「あ、やっと起きたんだよ」  
上条が目を覚ますと、心配そうな顔でこちらを覗き込んでいた少女と目が合った。  
目覚めたばかりだと言うのに、何故か少年の息は今し方全力疾走してきたように乱れている。  
「インデックス……」  
思わず彼女の名を呟く頃には、少年はここが住み慣れた我が家の居間であることを認識していた。  
傍らからは劇的な音楽と台詞が聞こえてくる。大方、インデックスがテレビアニメでも見ていたのが電源を付けたままになっているのだろう。  
「とうま、さっきまですっごくうなされてたんだよ?」  
少女に言われて、上条は体中に皮膚を覆うような汗が噴き出していることに気がついた。  
濡れた全身に服が吸い付き、絞れば滴りそうなほどに水分を含んで重みを増しているのが分かる。  
徐々に意識は覚醒してきたものの、最近にこうも露骨に疲れ果てるような事をしていた覚えはない。  
加えてインデックスの「うなされてた」発言が本当なら、  
「悪い夢……か」  
内容は覚えていないが、疲労困憊な自身の体から察するに、自分は余程恐ろしい夢を見ていたのだろう。  
忘れているのは幸いなことなのかもしれない。  
「とうま?」  
なかなか言葉を返さない少年に対し不安を募らせたのか、インデックスの不安げな顔が泣き出しそうな色に染まっていた。  
少年は慌てて上体を起こしてまくし立てる。  
「あ、悪い考え事しちまってた! ……大丈夫、ただの嫌な夢だったみたいだ。心配してくれてありがとな」  
ついでに取って付けたようなガッツポーズ。  
本当はまだ少し体が重いが、目の前の少女に余計な不安は抱かせたくない。  
「……それなら良かったんだよ」  
気勢を張った甲斐あってか、ようやく少女の暗い表情が綻んだ。  
同時に、ちょっぴり間抜けな音が鳴る。  
「あ、安心したらおなか空いちゃったかも」  
きまりが悪そうな笑みを浮かべて、少女は自分のお腹に手を当てた。  
変わらず食欲旺盛な普段通りの彼女の様子を見て、上条も自然に笑いがこぼれた。  
時計は見当たらないので正確な時刻は分からないが、今も爆音を響かせているアニメ番組は確か六時開始の30分放送だったはず。  
となれば、もう夕食時である。  
「っと……そうだな、そろそろ何か作るか」  
「とうま、無理して起きなくても」  
「いやいや、本当にだいじょう―――」  
まだ労ってくれているらしい同居人の少女に、自分は平気だと繰り返しながら起きあがろうとして……  
 
すとん、と尻餅をついた。  
「…………あれ?」  
しばし呆然。  
気を取り直してもう一度起き上がろうとするも、またもや結果は尻餅。  
どういうわけか、下半身に力が入らず、両足が体重を支えきれてないらしい。  
「よっぽど疲れてるみたいだな、俺。あはは」  
苦笑いしながら、今頃自分の珍妙な動作をキョトンとした顔で見ているであろうインデックスに目をやった上条は、  
   
「疲れてはいないよ、とうまは」  
   
背筋が凍った。  
テレビ画面では主人公がド派手に必殺技をぶっ放しているところだったが、その効果音が遠いところのもののように感じられた。  
全てを知っているような台詞を零し、見たことのない種の笑みを浮かべた少女。  
普段の無垢な笑顔とはかけ離れた、他の何かしらの感情が混じった笑い。  
それは、彼女のような幼さの残る少女にはとても似つかわしくなかった。  
「とうま……私はね」  
急激な変貌についていけず動けないままの上条に、少女はしなだれかかりながら囁くように言う。  
あまりにも妖艶に。  
「おなかが減ったって、言ってるんだよ?」  
いつぞや言われたことがあるような台詞なのに、今はそれだけでゾッと少年の全身に鳥肌が立つ。  
そういえば、起きてからというもの乱れた息はちっとも整わないし、さっきから体が異様に熱い。  
ゆっくりと背中に両手を回してくるインデックスを払いのけることもできず、上条は必死で状況を理解しようとしていた。  
 
「あ、ああ……何でか分からないけど足がふらついて起きれないんだよ。いやーごめんな、でももう少し待ってくれたら何か適当nんひあっ!?」  
逃避するようにコミカルな口調で早口に喋る舌は、彼の首筋を舐め上げるインデックスの舌によって瞬時に痺れた。  
驚いて体を反らす少年に合わせて銀髪の少女が唇を寄せ、熱く火照った彼の肌を慈しむようにまた舌先で撫でる。  
その度、電流を流されたような衝撃が体を走りぬけ、上条は声をあげずにはいられない。  
「正しく混ぜ合わせたら、すっごく気持ちよくなれる薬草を煎じたんだよ。  
 量を間違えたら猛毒なんだけど……忘れてはいないよね、私は10万3000冊の歩く魔道図書館だってこと」  
「くっ……! 俺が寝てる間に、飲ませ、たのか? でも、なんで、」  
別人のような淫猥な表情で脇をくすぐってくる少女の姿に意識が飛びそうになりながらも、上条は絶え絶えに問う。  
「だって……こうでもしなきゃ食べれないかも。とうまって、良い意味でも悪い意味でも我慢強いから」  
「食べ……? な、何のはなし……………!?」  
   
―――自身に覆いかぶさる少女の姿が、過去に見た何かと重なる。  
   
夢の中の記憶が、この瞬間押し寄せる雪崩のごとく全て蘇った。  
見知らぬ部屋。  
もがいても動かない自分の体。  
狂い濁った少女の瞳。  
激痛のみを与える性器。  
終わらぬ苦しみ。  
壊されようとしている恐怖。  
崩れ行く精神を守るため、強制的に閉ざされる意識……。  
   
「はぁあっ……あ………ああっ………!!」  
思い出された記憶は、目前の少女の姿を魔性の者の色に染め上げていく。  
あの眼の人間は危険だ。  
動く上半身は無意識に後ずさりしていた。捕まっては駄目だ。逃げろ、隠れろ。ここから出ないと。  
早く、早く、はやく!  
「おなか、いっぱい、」  
抵抗もむなしく壁に突き当たった少年は、白い修道服に身を包んだ何かに両肩を掴まれ、固定される。  
笑んだ薄い色の唇から覗く歯は、日常の噛み付きシスターの姿とはとても釣り合わぬほど整っていた。  
「……おなかいっぱい、とうまを食べさせてくれると嬉しいな?」  
それが彼女の台詞を聞いた最後だった。  
絶望と共に、視界が暗く、何も見えなくなっていく。  
   
   
   
「ぁ、ああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!!」  
絶叫と共に、少年は寝かされていたベッドから飛び起きた。  
 
 
「……あ、あ?」  
小動物のように辺りを素早く見回す上条は、目覚めた場所が自分の部屋ではないことに気がつく。  
夢の中で見た、見知らぬ部屋。  
……いや、違う。自分の部屋に居たあれこそが夢。  
初めの絶望が、真の現実。  
ただし、初めとは違う点がいくつかある。  
ひとつは、今は体を拘束されていないこと。  
もう一つ。ここに居たはずの五和と神裂の姿が見えない。  
「……一体…………」  
息を整え立ち上がってみると、室内は清潔に飾られており、ベッドの傍らの机には有料チャンネルの案内が書かれている。  
この部屋は、どこかのホテルの二人部屋らしい。  
窓が無いところを見ると、ここは地下の部屋なのか、それともプライベート重視な高級ホテルなのか。  
考えても、そもそも受付をくぐった覚えすらない上条には分からない。  
「……じっとしてたら、駄目だよな」  
だが何がともあれ、体が自由に動く今はチャンスである。  
ここで待っていてやって来たのが神裂ならまだしも、あのおかしくなった五和がもしまた戻ってきたら。  
感情の読めない濁った瞳をつい思い浮かべてしまい、少年は身震いする。  
干からびたように弱り果てた性器がズキンと痛みを発した。  
(と、とにかくここから出よう。話は……それからだ)  
ちらりと鏡で確認したのだが、どういうわけか、あれほど激しい性行為だったのにも関わらず服装に乱れはない。  
一体誰が……と、謎を挙げればきりがないが、それを考えるのは安全になってから。  
   
少年の手が、玄関のドアノブをガチャリと回す……。  
 

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