「………ふぅ」
一人の空間は落ち着く。特にここは上条にとって普段から数少ないひとりになれるスペースだ。
まあ、それでなくてもお風呂につかるという行為は、日本人ならば誰であっても落ち着くのではないだろうか。
だから決して賢者モードになっているわけではない。
「あの」
「はい!?」
「着替えとタオル、ここに置いておきますから」
「あ……はい」
「あの………」
「な、なに?」
「お背中、お流ししましょうか?」
「そ、それはいいから!!」
「わかりました………」
明らかに肩を落とした女性のシルエットをバスルームの曇りガラス越しに見ながら、上条はその女性に聞こえないように
そっとため息をついた。
何と言うか、一事が万事上条が家に帰ってきてからずっとこの通りなのだ。
炊事に洗濯掃除といった基本は言うに及ばず、「あの」格好でいろいろと世話を焼こうとしてくるのだ。
ある意味思春期の妄想が具現化されたようなものだったが、あいにくその幻想は上条の右手ですら殺すことが出来なかった。
嬉しくないわけではなかったが、そこまであの聖人にしてもらう理由が見当たらない上条にとっては、なんとなく
息が詰まるというか、世間知らずな女性を騙しているような罪悪感を覚えてしまうのだ。実際、それに近いものが無くもない。
と言うか、あの聖人はご奉仕と世話焼きをごちゃ混ぜにしているような気がする。彼女の弁によれば、
「数日世話を焼かせてください」
とのことだったが、これは………
「世話を焼くってレベルじゃねーぞ!!」
ねーぞ、ねーぞ、ねーぞ………と、上条一人しかいない浴室に心の叫びがこだました。
飯を食おうとすれば箸が見当たらず「あーん」を迫ってくる、飯を食い終わってのんびりとしていると今度は
聖人じきじきの膝枕による耳かき。
正直、目の前の現実が受け入れられず、自らの生み出した妄想の産物なのではないかと考えて2,3度自らの頭を右手で
殴ってみたのだが、その結果はおろおろとした聖人にあれこれと心配され、膝枕の上殴った場所を氷で冷やされるという
現実の再確認どころか薮蛇としか言いようの無いものだった。
全く、どうしたものかと考えながら浴室の天井を眺める。
決して迷惑ではない。飯は美味いし、耳掃除だって気持ちが良いし、部屋は見たこと無い位綺麗になっている。
「……おお、浴室の天井まで真っ白だ」
かびて黒いしみが出来ていたはずの浴室の天井まで真っ白に掃除されている。はっきり言ってこの部屋全体をここまで
綺麗にするという事は、一日でこなせる作業量をはるかに越えているような気がするのだが、そこは聖人の面目躍如
といったところか。………使いどころが違うような気もするが。
「ホント綺麗になってんな……つーかこんなに白かったのか。………ん? 」
何か、大切な事を忘れているような気がしたのだが。
ガチャ、と。
聞こえてはいけない音が聞こえたような気がして、
恐る恐る上条は視線を天井からはずし、すぐにそらせるように心の準備をした上で出入り口のほうを見た。
「あの、お背中を流しに」
そこには何故か、シュンとした聖人が所在無さげに立っていた。
この際、それはいい。問題は、聖人がその身に纏っているものがタオル一枚だけと言うことだ。
裾から伸びた太ももがまぶしい、と言うかその上の見えたらいけないところが見えてしまいそうだ。
その上に目をやればその大きな胸を包むには頼りないタオルがその胸に押されている。ぽっちりが見えている様な気がするが
気のせいだったぜ!!
しかし、それ以上に「ショボン」と言う形容詞がこの上なくぴったり着そうな聖人の表情に、上条は釘付けになった。
一体何が、彼女をここまで落ち込ませたというのか。
「私では、不足かとは思いますが………その、私なりに精一杯世話を焼かせていただきたいのです!!」
今にも泣きそうだった。
「えっと……どうしたの、神裂。いや、本当によくやってくれてるよ、神裂さんは。ところで服は?」
「嘘です!!」
「ヒィ!!」
聖人の勢いに悲鳴が漏れた。
「だって………言っていたじゃないですか」
「上条さん……何か言いました?」
「言っていたじゃないですか、こんな程度じゃ世話を焼くってレベルではない、と」
そういう意味じゃなかった。凄まじいまでのネガティブ解釈に開いた口がふさがらないが、不用意な発言だったことは否めない。
だから、しっかりと弁解しておこうと、上条は微妙に目を逸らしつつ神裂に向き直った。
「えっと、神裂。上条さんが言いたかったのはそういう意味じゃなくってですね」
「いえ………いいのです。やはり、私のようなものがこのような事をしても、あなたにとっては迷惑だったのですね」
「いやだから」
「せめて、背中だけでも流させてください。そうすれば私の様な者はどこへとも消えますから」
「だから違うんだー!!」
て言うかそっちは押し通す気かよ、という突っ込みは心の奥にしまいつつ、少しは話聞けー、と言う上条の叫びから
大凡30分ほど経ってから、二人は浴室から上がった。そのときの上条の様子は何故か学園都市の第1位であるアクセラレータと
神の右席のメンバーをまとめて相手にしたかのような疲れきった姿だった。
しかし、彼の理性は確かに男の本能という名のパトスに打ち勝ったのだった。
そろそろ、眠ろうと思った。
起きていると何かいろいろと耐えられなくなりそうだからだ。しかし、聖人はどうやらこの部屋に泊まるつもりらしい。
しかし、ベッドはひとつしかない。いや、これはいつもの事でありどうにかならない事でもないのだ。
上条当麻唯一のパーソナルスペースはバスルームだ。聖人をベッドで寝かせて自分はいつもどおり浴槽で眠ればいいと
上条は考えていたのだ。だが、神様は残酷である。
風呂の残り湯が、まだ浴槽に残っているのだ。これは聖人の「明日のお洗濯に使いますから」という言葉に従った結果だ。
それは決して悪いことではない。エコロジー大いに結構、お金に余裕がない身としては後日その手法を真似てもいい。
しかしそれでは、眠る場所が無いのだ。いっそのこと土御門の部屋に止めてもらうことも考えたが、嫌な予感しかしないので
踏みとどまった。
「あの………神裂さん。眠る場所は、どうするおつもりで」
もうどうにでもなれという気持ちで、上条は聖人に尋ねてみた。あまり期待はしていない。
「その……こういう場合は添い寝をするものだと」
顔を紅く染めながら聖人はそうのたまった。浴衣姿が色っぽい。
「え………」
絶句する。それはいろいろと無理だろうと、上条は思った。
上条は、決して聖人君子ではないのだ。インデックスと同じベッドに寝ないのはその為だし、
さっきの浴室で既にいろいろと限界だ。
そんな上条の顔色を見て取った聖人は、再び悲しそうな顔になった。
「も、申し訳ありません……私のようなものと、そんな。図々しかったですね………」
「いや、そういう事じゃなくって。上条さんもいろいろと耐えられなくていい加減狼になってしまいそうと言うか」
上条が正直にそう告げると、神裂はさらに顔を赤くして呟いた。
「私のようなもので良ければ……かまいません」
「あのさ、神裂」
不意にまじめな顔をして、上条は言った。
「なんでしょうか?」
うつむき、顔を赤らめて上目遣いになっている聖人の姿に、一瞬いろいろと打っちゃってしまいたくなったが
何とかその幻想を追い払って、上条は既に帯に手をかけようとしていた聖人の手をがっちりと握って、その行動を阻止しつつ言う。
「お前みたいな奴が、”私なんか”とか言ったら駄目だ」
「……?」
きょとんとする聖人。そして二人の手は帯をほどうこうほどかせまいと、熾烈な争いを繰り広げプルプルと震えている。
「お前みたいないい奴が、お前みたいな皆に尊敬されてる奴が、何より皆に好かれてる奴が自分をそんな言いかたしちゃ駄目だ」
「……そうですね。私のようなものにも、付いてこようとしてくれる者がいる」
「また言ってんじゃねえか。お前は胸を張ってればいいんだよ、天草式みたいな凄いやつらが付いて来てくれるんだ」
割と至近距離で見つめあいながら上条はそう言った。
そんなやり取りをしながらも2人の攻防はいまだ続いている。
「そ、し、て、お前みたいなやつが、自分を、こん、な、安売りしちゃ、駄目だ」
「………そうですね」
早くも息が切れてきた上条と、聖人ゆえの余裕か平然としている神裂の攻防はそこで唐突に終わりを迎えた。
そして、何とかその攻防を制した上条は、「あれ、なんか勢いに身を任せても良かったんじゃね? イヤイヤ、そんな
都合良くは行かなかったはずだ、きっといざって時に不幸な何かが邪魔に入って面倒ごとになっていたんだ」とか一人で
考えていた。
そしてそのせいで聖人の、
「少々急ぎすぎたようですね」
と言う呟きを、彼は聞き漏らしてしまうのだった。
そしてその呟きを聞き漏らしたことに気が付くことが無いまま、彼はとりあえず明日に備えて寝ようそういえばお弁当を
作ってもらえるんだ、あれ?どっちが作ってきてくれるんだろう、と相変わらず混乱しっぱなしの頭でようやく最初の問題を思い出した。
「じゃあ、俺は土御門の部屋に泊めてもらうから」
夜中にいきなり訊ねていくのは少々迷惑かとも思ったが、原因の7割ほどは隣人にありそうなので度外視することにした。
神裂も納得してくれたみたいだし、「じゃ」と告げて立ち去ろうとした(ここは上条の部屋だが)上条に、聖人は無常な言葉を掛ける。
「留守ですよ」
「……え?」
そして上条は、隣人以外の泊めてくれそうな人間を探したが見つけられず、自分の友達の少なさに愕然とした。
「俺………結構さびしい人間だったんだな」
「女性の友人は多いじゃないですか」
「ああそうか。ビックリした、自分が寂しい人間かと思ったけどぜんぜんそんな事なかったな!!」
御坂妹とか1万人くらいいたっけ、とか思いつつ自分の友達の多さに上条はほっとした。
なんとなく脳裏に、鬼畜とかハーレムとか言う言葉が浮かんできたが全く持って身に覚えが無い。
「でもそれは今の状況じゃ何の意味も無い!!」
女性の部屋に泊めてもらうわけにも行かない。正直ビリビリ辺りなら割と平気でいられそうだったのだが、万が一と言うことも在る。
そして何より泊めてくれるとは思えない。
「大丈夫ですよ」
「……何が」
聖人の唐突かつ根拠の無い言葉に思わず淡白な答えを返してしまう。はっきり言って気遣いする余裕もなかった。
「私はあなたがそんなことを無理やりしてしまうような方ではないと知っていますから」
「なんか昔常識の無い子供とか言われたことがある気がする」
「それはそれです」
「どれだよ」
「とにかく大丈夫です」
さあ、と布団を示す聖人。
もはや打つ手は無い。
上条は覚悟を決め、とっとと眠ってしまうか聖人が眠ってしまったら床で寝ようと決めてベッドに向かった。
「変な事しようとしたら、容赦なく殴ってくれ」
そう言ったベッドに入った上条の横に、聖人がするりと布団に入った。
どきどきしていたものの、体を押し付けてくるなどのお約束は無かったので少々拍子抜けしながらもホッとして
上条は目を閉じた。
「おやすみ、神裂」
「はい、おやすみなさい」
聖人の穏やかな声聞いた後、上条の意識はあっさりと途絶えた。