からないなんてね。頭、絞め直してやろうか?」
低い声音に、フッと、背中に冷や汗が浮かぶ。
白みがかった頭は、しかし勝手に口を動かした。
「……明日のシャケ弁で」
「日替わり幕の内」
ピシャリと、麦野が言い返す。
お前、別に好きじゃなかっただろ、と、上手く回らない頭で、浜面は思った。
しかし取り敢えずは、セーフだったらしい。
しつこいナンパを受けているような表情を浮かべながらも、「顔を知ってた程度」と、麦野は答えた。
「能力も知らない。レベル0か、それとも3か、もしかしたら4だったかも」
言ってから、「死んだら関係ないけどね」とでも言うように、肩をすくめて見せる。
――それで、終わりだった。
話を聞く前と、何も変わらないモヤモヤを抱えたまま、浜面は、「あんがとよ」と言うしかなかった。
結局、分かった事はたったの2つ。
1つは、袋の中身は、本当にどんなヤツだったのか分からないという事。
もう1つは、麦野にとっては、レベル0の無能力だろうが、レベル4の強能力だろうが、死んだら関心の対象ではないと言う事。
いや、もしかしたら生きてようが死んでようが、自分以外の誰かの事など、この女にとっては、等しくどうでもいい事なのかもしれない。
遠ざかっていく麦野の後ろ姿に、浜面は、どうでもよさげに、捨て鉢な言葉を吐いた。
「俺が死んだ時は、誰が処分するんだ?」
麦野の足が、止まる。
振り返る事は無かった。背中から、平坦な声だけが返る。
「知らない。でも、ウチら専属は今んトコあんたしかいないし、補充してる間に腐っちゃうかもしれないね」
生ゴミについて話すような口ぶりに、予想通りと思いながらも、微かに虚脱感が強くなるのを、浜面は自覚した。
所詮、浜面の価値など、そんなものだろう。
「重労働そうだから、”処分”は絹旗に任せるわ。”処理”は私がやってもいいけど」
最後に言ったセリフは、冗談なのか本気なのか、区別が付きかねた。
結局、行って帰ってくる内に、日は暮れた。
第三学区の高層ビル、総合スポーツジム内のプライベートサロン。
指定された『アイテム』のアジトに、浜面は入る。
「遅いよ、浜面」
ソファーから、気だるげな調子で麦野が迎えた。
集まった面子を見て、浜面は怪訝そうに尋ねる。
「フレンダはどうしたんだ?」
「消えた」
麦野はあっさりと答えた。
「死んだか捕まったか。補充している暇はなさそうだし、いずれにしても『アイテム』は三人でやっていくしかないね。ま、数はあいこだし、巻き返すのは難しくないよ」
動揺の陰も感じられない、平然とした声だった。
それだけか、と思った。
――別に浜面も、フレンダと親しかったわけではない。
むしろ浜面は、フレンダが苦手だった。事あるごとに下っ端の自分を見下し、時には露骨に軽蔑を見せる女だった。同じ手合いなら、気取らない性格の麦野の方が、まだやり易かった。
しかし、そうは言っても、だ。
(……仲間なんじゃないのか?)
助けに行こうとか、無事を祈ろうなんてガラの組織じゃないのは分かっている。
浜面が麦野の立場でも、きっと同じように振舞っただろう。
しかし、今度のヤツは、新人の下っ端レベル0とはわけが違う。
強能力者で、同じチームの仲間で、何度も一緒に任務をこなしてきたヤツだった筈だ。
もっと、違う反応があってもいいんじゃないのか。
――内心を隠し、努めて冷静な声を出して、浜面は訊く。
「これからどうするんだ。『ピンセット』は『スクール』の奴らに奪われちまったんだろ」
「そだね。だから、こっからはウチらの反撃。滝壺の能力でヤツラを捜して、こっちから奇襲をかける
」
軽い調子で言いながらも、確定事項として、有無を言わせない言葉を麦野は使う。
滝壺の能力。
確か以前聞いた。能力者をサーチするとかいう話だったか。
そんな力を使えば、確かにこっちから奇襲をかけるのも容易いかもしれない。
しかし。
「今のままで、勝てるのか?」
「あん?」
「確か、向こうにもお前と同格のヤツがいるとか」
「『未元物質(ダークマター)』の事ですか」
脇から、小学生にしか見えない小柄な女――絹旗が口を挟む。
さらに連鎖するように、問題の追跡能力の使い手という、滝壺理后も、
寝ぼけたような口調で話に入る。
「――同格という表現は不正確。『未元物質』は序列第二位。
ランク的には向こうが上」
(思いっきり、士気を下げるような発言かよ)
浜面は脱力して、肩を落とす。
いつもこんなふうに、空気の読めない話し方をする女だった。
しかし今は、いかにもタイミングが悪い。
「研究者連中のランキングなんか、この際関係ないでしょ」
あからさまに不機嫌な顔をして、麦野がこぼす。
「戦略的な局面の前じゃ、多少の能力の差なんぞ吹き飛ぶよ。よしんば――」
苛立ちを抑えるように、話しながら麦野は髪をかきあげる。
「よしんば総合的に勝ち目が薄いにしても、それを判断するためには
相手の状況を確かめないといけない」
「まあ、超正論ですね」
まとめるような絹旗の言葉で、一同の視線は、自然と浜面に集まった。
(? なんだ?)
困惑する浜面に、麦野は腕組みをしながら言う。
「理解してもらえた? なら、さっさと始めるよ」
「あ? お、おぅ」
自分の納得を待ったのかと気付いて、浜面はなんとも奇妙な気持ちになった。
(そうか。俺の疑問を、他の二人も拾ったから――)
ポケットから白い粉状の薬を取り出す滝壺を横目に、浜面は得心していた。
二人の手前、麦野も浜面に確認を取らざるを得なかったという事なのだろう。
いつもは頭の上を飛び越えていく話に、気付けば自然に参加していた。
思い返してみれば、なんだか感慨深いような気持ちがしてこないでもない。
(いつも、面白半分でしか話を振ってきやがらねえからな、この女)
そんなふうに思う反面、もし、いつも麦野が振ってくる話に乗っていたら、今みたいに、案外自然に話せていたんじゃないかという気もしてくる。
それくらいに、今の流れはよどみがなかった。
麦野も、浜面が話に入った事自体には、特に不快感を表していなかった
――無論、だからといって、浜面が下っ端である事には変わりがない。
戦力の数には、入っていない。
それは、浜面が無能力者だから――。
(……別に、今更能力にコンプレックスなんざ感じても仕方ねえけどよ)
白い粉末を舐め、トランス状態に入った滝壺の横顔を見つめながら、浜面は思う。
「――結論。『未元物質』は、この建物の中にいる」
そうか、この建物の中に……。
「なんだって!?」
「おうともよ」
タイミングを計っていたかのように、入り口のドアが派手に砕けた。
飛び散った木屑の向こうから、靴音を響かせ、一人の男が姿を現す。
耳が隠れる程度の長さの茶髪に、着崩した学ラン。
どこにでもありそうな恰好のその男は、唇を歪めて、鮫のような笑いを作る。
「聞きしに勝るってやつだな。その女の能力は」
自信と、限りない暴力の気配を滲ませる男の目を見た瞬間、浜面は動けなくなった。
(動いたら――殺される!?)
理由のない確信――ほとんど妄想じみた恐怖と言っていい。
にもかかわらず、浜面は微塵も、己の正気を疑わなかった。
まるで時間が凍っていくように、脳の奥が処理落ちになっていく。
視界が徐々に暗くなっていくような、知覚のラグ。
――呑まれていた。
気圧されていた。このまま気絶するのかと、半ば本気で思う。
いっそ、そちらの方が楽だろうか、などと思い――
――硬直した場を動かしたのは、絹旗だった。
バガンッ! という破砕音。
手近のテーブルを投げつけ、派手に残骸を撒き散らして、絹旗は滝壺を連れ、
後方のドアに下がる。
「浜面、超急いで車の確保をお願いします。連中の狙いは、間違いなく滝壺さんです」
「なにっ……」
「彼女の能力が生きているか否かで、私達のステータスは超ダンチなんです。
それを狙っての事でしょう。私達が時間を稼ぎますから、早く!」
背中を突き飛ばされ、滝壺共々に、浜面はドアから叩き出される。
直後、部屋の中から、重い爆音が轟いた。
(ちっくしょー!)
心中でわめきながら、浜面は滝壺の手を引いて走り出す。
今更のように、麦野の言葉が脳裏に蘇る。
『いずれにしても『アイテム』は三人でやっていくしかないね』
――数に入っていなかったわけだ。
最初から分かりきっていた事だ。
能力者同士の戦闘において、レベル0に出来ることなど、何も無い。
エレベーターホールの片隅で、浜面は悄然と座り込んでいた。
満身創痍、というのが今の状態を表すのに適切な言葉だった。
滝壺を守ろうとして、敵の黒服連中と取っ組み合った挙句、昼間の女の能力で黙らされた。
睨みあっていた相手が、実は生き別れの家族だった事に気付いたとでもいうように、唐突に闘争心が消えた浜面は、黒服達から好きなように嬲られた。
――無能力者相手だからこそ、満身創痍で済んだのだろう。
垣根とかいうレベル5相手に抵抗していたら、恐らく痛みを感じる暇もなく、浜面は瞬時に絶命していた筈だ。
熱を持って腫れた体をさすりながら、浜面はぼんやりと頭を起こした。
ようやく、女の能力の影響が抜けてきたようだった。
実際には、女が姿を消した直後には、もう効果は切れていたのだろう。
しかし、突然不自然な認識を押し付けられた事の混乱が大きく、女が去った後も、ロクに抵抗出来なかった。
(……どうなった? 麦野、絹旗、滝壺……)
『連中の狙いは、間違いなく滝壺さんです』――絹旗の言葉が、脳裏を掠める。
(まさか、もう……)
ガラクタのように軋みをあげる自分の体を騙し騙し、浜面は立ち上がる。
動かそうとするたびに、関節がゴツゴツと引っかかった。
正直なところ、『アイテム』自体には、浜面はさして思い入れも無い。
成り行きと、その力を恐れて、半ば義務的に従っていたに過ぎない。
潰れて消えてしまうというのなら、そこまでの話だ。
だが――。
「ぐっ、くっ」
呻き声と脂汗を流しながら、浜面は歩き出した。
痛みに耐える頭にぼんやりと浮かぶのは、何故か、昼間手にしていたスポーツバッグだ。
入れていた物がモノだっただけに、改めて使う気にもなれず、バッグは捨ててしまった。
――そして今、この手で掻いた灰でも、死体が入っていたボディケースでもなく、何故かあの、捨ててしまったバッグのイメージだけが残っている。
(絹旗……滝壺)
――滝壺の名を思ってるのに、浮かんでくるのは、あの焦点の合っていない瞳と、眠たそうな顔では、ない。
「ふっ、くっ、クソッ」
悪態をつきながら、浜面は壁紙の剥がれた廊下を、手で伝って進む。
しばらく進んだところで、前方から聞き覚えのある声が響いてきた。
「――どういうこと?」
「言ったとおりだ。あいつは、もう焼き切れる寸前だ。
今更どうこうするまでもねえ」
嘲りを含んだ男の声。
面識らしい面識も無いが、さっきの垣根という男に間違いない。
応じているのは――。
「……まだ、ウチらは死んじゃいない」
「頭の悪い女だな。わざわざ殺すまでもないっつってんだよ」
殺して欲しいってんなら話は別だがね。
ドスを効かせたわけでもないその言葉に、応じる声は無かった。
少し沈黙を挟んで、男の気の抜けた声は続く。
「その様子じゃ、今まであいつの能力に頼ってたんだろうが、
そのくせ奴の限界はまるで把握できてなかったみたいだな」
雑魚(ザコ)いな、という呟き。
「この程度の連中相手に、本気になるまでも無かったか」
なお数秒の沈黙。
返答がないことに満足したのか、それともがっかりしたのか。
なんにせよ、垣根は無言で歩き出した。
足音がこっちに向かっている事に気付いて、浜面は慌てて手近の、ドアの外れた部屋に隠れる。
絨毯の焦げた廊下に、靴音だけが響く。
「――んじゃいない」
「あ?」
「ウチらは、まだ死んじゃいない」
まだ言うかよ、と垣根が呆れ声で呟くのが聞こえた。
それでも、少し震える声で、麦野は言った
「終わりじゃないんだよ。チームとして生きていれば、『アイテム』はまた動く事になる。今じゃなくても、いつか、きっと」
「そりゃ無理だろ」
たっぷりと侮蔑を含ませて、垣根が嗤った。
「だってお前ら、チームとしても生きてねえし」
「な……に?」
「俺らがこのアジトの情報、どうやって手に入れたと思ってんだ?
まがりなりにも組織力では、『スクール』と『アイテム』は同等なんだぜ?」
麦野が息を呑む音が、聞こえた。
「リーダーの器じゃねえんだよお前。俺の敵じゃねえぜ」
再び垣根が歩き出す。
悠然とした足取りが角の向こうに消えていく。
やがて残響さえも聞こえなくなってから、ようやく浜面は動いた。
隠れていた部屋を出て、声の聞こえた場所を探す。
数歩進んで、見つけたのは、トレーニングジムの1つだった。
ドアどころか、入り口付近の壁がごっそりと抉れて、
廊下から室内の様子が見渡せる。
金属とプラスチックの残骸――もとはランニングマシンやウェイトなどの
機材だった物が、ごちゃごちゃと床に散乱し、あるいは壁に突き刺さったり
して、強烈な惨状を作り上げている。
――麦野は部屋の一角で、傾いた懸垂機に、抱きつくようにして
もたれかかっていた。
散乱した残骸を避けて部屋に入りながら、その様を見て、
(……こいつ、へたりこんでたのか)
垣根が背を向けてから、意地で立ち上がったんだろうな、と浜面は予想する。
「麦野、無事、か?」
なにはともあれ、敵と間違われて、攻撃を受けては堪らない。
浜面の声に、麦野はピクリと肩を動かしたが、返事は無かった。
俯いた横顔は前髪に隠れ、表情も見えない。
どうにも近寄りがたい雰囲気を感じながらも、浜面も、足を止めるわけにもいかない。
距離を詰めると、麦野の体の汚れが目に付きだす。
艶のあった琥珀色の髪は、煤で薄黒く汚れていた。
「おい、怪我してるのか?」
「……タイミング、最悪だね。いや、最高なのかな」
ようやく返答。割れた皿を打ち鳴らすような声で、ぼそりと囁かれる。
「はまづら、すぐに車、出して」
「え? あ、ああ。別のアジトに移るんだな。でもその前に、絹旗と滝壺を」
「あと」
斧で断ち切るような一言。
絶句する浜面を、麦野は顔を上げて、正面から睨む。
冷や汗が吹き出た。
角でも生やす気か、と思う。
女の怒り顔に恐怖するなど、思ってもみなかった。
麦野の顔。
赤黒く濁った虹彩は、火を噴きそう。
眉を逆立て、キツく吊りあがった目は、怒った虎のようだ。
――つまり、言葉が通じない。話が通じない。
「さきに、片付けないとね」
「……なにを?」
真顔のまま、麦野は言った。
「粛清だよ」
第五学区の裏通り。
廃ビルの陰に、浜面は車を停める。
ついたぞ、と声をかけようとした矢先、後部座席の麦野は、物も言わずに車を降りた。
慌ててサイドブレーキを上げ、浜面は後に続く。
「おい、本当にここなのか」
呼びかけに答える暇も惜しいとばかり、無言で歩いて、麦野はシャッターの前で足を止める。
「やっぱり、来てる」
薄ら寒い声で呟く。
見ると、確かにシャッターの辺りには、うっすらと黒い線が浮き出ていた。
ごく最近、誰かが開け閉めした跡だ。
「なんで、ここだと分かった?」
「勘」
短く言って、麦野はしゃがみ込む。
ガシャンッと、鉄のシャッターが、動かないまま、音だけ大きく鳴る。
「はまづら、裏に回って」
「お前は?」
立ち上がった麦野は、無言で右手をシャッターにかざす。
その手の平に、ボウッと白い光が灯る。
「なっ、おい!」
軽い恐慌に陥りながら、浜面は後ずさる。
その眼前で、麦野が右手の光を解き放った。
ジュバッと、鉄板の上で油が跳ねるような音がした。
鉄のシャッターは、焚き火に放り込んだ新聞紙みたいに、瞬時に燃え尽き、熔け落ちていた。
初めて見る、麦野の圧倒的な破壊力を前に、浜面は声も出ない。
「はやく行きな」
恫喝のように響くその声に、浜面はただ従うしかなかった。
裏口で待つ事、およそ5分ぐらい。
慌ただしくドアを開けて飛び出した少女を見て、浜面は胸クソが悪くなるのを感じていた。
(本当に、裏切ってたってわけか)
ベレー帽からこぼれるのは、路地裏の薄暗い街灯の中には不釣合いな、眩い金髪。
よほど麦野を恐れているのだろう。フレンダは物陰の浜面に気づく事もなく、
無防備に背を向けて、立ち去ろうとしていた。
スタンガンを取り出し、横から飛び掛る。
「ひゃっ!」と、意外に可愛らしい悲鳴を上げて、フレンダは飛び上がった。
「どこ行こうってんだ?」
「は、あ……は、はまづ、」
怯えを滲ませた青い瞳に、少しだけ、自分のほうが悪者のような気がしてくる。
が、それも一瞬の事だ。
浜面を認めて、フレンダの顔が、殺気だった焦りを浮かべる。
「放してっ、レベル0のアンタが、アタシとやんの!?」
「ああ、お前の能力じゃ、この体勢から俺を殺す事は出来ないしな」
麦野から聞いた、フレンダの能力。
密度操作。
物質の強度や重量を、自在に変更する能力だという。
使い方次第では、確かに強力かもしれない。
しかし、念じただけで相手を倒すような能力では、ない。
手の内を読まれて、フレンダの顔に焦りと、絶望の色が濃くなる。
「一応、確認するぜ。お前、本当に俺達を、裏切ったのか?」
「……」
浜面はやや強く、制服の襟から伸びる白い首筋に、スタンガンを押し付ける。
「襲撃で、絹旗は怪我をした。命に別状はねえけど、はっきり言って重傷だ。
もう一度両足で立てるのか怪しい。
滝壺は身を守るために、能力の使いすぎで倒れた。
『スクール』の連中の話じゃ、頭の回線が焼き切れる寸前だそうだ」
「……」
「なにか、言う事はねえのかよ」
「…………しかた、ないじゃん」
ボロッと、塗装がはがれるように、フレンダの顔が崩れる。
青い瞳から、涙の粒がこぼれだす。
「アタシ、に、死ねって、言うの? アタシ、死んだ方、が、良かったの?」
答えられず、浜面は目を伏せる。
「アイツ、答えなきゃ、ア、アタシ、殺すって。マジ、だったし、だ、だから」
それは、対峙した浜面も感じた事だ。
垣根は、無駄に自分の能力を見せびらかしたり、鼻にかけて弱い相手をいたぶるような奴ではない。
だがきっと、障害となるものに対しては、一切の容赦をしない。
リークを断っていたら、フレンダは拷問にでも掛けられていたか、さもなくば殺されていただろう。
言葉にならない嗚咽を漏らすフレンダの首から、浜面はそっと、スタンガンをどける。
「詫びは入れろ。どっちみち、このまま逃げたらお前、次は『アイテム』に狩られるんだぜ」
問題は、どうやって麦野を言いくるめるか、か。
モヤモヤと潰れそうになる頭を押さえ、浜面はビルに向き直る。
「詫び? そんなの、私は1つしか認めないけどね」
裏口から悠然と姿を現した麦野は、ほの暗い微笑を浮かべていた。
「『死んで詫びろ』ってやつ?」
「あんたがそんな甘ちゃんだったなんて、意外だよ」
言って、麦野は静かに歩き出す。
「スキルアウトのリーダーだったんでしょ。組織の中から、身内を売るようなバカが出たとき、あんたはどうしてた?」
「それは……」
(……私刑(リンチ)にかけてたさ、クソッタレ)
だが、命までは取らなかった。
一通りボコッた後で、軽ければ飯抜きでパシリ、重ければ除名、追放。
だが、見せしめに殺したりまではしなかった。
今の麦野は、そこまでやる気、まんまんだ。
なんでこんなことに、と思いながら、浜面はへたり込んだフレンダを庇うように、前に立つ。
「今更こいつを殺したって、何にもなりはしないだろ」
「なに言ってんの。落とし前はつけさせなきゃね」
「だから、詫びでもいれさせればいい。こいつを殺したって、絹旗や滝壺が治るわけでもねえし、あの二人だって、殺すべきだなんて言わねえだろ」
「はーまづらあ、誰に意見してんの?」
ほとんど憤怒の表情と変わらない笑顔を浮かべて、麦野が近づいて来る。
「リーダーは、あたしだよ?」
その声に浜面は、狂気の片鱗を感じた。
だが、寒気よりも、もっと強く感じたのは――。
「ふざけんな」
「あ?」
「ふざけんなよ。垣根の言ったとおりだな。お前、リーダーの器じゃねえ」
ビシリと、音が聞こえそうな勢いで、麦野の表情が崩れる。
重い殺気を浴びせられながら、浜面は後ろ足で、へたり込んでいたフレンダの体を蹴った。
意図を察して息を呑んだフレンダは、しばらく躊躇ってから、こっそりと後ろへ下がっていく。
もう麦野の視線は、フレンダには向いていない。
「……自分の立場、分かってる? あんたは、ただの下っ端だよ?」
「俺だけじゃねえ。絹旗や滝壺の意見も聞かずに、なに勝手に突っ走ってやがんだ。裏切ったメンバーの処遇なんて問題、それこそリーダーの一存で決めていいことじゃないだろ」
ハンッと、麦野は裂ける様な笑みを浮かべる。
「絹旗はともかく、滝壺の了解なんて必要ない。どうせ後一回で壊れるんなら」
「引退させるってことか?」
「冗談。最後の能力を役立ててもらうよ」
フレンダを粛清した後、『スクール』に逆襲を掛けるのだと、麦野は笑った。
「ああ、そのフレンダがいなくなってるね」
クスクスとおかしそうに笑いながら、麦野は言う。
「浜面、消されたくなかったら、今すぐ捜して、私の目の前に引っ張ってきなよ」
その狂態に、浜面は怒りを通り越して、憐憫すら覚えそうになる。
「……麦野、なんでフレンダに裏切られたと思ってるんだ?」
「間抜けにも、とっ捕まったからでしょ。なに、あいつの無能さを、助けに行かなかったウチらのせいにしたいってわけ?」
「……」
「あれだけ言ったのに、まだ分かってないみたいだね。捕まった仲間をいちいち助けに行くような、そんな生温い世界じゃないんだよ、ウチらのいる場所は。そして、そこで仲間に裏切られる事は、死に直結する。裏切り者を生かしておけるわけないって意見、理解できる?」
ぎゅっと、浜面は握りこぶしを作る。
意見自体は、まったく正しいのだろう。だが――。
「そういう事じゃ、ねえ」
「ああっ?」
「話をすり替えんなよ。お前はそれ以前に、仲間の事、ただの道具程度にしか思ってないんだろ」
言って、浜面は自分から一歩、麦野に向けて、足を踏み出す。
「最初は俺だけかと思った。俺が下っ端のレベル0で、戦力外だから。だから俺の価値は、使い捨てのビニール傘程度でしかないんだろうって」
「どこか違う?」
嘲笑に、真正面から向かい合う。
「違わないさ。ただあんたは、俺だけじゃなくて、実は仲間にも同じ目を向けていた。フレンダが消えて、あんたはただ、『補充してる暇もない』って言っただけだった。代わりを探すことしか考えていなかった。そして今度は、限界の滝壺を使い潰そうとしてやがる」
「それがどうかした? ウチらは、『アイテム』なんだよ。危険任務に就く、秘密集団なんだよ。人材だって、道具と同じだろ」
「それは、あんた自身にも当てはまるのか?」
舌先から言葉を送り出す瞬間、浜面は自然と確信を得ていた。
――手応え、あり。
麦野の表情に、微かな綻びが入る。
――泣きそうな顔? いや、
(見間違え、か?)
唾を飲み込み、拳を握りなおす。
「素粒子工学研究所と、さっきの戦い。あんたは二回も、垣根から逃げ出した」
言った途端、炎のような殺気が吹き付ける。
獰猛な光を取り戻した麦野の目を、浜面はなんとか正面から見返す。
「俺もフレンダも、実際に対峙して分かってる。垣根は、自分の障害を潰す事には躊躇わない野郎だ。もしもあんたが、あくまで食い下がるつもりだったら、あの場で垣根は、あんたを殺してた筈だ」
その事には、もう確信がある。
そして結果として、麦野は殺されなかった。
それはナメられたとか、そういう次元の話ではない。
つまり――。
「つまり、見透かされたんだよ。あんたは、もう本気で垣根を倒すつもりなんか無い」
「――ふざけんな!」
叫んで、麦野は浜面に掴みかかった。
「殺してやるさっ! 虫みたいに潰してやる!
私は『スクール』のクソ野郎どもを、皆殺しにしなきゃ気が済まないんだよ!」
それだよ、と浜面は思う。
「なんのために『スクール』を追いかけてたんだ?
ああいう連中が暴れるのを阻止するのが、『アイテム』の使命なんじゃなかったのか?」
字面だけ取れば、それは虚しい言葉だった。
『アイテム』が正義の組織なわけもない。浜面が死体を人知れず処分した事実は、
それとどうしようもない乖離を示す。
クソみたいな仕事に命を投げ出すのは、浜面もごめんだった。
ただ、麦野の欺瞞は指摘してやらなければならない。
「仕事やら使命やらを放り出して、あんたは逃げた。勝てないと思ったから」
「だまれ!」
パアァン! と、景気のいい音が路地裏に響く。
ビンタとは思えない、首が千切れるような衝撃に、浜面は目を回す。
それでも、言葉は止めない。
プッと、血の混じった唾を吐いて、浜面は続ける。
「軽蔑なんざ、する気もねえよ。『勝ち負けにこだわったら行き着く先は死だ。
生き死ににこだわりたかったら勝敗なんざ捨てちまえ』ってな」
長らく会ってなかったダチに、今日、今更のように諭された言葉。
忘れていた自分に苦笑を浮かべながら、浜面は言った。
「勝てねえ相手から逃げる、降参する。それは個人として当然の選択だろ。
結果、あんたは命を拾った」
問題なのは、当の麦野自身がその事を認められず、今更『スクール』に逆襲しようとしている事だ。
原因は、麦野のちっぽけなプライド。
「なにが何でも『スクール』を止めたいわけじゃない。『ピンセット』の事なんざ、もうどうでもいいんだろ」
本気で勝つつもりなら、なにか手を考えるはずだ。
準備をする筈だ。
2回も負けているのだから。
つまり――。
「つまり、あんた、本気で垣根に勝ちたいわけじゃない。
『さっき負けたのは、何かの間違いだ』って思い込みたいだけだ」
――思い切り、突き飛ばされた。
ビルの壁にしたたかに背中を打ちつけて、浜面は咳き込む。
視線だけは、外さない。
「ナメんなよ、レベル5。お前らは神でも、世界の王様でもない。
お前が垣根に勝てないみたいに、垣根にも上がいるみたいに、
どんなに背伸びしようが、お前らは俺らと同じ土俵にしか立ってねえんだ」
無言。
麦野はもう、返事をしなかった。
怒るような、笑うような、それら全ての感情が途中で凍りついたような、
出来の悪い人形のような顔で固まっていた。
その右手に、雪明りのような、寒々しい白い光が灯る。
浜面はとっさに、片手のスタンガンを、麦野の顔面に投げつけていた。
結果を見る事も無く、すぐに身を投げ出して、汚れた路面を転がる。
直後、ジュバッ!と、閃光が炸裂する。
ビルの壁を蒸発させて、光線の嵐が吹きぬける。
浜面は眩みそうな目を瞬かせながら、フレンダの潜んでいた廃ビルに飛び込んでいた。
(ここまで違うものなのかよ!)
内心舌打ちしながら、浜面は物陰で息を殺す。
戦いが始まって、5分ほどが過ぎた。
『まだ』5分なのか、『もう』5分なのか。
確かなのは、まるで勝負になっていないということだ。
麦野の能力は強大だが、発動に時間を必要とする。
その隙を突けばなんとかなると思ったのだが……。
(物陰に隠れれば、その物を蒸発させる。壁の裏に回り込めば、壁を蒸発させる。
どこまで非常識なんだよ)
これまで計ったところでは、光線発動までのタイムラグは、威力にもよるが、およそ3〜5秒程度。
十分な距離まで詰められなくとも、あるいは裏をかけなくもない時間だ。
しかし麦野の武器は、能力だけというわけでもなさそうだった。
さっきの掴み合いを思い出し、浜面は思案する。
(俺を両手で締め上げたうえ、えらい力で突き飛ばしやがった。
ビンタも、冗談じゃねえ威力だったし)
まだ感覚の戻りきらない左の頬を、そっとさする。
もしも麦野が、能力に頼りきりのお嬢サマなら、力押しも可能だったろう。
だが実際には、お互いに能力も武器も無しの素手タイマンでやったとしても、
浜面に勝ち目があるとは思えない。
女相手に、男の自分が腕力負けとは、なんとも面白くない話だが。
(文字通り、鍛え方が違うってやつか)
あの光線が、威力と引き換えに隙の大きい能力である事は、
他ならぬ麦野自身が、一番よく分かっていただろう。
その欠点をカバーするために、素手のやりあいを考えて、日ごろから鍛錬していたのか。
(……見くびってたのは、俺のほうかもな)
懐のレディース用の拳銃を確かめて、浜面は呼吸を落ち着ける。
と、上着のポケットで、ブルブルと振動が起こった。
(着信? こんな時に……)
微かな振動音でも、この状況では命取りになりかねない。
電源を切ろうと、浜面はポケットに手を伸ばす。
「はーまづらあ」
聞こえてきた幽鬼の様な声に、思わず浜面の体は震えた。
カツン、カツンと、ことさらに足音を響かせて、麦野が迫ってくる。
「あれだけの大口叩いといて、今更かくれんぼ?」
嗤っているのか――否、殺意に凝り固まっているのか、はたまた泣いてるのか。
感情の掴みづらい、濁った声で、麦野は語りかける。
「言ったよね? レベル5が――」
ジュバッ!という、おなじみの、聞きたくも無い破砕音。
どこかの機材が、音を立てて崩れていく。
「私が、なんだって?」
目まぐるしく視線をさ迷わせながら、浜面は活路を捜す。
危険そうな死角は、潰しながら来るだろう。
そっと、覗き穴のような隙間から、様子をうかがう。
ごちゃごちゃと放置された機材の影から、一瞬、琥珀色の髪が垣間見える。
麦野はフロアを、右回りに回ってくるようだった。
(さすがに、いきなり正面からはこねえか)
その気になれば、浜面が身を潜めている中心の一画を、まとめて吹き飛ばす事も出来るだろう。
それをしないのは、浜面が許せないから。
一思いに殺すのでは、済ませられないから。
きっと麦野は、浜面を捕まえた上で、自分への言葉を撤回させたいのに違いない。
(レベル5なんだろ? 二人と替わりのいない超能力者なんだろ?
どうして、そんなことにこだわるんだよ?)
「……ほんとバカだな、お前」
「なに?」
浜面が臆していると思い込んでいたのだろう。
返事があったことに驚きを隠さず、麦野が辺りを見回す。
「フレンダを粛清するって息巻いて、『スクール』を皆殺しにするって大見得きって、次は俺かよ」
(結局、お前は何に勝ちたいんだよ?)
そっと音をたてずに、浜面も移動を始める。
「昼の死体袋の話、覚えてるよな?」
「……それが、どうかした?」
「レベル0だろうが4だろうが、どうでもいい。あんたは俺も絹旗たちも、そんな程度にしか思っていなかった」
「だからなんなの」
「あんた、自分があの袋に入るかも、とか思った事はないのか」
ジュバッ!と、八つ当たりのような閃光が走る。
浜面は、もうそんなもの、気にはしない。
「レベル5だから大丈夫だとか、思ってたのか? そんなの、何の根拠にもならないって、分かっていても」
再び閃光。今度はごく近く、体から10センチほどのところをかすめる。
「それとも、いつもそんな風に思い込もうと必死だったのか? 今みたいに」
「――うるせぇぇ!!」
絶叫と共に、ガラクタの隙間から膨大な光が差し込む。
床に伏せた浜面の上を、光線の束が薙ぎ払ってゆく。
「だまれよ! これがレベル5の力だ! レベル0がどうあがこうが、決して届かない領域だ!」
「…………なら、なんで俺なんかにこだわる」
一瞬の間。
どんな理由を立てても埋め尽くせないような、どうしようもない空隙が
広がる。
それを追い風にして、浜面は畳み掛ける。
「お前がレベル5なのは事実だし、俺より強いのも認めるしかねえ。
けどそんな事は、お前が一番よく分かってるだろ」
話しながら、移動は止めない。
麦野は声に釣られるように、闇雲に歩き回る。
「こんなレベル0なんぞにこだわって、お前は何が得られるんだ。
俺に命乞いをさせたっていう満足感か?
そんなものを手に入れたところで、何もお前を守っちゃくれねえぞ」
「うるさいっ! 黙れよ!」
ヒステリックな叫び声。
それはもう怒りよりも、泣き出しそうな様子ばかりが感じられるものだった。
頃合か、と浜面は、
「よう」
姿を、さらした。
麦野が驚いたのも一瞬、ガラクタにはさまれた狭い通路で、二人は対峙する。
「てめえ……」
「『スクール』の件からは手を引け。『ピンセット』の事も」
機先を制して、言う。
唐突な言葉に、麦野は鼻白んだ。
「なに……?」
「意見を言わせて貰ったのさ。俺なりに考えてのな」
「っ、この!」
「ついでに」
視線で、浜面は部屋の入り口を指す。
つられて目をやった麦野は、驚愕の表情を浮かべた。
緊張に顔をこわばらせながらも、まっすぐに戸口に立つ、金髪の少女。
「フレンダも同意見だそうだ」
言いながら、浜面は懐から拳銃を抜き出す。
さすがに、麦野はすぐさま反応を示した。
光の防壁を自身の眼前に展開し――
パンパンッと、乾いた炸裂音が響く。
当然、麦野を狙っての射撃などでは、ない。
ビギギッという、何かの断末魔のような悲壮な音がした。
そして、ドズガンッ! という、轟音。
拳銃の弾で崩落していく床に巻き込まれながら、麦野沈利は、
ただただ信じられないものを見たという表情だけを残して、墜ちていく――。
外見は廃ビルとはいえ、もとが『アイテム』のアジトの1つにしていた場所だ。
倉庫をあされば、使えそうな物はいくらでも出てくる。
昔、SFかなにかで見た、首輪型爆弾に似た装置を手に、浜面は溜息をついた。
「趣味がワリイな」
「これでも最新型の、一番軽量なタイプなんだって」
フレンダの言葉に、眉根を寄せ、ざっと2キロ近くありそうな首輪を弄繰り回す。
「重いぞ?」
「……いいよ」
力なく呟く麦野の首に、首輪をはめる。
スイッチをいれると、麦野は小さく、呻き声をあげた。
「大丈夫か?」
「平気。はやくこれ、取ってよ」
要望どおり、目隠しを外してやる。
解放された麦野は、試合に負けた甲子園児のような目で、浜面たちを見た。
攻撃してくる様子は無い。
AIMジャマーは、正常に作動しているのだろう。
能力の照準をつけられないよう施していた黒目隠しを放り投げ、
浜面は座り込んだ麦野に向かい合う。
「浜面、どうすんの? このままにしといたって……」
その先は言いたくないのだろう。フレンダの言葉は、途中で途切れる。
「迷う必要、ないだろ。私を殺しな」
疲れたように、麦野がこぼす。
順当に考えれば、そうなのかもしれない。
フレンダと滝壺を害そうとし、浜面にも攻撃を仕掛けたような奴だ。
気が変わらないとも限らない。殺したほうが、確実だろう。
だが――。
「仮にも仲間だ。こっちから手にかけるわけにはいかねえよ」
路地裏の掟を思い出し、浜面は言った。
フレンダは不満そうな、否、不安そうな表情を浮かべたが、何も言わない。
そんな様子に、どうしても解けない問題の解を求めるように、麦野が尋ねる。
「……いつの間に、浜面と仲良くなったの? せっかく逃げたのに、
わざわざこいつを助けに戻ってくるなんて」
浜面は上着のポケットに目を落とす。
あの時、浜面の携帯にかかった着信。フレンダからのメールだった。
大雑把な指示と、誘導の依頼。
急場の作戦にしては、奇跡的にうまくいった方だろう。
しかし大袈裟ではなく、フレンダがいなかったら、
浜面はどうなっていたか分からない。
何故、あれほど恐れていた麦野の前に戻ってきたのか。
答えを求めて、浜面もフレンダを見る。
2人の視線に、フレンダは気まずげに目を伏せた。
「別に、いつってわけでなくて……。ただ、助けてくれたから、アタシも、って……」
その言葉を聞いて、レベル5の女は、まるで何かに見放されたかのように、
目を閉じて椅子に体を投げた。
裏切り者の少女の言葉が、どう響いたのか。
内面まで推し量る事は出来ない。
そして、浜面はしばし考え込んでから、無言のまま首輪に手を伸ばす。
「え? ちょ――」
静止しようとするフレンダに構わず、浜面は首輪のスイッチを切った。
狭い部屋の中が、凍りつく。
空気を気にせず、浜面は携帯を開いていた。
「絹旗か、フレンダを見つけた。これから帰るが、アクシデントで麦野が負傷した
んで、治療の手配を頼めないか」
1週間が過ぎた。
取り逃がした『スクール』がどうなったのか、正確なところは分からない。
ただ、第七学区のスクランブル交差点で、大規模な能力者同士の戦闘があったことは聞いている。
その時に、垣根帝督はダウンしたという未確認情報があった。
真偽はどうか知らないが、さしあたって大きな事件が無くなったのは事実だ。
フレンダが復帰し、入れ替わりに滝壺理后が引退した『アイテム』は、要のサーチ能力者を失い、活動規模を大きく縮小させながらも、存続を続けていた。
小春日和の空のような、やや惚けた頭で、浜面はマンションのエントランスをくぐる。
スペアキーをポケットに押し込み、ビニール袋を持ち直して、エレベーターホールへ。
ここに来るまでの道順も、すっかり覚えこんでしまった。
通いなれてきている事に、自分でも少し、なんだかね、という思いを禁じえない。
(なんで俺は、こんなことしてるんだ)
それはもちろん、浜面が『アイテム』の下っ端だからだ。
廃ビルの仲間割れ騒動で、足を瓦礫に挟んだ麦野は、しばらく前線復帰が困難な状態だった。
動けない彼女の世話を任される事になって、浜面はこうして通っている。
礼儀として、インターホンは鳴らすことにしている。
まかり間違って、麦野の着替えの最中に出くわすなど、
命が幾つあっても足りそうに無い。
『……開いてるよ』
そっけない、いつもの出迎え。
溜息をつきながら、浜面はドアを開ける。
自分の安アパートとは、大違いの間取り。
玄関からリビング、ダイニングキッチン。
広大なスペースを横目に、浜面はまっすぐ、寝室へ向かう。
「買ってきたぜ、日替わり幕の内」
「そこに置いて」
ベッドに半身を起こして、麦野は窓の外を見ていた。
サイドテーブルに袋を置いて、浜面はきびすを返す。
「どこ行くの?」
「どこって……掃除だよ」
まったく不本意だが、これも仕事。
涙ぐましく自分に言い聞かせる浜面に、麦野は非情にも更なる要求を突きつける。
「あとにしなよ」
「あとって」
「一人だと食欲湧かないし、飲み物注ぎに立つのも面倒だから」
そこにいて、と麦野は言った。
緑茶の注がれた湯飲みを手の中で回しながら、浜面はソワソワと落ち着かない。
食事にすると言った麦野は、弁当を抱えて座ったまま、
時折思い出したように箸をつけるだけ。
(……やりづれえ。こいつ、こんなキャラだったか?)
さばさばしてて、無駄な自信に溢れていて、傍若無人。
そんな麦野の印象は、欠片も残っていないようだ。
「おい、人に買わせて来たんだから、飯ぐらいちゃんと食えよ。
それとも、本当に具合が悪いのか?」
「別に。なんとなく、気分じゃないだけだよ」
途方に暮れる思いで、茶を一口。
良い茶葉だな、とどうでもいい事を考えてから、もう一度、度胸を振り絞る。
「……飯食わないと、体力落ちるだろ。
お前、体鍛えてるみたいだし、そういうの大切なんじゃね?」
「気付いてたんだ」
「締め上げられたときにな」
にがい思い出を反芻して、浜面は不機嫌に顔をしかめる。
「あのとき言った言葉は、改めるつもりはねえ。
けど、正直俺は、お前を見くびっていた」
その言葉に、麦野は不思議そうな顔をする。
「レベル5なんて、たまたま宝クジに当たって、いい気になってるだけの
天狗野郎だと思ってた。けど、あんたはあんたで、色々やってるんだなって」
「……まあね」
髪をいじくりながら、麦野は話す。
「能力の欠陥なんて、自分が一番よく分かってるし、こんな仕事だから」
「あんたは、自分から進んでこの仕事に?」
少し迷う素振りを見せてから、麦野は「ん」と答えた。
「正直、持て余してたんだよね。レベル5って肩書きと、
第四位っていう中途半端な序列を」
以前、序列の話で、麦野が不機嫌になっていた事を思い出す。
レベル5。
学園都市の最高位などと呼ばれたところで、能力者は第一義的には
観察対象で、実験体だ。
希少なレベル5で、しかし価値としては4番目の麦野が、
周囲からどんな歪んだ扱いを受けてきたのか。
レベル0の浜面には、想像する事も難しい。
そんな環境から抜け出して、自分の価値を試したかったという事なのか。
何か言おうと、浜面が口を開きかけた時、麦野がポツリとこぼした。
「でも、あんたの言うとおりかもしれない。
死に急いでいただけだったのかも」
途切れ途切れの会話が続いて、気が付くと、ベランダから夕日が差し込む
時間となっていた。
湯飲みの盆とゴミ袋を手に、浜面は席を立つ。
「結局、掃除の時間は無かったな。今日はこれで失礼するぜ」
「待った。最後にもう1つ」
呼び止められ、浜面は振り返る。
しかし当の麦野は、浜面を見ずに、壁を睨んでいた。
「……なんだってんだよ」
「なんで、ここにいるの?」
「はあ?」
ずいぶんな言われように、怒りよりも呆れが先に来る。
(つか、俺そこまで嫌われてたのかよ)
「リーダーと認められない私がいる組織に、なんでまだ残ってんの」
「そういう事かよ……。特に、言うほどのモンはねえよ。強いて言えば、
こんな状態で抜けるのも、なんか癪に障ったし」
唇をほころばせ、麦野は笑った。
「レベル0のくせに、いっちょまえに、ウチらが心配ってわけ?」
「そう思いたいんなら、別に止めねえけどよ」
ふて腐れて、浜面はぼやく。
麦野は笑みを引っ込めると、また壁を見つめた。
「なんで、まだ私がリーダーなのさ?」
「適任がいないからだろ。滝壺は論外、フレンダも絹旗も、周りを引っ張っていくようなキャラじゃねえ。
結局、やれそうなのはお前だけってこった」
「じゃ、どうすればいいリーダーになれると思う?」
「訊くなよ。俺だって、いいリーダーじゃなかった。
それどころか、チームを壊滅に追いやっちまったんだぞ」
「なら反面教師か」
「うるせ」
軽口の応酬の後、麦野は顔を伏せる。
「今更、人を信頼するとか、私には難しい」
「俺だって、別に――」
「フレンダは、あんたを助けに戻ったんだよ」
その一言で、麦野は全てを言い切ってしまう。
その言葉を、浜面は否定できない。が、
「……信じるとか、そんな大層に考えなくてもいいんじゃねえの?」
綺麗な言い方がしっくりこないのも、また事実だ。
「俺もフレンダも、ついこの間まで、お互い無関心だった。いきなり信頼関係が出来たとかいうのじゃねえ。
なんとなく、自然体でああなっただけだ」
「……」
「誰も今すぐ、お前に同じようにしろなんて言わねえよ。ただ、ほんのちょっとでいい、
他人の事を気に懸けるようにしてれば、そのうちいいリーダーとやらに、なれると思うぜ」
「……それも、私には難しい」
急に体を丸めて、顔を膝に押し付けて、麦野は浜面を驚かせる。
「おいっ」
「この仕事始めてから、ううん、第四位になってから、
他人と上手く折り合いが付けられなくなったから」
しばし途方に暮れて、浜面は棒立ちになる。
しかしもう一度意を決して、ベッドに近寄った。
「お前の言葉じゃねえけど、仲間は命を預けるモンだろ。出来るはずさ。今まで一緒にやってきたんだ。
お前が気付いてないだけで、もう下地はある筈だ」
言いながら、浜面自身、何度か潜り抜けてきた修羅場を思い出す。
たとえば、あのクレーン女『心理定規』に襲われた時。
まがりなりにも『アイテム』の面々は、協力し合ってあの場を切り抜けた。
仲間への思いやりか、生き残るために必要だったからか――それ自体はどうでもいい。
ただ、無意識の連帯感は、既に麦野にも芽生えているはずだ。
「そう思う?」
「ああ」
「……ありがと」
「――へ? え?」
なにかアリえない言葉を聞いて、思考が空転する。
その一瞬の隙に、浜面の細腕は、しなやかな女の手に、捕まえられていた。
なにがどうなっているのか――。
認識する暇もあたえられないまま、浜面はベッドの上に、
あお向けに転がされていた。
スプリングに跳ね返される自分の体が、妙に軽く感じられる。
「おいっ、ちょっ、なんだよこれは!」
――恐怖?、なのか。
妙な心細さを覚えて、浜面は叫ぶ。
覆いかぶさる麦野は、答えない。
浜面の両の手首を押さえ、じっと覗き込む。二重目蓋の大きな目が、
浜面の瞳の中に、真っ向から入り込んでくる。
頬をくすぐるのは、麦野の耳からこぼれ落ちる、琥珀色の髪。
鼻腔に香るのは、ほのかに甘い石鹸の匂い――ローズヒップとかいっただろうか。
胸の奥が異様に熱くなるのを感じて、浜面は取り乱す。
「聞いてるのかよ! 気まぐれとか冗談じゃ」
「どっちでもないよ」
緊張していて、それでいて妙に静かな声。
「あんたはまだ、『アイテム』の下部組織にいる。つまり私の下働き。そうだよね」
「あ、ああ」
「じゃ、命令ね」
「私のモノになって」
「――な、ナニ言ってやが――」
「フレンダを殺してたら」
ぎゅっと、浜面の手首を握る手に力が入った。
痛みとセリフに、抗議の声は消える。
「きっと、私は後戻りが出来なくなっていた」
壊れてたよ、と病人のような声で、麦野は囁いた。
「『スクール』への逆襲が『本気』じゃかったことは、きっとどこかで気付いてたと思う。
それでも止まれずに突っ走って、そして――」
今度こそ、垣根に殺されていたか。
あるいは勝ったにせよ、また逃げ出したにせよ、さらに深く、自分が壊れていったか。
「結果的には、あんたが止めてくれたおかげで、私はまだ私でいられる」
静かで、それでいてどこか必死な色ののぞく、麦野の目。
「あんたは、私の命の恩人。不本意だけど」
(――不本意って。それに、恩人にはフツウ、恩を返すものじゃねえのか?)
少なくとも、「私のモノになれ」は適切な言葉ではないだろう。
「でも、自分の事だから、あんたに言われるまでも無く、自分でよく分かるよ。
私は、そんなにすぐには変われない」
「……」
「今回と同じような事が、起きないとも限らない。
だから私には必要なんだ。ブレーキをかける役が」
「……必要なら、いくらでも口を出してやるよ。だから」
「レベル0のあんたを、いつもいつも当てにはしてられない」
その言葉に、浜面は少しカチンとくる。
だが麦野の声音には、気取ったところは少しも無い。今のは純粋に能力者としての、レベル5としての矜持と責任感から出た言葉なのだろう。
すぅっと息を吸い込んで、麦野は浜面の目と鼻の先まで顔を近づけ、言った。
「浜面、私が自分でも頑張れるように、あんたを私に頂戴」
――浜面は沈黙する。
麦野の気持ちは、なんとなく分からないでもない。
しかしそれがセックスと結び付くのが、どうにも不自然に感じられる。
愛情? 好意?
違うような気がする。単に、麦野はなにかと結び付いていたいだけなのだ。
他人を信じる事のなかった、小さな暴君。
今になって初めて他人と関わりを持とうとして、臆病さからか、
極端に深い繋がり方で、他人との結び付きを求めている。
そんな要求に、答えてしまっていいのだろうか?
「――っ!」
思考の中に沈んでいた浜面は、手首に食い込む痛みで、現実に引き戻された。
鋭く刺さる疼痛。爪を立てているのだろう。
麦野は無言のまま、神妙な表情のまま、催促をする。
――微かに、その瞳が潤んでいるように見えた。
「……いいのかよ」
「モノになれって言ってるのは、私なんだよ」
(――拒絶したら、この場で蒸発させられそうだな)
選択の余地無しか、と内心で溜息をついてから、浜面は腹を括った。
「途中で気が変わったって言っても、俺はやめないぞ?」
言葉での返答は、無かった。
シャワーのように髪を落としながら、麦野が覆いかぶさってくる。
唇に感じる感触は、これまで感じた事が無いほど肉感的だった。
恥と思った事もないが、浜面仕上は異性と付き合った経験が無い。
学園都市に来て間もない頃、マトモな学生だった頃には、
学校で気になる女子の2、3人はいた。
しかし告白やらなんやらというイベントを迎える前に、早々に浜面は0の烙印を押されてしまった。
ドロップアウトした先のスキルアウトでは、精々が仲間とエロ本を開いてバカ騒ぎをする程度。
この町では女に縁が無いと、半ば諦めていた。
(それがよりによって……)
打倒目標としていたレベル5と、『こんなこと』になるとは。
神すらも予期できない、絶後の展開とでもいうのだろうか。
――熱帯の花のように、麦野の唇は熱く、瑞々しく、肉厚だった。
目を閉じた麦野は、一心不乱に浜面の唇を吸い上げている。
頭の線が飛んでいきそうな、フワフワした感覚に包まれて、浜面は半ば夢見心地だ。
口をふさがれ、鼻から吸い込む空気は、これまた麦野の匂いに満ちている。
ローズヒップの石鹸に隠れた、甘い女の汗。
麦野沈利の部屋で、麦野沈利の匂いに包まれ、麦野沈利に唇を貪られている。
ぼんやりと意識するほどに、浜面の体から力が抜けていく。
為されるがままになっていると、ヌメッと、なにか湿った柔らかいものが、唇を撫でた。
求められるままに口を開けて迎え入れてから、麦野の舌だと気付く。
自分の舌に絡みつく、暖かい膜。
滑らかでいて、表皮は少しザラついたソレが、浜面の口と舌を一杯に占領する。
したたり、喉に落ちていくのは、他人の唾液だ。
――微かに甘く、そしてクサい。
麦野の味だ――そう思うと、急に胸が高鳴った。
浜面からも舌を絡め、吸ってやると、麦野の白い額に、悩ましげなシワがよった。
粘ついた水音を立てて、唾液の交換が行われる。
甘美だが生々しく、どこか不潔にも感じられる体験。
ナメクジが交わってるような、隠卑な感覚を覚える。
そしてそんな印象にすら、何故か、どうしようもない興奮を感じた。
「――んっ、ハんッ」
いつしか緩んできた麦野の手を、隙を見て振り払う。
体勢を崩した麦野の肩を抱き、浜面は彼女を引き倒した。
体に掛かる意外な重さに、思わず呻き声が出る。
「……今、重いって思っただろ?」
「俺からすれば事実だ」
怒鳴り散らそうとした麦野の口を、機先を制してふさぐ。
舌を絡めると、いくらも経たないうちに麦野はおとなしくなった。
自分からも浜面の脇に手を回し、貪欲に体を押し付ける。
パジャマ越しに、浜面の細い胸板の上で、豊かな乳房が、形を変えてつぶれる。
(女の――麦野の、胸――)
意識した途端、自重は吹き飛んだ。
キスを中断すると、麦野はあからさまに不満そうな顔をした。が、浜面は構わない。
少し押しのけるように動きながら、パジャマの襟元から、手を滑り込ませる。
んっ、と麦野の喉から、やや高い声が漏れた。
絹のような手触り。
手で押せば押しただけ、どこまでも飲み込まれていきそうな、底の知れない柔らかさ。
そっと撫で回す度、麦野は「ンンッ」と、甘い鼻声をだす。
手の中の乳房が、ジワリと熱を持つ。
汗に濡れて、触れる浜面の手に逆に吸い付くように、細やかに震える。
「あ、はんっ、はまづら」
紅く染まった麦野は、目尻から涙をこぼしていた。
その表情に、浜面はいよいよ止まれなくなる。
「体、入れ替えるぞ」
反論もせず、麦野はこくりと頷いた。
麦野の上になった浜面は、前ボタンを千切るように外して、パジャマを開いた。
捲り上げたシャツの下から現れる、桜色の双丘。
むしゃぶりつくようにして、浜面は顔を埋める。
悲鳴にしか聞こえないような声をあげながら、麦野は浜面の頭を抱きしめ、
更に深く自分の胸に押し付けた。
その声に、ますます浜面は我を失っていく。
片方を手で揉みつつ、目の前の房を舌でまさぐる。
乳首を回り込むように、音を立てて吸い付くキスを繰り返す。
吸い付くたび、天井を破るかのような声をあげて、麦野は悶えた。
乳首に舌を絡ませたところで、限界を迎えたように、ふっと声が途切れる。
「……麦野?」
「――っ、ッ、っ」
失神したのかと思い当たって、浜面はバツの悪い気持ちになった。
(っていうか、俺の方がホントに見境なくしてどうすんだよ)
もう一度呼びかけながら、出来るだけ優しく、手を握ってみる。
本当の気持ちで無かろうが、情を交わしている相手に、手荒に揺さぶるなど
出来るわけがなかった。
やがてうっすらと目を開いて、麦野は浜面の顔に視線をさ迷わせる。
「……はまづら?」
「ああは言ったけど、今なら止めてもいいぞ?」
「――バカ言ってんじゃないよ。最後まで、やるの」
負けん気に呆れながらも、浜面はパジャマのズボンに手をかける。
「本当に、もう止まれないからな」
念を押しながら、下を脱がす。
見た目の通りの大人っぽい下着を脱がし終えると、包帯を巻かれた膝と、
引き締まった腰と、興奮に濡れた陰部が覗いた。
だが完全に下着を股から抜き取る瞬間、ピクッと麦野の体が震えたのを、浜面は見逃さなかった。
いくら口で強がっても、やはり不安や恐怖が消えないのだろう。
(――もしかして初めてとか?)
そうも思うが、面と向かって訊けるわけもない。
「はやく、ヤんないの?」
「……分かってら」
とはいえ、このままいきなりとは行けない。
麦野の引き締まった太ももを揉みながら、浜面は腰に顔を近づける。
「やっ、なっ、――ヒゥンッ!」
モモを辿り、股の付け根の部分を舌で舐める。
これまでで一番甲高い声をあげて、麦野は激しくのけ反った。
「ば、か、な、んてとこっっ!」
舌を動かすたび、緊張に強張っていた麦野の声が、柔らかく、というより、グズグズに溶けていく。
弛緩した股に顔を埋めて、浜面はいつしか陰部から溢れ出ていた体液を舐め取った。
微かに酸っぱくて、やはりクサい味。
女の体液の味が、朦朧とした頭を、ニトロのように激しく焼く。
舌が這い回るたび、言葉にならない、しかし明らかに喜悦を滲ませた声をあげて、麦野の体が跳ねる。
頃合を計った浜面は、唇をすぼめ、深く口付けるようにして、麦野の陰部に吸い付いた。
途端、地震にでも見舞われたかのように、浜面の視界が揺れる。
嬌声をあげる麦野は、腰を激しく波打たせながら、両足のモモで浜面の顔を引き寄せ、締め付け、自分の陰部に押し付ける。
叫び声と狂態に、浜面の理性は限界を迎えた。
引き抜くようにして首を抜くと、手早く服を脱ぎ、部屋の暖気の中に裸をさらす。
そこではたと止まるが、
「だいじょ、ぶ、だから。きょう、は」
意図を察した麦野が、先に気を利かせる。
それで、最後の欠片も消し飛んだ。
腹ペコの犬がエサに飛び掛るように、浜面は猛然と麦野に覆いかぶさった。
いきりたった自身の男性をねじ込むと、果実が潰れるような音を立てて、麦野のモノは浜面を飲み込んでいく。
熱い肉に締め付けられて、浜面は震える。
叫び、しがみついてくる麦野。
痛みなのか、快感なのか。
そんな事は、もう考えられない。気にもならない。
無限とも一瞬ともつかない時間を、腰の動きと感覚だけに集中して、二人は過ごす。
白く焼け付くような時間は、やがて終わりを迎えた。
――果てる瞬間、麦野の顔に、安らいだ微笑みを見た気がして、
浜面は不可解なような、安堵したような、混沌とした気持ちで、意識を手放した。
気を利かせて、目覚めのコーヒーなんてものを用意して戻ってみると、
目を覚ました麦野が、窓から明け方の景色を見ていた。
途端、顔が熱くなった浜面は、どう声をかけていいかわからず、言葉につまる。
「む、麦野」
「コーヒー、淹れてくれたんだ」
「ああ」
無言のまま、麦野はカップを受け取って一口啜る。
「苦い。砂糖は1つ、ミルクは2つ」
突き返されるカップを憮然として受け取り、浜面はミルクのフィルに指をかける。
「迷惑だったろうね」
ポツリと漏らした言葉に、浜面の顔が強張った。
「まあ、命令だし、犬にでも噛まれたと思って」
「んなわけあるか!」
強い調子で遮ると、麦野は驚いた顔でこちらを向く。
「その、お前が本当の恋愛感情じゃないのは分かってたし、それは寂しかったけどよ」
言いながら、顔に血が上るのが、自分でも分かった。
「成り行きとはいえ、俺は『アイテム』の下に入る事になって、お前と会って、
ここにいるんだ。もうお前と会っちまったんだ」
言葉にならない気持ち。
自分のボキャブラリーを腹立たしく重いながら、浜面は口を開く。
「お前見てると、危なっかしくて、支えてやりたいって気持ちになる。
これは本当だ。だから自惚れるつもりはねえけど、俺は――」
「――黙って」
強く遮って、麦野が言う。
「――ほんとに、なんであんたが――あんなクレーン女の言う事――」
ぼそりと呟く。
クレーン女――『心理定規』とかいう能力の、あいつの事だ。
「あいつが、どうかしたのか?」
「なんでもない。つまんない捨て台詞を吐かれただけ」
そう言えば、麦野が『あの女の力は鬱陶しい』と言っていた事を思い出す。
あの女の能力が効くという事。
それはつまり、麦野の心にも、大切な領域があるという事に他ならない。
一瞬、とんでもない事をしたのかと青ざめかけて、すぐに浜面は、妙な点に気が付いた。
実際にそんな相手がいれば、麦野は自分と体を合わせようとするだろうか?
「麦野、お前……」
「黙ってて!」
――当然、黙るわけにはいかなかった。
何を言うべきなのか――意識せず、浜面の唇は動く。
「死なないさ」
「え?」
「死なないさ、俺は」
嘘だった。
死ぬときは死ぬ。まして何の能力も持たないレベル0なら、いつ死んでもおかしくない。
だがそれは、レベル4だろうが、レベル5だろうが、大して変わりはしない。
「なんせ俺は、レベル5に勝った男だ。そうそう死ぬわけは無い」
「っ、この!」
「決めたぞ。お前がクビだっつっても、俺は辞めない。『アイテム』に残る」
「なにいって――」
「お前、危なっかしいからな。またバカをやらかさないよう、傍で見張ってやる」
「……勝手にしなよ」
むくれたように顔を背ける麦野に、浜面は黙ってミルクコーヒーを差し出した。
やりたい放題だな、と浜面仕上は思った。
今は昼時、ここは第七学区のファミレスだ。
しかしテーブル席を陣取っている麦野沈利という女は、外で買ってきたコンビニ弁当を堂々と食べている。
端で縮こまっているウェイトレスは、もう毎度の事で慣れてきたのか、諦めた顔をしている。
「んっ、今日の幕の内はいいね。竜田揚げだよ」
好きなんだよねーと言いながら、麦野は鶏の竜田揚げを摘む。
なら、最初からチキン竜田弁当にしろよと、浜面は思った。その隣では、
「水煮もいいよね。ピザソースとね、ガーリックがキワめっぽいし」
虎でも殺せそうな、大型のコンバットナイフを使って、フレンダが缶を開けている。
その向かいでは、絹旗がいつぞやと同じように、映画雑誌を広げている。
「『続々・荒野のアウトロー3』ですか。一体どこからが続き番なのかも分からないタイトル。
色々な意味で超気になります。私的に要チェックですが、滝壺さんはどう思いますか?」
「…………」
滝壺はさっきからまんじりともせず、浜面を見ていた。
沈黙の瞳が、なんだか怖い。
「ていうか、なんで滝壺がまだ『アイテム』にいんだよ」
「いちおう機密を知ってる元メンバーですし、このまま超放免とは、
そりゃあいかないに決まってます」
結局、滝壺は浜面と同じようなバックアップ要員として残る事になったらしい。
体晶を使わずとも、曖昧な精度の能力感知などは可能だそうで、上からは在留が認められているようだ。
代わりの追跡能力者は、今のところ、まだ手配できていないらしい。
溜息を吐きながら、浜面は自分の弁当に箸をつける。
悲哀と怨嗟の視線を浴びながら食べるのり弁は、いつにもまして寒々しい味しかしない。
とはいえ、残そうものなら間違いなく殺される。
「――というわけで、今度のミッションは、サイバーブレインの本社ビルを潜入捜索、
連中の不正の証拠を掴んでくること。
学生アルバイターで高レベルの能力者も何人かいるらしいから、気張って行こうね。
なんかあったら、バックアッパーの浜面か滝壺に連絡して」
「まかして」
「超了解です」
その返事を合図に、一同は席を立つ。
と、自分で始末しようとした瞬間、浜面の弁当ガラは、横からのびた手にさらわれた。
「ほらほら、ぼさっとしてないで、浜面は先に車の用意しといて」
言いながら、麦野はゴミをまとめて袋に入れている。
浜面がポリポリと頭を掻いていると、
「――変」
妙に重い声が、後ろからかかる。
「なんだか浜面、ヘン」
「た、滝壺? いや、そんな、ヘンとか言われてもだな」
「麦野と、なにかあった?」
思い切り図星を突かれて、浜面は固まる。
と、今度は固まった浜面の手が、横から掴まれる。
「ほら、行くよ浜面! 滝壺も!」
麦野に手を引かれる形で、浜面は店の外に躍り出る。
「ちょ、なんでそんな、慌ただしいんだよ」
「うっさい。私の目の前で他の女と仲良くするなんて、ほんとに命知らずだよね、浜面」
小声ながらドスの利いた声音に、浜面は冷汗をかく。
「私と付き合うには命が幾つあっても足りないって事、思い知るといいよ」
言って、麦野は言葉とは裏腹に、バラの蕾が開くような、最高の笑顔を浮かべる。
「――上等だ」
麦野の手を握り返し、浜面は走る。
たとえ世界が無常でも、小さな幸せは見つけられる。
そうして、皆で小さな幸せを積み重ねていけば、
いつか、気が付けば世界は変わっているのかもしれない。
そんな風に思いながら、浜面は車へと急いだ。
おわり